1 通せんぼ
空襲にあったら、最初にすべきことは逃げることです。しかし、戦時中は防空法のため、逃げることを禁じられました。実際に住民が逃げることを阻止しようとした警察もいたといいます。

1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲では、警察官がサーベルを振りかざしながら「逃げるな!火を消せ!火を消せ!」って一人猛火でわめき散らしたという話があります。一人でわめき散らしたということは、その警察の悲痛な叫びもむなしく、住民たちは我も我もと逃げ回ったということでしょう。

1945年(昭和20年)8月2日未明、169機ものB29が二時間にわたり来襲し市街地の8割を攻撃したといいます。恐ろしいですね。爆撃機一機だけでも怖いのに169機とはすごい数です。戦闘機の爆音もそうとうなものでしょう。しかも、その戦闘機が一斉に爆撃し、死者は約450名にも及んだといいます・・・

猛火から逃れるため、住民たちは市街地から北へむかい、浅川橋という橋から少し進むと山へ避難しようとしました。しかし、その橋のところに長蛇の列ができたといいます。なぜでしょう?その橋の入り口のところで約20人の消防団が道をふさぎ、住民の避難を阻止しようとしていたのです。その消防団の一人から言われた言葉が、

「男のくせになぜ逃げてきた。早く言って火を消せ、消さなければ胴をつく」とか「ぶったたく」とか。

いまならモラハラものですよね。というか、いつの時代にも自粛警察みたいな人はいるのですね。そんなことを言われたものだから、地獄のような猛火にさらされた市街地へ戻ったといいます。

また、ある家族は浅川橋で憲兵(もしくは在郷軍人)に呼びかけられたといいます。そしてサーベルを振り回して「男は戻れ!」と怒鳴ったといいます。その家族の一人が「背負っている老婆を安全な非難させる」といったが、「この非国民が!」と罵られビンタを受けたといいます。

この八王子空襲が起きた同じ日に富山県富山市でも空襲があり、やはり消防団が逃げる人たちの通せんぼをしていたといいます。富山市に神通川という川があって、その川にかかっている橋を避難者が渡ろうとしたら消防団が通せんぼし、空襲で燃えている街に追い返し、消火活動をさせたといいます。


2 青森空襲
 1945年(昭和20年)7月中旬、青森市内にも空襲予告ビラがまかれました。空襲予告ビラは前の記事でも書かせていただきました。http://ehatov1896rekishi.diary.to/archives/2486477.html

青森市内よりも一足早く、青森港や青函連絡船は猛烈な攻撃を受けていました。当然市民はそのことを知っていましたから、いよいよ市街地にも及んだかと震え上がったといいます。ビラをみた市民は避難をし始めたといいます。そんな状況を青森県知事の金井元彦が黙っていませんでした。金井知事はかつて内務省の検閲課長として言論弾圧と国策流布に剛腕をふるった曰く付きの人物でした。彼はこのような言葉を語っております。

一部に家を空っぽにして逃げたり、田畑を捨てて山中に小屋を建てて出てこないというものがあるそうだが、もってのほかである。こんなものは防空法によって処罰できるのであるから断固たる処置をとる。勝つには積極的精神、この精神をもって一にも二にも戦力を充実することである。(略)敵が去ったならば直ちに秦らう、どんなことがあっても増産を確保する。この心構えで敢闘する。それを空襲だからと一日も二日も秦からず逃げ回ったりするものがあれば、当然処罰する。(『東奥日報』昭和20年7月18日付)
さらに、金井知事は7月28日までにもどらないと、町会台帳から逃げた人間(家族)の名前を削除すると脅しをかけてきたのです。町内会の台帳から名前が消えるということは、町内会の人たちから非国民のレッテルをはられてしまい、また配給物も止められてしまうということです。配給物は町内台帳に書いている名前をもとに配られるものです。戦時中は配給制でした。食べ物などが配られなくなることは大変なことです。ましてや赤ん坊がいるお母さんにとっては大変です。赤ちゃんのミルクがもらえなくなるのですから。食べ物を買うにしても闇ルートで買うしかない。今みたいに自由にスーパーで買い物ができる時代とえらい違います。

そして多くの市民たちがが、期限とされた7月28日までに青森市に戻ってきました。その夜、約100機のB29が青森市を来襲し、午後10時半から約1時間20分にもわたり574万トンの焼夷弾を投下。しかも悪いことに青森の空襲で使われた焼夷弾は従来型に黄燐を入れ威力を高めた新型焼夷弾で、青森市がその実験場となったのです。人の命を実験台に使うとはアメリカもひどいことをしますね。大火災により死者1018名の大惨事となりました。

3 どさくさに紛れての火事場泥棒
 空襲の被害が日本のあちこちにも及び、各地は焼け野原が広がっている。いくら、お上が「逃げるな、火を消せ」と騒いだところで、消火の素人である隣組の防空活動、たとえばバケツリレーとかが無意味であることに多くの人がわかるようになりました。空襲が起こる前は、政府やマスコミは「焼夷弾は怖くない」としきりに宣伝していましたが、実際はそうじゃないことが明白になりました。しかし、そうした国民の考えとは逆にマスコミは以前にもまして「逃げるな」「火を消せ」とまくしたてるのです。それだけ、現実に国民の士気が低下していることの表れといえます。そのことに対する政府の焦りも見え隠れします。 

それだけではありません。空襲のどさくさにまぎれて泥棒被害も多発していたのです。

よく戦時中の日本には美徳があったという意見をよく聞きます。僕のブログでもたびたび戦前の日本人が必ずしも高いモラルをもっているとは限らないとたびたび書かせてもらいましたが、戦時中も例外ではありません。「火垂るの墓」でも主人公のセイタが畑の野菜を盗んで、とがめられるシーンがでてきますが、実際にあのようなことはありました。物資が窮乏してみながみな追い詰められていたからです。

「武士は食わねど高楊枝」ということわざがありますが、僕は半分は本当ですが、半分はウソだと思います。やはり人間は食べるものがなければ、モラルもヘチマもあったものではありません。昭和20年4月22日付の『読売新聞』には「火事場泥棒という言葉があるが、最近空襲のどさくさにまぎれて泥棒被害が少なくない。ひどいのになると命からがら持ち出した罹災者(※1)の物品までかすめとる」と書かれておりました。実際、昭和20年の5月から7月までの間だけでも約3500件もの盗難事件が発生し、そのうち3割が食糧だというのです。

4 その後の金井市長
 さて、青森の金井市長のお話に戻ります。彼は1946年(昭和21年)1月、公職追放処分を受けて知事を免職となりました。公職追放後は民間企業に勤めていたのですが、1948年(昭和23年)に自らの命令で空襲により多くの犠牲者を出したことを悼んで慰霊のため観音像の建立を提唱し、柳町交差点のロータリーに三国慶一作の「平和観音像」が設置されたそうです。

1964年(昭和39年)に道路拡張のため2代目の観音像が10メートルほど北に作られ、金井らが建立した初代の像は青森市文化会館の4階で展示されているそうです。

彼は生涯、青森空襲で人を死なせたことを大変悔やんでおり、その罪滅ぼしに観音像をたてたり、1944年(昭和19年)に金属類回収令で解体された能福寺(神戸市兵庫区)の兵庫大仏再建事業に際して奉賛会会長を務め、1991年(平成3年)5月9日の開眼法要に出席したそうですね。罪滅ぼしをしたかったのでしょうね。戦後になってもインパールの責任をとるどころか、部下たちに責任転嫁をした牟田口廉也よりはずっといいと思いました。ただ、金井市長は良くも悪くもマジメすぎたのですね。上の人間には忠実に守るし、彼なりに正義感もあったのでしょう。それゆえに自分でも無意識のうちに人を傷つけてしまう。そういう人はナチスにもいたみたいですよ。金井市長が戦後になって一人の人間に戻り、人間としての良心をとりもどしたのでしょう。

 
※1 災害にあった人(人々)のことである。


※ 参考文献