岡村隆史さんが結婚されるそうですね。おめでとうございます!お相手は一般の女性の方だそうです。これでチコちゃんに「ボーっとしてるんじゃねえよ!」って叱られなくてすみますねw?コロナが流行る不穏な時代だからこそ、明るいニュースはよいものですね。いつまでもお幸せに。

僕のブログでも、著名な夫婦のお話をしたいと思います。僕はまだ独り身ですが、記事を書いて少しでも、あやかれるようにと願いと、こういう先行き不安な時代だからこそ家族の絆が問われるんじゃないかとおもいましてね。今日は愛新覚羅溥傑あいしんかくらふけつひろのカップルです。


1 政略結婚 
 夫は愛新覚羅溥傑は清王朝の皇帝愛新覚羅溥儀あいしんかくらふぎの弟です。妻の浩は日本の華族のお嬢様です。二人が結婚したのは1937年(昭和12年)。しかし、このふたりの結婚には様々な思惑がありました。二人が出会ったのは、1932年(昭和7年)、満州国が誕生した年でした。この満州国の皇帝になったのは溥儀でした。しかし、皇帝とは名ばかり。満州国は日本の傀儡国かいらいこく。実権は関東軍が握っていたのです。



当時、溥傑は日本に留学中でした。そこに目をつけた関東軍は、溥傑を日本人と結婚させよう、そして二人の間に生まれた子を溥儀の次の皇帝にしようと企てたのです。そこで選ばれたのが嵯峨実勝さがさねとう侯爵の長女・浩でした。

見合いの話が来たとき浩も戸惑とまどいました。風俗も習慣も違う異国の人間となぜ結婚せねばならないと浩は思いました。けれど、この縁談を持ち込んだのは関東軍。もしこの縁談を断ったら、関東軍からどんな仕返しをされるかわかりません。

1937年(昭和12年)1月18日、二人は初めてお見合いをしました。その時の浩がみた溥傑の印象は「整った顔立ちにメガネの奥からのぞく聡明なまなざしが印象的でした」。一方、溥傑が見た浩の印象は「おっとりしていて、美しくしなやかな感じ。写真で見たよりもさらにあでやかで心をかれた」。お互いに第一印象はグッドだったようです。

2 二人の苦難
 そして二人は結婚。その半年後、二人は満州で暮らしました。しかし二人の暮らしは厳しいものでした。二人の生活は関東軍により厳しく監視されていました。どこに行くにも、必ず見張り役がついたといいます。これでは気軽にショッピングにもいけません。

また兄の溥儀が「溥傑が私と一緒に食事をし、食卓には浩の作った料理が並んでいたら、かならず彼が先にハシをつけてから、少し食べるようにした」。どういうことでしょう。実は溥儀は、浩のことを関東軍のスパイではないかと警戒していたのですね。だから浩が毒でももったのじゃないかって警戒したのですね。また溥儀にも婉容えんようというおきさきもいましたし側室もいたのですが、もし溥儀と妃、あるいは溥儀と側室の間に子供ができなかったら、溥傑と浩の子供が次の皇帝になると定められておりました。

だから、溥儀と溥傑は兄弟でありながらある意味ライバル同士に近い、浩は義理の兄から信用されていなかったのですね・・・

さらに悪いことに日本と中国の関係が悪化します。そんな状況でも溥傑と浩は信頼しあっていました。やがて夫婦の間に二人の子供がうまれます。二人とも女の子でした。長女が慧生えいせい。次女が嫮生こせいといいます

そして昭和20年(1945)の8月9日、なんとソ連軍が満州に攻め込んできたのです。この時夫婦は別々のルートで日本に亡命しようとしたのです。溥傑は兄の溥儀とともに飛行機で、浩と娘たちは鉄道と船で、日本に向かいました。これが長い別離にあるとは知らず。

しかし、溥傑が逃れる途中の飛行場でソ連軍につかまってしまいます。浩たちも逃げる途中で中国共産党につかまってしまうのです。浩は中国共産党から厳しい取り調べを受けます。浩が日本に帰国できたのが1947年(昭和22年)1月のことでした。

3 再会そして別れ
 さらに歳月は流れ、浩は日本で夫溥儀のいない生活をすごしていました。そんなある日、浩のもとに一通の手紙が届きます。それは溥傑からの手紙でした。溥傑は東京から1400キロも離れた、中国の戦犯管理所で拘束こうそくされていました。溥傑は外に出ることもできず、何通も浩てに手紙を書きました。この時代はスマホのラインもない時代でしたからね。

また浩も中国の溥傑にも手紙を送りました。手紙には二人の娘のこともつづられておりました。手紙には娘の写真が同封され、溥傑は娘の成長した姿を写真で見てたいそう喜んだとか。そして二人は離れ離れでも文通をし、またの再会を心待ちにしていたようです。しかし、なかなか溥傑は釈放される気配がありません。

そして、事件が起こります。それは昭和32年(1957年)12月の出来事です。なんと長女の慧生が亡くなったのです。仲の良かった男性と心中をしたともいわれております・・・

娘の死を遠く離れた中国で知った溥傑。その時、浩に書いた手紙に書いた言葉が「もし誰かに罪があるとすれば、父である私にだ」と。

溥傑は1960年(昭和35年)にやっと釈放されます。その時溥傑は53歳。浩は次女を連れ中国にわたり、溥傑に会いに行きました。そして溥傑と浩は16年ぶりに再会。しかし、長女の慧生は日本から持ち出された骨壺こつつぼの中・・・娘の骨壺をみた溥傑の心中を察します・・・

浩は夫と再会したことの喜びよりも、16年という歳月の長さ、そして長女を失った悲しみに身も心もボロボロでした。溥傑は浩に「結婚したときのように腕を組みませんか」と優しく語り掛けたといいます。そして浩は自伝にこうつづっております。「16年という歳月はあまりに長すぎました。しかし、夫のこの一言は、長い離別のわだかまりを吹き払ってくれました」


そして溥傑と浩は中国北京で穏やかな日々を過ごし、昭和49年(1974年)12月に、浩と溥傑は日本に来日。二人にとって久々の日本。溥傑は「新しい日本 経済大国 日本を見まして ただうれしいことしかございません」と。

昭和62年(1987年)6月、浩は亡くなりました。溥傑は我を忘れて、「浩さん、浩さん」と泣け叫び、浩の遺体に取りすがっていたといいます。

そして溥傑も1994年(平成6年)に亡くなり、天国の妻や長女の元へいったのです。溥傑の遺骨いこつは、彼の生前からの希望によって浩と慧生の遺骨と共に日中双方によって分骨され、日本側の遺骨は山口県下関市の中山神社なかやまじんじゃ境内にあるそうです。



※ この記事は「歴史秘話ヒストリア」を参考にして書きました。