今日のお話は長いです。校長先生の朝の訓話よりも長いかもしれませんw


1 ありがとう
みなさんは経営の神様といえば、どなたを思い出しますか?スティーブ・ジョブズ?ビル・ゲイツ?日本で経営の神様といえば、やっぱり松下幸之助まつしたこうのすけでしょう。古くは渋沢栄一ですが、渋沢のことはまた別の機会に触れたいと思います。松下幸之助は従業員数名の零細企業れいさいきぎょうを一代で巨大企業に育て上げた経営者です。それだけに、松下幸之助は、毀誉褒貶がある方でした。僕の母の知り合いが昔、松下電器に勤めたことがありましたが、あまり良く言ってなかった。

ただ、幸之助は不景気の時でも従業員の首切りを行わなかったり、週休二日制を導入したり従業員のことも考えていました。

松下幸之助が一人でパナソニック(松下電器産業株式会社)をつくりあげたわけではありません。彼を陰で支えたのが、妻のむめのでした。

松下電器創業50周年記念式典が1968年(昭和43年)に行われました。その時幸之助が講演でこう語られました。

「今日、この50周年を迎えるということにあたりまして、一番感慨深いのは、まあ私自身であることはもちろんでありますが、奥さんもそう思っておるだろうと思って今日は2人で喜んで、ここに参上したような次第であります。どうも奥さん、長い間ありがとう。


その時、会場にいた妻のむめのは涙を流しました。夫がこの「ありがとう」という言葉の背景には夫婦の苦難の道がありました。

2 松下電器創業

 お話は1917年(大正6年)の大阪にさかのぼります。このころ、松下幸之助とむめのは結婚したばかり。ふたりはともに関西出身でお見合い結婚だったそうです。幸之助はこのころは配線工でした。電柱に電線をしく仕事です。出来高制の仕事で収入も不安定で会社の上司ともうまくいっていなかったそうです。そこで幸之助は独立を決心しました。

しかし、独立をするといっても、なにをすればよいのやら。独り身ならともかく、奥さんを養っている以上は、失敗が許されません。はじめ、幸之助は「お汁粉しるこ屋をやろう」と言い出しました。理由は幸之助がお汁粉が好きだから。お汁粉おいしいですよね。お汁粉の話をしてたら急に食べたくなっちゃったwおっと、お話を続けましょうw幸之助が妻のむめのにそう言ったら、むめのは大反対。そりゃそうですよね。ただでさえ独立はリスクが高いのに、お汁粉屋なんて、これまでの幸之助のキャリアを生かせない仕事です。

むめのの思わぬ反対に幸之助は「わしは電気しかない、電気をとことんやろう」と。そして翌年の1918年(大正7年)松下電機器具製作所を創業します。社員は妻のむめのと、むめのの弟の井植歳男いうえ としお(※1)などわずかな人数でした。


創立当時の松下電器は扇風機せんぷうき碍盤がいばん(※2)を製造するかたわら、幸之助は便利で品質のよい配線器具を作れば、一般の家庭にはいくらでも需要があると確信し、夜遅くまで配線器具の開発に没頭ぼっとうしたといいます。

大正当時、多くの一般家庭は電力会社と「一戸一灯契約」という契約を結んでいました。「一戸一灯契約」とは家庭内に電気の供給口きょうきゅうぐちを電灯用ソケット一つだけ設置し、電気使用料金を定額とする契約のことだそうです。このため、当時電灯をつけているときには同時に電化製品を使用することができず、不便をこうむっていたのです。今風にいえば電灯をつけている間はテレビもパソコンも見ることもできなければ、冷蔵庫さえ止まってしまうということでしょう。そこに幸之助は眼をつけたのでしょうね。

しかし、新商品の開発は失敗ばかり。開発のコストも増えるし、収入も少なくなってきます。

それで、むめのは質屋に通っては着物や指輪を質屋にいれていたのです。むめのは、幸之助に心配させまいと、そのことをだまっていたのです。

そしてついに幸之助はアタッチメントプラグと2灯用差込クラスターという配線器具の開発に成功。商品は飛ぶように売れ、従業員もどんどん増えたといい従業員たちの日ごろの面倒を見たのが妻のむめのでした。むめのは従業員たちに食事をつくってあげたといいます。むめのは食事だけでなく従業員たちの身の回りの世話もしていたのですね。当時の従業員たちは松下電器のりょうに住み込みだったのですね。

3 夫婦でつくりあげた松下電器
 

 戦後になって、GHQは軍事産業に協力したとして、幸之助は公職追放のターゲットになりました。社員は「親父が公職追放なんて間違っている」と言い、政府にも働きかけたと言います。そして、無事に幸之助は公職追放をまぬがれました。幸之助は「家庭の主婦が楽できるようなものをつくりたい」と思ったそうです。便利な電気製品がいっぱいの現代でも、家事って手間ヒマがかかるんですよ。ましてや、戦後間もないころの日本において、ほとんどの家庭は手作業で家事をしていました。掃除もほうきとちり取を使い、洗濯もたわしや洗濯板で手でゴシゴシ洗っていて、冷蔵庫もほとんど普及していなかった時代です。


そんな幸之助にむめのも協力しました。むめのは家の庭先に洗濯機5台ぐらい並べて、それをぶんぶん回したといいます。いわゆる商品のモニターをやっていたのですね。むめのは主婦の目線で夫にアドバイスをしようとおもったのでしょうね。

そして高度成長期には、従業員は3万人突破、売り上げも1000億円突破したといいます。<u>アメリカの雑誌「TIME」(1962年2月23日号)には幸之助が紹介されました。紙面では幸之助の功績に加え、むめののことも取り上げられました。「彼女は幸之助のビジネスで欠かせない役割を果たしてきた」と。松下幸之助は創業から様々な困難にあいました。そんな幸之助を常に支えてきたのが、妻のむめでした。冒頭で、50周年の記念式典で幸之助がむめのに「ありがとう」といったのは、そんなむめのへの感謝の気持ちからでした。

1978年(昭和53年)の幸之助の誕生パーティーの席上、むめのは「夫に点数をつけるとした何点ですか」と質問をされたそうです。むめのは「かんしゃく持ちだから、85点」と答えたそうです。結構、むめのも幸之助に怒られたのかな。また、幸之助が従業員を厳しく叱責したという話はよく聞きます。スティーブ・ジョブスも部下を叱責するので有名ですが、幸之助はそれ以上だったようです。3時間以上ぶっ続けで部下を怒鳴ったという話もあるくらいで、気性が激しかったようです。もちろん、幸之助は叱った社員を後でフォローしたようですが。


一方の幸之助が同じ質問をされて、「95点」と答えました。「100点」と答えなかったのは、残りの5点はこれからまだ先があるからと思ったからか、5点不満があるのかわかりませんが、高得点です。お互いに点数をつけた二人は幸せそうに笑いあっていました。




※ この記事は「歴史秘話ヒストリア」を参考にして書かせていただきました。








※1 松下電機を30年つとめたのち、三洋電機を創業。

※2 
扇風機の速度調整スイッチを取り付ける絶縁体。絶縁体とは電気や熱を通りにくくするための器具。当時   の碍盤は陶磁器でできており非常に壊れやすかった。

※3 
企業の所有する資産のうち、借入金や株主の出資ではなく、自己の利益によって調達した部分をさす。    たんに企業の資産の調達方法を意味する言葉であるから、内部留保が豊かであるからと言って、『使い    道のない資金を溜め込んでいる』というわけではないことに留意すべきである。むしろ通常はオフィスや    生産設備として現に有効活用されているものである。


Attachment_Plug_Improved_by_Matsushita

(アタッチメントプラグ)

Two_way_cluster_by_Matsushita

(2灯用差込クラスター)