この記事は歴史秘話ヒストリアを参考にして書きました。

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(松永久秀の肖像画)

1 松永久秀とは
今日は戦国武将の松永秀久のお話を。大河ドラマ『麒麟が来る』では吉田鋼太郎さんが演じられております。その松永久秀はなにかと悪名が高い人物として言われ続けました。将軍を殺し、奈良の大仏を焼いた極悪人として。ゲームの『信長の野望』にも松永久秀が出てきますが、能力が非常に高いものの、忠誠心が低く、敵の引き抜きに合いやすい武将だというイメージが僕の中にあります。『三国志』に例えれば呂布に近いかも。

でも実際の松永久秀は裏切り者どころか三好長慶みよしながよしの忠臣で、ナンバー2として三好長慶を支えていたのです。三好長慶は、実はすごい武将です。彼は泡じゃなかったw阿波の国み(現在の徳島県)の出身で京の都を支配し、織田信長に先んじて当時の日本の中心だった機内きないを治めていたのです。三好長慶は地元徳島では英雄でした。

その三好長慶に仕えていたのが松永久秀でした。松永は大阪の怒号じゃなかったw土豪の出身。松永は物事を確実に伝える能力にたけ、低い身分でありながら長慶の側近に大抜擢だいばってきされたのです。コミュニケーション能力が高かったのですね。能力が高かっただけでなく、主君に対する忠誠心も高かったのです。

2 主君のために
 京には室町幕府13代将軍の足利義輝がいました。衰えたとはいえ、まだ幕府の力が強かった時代。足利義輝は京に影響力を及ぼす三好長慶がうとましい。それで、義輝は自分と親しい大名たちに呼びかけ、虎視眈々こしたんたんと三好を倒そうとしていたのです。

三好長慶は松永久秀に将軍家の力をそぐミッションを与えました。難しいミッションです。松永久秀はどのような策をもちいたのでしょう?久秀は裁判に目を付けました。どういう事でしょう。

実は、将軍家がおこなった判決が不公平なものがおおく、不満に思っていた者が多かったのです。将軍家に代わり京の街を支配する三好家に裁判のやり直しをしてほしいと思うものが増えたのです。その三好家による裁判を取り仕切ったのが松永久秀。松永の判決によって将軍の上意をくつがしてしまったのです。松永久秀は皆が納得するような裁きをしていたのです。公平な裁判を行うことで、将軍よりも三好長慶のほうが天下人にふさわしいと思わせることに成功したのです。

また、当時、大和の国(奈良県)は寺社が多く、東大寺や興福寺といった宗教勢力が強大な力を持っていて大和の国は難治の地といわれておりました。松永久秀はどうしたでしょう。久秀はこの地に城を建てました。そのお城の名前は多聞城たもんじょう

今は多聞城は姿かたちもありませんが、かつては荘厳豪華なお城だったといいます。ルイス・フロイスは「すべての城や塔の壁にはしっくいが塗ってあり、かつて見たことがないほど輝いていた。これだけの建造物は世界にもない」と。その多聞城は東大寺や興福寺のすぐ近くにあったといいます。

当時の人々は荘厳豪華な城に土肝どきもを抜いたといいます。大和の人たちは三好こそ支配者にふさわしいと思ったことでしょう。


3 大きな困難
 1564(永禄7)年、久秀のもとに訃報ふほうが届きます。主君の三好長慶が病に倒れ亡くなったのです。享年43歳。三好長慶は子供がいなかったので、三好義継みよしよしつぐが後を継ぎました。義継の母親は天皇家とゆかりの深い九条家の出身。足利将軍に匹敵する血筋をもっていました。

とはいえ三好義継はまだ17歳と若かったので、久秀と、三好三人衆(三好長逸・三好政康(宗渭)・岩成友通)が後見人となったのです。

三好長慶の死去により、足利義輝はこれを契機に三好家を倒そうと思いますが、反対に三好義継と三好三人衆らによって足利義輝は暗殺され、足利義栄あしかがよしひでを14代将軍とします。この当時はまだ足利家を慕う武将も多かったころ。諸大名は激怒し、三好義継討伐とうばつの動きさえ見られるようになったのです。このままでは諸大名たちが三好家を襲ってくる。

それで、久秀は足利義昭あしかがよしあきと手を組みます。将軍の弟を味方につけることで、足利将軍側の大名を怪獣じゃなかったw懐柔させようとしたのですね。それと久秀は朝廷が保管していた「御小袖」(※1)を主君の三好義継に引き渡すように工作をしました。久秀としては天皇や朝廷と交渉し、将軍家を象徴するものを三好方に引き渡させることで、天皇も三好家が将軍になることを望んでいるということをアピールさせようとしたのです。こうして、久秀は義継の危機を救ったのです。


しかし、久秀と三人衆は次第に反目をするようになります。三人衆と久秀は争いうようになったのです。主君である義継を守ろうとしたのに、彼のやったことが裏目にでたのです。それで久秀は最近勢いがある織田信長と組もうとしたのです。このころ織田信長は三好家に書状を送ったのです。「足利義昭を奉じて上洛するので懇意になることをお願いしたい」と。織田信長は次期将軍に足利義昭をたてようと上洛(※2)を目論見たのです。そのためには同名相手が必要だったのです。久秀は「信長の力が必要」と思うようになったのです。

1568(永禄11)年、信長は久秀と組んで上洛します。そして信長と久秀連合軍が三好三人衆を蹴散らします。しかし、それが後の火だねとなるのです。信長を利用して三好家を再興しようとしたことが裏目になるのです。

4 立ちはだかる信長

 1568(永禄11)年、織田信長は足利義昭を将軍に据えます。そして久秀は信長に茶器「つくも茄子」を献上します。もともと将軍家に伝わる茶器でしたが、久秀が大金をはたいて手に入れたのです。戦国一の茶器コレクターの信長も喜びます。これによって久秀は信長との同盟深化を計ろうとしたのです。

しかし、信長は久秀の思惑とまったく別の行動をとりました。1571(元亀2)年、信長は比叡山を焼き討ちしたのです。比叡山は三好家の重要な同盟相手でした。これには当然主君の三好義継も怒ってしまいます。そして三好家は信長と戦うことになります。もちろん、まともに信長と戦っては分が悪い。それで、戦国最強の騎馬軍団を率いる武田信玄と手を結ぶことを考えたのです。ちょうど武田信玄もこのころ上洛をしようとしていましたから。1573年、義継は河内の若江城に籠城、久秀も多聞城に籠城し、信長を迎えうとうとしました。しかし、上洛の途中で武田信玄が病で倒れてしまうのです。あてにしていた武田軍が引き返してしまい、三好はピンチ。そしてとうとう1573(天正1)年11月、三好義継は自害してしまいます・・

主君を失った久秀。信長から降伏せよといわれてしまいます。久秀は信長に従う道を選びました。なぜ、久秀は信長の軍門にくだったのでしょう。これは久秀がまだ三好家の再興をあきらめていなかったからだといわれております。四国には三好長慶のおいがいましたから。しばらく信長について、様子を見ようと思ったのです。

久秀の領地だった大和はほとんど没収され、かわりに筒井順慶つついじゅんけいが支配するようになりました。筒井は興福寺とも関係が深く、久秀とはライバル同士の関係でした。久秀は狭い領地に押し込められてしまったのです。

久秀は69歳の齢を重ねましたが、それでも信長にいけと言われたら、戦場にでたのです。

しかし、信長は久秀に受け入れがたい命令を下します。1577(天正5)年、多聞城の取り壊しを命じられてしまいます。多聞城は久秀が心血を注いで築いた城です。そして久秀は、信長を裏切るのです。久秀は信貴山城しきさんじょうに立てこもり、信長と戦おうとしたのです。もちろん、久秀だけでは勝ち目がないので、信長に敵対する毛利輝元や上杉謙信などの大名たちと手を結び、信長包囲網をつくろうとしたのです。信長が上杉謙信攻めのため越後へむかっているスキを狙って、久秀は挙兵しました。

そして信長と謙信は激しく戦い、上杉軍が勝利を治めます。しかし、謙信は敗走する信長にとどめをさすどころか、撤退をしてしまいます。そして、信長軍は引き返し、久秀が立てこもる信貴山城を攻撃します。そして城は炎上、久秀も「もはや、これまで」と自害をします。享年70歳。それは1577(天正5)年10月10日の出来事でした。戦乱の世に知略を尽くした生涯でした。

江戸時代に入り、太平の世になると久秀は極悪人として描かれます。冒頭の久秀の絵も江戸時代に描かれたものです。しかし、彼はお家のために必死に戦った名将だったのですね。

 




※1 足利尊氏が着ていた鎧。将軍の象徴ともいうべきもの。
※2 京の都をめざすこと