10年くらい前に奈良の正倉院にいったことがあります。機会があれば、また奈良に行きたいです。奈良はいいところですね。大阪、京都、神戸、奈良と関西は見どころが多いですが、僕はそのなかでも奈良が好きですね。昔は京都だったのですが、いまは奈良ですね。特に法隆寺がある斑鳩いかるがの雰囲気が好き。

さて、正倉院は宮内庁くないちょうの所有らしく、敷地しきちに入ることはできますが、当然中に入ることができません。正倉院の入り口のところには警備の人がいて、ものものしい雰囲気ふんいきでした。それはそうです、奈良時代から伝わる天皇家の至宝がこの正倉院の中にあるのですから。年に一回、奈良国立博物館で正倉院の至宝が公開されるのですが、普段はなかなかお目にかかれません。

さて、この正倉院の宝物はペルシャや中国からシルクロード経由で日本に伝わったものだというイメージがありますが、近年の研究で、ほとんどが国産だということがわかってきました。宝物を分析したところ、塩化鉛が検出されたのです。塩化鉛は古代日本で白い色をだすために広く使われた顔料です。

では、正倉院の宝物を作らせたのは誰でしょう。聖武天皇しょうむてんのうです。聖武天皇は奈良の大仏を作った天皇でしたが、正倉院の宝物も作らせたのです。それは、聖武天皇の地位が盤石ばんじゃくじゃないため、当時みんながあこがれている中国と同じような宝物を作って権威を高めようとしたのですね。中国のものを見本にして、同じような宝物を作ったのですね。

聖武天皇は内匠寮たくみりょうとい職人集団をつくり、彼らに宝物をつくらせたのです。内匠寮の「内」は天皇家、「匠」は優れた職人という意味です。内匠寮は木工や金工など、様々なジャンルの職人が集まり、協力して宝物を作ったのです。

では、なぜこれらの宝物が今日までのこされるになったのか。それはお后の光明皇后の強い願いがあったのです。

聖武天皇が756年に亡くなるとお后の光明皇后が嘆き悲しんだといいます。二人は大変仲睦まじかったようですから。在りし日の聖武天皇の姿を少しでも残したいと思い光明皇后は正倉院に宝物を治めさせたといいます。正倉院の宝物はほとんど聖武天皇が愛用したもの。これらの宝物をみると光明皇后は泣き崩れてしまうほど。

この正倉院は落雷にあったり、宝物の一部が盗難に合ったり、火災に巻き込まれそうになったり、いろいろ大変なことがありましたが、時代を超えても正倉院の宝物は人々に大切にされてきたのです。壊れた宝物があっても度々修理されたりして、宝物は令和の今も残されているのです。

※ この記事は「歴史秘話ヒストリア」を参考にして2022年1月21日に加筆修正しました。