690年、ウノは持統天皇として即位します。有力候補だった高市皇子たけちおうじは太政大臣に任命され、実務の面で天皇を支えることになりました。しかし、持統天皇には天武天皇のようなカリスマ性がありません。それで持統天皇が行ったのは、即位儀礼でした。

この即位の儀式こそ、今日まで続いている即位の礼につながっているのです。この儀式を行うことで、天の神から統治を委任された私が天皇に即位すると広く宣言することにつながったのです。持統天皇は「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)というおくり名ももらいました。こうしてわが国で3人目の女性天皇が誕生したのです。

持統天皇は吉野に行幸をたびたび行いました。9年間でなんと31回も言ったといいます。天武天皇を祭る浄御原神社にも参拝したといいます。浄見原神社には毎年旧正月に奉納された国栖奏くすそうというものもおこなわれております。これは吉野の地に逃げてきた大海人皇子(のちの天武天皇)を地元の人たちが慰めるために舞ったといいます。壬申の乱の後、天武天皇が即位してから吉野の人たちを呼び、国栖奏をやりなさいと定めてから、それ以来、宮中に500年間で吉野の人たちは舞を披露したといいます。






持統天皇がたびたび吉野に訪れたのは、吉野は天武天皇のゆかりの地であり、自分は天武天皇と一心同体だと世間にアピールしたのです。

そして、持統天皇が即位から4年後に藤原京に遷都せんとしました。藤原京はのちの平安京にも負けずとも劣らぬほどの大きな都市だったといいます。北の耳成山みみなしやま、東の天香具山あめのかぐやま、西の畝傍山うねびやまの大和三山に囲まれ、碁盤の目状に道を区画され、そこに官庁や貴族の邸宅が建築されました。その目的は豪族たちを飛鳥から藤原京にうつし、官位を豪族たちに与え、朝廷に忠誠を誓わせるためだといわれております。

王が権力を握るための三本柱というのが、軍事、建設、儀礼といいます。古今東西の王様はやっているし、王様じゃないけれどナチスドイツのヒトラーもやってましたね。持統天皇は女性なので、軍事は難しいが、その分建築と儀礼を重視したのでしょうね。

しかし、その晩年再び後継者をめぐって持統天皇は選択を迫られます。696年、持統天皇を支えた高市皇子が死去します。持統天皇はこのとき50代。50代といえば働き盛りですが、この当時の50代といえば晩年。それで持統天皇は軽皇子を即位させようとしますが、軽皇子は15歳とまだ若い。それで持統天皇は、豪族や後継者の皇子たちを集めました。次期後継者をめぐってその場は紛糾したといいます。その時声を上げたのが葛野王かどのおう。彼は大友皇子の息子です。大友皇子は天武天皇と壬申の乱でやぶれてしまい、いわば葛野王にとって天武天皇は敵の間柄。「神代以来、子孫が行為を継ぐのがわが国のほうである。兄弟継承では乱になる」と。一人の皇子が何か言おうと立ち上がりましたが、それを葛野王が一喝。

持統天皇の子孫といえば軽皇子しかいない。一部始終を見ていた持統天皇は、葛野王をほめたといいます。夫の敵の息子が自分たちの味方をしてくれたのです。ドラゴンボールに例えれば、マジュニアと孫悟空の間柄みたいなものですね。マジュニアとは魔王の息子で、悟空と魔王は戦ったのですね。悟空はマジュニアと戦いましたが、のちに味方になったのです。おっと、ドラゴンボールの話を長々としてもしょうがないですねw

697年、軽皇子は文武天皇として即位します。いままでは群臣たちの合意のもとで決めていたのですが、天皇が自ら後継者を決めたのです。王権主導で群臣はそれを承認する立場になったのです。行為を譲ったあとも持統天皇は、まだ若い経験不足な文武天皇の後見人になったのです。持統天皇の最晩年に行ったのが、702年の遣唐使再開させました。それまで遣唐使は中断していたのですが、30年ぶりに復活したのです。そして持統天皇はそれまでの「倭国」という国名の表記を、「日ノ本」という表記に改めるよう時の皇帝にいったそうです。中国に意見を言ったのですね。

702年12月、持統天皇は58年の生涯を閉じました。亡骸は飛鳥の地で夫、天武天皇と合葬されたといいます。持統天皇は火葬をしたといいます。火葬をした天皇は持統天皇が初めてだといいます。

これまで皇位継承については、兄弟が継いだり、叔父がついだりと、特に決まりがなく群臣の支持を得たものが皇位を継承しました。しかし、そのために無駄な争いもおき、多くの血がながれました。持統天皇の功績は、次期後継者を直系の子孫が継ぐというルールをつくりあげたことも一つの功績といえるでしょう。

※この記事はNHK「英雄の選択」を参考にして書きました。