この記事は「歴史秘話ヒストリア」をもとにして書かせていただきました。

1 鼻っぱしが強かった
 きょうは映画監督、小津安二郎の話。日本を代表する巨匠です。代表作は「東京物語」。彼の作品は一度も見たことがないのですが、ほとんどの作品が家族がテーマで、独特のセリフ回し、考え抜かれた構図が特徴だといわれております。小津安二郎は1903年〈明治36年〉12月12日に産まれました。

小津は東京の生まれですが、1913年(大正2)に父の郷里松坂に移りました。十代の中頃、小津安二郎は活動写真に出会います。小津は活動写真に夢中になり、一年で40本も映画を見て、遠く神戸にも行ったといいます。そんな中ある一方の映画が小津に影響を与えます。アメリカの映画「シビリゼーション」です。戦争がテーマの超大作です。これまで見たことがないドラマティックな展開。小津少年の心を揺さぶります。小津が映画監督になろうと決心をしたのは、この映画がきっかけだそうです。

映画に夢中になるあまり、高校を中退。代用教員をやりますが、一年で辞めてしまい、彼は撮影助手、助監督を経て、映画監督になりました。しかし、彼は鼻っぱしが強い性格で、その性格が事件を起こします。ライスカレー事件。

腹ペコで撮影所の食堂にきた小津。ところが、小津よりも後に来た映画監督のほうが先にライスカレーが配られたのです。これに怒った小津。監督が先、助監督は後だという理屈ですが、小津は収まりません。とうとう食堂の人とケンカになったそうです。それで所長室に呼び出されてしまいます。小津は厳しい処分を覚悟します。ところが所長が言った言葉は「一本取ってみたまえ」。

所長は小津の自己主張の強さこそ、これからの日本映画に必要だと思ったのでしょう。今なら考えられませんね。こんなことをしたら役職を降格させられ「ゆとり」のレッテルを貼られる始末でしょう。

所長は小津のことを「自分だけはもっと体当たりをしてみようという考え方を感ぜられた」と評していたそうです。

もっとも、小津は、それまで現場で映画製作のノウハウを体得しながら、監督として必須の作業とされたシナリオ執筆に励んでいたのです。そのうちの一本『瓦版カチカチ山』(映画化はされず)が所長の目にとまったのです。彼の地道な努力が評価されたのですね。

2 小津と戦争
 1927年(昭和2)、初監督作『懺悔の刃』(同年10月公開)を撮りました。これは小津の長い監督歴の中で唯一の時代劇作品だそうです。それから小津は青春ものやギャング映画なども描いたといいます。戦後の小津は静かな感じの映画を描きますが、戦前はスピーディーな映画も撮っていたといいます。

そんな小津も時代の大きな流れに巻き込まれます。それは1937年に始まった日中戦争です。小津に召集命令が下ります。一兵士として小津が送り込まれた場所は、激しい戦地でした。一度に数千の死者が出るようなそんな悲惨な状況でした。小津はそんな戦地の状況をのちにこう語っております。

「戦友もだいぶ亡くした。仲間の坊さんは頭をやられた。脳みそと血が噴きこぼれ、物も言わず即死だった。毒が流されたとの噂を聞き、水も飲めなくなった・・ミジンコがいれば安全だと汚かろうが構わず水を飲んだ。戦地に行って映画のことは考えなかった。少しも考えつかないのだ。それほど兵隊になりきっていたのだと思う。」

そんな状況の中、小津は一人の友を探していました。その人物こそ映画監督の山中貞雄です。小津より6歳年下で戦前からお互いに切磋琢磨した良きライバルでした。二人は再開するやいなや映画の話に花を咲かせたといいます。わずか40分ほどの語らいでしたが、小津が忘れていた映画のことを呼び起こしたのです。しかし、小津と山中が再会することは叶いませんでした。山中は1938年(昭和13年)9月、戦地で病死してしまうのです、わずか28の若さでした・・・

しばらくして、山中の遺書が掲載された雑誌を読んだ小津は衝撃を受けます。そこには未公開の映画のアイディアの数々がたくさん掲載されていたのです。山中は戦地においても映画への情熱を忘れていなかったのです。遺書の最後に「よい映画をこさえてください」という言葉で締めくくられていたそうです。

小津は惜しい人物を亡くしたと嘆いたといいます。それから小津は戦地においても映画は何かを考えるようになったといいます。

戦地から帰って小津が最初につくった映画が「戸田家の兄妹」。1941年の作品です。この映画は戦争に関する描写がほとんどない家族物語だそうです。それは時流から大きく外れたものでした。当時は戦意高揚の映画がメインでしたから。そんな中あえて戦争を描かなかったのです。小津は「戦争映画を自分は軽々しく撮れるか?」「それがリアリティーがあるか?」と考えたのです。小津にとっては、戦争というもは悲惨を通り越して非日常的なものだと考えていたようです。それよりも家族を通して日常を描いたのでしょう。

そして何よりも小津が家族モノを描くようになったのは、ある体験も理由の一つだと考えられております。軍に命じられシンガポールに派遣されたのです。そこで小津が見たのはアメリカの映画。「風と共に去りぬ」などの名作です。それを見た小津は「これは相手が悪い。大変な相手とケンカをした。」。ハリウッド映画に衝撃を受けたといいます。小津にとって超大国アメリカと戦うこと自体が茶番であり、非現実的であり、ある意味コメディーだと思ったのかもしれません。だからこそ、戦争映画を描くことをためらったのかもしれない。

3 野田高梧との出会い
 1945年8月15日、戦争は終わりました。戦後、小津がつくった映画は「風の中の雌鶏めんどり。ある夫婦の物語です。夫の復員を待つ妻は貧しさゆえ一度だけ売春をします。そのことを告白してしまうことで壊れてしまう夫婦関係。しかし、この映画は酷評されてしまいます。それで悩んだ小津が相談した相手が脚本家の野田高梧。野田ははっきりと「風の中の雌鶏」を批判したといいます。「売春を告白するとき夫への重いとかいろんなものがでてくるはずだけれども、割とすっと妻は夫に言ってしまう」と。

それで小津は野田の厳しい意見を受け入れることに決めたといいます。自分のウィークポイントを的確に指摘してくれる野田を信頼したのでしょう。1949年公開の映画「晩春」。選んだテーマは「娘の結婚」でした。淡々とした親子の日常の中に心のひだが丁寧に描かれており、この映画は高く評価されました。以後、小津は野田とコンビを組んで次々に映画を作っていきます。

小津と野田は長野県の蓼科にある山荘に二人でこもり、映画の脚本を作り上げていったといいます。まず二人は原稿用紙を4つ切りにし、二人で思いついたことを書いていったといいます。しかし、順調なのは最初だけ、セリフの言い回しなどで、次第に激論が始まったといいます。ケンカがひどくなるとお互いに口を利かなくなったことも。そんな二人をなだめたのが、野田の家族でした。特に野田の妻の静は2人に散歩を勧めたりしたといいます。脚本が進むと二人は安心したのか深酒と昼寝。怠けている二人にハッパをかけるのも妻のシヅの役目。そのとき静がよく口にした言葉が「ちょいと」。この言葉は時々脚本にも反映されているそうです。

また野田の娘の玲子は原稿の清書をしたり、物語に出てくる娘のことについて、同世代の玲子に意見をきいたりしたといいます。

また小津は野田の山荘の近くに別荘をたて、しばしば野田家の人たちと本当の家族のように付き合っていたといいます。そんな小津も1963年〈昭和38年〉12月12日)、60歳の生涯を閉じます。

小津は監督としては厳しい妥協を許さない人で100回もNGをだしたといいます。小津は「悲しい時に悲しい顔をするんじゃないよ。人間の喜怒哀楽というものはもっと複雑。そんな単純なものじゃないんだよ」と語っていたそうです。

家族もの描きながら小津は生涯独身だったそうです。そのため、彼は家族のあり方について念入りに取材したり、野田家との触れ合いを通して家族のあり方も描いたと思われます。経験が大事と言うけれど、そればかりが重要じゃないんだなって。経験があるゆえにへんな思い込みがあったりするから。