1 自由民権運動へ

今日から2回にかけて板垣退助のおはなしをします。日本初の政党、自由党をつくったのが板垣退助。

板垣退助が世に出たのは戊辰戦争。土佐藩で迅衝隊じんしょうたいという部隊の指揮官をつとめました。それで会津戦などで活躍し、新政府軍の勝利にも貢献しました。600人のメンバーのほとんどは下級武士で普段は農作業をしていたそうです。

そんな彼らに板垣は銃剣をさずけ、フランス式の軍隊に彼らを鍛え上げました。この迅衝隊じんしょうたいを通して、能力のあるもの、志のあるものは身分関係ないことを痛感しました。この体験が後に彼が自由民権運動に突き動かした動機の一つともなっております。

戊辰戦争での功績により、明治3年(1870)、高知藩大参事に就任しました。すぐさま大改革を行います。それは身分制の撤廃です。江戸時代まで士農工商という身分制度がありましたが、そうしたものを撤廃し、身分が低くとも能力の高いものを登用したり、上級士族による要職や身分の独占を禁じました。板垣は身分制の撤廃を明治政府よりも早く藩で行ったのです。


その手腕を評価され板垣は明治4年(1871年)に中央の参議に就任しました。板垣は、徴兵制の導入にも尽力し、それによって四民平等をめざしたのです。しかし、思わぬ外交問題が板垣を苦しめたのです。それは征韓論争です。当時政府内は国交のない朝鮮半島にいる日本人を保護するために兵をおくるかどうか意見が割れていたのです。板垣は西郷隆盛とともに「兵をだすべきだ!」と主張しましたが、明治6年(1873年)、西郷隆盛とともに参議を辞職します。

しかし、翌年の明治7年(1874)、板垣は民選議員設立の建白書を政府に提出しました。その建白書には「現在権力を握っているのは天皇でも人民でもなく一握りの官僚である。しかし政府に税を払っている人民には、政府が行う政治に関与する権利がある。」と書かれていたのです。この建白書の内容は新聞にも掲載され、早期議会の設立をという声も高まりましたが、政府は̪シカトしたのですね。

2 政治結社設立
 板垣は故郷高知に戻り、政治結社立志社を設立しました。「自由は土佐の山間より出づ」。そのキーワードを旗印に立ち上がりました。立志社は戊辰戦争で戦った士族たちが中心でした。その立志社を震撼させる出来事が起こります。それは明治10年(1877)に起きた西南戦争です。立志社の中には西郷さんと戦おうという動きもありました。しかし板垣は「もっと平和的にやろう」と立志社の過激派を抑えたのです。さらに板垣はブレーンである植木枝盛にあらたな建白書「立志社建白」を作成させました。あくまでも言論で人民の政治参加を呼びかけたのです。

西南戦争後、日本の方々で政治結社が結成されました。その動きは士族だけでなく、農民にも波及しました。農民結社だけでも36社もできたというからオドロキです。

高知から広まった自由民権運動ですが、新たな局面を迎えました。各地の政治結社は明治13年(1880年)、国会期成同盟を結成。国会の早期開設を主張したのです。彼らは各地で演説などを行い支持者を広げようとしました。また、私擬憲法という自分たちで憲法を考えようという動きも出てきました。以前にも僕のブログでご紹介した五日市憲法もその一つです。もちろん、こうした私擬憲法は、実際の大日本憲法に反映されなかったし、世に広まることもなく、ようやく戦後になって注目された私擬憲法もあります。でも、それだけ当時の人たちは真剣だったのです。

しかし、運動の理念とはかけ離れた行動をとった結社も現れました。その一つが愛国交親社。参加者は2万8000人ほど。愛知や岐阜の農村部で組織を拡大していました。「兵役免除」「永世禄支給」(※1)「税金免除」といった、よく言えば巧みな、悪く言えばかなり玉虫色の主張をしていたのです。

また、講談師の川上音二郎はおっぺけぺー節という政府批判の歌を歌いながら自由民権運動への参加を呼び掛けたのです。

こうした、自由民権運動の動きに板垣は意外にも冷ややかな目で見ていたのです。板垣はあくまでも政府との話し合いで国会を開こうと。ところが、結社の人たちの主張は、政府が開く気がないのなら、自分たちで勝手に国会を開き、それを天皇に認めてもらおうという過激な主張でした。これ以上、過激化すると、そのうち政府に国会を開くためなら武力さえもためらわないという動きまで出てくるのではないかと板垣は懸念を抱きます。その板垣の懸念は現実のものとなります。


3 板垣死すとも自由は死せず

 明治13年(1880年)、政府は集会条例発布。これによって集会を開くことを規制されたり、結社を作ったりすることを禁じたのです。このため多くの結社は大打撃を受けてしまうのです。その打開策として板垣は、自由党という政党をつくります。政党をつくり、全国の結社をこの政党のもとにまとめてしまえば、集会条例にひっかかることはないと板垣は考えました。しかも、バラバラだった結社を一つにまとめれば、意見の集約もできると板垣も考えたのです。

ところが、意外にも政府は国会開設の勅諭をだしたのです。天皇の名のもとに憲法も国会を明治23年に開設することを政府が決めたのです。へえ、よかったじゃん、板垣たちの苦労も実ったね。といいたいところですが、ちっ、ちっ、ちっ。

これは、盛り上がった民権運動を抑えるためでもあったのです。

板垣は、国会に向け、自由党の組織づくりを急いだのです。各地に自由党の支部を設立するために、歩き回ったのです。板垣は6か月におよぶ遊説の旅に出て、民衆の政治参加を強く訴えました。

「我が国の人民は社会一般の自由を伸ばそうとする精神にかけているが、これは積み重なった専制政治の慣習によるものである。ゆえにこの弊害を正すためには、人民に政治に参加させ国家公共のことに関与させるしかない」

と板垣は訴えました。そんな板垣の主張は行く先々で拍手喝采。
んなさなか遊説先の岐阜で暴漢に襲われ、刺されてしまいます。そのとき板垣が言った言葉が、

「板垣死すとも自由は死せず」

板垣の不屈の精神に、自由民権運動はさらに熱気が高まります。

板垣がここまで支持されたのは、板垣が明治維新でみんなが期待していたことをやろうとしたからです。新政府の政治がはじまりましたが、政治の実権を握っているのは薩長藩閥や、官僚が中心で、彼らは天皇の虎の威を借りて威張っている。それで、徳川時代より良い政治をやってくれればよいが、相変わらずの専制政治を行っていると。そこに不満を持っている人が多かったのです。また、自分たちが民権運動に参加すれば、よりよい社会ができるんじゃないかって思った人が少なくなかったのです。つまり民衆のユートピア願望が民権運動にエネルギーを供給しているのです。



※1 身分の低いものでも武士になって永久的にお金が支給されるようになる