250px-Emperor_Godaigo


1 鎌倉幕府を倒せ! 
 これまで数回にわたって護良の話をしましたが、今日は彼の父、後醍醐天皇について。後醍醐天皇は良くも悪くも好戦的な方です。NHKの大河ドラマ「太平記」では片岡孝夫さん(現十五代目 片岡 仁左衛門)が演じられました。鎌倉幕府の末期、時の執権北条高時の時代(※1)、高時は政治に興味がなく、田楽でんがくや闘犬などにウツツを抜かすばかり。高時のかわりに悪い側近たちが、権力をふりかざし、わいろなどをとっていたのです。また、地方の武士からひんぱんに税をとりたてていたのです。

幕府の政治は乱れに乱れ、地方の武士たちも不満を抱いていたのです。そんな中1318年に後醍醐天皇が31歳に即位します。後醍醐天皇は皇太子時代から武士が権力を握っていることに不満を持っていました。天皇になった後醍醐は討幕のためにたちあがります。まず後醍醐天皇は朝廷の内外によびかけて、ひそかに計画をねりはじめます。ところが計画は幕府に発覚し、むなしく挫折します。かかわった人たちは天皇以外、みな処罰されてしまいます。.この出来事を正中しょうちゅうの変といいます。

天皇の養育係だった吉田定房よしださだふさは天皇をいさめましあが、後醍醐天皇は聞き入れません。それどころか、幕府の滅亡を願う祈祷きとうまで始めたのです。もし、これが幕府に知られたら皇室も無事ではすまないと、思いあまった吉田は幕府に密告します。ただ、吉田は「悪い側近が天皇をそそのかしている」と幕府側に伝えたのです。もちろん、幕府を倒す気まんまんなのは天皇その人なのですが、吉田は悪い側近のせいにしたのですね。幕府はただちに後醍醐天皇の側近の貴族たちをとらえました。

ところが、後醍醐天皇は闇夜やみよにまぎれて京の御所を脱出。都から20キロ離れた笠置山かさぎやまに立てこもったのです。笠置山とは標高300メートルの山です。その山でなにをしたかって?幕府に不満を持っている僧兵などを3000人集めて、幕府と戦おうとしたのです。しかし、いくら血気盛んな僧兵をあつめたところで、戦争のプロが後醍醐にはいません。それで、笠置山にほどちかい河内国(※2)の武士、楠木正成くすのきまさしげを味方につけます。

そして、笠置山には天皇型の10倍もの幕府軍がおしよせます。天皇型は楠木の奮戦や険しい山の地形をたよりに幕府の猛攻をかわしたのです。一か月抵抗したのですが、天皇方は守りの手薄のところを攻撃され、あえなく敗北。後醍醐天皇は脱出をはかりますが、幕府軍につかまり、1332年に隠岐島に流されてしまいます。

2 討幕への執念
 隠岐島の流された後醍醐天皇はこんな歌をうたいました。

「こころざす 方を問わばや 浪の上に 浮きてただよふ まの釣船」

これは「行先を聴きたい。もしや都に向かうのではないかと。あの海にただよう漁師の船に」という意味です。しかし、そこでふさぎこまないのが後醍醐天皇の凄いところ。一年後、後醍醐は島を脱出します。船に乗って伯耆国ほうきのくに名和長年なわながとしでした。そこへ幕府の軍勢3000が押し寄せてきます。天皇が逃げたことが幕府にも知られてしまったのです。それで、軍を伯耆まで派遣したのですね。名和は船上山にたてこもり、ここで天皇をかくまい、幕府軍とたたかったのです。

こうして、名和軍が頑強に抵抗を継ぐけているうちに、流れが変わります。近隣の武士たちが次々とかけつけ、幕府軍とたたかったのです。さらに幕府側の有力武将である足利高氏が幕府を裏切り、京の六波羅探題を攻撃、そして新田義貞も鎌倉を侵攻。こうして鎌倉幕府は滅びたのです。

3 建武の新政
 1333年、後醍醐天皇が京の都に戻ってくるなり、それまでの武士中心の政治を一新し、天皇中心の政治を行おうとしたのです。いわゆる「建武の新政」です。ところが、この建武の新政というのが改革とは程遠いもので、多くの武士たちが不満を持っていたのです。なぜなら、一生懸命戦ってくれた武士を冷遇し、楠木正成とかお気に入りの武将や公家や貴族ばかりを優遇したから。足利高氏はかなり優遇され、尊氏の名前まで賜りましたが、征夷大将軍にはなれなかったのですね。それどころか、息子の護良親王を征夷大将軍に任命してしまいます。本来なら貢献した武士に恩賞として領地を与えたりしなくてはいけないのですが、ほとんどの武将は領地をもらえません。

さらに後醍醐天皇自身が綸旨をたくさん出したために、天皇が出していないニセの綸旨まで流行ったのです。京の五条河原に落書が置かれ、そこに今の天皇が非常に悪い政治をやっていると批判されているのです。

さらに新しい朝廷の組織をつくり、貨幣の発行を計画したり、新たな御所も建設しましたが、あまりに早急に改革を進めたために混乱してしまったのですね。

多くの武士たちは失望し、足利尊氏のもとにあつまりました。そして、護良親王が足利家に暗殺され、ついに足利尊氏と後醍醐天皇が戦うようになったのです。世の乱れを憂えた楠木正成は、尊氏との争いをやめるように天皇に伝えましたが、天皇は聞き入れません。

そして、各地で争いが始まり、天皇方の楠木正成や名和長年はあいついで戦死。そして尊氏は京を制圧し、新たな天皇をたて、室町幕府を開きます。

後醍醐天皇は再び閉じ込められてしまいます。後醍醐天皇ピンチです。しかし、後醍醐は簡単にあきらめるような人ではありません。またもや都を脱出し、吉野に立てこもり、南朝を開いたのです。足利尊氏がたてた天皇は北朝。いわゆる南北朝の時代です。

しかし、近畿の武士のほとんどが北朝についたため、南朝は極めて不利でした。そこで後醍醐天皇は奥の手を使います。それは、自分の子供、皇子たちを遠い地方へ派遣することでした。後醍醐天皇は宗良親王を遠江の国に、義良親王を東北に、懐良親王を九州へという具合に、6人の皇子を北は東北、西は九州に派遣したのです。東北の伊達氏をはじめ、あちこちで地方の武将たちが南朝に味方します。しかもかつての敵だった北条高時の息子北条時行と組んでまで尊氏及び北朝と戦おうとしたのですね。しかし、北朝にはかないません。とうとう後醍醐天皇の策もつきてしまったのです。

「こととはむ ひとさえまれに 成りにけり 我が世のすゑの 程ぞしらるう」


この詩の意味は「わたしが話しかける相手も、いまやまれとなってしまった。人生におわりがみえてきたのだろうか」です。さすがの後醍醐天皇も弱気になってしまったのですね。それからまもなく後醍醐天皇は吉野で世を去りました。享年52歳。