きょうは伊達政宗だてまさむねに関するお話をしますが、
福島県に「伊達市」という地名があるのをご存知でしょうか。実はこの地こそ仙台の伊達氏だてし発祥はっしょうの地なのです。僕は伊達氏には訪れたことがありませんが、僕の知り合いが伊達市の出身で、伊達市には、伊達家ゆかりのお寺があるという話も聞いたことがあります。いままで伊達家というと仙台のイメージがあっただけに、福島も伊達家ゆかりの地であると知り、驚きました。

さて、伊達家といえば独眼竜政宗どくがんりゅうまさむねこと伊達政宗だてまさむねが有名ですが、実は歴史上もうひとりの「伊達政宗」がいることをご存知な方はいらっしゃるでしょうか?というか、僕も本を読むまで知りませんでしたwwww


もう一人の伊達政宗が生きていたのは室町時代前期(1353年〜1405年)です。実は戦国時代の伊達政宗の名前も、この室町時代の伊達政宗にあやかってつけられた名前なのです。それくらい室町の伊達政宗も大人物だったということでしょう。何をしたかというと、室町の伊達政宗も東国を管轄かんかつした鎌倉府(※1)に反旗はんきひるがえしたといいます。

きっかけは1391年のことでした。当時の東北は室町幕府の奥州管領おうしゅうかんれいが統治していました。しかし、室町時代の初期の内乱の影響が東北にも及び、奥州管領の統治機構は機能不全におちいりました。困った室町幕府は、関東をおさめる鎌倉府に東北の管理をさせようとしました。しかし、その鎌倉府は東北に代官を派遣しては、強引に土地調査を行ったり、徴税も行ったりしたため、地元住民の強い反発を招いてしまったのです。

当時の鎌倉公方かまくらくぼう(鎌倉府のトップ)だった足利満兼あしかがみつかねは1399年、反乱に対処するため弟の足利満直あしかがみつなお足利満貞あしかがみつさだを奥羽に派遣。だが、これが新たな火種になりました。満直と満貞のふたりは南東北の実力者伊達政宗に領土の献上を強要しました。それに政宗は反発。翌年の1340年3月、地元の豪族たちと手を結んで鎌倉府に反逆。500騎あまりの軍勢を率いて福島の白河まで攻め上ったといいます。

しかし、鎌倉方の結城満朝ゆうきみつとも奮戦ふんせんもあり、伊達家の反乱も鎮圧ちんあつされてしまいます。が、鎌倉府と伊達家の緊張はさらに続きました。

1402年、ふたたび反乱を起こした政宗に対し、足利満兼は上杉氏率いる7000騎の討伐軍とうばつぐんを奥羽に派遣しました。政宗の本拠地である福島県の赤館あかだてというところを包囲しました。赤館において圧倒的な兵力をほこる上杉軍に負けてしまいます。しかし、敗れたものの、政宗はここで見事な戦いぶりをしたそうです。

鎌倉府は伊達家には勝ちましたが、幕府とつながりの深い伊達氏を討伐することはできませんでした。政宗も奮戦による面も大きいですが、それだけではありません。実は政宗の妻と時の将軍足利義満あしかがよしみつの母親は姉妹で、政宗は乱が始まる前に、京都におとずれ義満と交流をしていたといいます。義満と政宗は親密な関係だったのです。むしろ義満は同じ足利氏がおさめる鎌倉府と仲が悪かったのです。だから、義満は伊達政宗に反乱をしむけ、鎌倉府と戦わせたという説もうまれるほど。

なお、伊達政宗は武勇だけでなく文化人としてもすぐれておりました。このような和歌も残しております。

山間の霧はさながら海に似て波かと聞けば松風の音」



※1 室町時代(南北朝時代)に、室町幕府が関東10か国を統治するために設置した機関である。長官の鎌倉公方かまくらくぼう足利基氏あしかがもとうじとその子孫、それを補佐する関東管領かんれいは上杉氏が世襲せしゅうした。


※ おまけ



(伊達市の観光動画です。ゆるキャラのまめっちも登場します)



※ 参考文献

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

コメント

コメントフォーム
記事の評価
  • リセット
  • リセット

トラックバック