1 100年前にもあった医療崩壊
 スペイン風邪(インフルエンザ)は日本にもやってきました。日本におけるスペイン風邪の流行の波は三度ありました。一度目は大正7年(1918)11月、二度目は大正9年(1920)1月、そして三度目は大正10年(1921)3月です。死者数も50万人、感染率は43パーセントと高い数値です。

初めて日本にスペイン風邪の病原体がやってきたのは大正7年9月、病原体は神戸や門司もじや大阪などの港から貨物や乗客を通してやってきて、その後、鉄道によって地方都市にも運ばれてしまったのです。しかも、当時は炭坑たんこうや製糸工場などいわゆる三密の職場が多く、それでクラスターが続出したのですね。都市部の病院には患者かんじゃが殺到。看護婦かんごふや医師が足らず、入院を断るケースも出てきたのです。いわゆる医療崩壊です。

医療崩壊といえば、農村は大変でした。大正から昭和の初めのころまで農村と都市部の医療格差が非常に大きかったのです。農村では現金収入がないから、医療費を払えません。昔は国民皆保険こくみんかいほけんもありませんからね。医者は農村では食えないと、都会に流れてしまいます。そうなると医者がいない、つまり無医村の村も増えてくるのです。だから患者がインフルにかかっても、なかなか医者が呼べない、基本的に家族や親せきが面倒をみるしかないのです。そして、患者から家族、それから親せきにまでインフルがうつってしまうのです。



2 ワクチン 開発競争

 第一波が収まったと思いきや第二波が大正9年(1920)にやってきます。死亡者は第一波の5倍とも。それでワクチン開発が急がれたのです。いち早く動いたのが北里柴三郎率いる民間の北里研究所。北里研究所はスペイン風邪の原因はインフルエンザ菌と断定。このインフルエンザ菌はインフルエンザのウィルスとは全く違うものです(というか、僕もネットでそのことを知りましたw)。インフルエンザ菌は人間の鼻の中にいて、中耳炎ちゅうじえんや肺炎などを起こすことがあるといいます。これをもとにワクチン開発に乗り出そうとしました。

その北里の主張を真っ向から批判したのが国立伝染病研究所の所長・長与又郎ながよまたろう教授。長与は菌以外のものが作用しているのではないかと。しかし、それが何かはわからないという立場。スペイン風邪の原因がインフルエンザウィルスの仕業だと判明するのはまだ先のこと。大正9年当時の顕微鏡けんびきょうでは菌よりもさらに小さいウィルスなど発見することができなかったのです。

北里はインフルエンザ菌をもとにワクチンを開発。長与たちもインフルエンザ菌ワクチンに肺炎の予防ワクチンを加えた混合ワクチンを世に送り出します。相変わらずスペイン風邪の病原体はわからないものの、かといって「北里達に後れを取って国は何をやっているんだ」と言われるのが嫌なので、長与たちもワクチンを出さざるを得なくなったのです。

しかも悪いことにこの開発競争が国会でも取り上げられてしまいます。つまり医療の知識のない政治家たちが口出しをしだしたのです。ワクチンを開発したらまずは副作用だとか安全性を確認する必要があり、あんまりワクチンを世に送り出すことを急いではいけないのですね。それを政治家が国民が望んでいるのだから、政府は早くワクチンを出せと言い出す。本来、政治家はワクチン開発を急がせるより、ワクチンを打って死人がでたとか、まずいことが起きたときのセーフティーネットをつくることが大事なのですが。

現在から当時の状況を見れば、北里のワクチンも長与のワクチンも効果がないのは明白ですし、当時からワクチンの効果を疑問視する声もあったのです。でも、当時の人たちはワクチンに期待を寄せたのです。この辺も令和の日本の状況と同じだなって。最終的には500万人のワクチンを接種せっしゅしたのです。

3 政府や地方自治体が行った感染症対策
 スペイン風邪かぜが流行った時の内閣総理大臣は平民宰相とよばれる原敬はらたかしでした。原自身もスペイン風邪に感染した総理大臣でした。さて、腹がおこなった感染症対策について国民の国民に強制させるやり方ではなく、国民一人一人に呼びかける方法をとりました。明治のころ、コレラやチフスが流行ったときに、感染した人間を警察が強引に隔離かくりしたり、商店の閉鎖へいさを強制したら、国民の反発は必至です。

まず政府が行ったのは全国に予防ポスターを配布です。病原体をユニークな妖怪ようかいの姿で描き、せきエチケットやマスクの着用やうがいの奨励しょうれいがポスターに書かれておりました。ポスターの文面も「〜しましょう」という柔らかい口調です。イラストを使って高圧的な印象を与えないように工夫がされているのですね。

また、政府だけでなく、全国の自治体も独自の方法で疫病えきびょう対策を行いました。埼玉県では陸軍飛行所から飛行機を飛ばし、上空から感染の対策のビラを配ったといいます。北海道では女学生にマスクづくりの協力を要請。出来上がったマスクを寄席よせや劇場で無料配布したといいます。

東京ではワクチンを受けられない低所得者のため夜間無料注射所を設置し、医療格差の是正にも取り組んだといいます。それぞれの自治体が地域にあった方法で感染症対策に取り組んだのですね。しかし、東京が低所得者のために医療格差是正に取り組んだ点には僕も非常に驚きましたね。戦前といえば、自己責任論が強く、基本的に国は弱者を助けないという風潮ふうちょうだっただけに。

国や警察による一方的な介入ではなく、地域が率先して感染症に取り組むムーブメントは、やがて昭和12年(1937)の保健所法成立にもつながっていくのです。この法律がつくられてから全国に保健所がつくられ、保健所は地域の公衆衛生の最前線となったのです。



※ この記事は「英雄たちの決断」を参考にして書きました。