1 緒方洪庵と適塾

 江戸時代後期から幕末にかけて活躍した医師の緒方洪庵おがたこうあんは、疫病から人々を救いたいと立ち上がりました。緒方洪庵は幼少のころは体が弱く、武芸の稽古けいこもままならず。若き日の緒方洪庵は悩みました。

自分に何ができるだろう。考え抜いた末、緒方洪庵は医師になろうとしたのです。1836年(天保7)、洪庵が27歳の時長崎に向かいました。長崎で海外の医療を学ぼうとしたのです。西洋医学は当時日本の医師が避けていた人体解剖じんたいかいぼうを積極的に行い、病の原因を探っていました。迷信や俗説ではなく科学に基づいた医学を洪庵はまなびました。そして2年後の1838年(天保9)年、洪庵29歳の時に大阪にうつり、ここで開業医として働き始めました。



この時同時に開いたのが西洋医学を勉強する場所、適塾てきじゅくです。そこに集まった若者たちは、今の医学生とは違います。今でこそ医学生になるにはお金がかかり、金持ちじゃないと厳しいですが、適塾に集まったのは、貧乏な者が多く、汚いということを気に留めず、真っ裸だったそうです。当時の医者は今と違って誰でもなれる職業でした。そのため志のある若者が多く集まりました。決して品行方正とはいいがたいのですが、西洋医学を学ぼうという意欲は相当なものでした。

適塾で学んだものは1000人以上だといわれております。その適塾で学んだ卒業生がなんと、福沢諭吉や日本赤十字社創設者の佐野常民さのつねたみ、さらに橋本佐内や大村益次郎も適塾出身です。


2 天然痘に取り組んだ緒方洪庵
 天然痘てんねんとうがはやっていました。天然痘は子供がかかりやすく発症したら4割が死亡するという恐ろしい病気でした。しかし、ヨーロッパではすでに予防法が見つかっており、種痘しゅとう、つまりワクチンをつかって天然痘を予防するのです。そのワクチンは牛から取れるのですが、当時の人たちは強い抵抗感を持っていました。当時の日本は牛を食べる習慣がなく、なかには種痘をしたら牛になるとまで言われたほどでした。しかし、種痘をみんながためらう一方で、子供の命がどんどん失われていきます。今でいえばアビガンが使われず、コロナの感染者、重傷者が増えるような感覚ですね。



洪庵は悩みましたが、ある日妙案が浮かびました。洪庵は錦絵にしきえに目を付けました。白い牛に乗った子供が悪いオニを退治している錦絵です。その悪いオニが天然痘。天然痘には牛の種痘が効くんだよとわかりやすくビジュアル化しているのですね。さらに実際に種痘を受けた子供にはお菓子を配ったり、貧しい人には無料で接種したそうです。種痘への恐怖を少しでも減らそうとしました。



そうして、少しづつ種痘しゅとうが受け入れられ、幕府も公認したのです。種痘は全国に広まり、天然痘が収まったのです。これで、めでたしめでたりと思っていた矢先に未知の病が日本にやってくるのです。


3 コレラに立ち向かった緒方洪庵

 洪庵は大阪で悲惨な状況を目にします。なんと人々がコレラにかかって倒れていたのです。治療法もなく、洪庵は焦るばかりでした。そんな中、長崎にいたオランダ人医師、ポンぺがコレラの特効薬があると言い出します。それはキニーネという植物で、マラリアの治療などに使われておりました。洪庵はキニーネを患者に煎じて飲ませました。ところが目立った効果はありません。洪庵はキニーネの効果に疑いを持ちます。しかし、他にめぼしい治療薬がありません。それで人々はこぞってキニーネを買い求め、在庫が尽きたといいます。



しかも悪いことに多くの医師たちがコレラの治療をあきらめてしまったといいます。



しかし、洪庵はあきらめませんでした。西洋の本を読んではコレラの研究を続け、その一方で患者たちに解熱剤などを投与し、コメや麦の煮汁を飲ませたといいます。やがて洪庵は一冊の本を書きあげます。「虎狼痢治準ころりちじゅん」。その本の中で、キニーネだけに頼るだけではダメと書きました。今でいえばアビガンやレムデシビルだけに頼るなというようなものです。他にも洪庵が行った対処法や、臨床経験りんじゅうけいけんも書き残したといいます。



そして洪庵は全国の医師に「虎狼痢治準ころりちじゅん」を配ったといいます。ところが、思いがけないことが起こります。ある医者から反論の手紙が来たのです。曰く「キニーネの効果は西洋では支持されている」と。



洪庵はすぐに動きます。なんとその反論に対する答えを「虎狼痢治準ころりちじゅん」に追記したのです。自分の意見を否定されて悔しい気持ちを抑え、必要な情報は届けようとしたのでしょう。洪庵は自らの恥よりも人々を救うための情報を多くの人たちに伝えようとしたのでしょう。病気の治し方がわからない以上は少しでも多くの情報を集めようとしたのでしょう。



やがて、コレラは終息するのです。天然痘もコレラも未知の病気でしたが、それでもあきらめずに治療に取り組んだ洪庵の功績は今も光りを放っております。最後に洪庵の言葉をご紹介します。





「医の道は己のためにあらず。人のためのみ。たとえ救うことができない病であっても患者の心をいやすのが仁術というものです」



※ この記事は「歴史秘話ヒストリア」と「ダークサイドミステリー」を参考にして書きました。