1 護良たちに起きた奇跡
護良親王モリヨシシンノウ楠木正成クスノキマサシゲたちの奮戦もむなしく幕府は倒れそうにもありません。後醍醐天皇ゴダイゴテンノウも無事隠岐島オキノシマから生還したし、護良側に味方する武将が続々現れたけれど、それでも幕府に到底及びません。その戦力差は明らかでした。千早城に立てこもっている楠木も幕府の猛攻撃に長くはえきれぬ状況だったのです。

護良はあせりました。このままでは幕府に勝てない。幕府の方が勢力が上だ。護良ピンチ。そんな後醍醐や護良たちに奇跡が起こったのです。それは幕府側の有力武将の戦死および裏切りです。

まずは名越高家ナゴエタカイエの戦死です。名越は北条一門の有力だ武将でした。その名越は元弘ゲンコウ3年の4月27日、名越は赤松円心アカマツエンシン久我縄手コガナワテ(京都市伏見区)というところで戦いました。この時名越高家は流れ矢に当たって戦死してしまったのですね。これは幕府軍にとって大きな痛手した。

さらに幕府側だった足利高氏アシカガタカウジ(後の尊氏)が裏切り、後醍醐に味方したのです。それは元弘3年5月7日のこと。実は後醍醐は高氏に綸旨を高氏にだしていたのですね。それに高氏が応えた高氏。これが後醍醐が高氏を信頼するようになる理由のひとつなんですね。

ともあれ高氏が後醍醐側についたことは非常に大きかったのです。足利家も軍事力を持っていましたし、高氏をしたう武将たちはたくさんいましたから。高氏は、京都に攻め寄り幕府の六波羅探題ロクハラタンダイを攻撃。

さらに翌月の5月7日には新田義貞も倒幕のために挙兵。新田は幕府と関東各地で死闘を繰り広げました。新田義貞はその勢いに乗って5月21日に鎌倉に突入。幕府側もついに鎌倉幕府は滅びたのです。



2 ライバル高氏

 ロック原短大じゃなかったw六波羅探題を滅ぼした高氏は京都に奉行所を開設し、全国から京都にやってきた武将たちに着到状チャクトウジョウ (*1)や軍忠状グンチュウジョウ(*2)に承認の判を押す作業をしたり、京都の治安維持も行いました。え?高氏にそんな権限があるのかって?

幕府が滅んでも後醍醐天皇はすぐに京都に戻ったわけじゃなく、まだ鳥取県の船上山センジョウサンにいます。新政府の組織や制度もまだでき上がっておりません。京都は事実上の無政府状態だったのです。後醍醐が京都にもどるまでの間、高氏が仕切ったのは別に不自然なことではないのです。

そんな最中、高氏と護良がぶつかったのです。護良の家来に殿宝印良忠トノノホウインリョウチュウという坊さんがいましたが、その良忠の手のもの二十人が京都の土蔵を打ち破って財宝を運び去ったのですね。これは良忠が悪いというより、良忠の配下の兵は統制が取れておらずチンピラみたいな配下が少なくなかったのです。それで高氏は彼らをとらえ、首をはね、その首を六条河原ロクジョウカワラにさらしたのですね。

しかし、なぜか護良はこのことを激怒。これが護良と高氏の争いの始まりだと言われております。

3 尊氏を優遇
 後醍醐は元弘3年6月5日に京都に戻り、新しい体制を作るための準備に入りました。まず後醍醐は、皇太子を阿野廉子アノレンシの産んだ恒良親王ツネヨシシンノウでした。

後醍醐は高氏に昇殿ショウデンを許し、鎮守府大将軍チンジュフダイショウグンに任命。さらには官位を与えたり(正三位まで与えられた)、名前も高氏から尊氏タカウジと改名をしました。尊氏の「尊」は後醍醐の本名の「尊治」からとったもの。さらに尊氏は武蔵国(*3)や伊豆、駿河、常陸ヒタチ下総シモウサを、弟の直義も遠江の国を知行国として与えられたのです。尊氏は雑訴決断所(※4)に尊氏の重臣を送り込んだり、鎌倉将軍府(※5)の執権として弟の足利直義を任命しました。鎌倉将軍府は後醍醐天皇の皇子成良親王ナリヨシシンノウがリーダーでしたが、まだ幼かったので直義が補佐、というか直義が実権を握ったのですね。これほど足利兄弟が優遇されていたのですね。

実はこれ、後醍醐が尊氏を個人的に気に入っていたというより、尊氏の力に頼らざるを得ない現実があったからだと思われます。朝廷は独自の軍事力がなく、いたとしても野武士や僧兵ばかりでしたから。後醍醐はマキャベリストですから、仮に後醍醐が尊氏を内心嫌っていたとしても、足利の軍事力、尊氏の器量に甘えておいた方が得だと思ったのかも。

尊氏のこうした優遇ぶりに護良は不満をいだきます。護良から見て尊氏は世の平和を乱す悪い奴だと。そんな危険な奴をなぜ父は優遇するのだというアセりがあったのかもしれない。しかも我が子である自分を差し置いて。で、護良はどうしたか。それはまた次回。


※1 合戦などで軍勢催促を受けて、または自主的に参戦した際に所定の場所に到着した旨を上申する文書。合戦における手柄を証明するものだった。
※2 合戦後に参戦したものが自身や一族の戦功などをかきあげて上申した文章。この軍忠状の内容に基づき論功行賞が行われた。
*3 今の東京都と埼玉県と神奈川県の一部

※4 建武の新政の主要政務機関。もっぱら所領問題などの提訴を採決した。
※5 建武政府が関東10カ国を統治するために鎌倉に作った機関。後醍醐の子、成良親王を将軍とし、足利直義に補佐をさせた。



* 参考文献