1 護良の反抗
 後醍醐天皇は建武の新政を行いましたが、あまりに早急な政策のため混乱を生じます。そのため二条河原の落書でも批判され、味方であるはずの北畠顕家キタバタケアキイエ(北畠親房キタバタケチカフサの子)にまで批判されるほど。しかも、武士は恩賞を期待して戦ったのに、実際には公家ばかりが優遇され、武士には官位ばかり与えられ、肝心の恩賞は大してもらえない。そうなると当然、武士たちは不満が高まり、朝廷に見切りをつけ、尊氏に声望が集まります。そんな尊氏を危険視したのが護良親王。

護良は、大和国信貴山シギサンに籠城し、戦いの準備をしておりました。そのことに驚いたのが後醍醐天皇。後醍醐は護良のところへ使者を送りました。「幕府は滅んだし、戦も終わった。そのようなことはやめて僧に戻れ」と。その旨を使者は護良に伝えました。

それに対して護良は反発。後醍醐からの使者に言い返したのです。聞かん坊の護良の返事に後醍醐は困ってしまいます。実はこれが護良の悲劇の始まり。

一方で、尊氏が後醍醐天皇と対立し、南北朝の戦いが始まるのは歴史が証明する通り。そういう意味では護良は先見の目があったともいえます。

2 護良 征夷大将軍に
そして、護良は自分を征夷大将軍セイイダイショウグン にしろと後醍醐に要求。後醍醐は、なんと、これに応じました。征夷大将軍というのは武官の最高位で、全国の武士を動かしうるほどの権威がある役職です。しかも、護良は、後醍醐から正式に征夷大将軍に任命される前から、無断で将軍を自称していたのです。後醍醐は護良の要求を飲んだというより、護良の言い分を追認したと言った方が近いのです。

本来は武士の出身じゃないと征夷大将軍になれないのはずなのですが、実は鎌倉幕府では皇室の出身者が4代にわたって征夷大将軍になっているのです。宗尊親王ムネタカシンノウ惟康親王コレヤスシンノウ久明親王ヒサアキラシンノウ守邦親王モリクニシンノウと。「鎌倉幕府だって皇室出身者が征夷大将軍になれたのだから、私だってなれるはずだ」というのが護良の言い分。しかし、護良が征夷大将軍になったことに反感を持つ人も少なくなかったのです。

尊氏も本来は自分がなれると思っていただけにショックも大きかったでしょう。ちなみに、尊氏はのちに自分を征夷大将軍にしてくれと後醍醐に頼みますが、後醍醐はキッパリと断ります。


護良は元弘3年6月、征夷大将軍に任命され意気揚々。護良は軍を引き連れ我が物顔で京の街を歩いたと言います。その護良一行の有様に人々は驚いたと言います。まずか家臣たちが三千人あまりが行進し、その中をさっそうと護良が美しい見事なヨロイを身にまとい立派な馬に乗って歩いているのです。 華やかな行列だったそうですが、一方で物々しく物騒な気配も満ちていました。人々は護良の行進に驚くと同時に「また、戦争になるんじゃないか?」って不安になってきたのです。為政者はともかく、庶民にとって戦争など迷惑な話でしかないのです。

さらに護良は後醍醐に陸奥将軍府ムツショウグンフの設置を進言しました。護良と縁戚関係にある北畠親房とともに、東北地方支配を目的に、義良親王ノリヨシシンノウ(後の後村上天皇)を長とし、北畠顕家キタバタケアキイエを陸奥守に任じて補佐させる形の陸奥将軍府の設置を護良は実現させました。東北支配のみならず、関東にいる足利軍の牽制ケンセイの意味もあったのでしょう。


3 征夷大将軍をやめさせられる
護良は征夷大将軍の他に兵部卿ヒョウブキョウもかねました。また和泉国(大阪の和泉市あたり)や紀伊国(和歌山県あたり)の知行国主チギョウコクシュ(※1)となりました。いづれにしても京の都から近い国です。そこまではよかったのですが、だんだん護良は尊氏だけでなく、父の後醍醐とも確執が生じるのです。

護良は鎌倉幕府滅亡後も令旨レイシを出しました。令旨の内容は所領の充行アテオコナイ(※2)や安堵アンド (※3)、寄進(※4)がメインでした。護良も征夷大将軍になれたので張り切っていたのでしょう。しかし、護良のとは別に後醍醐天皇も土地関係のことで宣旨センジ(※5)を出していたのです。そうした後醍醐と護良の競合が問題になったのですね。

それで、後醍醐は護良の出した令旨は無効だと言い出したのですね。そして、護良はたった3ヶ月で征夷大将軍を辞めさせられてしまうのですね。後醍醐からしたら、護良のやったことは、混乱を招くだけでありがた迷惑な話だと思っていたのですね。もちろん征夷大将軍を辞めさせられても兵部卿の地位は残っていたし、知行国主も続けたのですが、それでも護良の勢いは急速に衰えたのです。

また悪いことに、護良側についた武将たちが建武の新政時に冷遇されたのですね。代表的なのは赤松円心アカマツエンシン。幕府との戦いでは護良の令旨を受け大活躍したのに、朝廷から恩賞はわずかなもの。これでは円心は怒ってしまいます。基本的に後醍醐の新政権は公家には厚く、武士には薄い恩賞で、全国の武士は大いに不満を持ったのですが、とりわけ護良側の武将が冷飯を食わされた形です。なぜ、護良側の武将が冷遇されたのかよくわかりませんが、これでは、護良に味方したくてもできません。護良はこうして外堀を埋められてしまいます。

この時代の武将というのは裏切りや寝返りは当たり前で、恩賞がなければハイさようならです。恩賞がもらえなくても主君に絶対忠義という人は珍しかったのですね。そういう当時の武将たちの心情を護良は読めなかったのですね。それが彼の悲劇。

4 護良のスタンドプレー
追い詰められた護良はついに実力行使に出たのです。なんと、護良は尊氏暗殺計画をクワダてたのです。護良の軍勢が尊氏の館を襲撃するウワサまで立ったのです。そこで尊氏は外出の時は、大勢の軍勢をお供にしていたし、館にも兵をおいて防御を固めていたのです。結局、この護良暗殺計画は失敗に終わります。

こうした尊氏暗殺計画は護良の単独行為とも、黒幕は後醍醐とも言われております。どちらの説が正しいのか、わかりませんが、単独行動だとしたら、そりゃ後醍醐の怒りを買うのは当たり前だなって。尊氏というか足利家が脅威だったのは後醍醐も同じでしたが、一方で建武新政を支えているのも足利尊氏。その尊氏を殺すのは建武新政にとって自殺行為ですからね。それが護良のスタンドプレーでぶち壊されたらたまったものではありません。

もしも黒幕が後醍醐だとしたら、ひどい話です。護良に尊氏暗殺を命じといて、失敗したら、責任を全部護良に押しつけ、チンは知らぬですからね。

さらに、そんな護良に大ピンチがおきます。護良がやとっていた私兵がチンピラみたいな連中で、夜な夜な京の街を徘徊ハイカイしては、少年と少女たちを何人も殺害したのです。直接手を下していない、部下がやったとはいえ監督責任は護良にあります。少年と少女の親御さんたちの悲しみは深いものです。そして護良はどうなったか?それは次回に。

※1 古代、中世の日本において特定の国の知行権を得た皇族、有力貴族、寺社など。
※2 平安時代以後,不動産や動産の給与,譲与,処分,委託行為を指して使用された語。
※3 主君が土地の所有権などを承認すること
※4社寺等に物品や金銭を寄付する
※5 昔、天皇のお言葉を下に伝えること。それを書いた文書。それを伝える役目の人。

※ 参考文献







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(人物相関図。肖像画はWikipediaより)

* 参考文献