(護良が入れられた土牢)
(護良の墓。この階段を登った上のところにある。2020年の台風で、ガケ崩れになり、そこまで行けない)
(護良の墓の入口。鎌倉にある)
1 護良逮捕
建武元年10月22日、清涼殿で行われた詩会に護良は参加しました。その護良は後醍醐近臣の結城親光と名和長年に逮捕され、武者所に拘禁されたのです。そして、最終的に護良は鎌倉の直義の所へ護送されたのです。護良親王は鎌倉に送られた際、「武家よりも君のうらめしくわたらせ給ふ」と、ひとり言を言ったそうです。意味は足利尊氏より天皇のほうがうらめしいという意味です。護良が鎌倉に送られ東光寺というお寺にある土牢の中に入れられてしまいました。
ちなみに『太平記』では後醍醐天皇の愛人の阿野廉子が自分の子供を天皇にしたくてジャマ者の護良をなき者にすべく阿野廉子は後醍醐に護良の悪いウワサを吹き込んだという話が出て来ますが、この阿野廉子の暗躍が本当にあったかどうかは不明。そのような陰謀があったかどうかはともかく、後醍醐が護良を危険人物だと見なしたのは事実。護良が優秀だとしても、後ろ盾を失えばただの人。実力者に可愛がられるか、逆らって敵に回るか。
護良を見ていると一昔前の長嶋茂雄監督を僕は思い出します。長嶋監督は巨人の監督を二期監督(一期目は1975から1980年まで。二期目は1993年から2001年まで)を務めましたが、一期目は不本意な形で退団したのですね。これは成績が悪かったというより、当時の巨人のお偉いさん、大物OBに疎まれたことが大きかったとか。元々巨人は伝統的に守りの野球で石橋を叩いても渡らないというやり方でしたが、長嶋さんは逆に攻撃野球。そういった野球観の違いも大物OBの怒りを買ったのです。長嶋さんが1993年(厳密にいえば1992年オフ)に再び巨人の監督になれたのは、大物OBと和解したこと、ナベツネさんの存在も大きかったそうです。
後醍醐は我が子をもコマとして使うような合理主義者。一方の護良は部下のために涙を流すような情に熱い人。例えるなら後醍醐が『ガンダム」のギレン・ザビだとしたら、護良は『巨人の星』の星飛雄馬っていったところでしょうか。だから、二人は親子でも正反対。相性は親子なのに良くない。
護良は後醍醐天皇に帝位を狙っていると誤解されましたが、護良自身は自分が天皇になれないことをよくわかっていたのです。護良は父のために必死に戦ったのに、父親である後醍醐に裏切られた気分で、さぞ悲しい思いをしたと思います。それゆえに護良は父から見放された悲劇の人と見られるのですね。しかしごからしたらスタンドプレーばかりして足を引っ張るΖガンダムのカツみたいなヤツにしか見えないのですね。カツってネット民からめっちゃ嫌われてるのですよね。もし、太平記の時代のsnsがあったら護良めっちゃ叩かれそう。逆に後醍醐はめっちゃ人気ありそう。好戦的なところとか強引とも言えるリーダーシップとかネット民に受けそうだし。
ちなみに、護良は土牢に入れられたと言いますが、土牢というより土蔵のような建物の中で軟禁されていたのではないかといわれております。NHKの大河ドラマ「太平記」でも、護良閉じ込められたのは土牢ではなく、土蔵でした。
2 護良死去
護良が鎌倉に送られてから8ヶ月、護良にとって危機が訪れます。建武2年7月、北条高時の子、北条時行が信濃国で反乱を起こしたのです。鎌倉幕府の再興、おやじのカタキを取ろうと立ち上がったのでしょう。いわゆる中世代の乱です。時行軍は関東地方に侵入し、足利直義が派遣した軍勢を次々と撃破。直義はこいつは敵わんと鎌倉を放棄、逃げたのです。すると、鎌倉にいる護良はどうなるのか
足利直義は家来の淵辺義博に命じて護良の暗殺を命じたのです。護良は雛鶴姫のお世話になりながら、法華経の経典を読んでいました。そんな二人に忍び寄る淵辺。そして淵辺は刀で斬りかかろうとします。護良も抵抗しますが、護良は武術の達人とはいえ、何ヶ月も監禁されていましたから、体が思うように動きません。それでも護良は抵抗し、なんと歯で淵辺の刀をくわえ、しかも刀を折ったと言います。
そして、護良は必死に抵抗したものの、結局淵辺に殺され、首もちょん切られてしまいます。淵辺は護良を撃った証拠に首を拾ったら、その護良の首をみて、淵辺はびっくりしたのです。なんとその首ははっきり目を見開いていて、世にも恐ろしい形相をしていたのです。さすがの淵辺も驚いて、その首を捨ててしまったのです。なお、淵辺義博は実はいい人で、護良を逃し、護良は東北へ落ち延びたという伝説もあります。
3 護良の死をしのぶ
護良の死を報を受けて、後醍醐は大変ショックを受けました。そりゃいくら護良と後醍醐が対立してたとはいえ、実の息子が殺されて平気な親なんていませんからね。というか、尊氏でさえ、自分の弟が護良を殺すとは思わなかったでしょうし、暗殺を命じた直義でさえ、北条の反乱は想定外で、それがなかったら直義も護良を生かしていたかもしれません。この護良暗殺が、のちに後醍醐が足利と対立する要因の一つとなります。
『太平記』では護良は怨霊になり、足利尊氏と直義兄弟二人を仲違いさせ、二人を戦わせたなんて記述があります。足利兄弟の内紛を見ると、護良の祟りじゃないかってつい思ってしまいます。
護良が幽閉された東光寺はのちに廃寺となりました。その跡地にできたのが鎌倉宮です。鎌倉宮を建てたのが明治天皇。もしかしたら明治天皇も護良の怨霊を恐れたのかも?鎌倉宮には参拝者が絶えず、皇室の人も護良の面影をしのぶ歌をつくられました。以下、引用させていただきます。
くだかれし 玉のひかりは代々をへて くにのたからと かがやきにけり
伏見宮博恭王妃経子 殿下
かまくらの 露とはかなく 消えませど みたまぞ 永遠の かがみなりける
伏見宮博義王妃朝子 殿下
時を得ば 世をすべまさむ 皇子にして 土の牢に 果てまさむとは
久邇宮妃静子 殿下
大比叡に ころもすてて きみがため 剣とらしし 皇子の雄々しさ
高松宮喜久子 殿下
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