今日は父の日です。父に感謝をする日であります。しかし、父と子供が仲が悪いという話も聞きます。歴史を振り返ってみると、父と子の対立の話はよくある話なんですよね。宮沢賢治と父、武田信玄と武田信虎、足利義満と足利義持、それから護良親王と後醍醐天皇。


後醍醐は護良がスタンドプレーばかりしていたので、怒って護良を幽閉しました。護良のスタンドプレーは後醍醐には護良の反抗に思えたのでしょう。親に反抗という面では、後醍醐もあんまり護良のことを非難できないのですね。実は後醍醐も父親に反発していたのです。後醍醐の父親は後宇多天皇ゴウダテンノウと言いますが、後醍醐天皇は本来天皇になれる人ではなかったのです。

後醍醐の話をするにあたって、この時代の複雑な事情をお話しします。持明院統ジミョウイントウ(※1)と大覚寺統ダイカクジトウ(※2)と皇室が二つに割れていて、皇位を巡って両者が対立していたのです。持明院統も大覚寺統も元々は兄弟だったのですが、兄弟で天皇の座を争っていたのです。それで両統迭立リョウトウテツリツ(※3)といい、持明院統と大覚寺統の両統が変わりばんこで即位していたのです。大覚寺統の天皇が即位したら、次は持明院統の天皇。その天皇が退位したら今度は大覚寺統という具合に。それも一〇年経ったら天皇は退位して次の天皇にバトンを渡さなきゃいけないのです。

「あれ、こんなに天皇がすぐにコロコロ変わるものなの?天皇は生きていいるうちはずっと天皇の位にあるんじゃないの」と思うのは現代人の感覚。即位から亡くなるまで天皇の位につくというのは明治以降。今の上皇様のように生前退位したのは明治以降では実は初めて。しかし、この時代は10年で天皇の位を降りる、つまり生前退位したのですね。

後醍醐には後二条天皇(大覚寺統)という兄がいました。後二条天皇の後任が、持明院統の花園天皇が即位し、その花園天皇(持)の後任に後宇多天皇(大)は自分の孫の邦良親王クニヨシシンノウ(後二条天皇の子で大覚寺統)に帝位を継がせたかったのです。しかし、邦良親王(大)が8歳と幼かったので、中継ぎとして後醍醐天皇(大)が即位し、邦良親王(大)が成長したら、邦良親王(大)に天皇の座を譲らなければならないのです。

野球に例えれば後醍醐は監督代行みたいなもの。監督が成績不振でシーズン途中で休養し、それでヘッドコーチ等がシーズン終了まで監督の代わりを務め、次の監督にバトンタッチするのが監督代行。オリックスの中嶋聡監督みたいに監督代行からそのまま正規の監督になるケースもありますが、基本的に監督代行はシーズンが終わったら退団します。

中継ぎも大事な役割だと思うのですが、後醍醐はそれに納得できませんでした。後醍醐天皇は父である後宇多上皇の「皇位は後二条天皇の子孫に継承させて、後醍醐天皇の子孫には相続させない」との考えに反発したのです。つまり、父の言うことを聞いていたら、自分の子供を天皇にすることもできないし、せっかく自分が手に入れた天皇の地位もやがてはオイの邦良親王に譲らなくてはならないのですから。だからこそ後醍醐は父の後宇多天皇の言いつけに背いたのです。しかし、後醍醐が親の言いつけに反いたことが、のちの南北朝という混乱を招いた要因の一つだったのですね。


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後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒すために力を尽くし、1334年には建武の新政と呼ばれる天皇中心の政治を行いましたが、貴族優先で懸命に戦ったはずの武士が冷遇され、結局改革は失敗に終わります。やがて、後醍醐は足利尊氏と対立します。尊氏が立てた光明天皇に対抗して、吉野にたてこもり南朝を開いたのですね。それから南北朝時代という長い動乱の世が始まるのです。鎌倉幕府の討幕から始まった戦乱の世をかけ巡った後醍醐天皇は病に倒れます。その時詠んだ句がこちら。


「こととはむ ひとさえまれに 成りにけり 我が世のすゑの 程ぞしらるう」


この詩の意味は「わたしが話しかける相手も、いまやまれとなってしまった。人生におわりがみえてきたのだろうか」です。強気で好戦的だった後醍醐天皇も弱気になってしまったのですね。それからまもなく後醍醐天皇は吉野で世を去りました。享年52歳。










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※1 後深草天皇から発した皇統。大覚寺統と皇位を争うが、建武の新政により一時衰退。のちの北朝
※2 亀山天皇から発した皇統。鎌倉末期、持明院統と皇位を争って両統迭立となる。のちの南朝。
※3 持明院統と大覚寺統の両統が交代で皇位につくこと。後嵯峨天皇の譲位後、皇室が分立したため、幕府が解決策として提示した原則。天皇の在位期間は10年。