菅総理が、自民党の総裁選に出馬しないことで、次の自民党の総裁が誰になるか注目をされております。もうすぐ解散になるのではないかってウワサもあるようですが、いづれにせよ今年で衆院は任期満了になるので、どっちみち今年選挙になります。与党が議席を伸ばすか、それとも野党が伸ばすか。

選挙といえば、戦前は2大政党制で、保守系の民政党と政友会の争いでしたが、その中で無産政党も一定の支持を集めたのですね。

働いてている人の利害を代弁してくれる政党が無産政党です。日本で無産政党と言えば戦前の社会大衆党がそうでした。実は社会大衆党という政党が誕生する前にも労農党とか戦前の無産政党は、いくつもあったのですが、無産政党が離合集散リゴウシュウシュウサン(※1)を繰り返し、ややこしいのですね。今で言えば旧民主党が無くなってから、生活の党だとか、立憲民主党とか国民民主党とかややこしいですが、それと同じようなものですね。

無産政党の選挙の結果ですが、1928年2月20日は無産政党は8議席でした。ところが、2年後の1930年(昭和5)年2月の総選挙では、無産政党は5議席に減らすのですね。

普通選挙になり、労働者や農民でも(男性であれば)投票ができたのですが、労働者や農民の利害を代弁しているはずの無産政党が苦戦をしたのですね。彼らの多くは、無産政党ではなく、資本家や地主の政党である政友会や民政党に投票したのですね。無産政党に魅力を感じなかったのでしょう。

そうかと思うと、1936年に36年の総選挙では、ファッショ化の危機感のなかで無産政党は22議席を獲得したのですね。日本の右傾化に歯止めをかけて欲しいと無産政党に期待をかけたのですね。しかし、日中戦争以降、日本の無産政党の代表格の社会大衆党は軍部に接近するのですね。社会大衆党はやがて大政翼賛会に吸収されてしまいます。労働者の利害を代弁する無産政党が軍部に味方するのも変な話ですが、今まで左翼だったのが、突然に右翼や保守になる話は戦前からよくある話なんですね。実際、共産党員だった人が右翼に転向したケースはありました。

社会大衆党は、ファッショ化を防ぐどころか、ますますファッショ化を強めたのですね。保守系の政治家でさえ懐疑的に思った法案でさえ、あっさり賛成。斎藤隆夫(たかお)代議士除名問題で除名も当然社会大衆党は賛成。しかし、これには党内にも疑問の声が上がったのです。それで、社会大衆党の幹部は、斎藤隆夫除名に反対する安部委員長ら旧社民系代議士7名と水谷長三郎(みずたにちょうざぶろう)を党から除名したのですね。委員長でさえクビになるのだから押してしるべし。

さらに社会大衆党は同年7月6日近衛新体制運動に参加するため他の政党に先駆けて解党し、大政翼賛会に合流したのですね。

社会大衆党は旧社会党の前身の政党で、旧社会党でも、「平和を訴えるのなら戦争の総括をしよう」という意見もあったのですが、社会党の幹部が結構戦争に協力したこともあって、それもたち消えになったとか。実際、社会大衆党から社会党に行った議員で戦時中は戦争マンセーだったのに、戦後はコロリと変わって、「私ははじめから戦争に反対していた」と鮫島伝次郎のようなヤツもいました。

しかし、社会党の議員が皆が皆戦争責任から目を背けた訳ではないのです。

社会大衆党にいた河上丈太郎も戦争協力のことが問題になり公職追放になりました。そして、河上は公職追放が解除され、戦後の選挙に出馬した際、このように述べたと言います。

「私は長い追放生活を終えて、ようやくこうして諸君と相まみえることができるようになった。私の公職追放は、私がある団体に関与していたからである。私の真情をいえば、必ずしも進んでその団体に参加したわけではないが、今は多くを弁解しない。諸君の中に、私の戦時中の行動に批判を抱く人がいたら、どうか選挙を通じて厳正な批判を下していただきたい。また、この河上を許してくれる人は、河上一個人のためでなく日本社会党の前進のために御協力いただきたい」と演説して、自らの戦争責任を謝罪したそうです。

この選挙では、公職追放を解除された政治家が多く立候補したが、自らの戦争責任を認めたのは河上ただ一人であったと言われています。かっこいいですね。こういう人こそ選挙に出てきてほしいですね。



※1 離れ離れになったり、集まって再会したりすること。くっついたり離れたりすること。