渋沢栄一は新一万円札の顔です。2024年には一万円札が一新され、福沢諭吉ともお別れです。なんだかんだで諭吉さんにはお世話になったのですね。ちょっとさみしい気がします。例えば3万円がサイフに入っていたら、諭吉が三人なんて言い方を僕はしていましたが、2024年以降は栄一が三人になるのですね。今のうちに諭吉さんの顔をしっかり脳裏ノウリに焼き付けておきますねw?

ちなみに、僕が小学校3〜4年生の頃まで一万円札といえば聖徳太子でした。驚いたのですが、聖徳太子がプリントされた一万円札は現在(令和3年9月23日現在)でも一応使うことができるそうですね。聖徳太子から福沢諭吉にバトンタッチして30年以上たつのにすごいですね。最近、ニセモノの聖徳太子の一万円をコンビニで使って捕まった事件も起こりましたっけ。

それはともかく本題に入ります。今日は渋沢栄一のちょっといい話です。

渋沢栄一が亡くなった後、当時の代表的な短歌誌である『アララギ』に渋沢栄一をしのんだ歌が掲載ケイサイされました。

「資本主義を罪悪視する我なれど 君が一代は尊くおもほゆ」


渋沢栄一は日本を代表する資本家です。しかし、彼はもうけ至上主義ではありませんでした。むしろ、目先の損得からは距離を置き、世の中全体のことを考えていました。彼がどのような社会活動を行なってきたか。みていきます。

* この記事は「英雄たちの決断」を参考にして書きました。



明治の世になって西洋化が進み、東京の街もどんどん文明化していきました。しかし、そうした文明化の一方で、格差が広がり、街には浮浪者もあふれたのです。しかも人口も江戸時代と比べ減ったのですね。江戸は100万都市と言われるほどの人口でしたが、明治時代に人口調査をしたところ、東京の人口は50万あまりに減ったのですね。その50万の人口のうち半数以上が貧民だったと言われております。住むところや日々の食事にも困ってたそうです。かなりひどいですね。なぜこれだけ人口が減ったのかは、色々理由があるのですが、一つは幕府や大名の家に仕えていた家臣だとか、使用人たちが幕府が倒れたことで失業したのも理由の一つだったのです。

このとき、渋沢は「なんとか方法を考え、貧民の生活を助けなければいけない」と思ったそうです。

そんな時、渋沢栄一は明治7年に当時の大久保府知事から依頼を受けます。それは七分積金の運用を任されたのです。七分積金とは江戸時代に時の老中松平定信が行った政策です。これは町内会の積立金の七分(70%)のお金を徴収し、それを備蓄し、将来のために役立てようとしたもの。

その七分積金は江戸幕府が倒れたあと、明治政府が引き継いだのです。その時の残っていた七分積金が170万両、今の金額に直すとなんと170億円です。この江戸幕府の残した遺産を使って、明治政府は道路や鉄道などのインフラ整備に活用したのです。大久保府知事はもとは幕臣で、渋沢に「7分積金を貧しい人のために使ってくれ」と渋沢に頼みます。

それで渋沢は早速行動に出ます。まず渋沢は東京養育院を訪れますが、ガクゼンとします。この養育院には老人から子供まで家を失った人が無造作に押し込められていたのです。個室なんてあるはずがなく50畳もあるような大部屋に大勢を乱雑に押し込めていたのです。いくら養育院が無料で入れるとはいえ、ひどい扱いだと渋沢は思ったのです。

そもそも、この東京養育院が建てられた経緯いきさつが、人道的な目的で作られたものではないのです。養育院は1872年(明治5)に設立されたものですが、近代化が進む中でホームレスの人たちが目障りになったのですね。そしてホームレスを隔離するために建てられたのですね。特に海外からお客さんが日本にやってくので、ホームレスが東京の街を歩いている様子を見られたくなかったのですね。

渋沢は七分積金を使って養育院の改革をします。近代的な医療システムを取り入れらたり、職業訓練所も養育院の中に作ってあげたのです。手に職をもたせ社会復帰を促したのです。また子供たちのために学問所も設置。

しかし、明治12年ごろになると、維持費などの経費がかかると言うので廃止案まで出されます。実は養育院の経費は七分積金からではなく、税金でまかなっていたのです。税金を使って貧困者を養育するのは怠けものを作るという理屈です。一度は養育院を廃止にしようという意見も出ますが、それを反対したのが、渋沢です。渋沢は私財を投じて、養育院に寄付きふするとともに、財界からも寄付を募って、養育院の存続を図りました。また、渋沢も自ら養育院の経営を行いました。

そして養育院ははじめはホームレスだったのが、1885年には捨て子や親を失った子供を入所対象にし、1889年からは監獄を出たもののうち、病気になった人を入所させたそうです。明治の終わり頃になると、毎年2000人ほどの人が新規に入所したと言います。近代化もそうですが、度重なる戦争も重なり、貧富の差は広がるばかりでした。それでま済ます養育院に入る人が増えたのです。

渋沢はある程度の格差はやむを得ないとしながらもこう述べたと言います。

「いかに優れたものが勝ち、劣ったものが負けるという自然淘汰シゼントウタが社会進歩の原則であるとはいえ、私はこれらの貧困者を冷然と見過ごすことはできない。貧者を憐れみ弱者を助けることは、すなわち我々が自身で尽くすべき職分である。」


今じゃ居ませんよね。こんなことを言う経営者は。竹○平○さんからは絶対出てこないセリフですねw

しかし、入所者の待遇は現在の価値観から見れば良いとは言えませんでした。入所者の扱いは刑務所のそれに近かったと言いますが、この時代の福祉の水準は今よりはるかに低かったので、養育院が特別悪かったのであありません。もちろん、院長の渋沢も養育院の現状をよしと思っておらず、院内の見回りをしては、東京市に上申書を出して、改善を訴えています。




渋沢は東京養育院には1874年(明治7)から運営に関わり、のちに院長になり亡くなるまで、その職についたと言います。

ちなみに東京養育院は2009年(平成21年)に東京都健康長寿センターとなり、現在に至っております。

それから渋沢は不良児童や障害児、ハンセン病患者とも向き合いました。ハンセン病はらい病と呼ばれ、これにかかったものは差別されていました。渋沢は初代のらい予防協会の会長を務めるなど、らい病の予防にも力を入れたのですね。