幕府はパリ万博に出品するため使節を送りました。全権に徳川慶喜の弟の徳川昭武。その使節団には若き日の渋沢栄一もいたのです。外交のためであり、ヨーロッパの優れた技術を学ぶためでもあったのです。慶応3年(1867)1月に使節団は横浜を出発。その年の3月にパリに到着。

パリ万博では日本も出品もしました。日本が出品したのは、鎧、昆虫標本、和紙、屏風、蚕紙など。面白いのは丸太まで出品をしていたのです。なぜ、丸太なのか謎ですが、日本は林業が盛んだと言うことを言いたかったのかもしれません。はじめは樹皮も磨いて綺麗な丸太を出品をしようとしたのですが、幕府が雇っていたフランス人アドバイザーが樹皮のついたままの方がいいと助言をしたのですね。それで、当日は、樹皮がついたままの丸太と樹皮が磨かれた丸太の両方が出品されたのです。

そして、割り当てられた日本の展示ブースに幕府の使節がきて驚いたのです。そのブースに薩摩焼、薩摩切子など薩摩藩の品々が所狭しと置かれていたのです。薩摩藩が幕府に先んじて展示ブースに品々を置いていたのです。これには幕府の面目も丸潰れ。

さらに薩摩藩が用意したのは工芸品だけではありません。勲章まで作ったのです。その勲章には薩摩琉球国の文字があしらわれていたのです。薩摩藩は藩の一つに過ぎないのですが、あたかも薩摩藩が独立国であるとアピールしたのです。ヨーロッパ諸国は当時の日本の情勢なんて知らないですからね。薩摩琉球国の勲章があれば、日本には江戸幕府の他に薩摩琉球国という別の国があると思ってしまいます。琉球王国は薩摩の支配下とはいえ、一応独立国でした。そこに薩摩藩は目をつけて、この勲章を使ったのです。当時のヨーロッパ外交では勲章を用意し、その勲章を国の元首に渡すのが習慣になっていたのです。

そのことに怒った幕府の使節団は薩摩に抗議をしたのです。「日本の代表は江戸幕府なのにお前ら薩摩がしゃしゃり出るとは何事だ!」って。薩摩も「悪かった」と言ったのですネ。そして薩摩藩は「gouvernement de satsuma」として出品するという話を持ちかけたのです。「gouvernement」はフランス語で「藩」という意味です。それで幕府はそれなら良いと了承したのです。しかし、それが大きな失敗だったのです。

ところが数日後の新聞に驚くべきことが書かれていたのです。新聞には「徳川将軍は、日本の皇帝ではなく薩摩や他の大名と同等である」と。このような報道が出たのは「gouvernement」という言葉のせいでした。実は、この言葉、フランス語では「藩」ですが、英語だと「政府」っていう意味になるのです。つまり日本には薩摩と幕府という二つの国があるという印象をヨーロッパ諸国に与えてしまったのですね。実は幕府も事前に薩摩が不穏な動きをしているのは掴んでいたのですね。しかし、まさかここまで薩摩が、したたかだっとは思わなかったのでしょう。

さらに薩摩がやったことといえば、こんな話があります。幕府が当日手間暇かけて作った武者人形。この人形を作るのに幕府が大変な期間と巨額な経費をつぎ込んで出品したのですね。当然、人々の注目が集まります。それを薩摩はあたかも自分達が作ったかのように印象付けるために薩摩藩の家紋の入った看板をその人形の前においたのですね。これは誰かがこの人形の写真を撮っているなと目ざとく見つけた薩摩藩士が、その看板を人形の前に置き素早く逃げたとか。


薩摩藩が幕府を出し抜くことができたのは、パリ万博が開かれる2年前、薩摩藩は留学生をフランスに送り込んでいたのですね。それで留学生の五代友厚が、シャルル・ド・モンブランという人物と接触。五代はモンブランからパリ万博の情報を入手。それで、いち早く日本の展示ブースをほとんど乗っ取ることも、勲章の件でも幕府を出し抜くこともできたのですね。要するに早い者勝ち。事前に周到な準備をした薩摩藩の勝利でした。薩摩藩の対応の速さ、情報の正確性、スピード感には驚かされます。

薩摩との駆け引きには敗れましたが、幕府の出品したものは高評価を得ます。中でも人気だったのが日本のパビリオン。日本の茶屋をそのまま再現したのです。座敷には三人の女性が優雅に座っていて、茶を客に振る舞うのです。そのエキゾチックな雰囲気に、パビリオンに来た客は魅了されたです。日本のパビリオンの1日の来場者は1300人もいたとか。

さらに養蚕や工芸品、和紙などの技術が評価されたのです。来場者は「日本の展示品の大部分は入念に制作されており、芸術的な価値を備えている」「日本の磁器は全てを備えている。色彩、優美さ、多様性、洗練された形、奇跡が実行されている」と評価。慶応3年(1867年)5月に行われた万博の表彰式では、グランプリを受賞し、徳川昭武がフランス皇帝のナポレオン3世からグランプリメダルを受け取ったのです。

またフランスから見ても日本は重要な国だと認識していたのでしょう。実はフランスも絹が盛んでしたが、蚕が病気になって、フランスの養蚕業が大変なダメージを受けていたのです。それでフランスは日本から蚕卵を輸入し、フランスの養蚕を復活させようとしたのですね。


ちなみに徳川昭武とナポレオン3世の息子が仲良くなって、昭武に犬をプレゼントしたなんて話もあります。

パリ万博を終えた一行はその後もヨーロッパ各地を歴訪しました。スイス、オランダ、ベルギーなど。ベルギーでは国王と面会。国王はベルギーの鉄をアピール。その時の渋沢は衝撃を受けたのです。日本は商売は卑しいものだという認識があったので。翌年の慶応4年(1868年)の1月、渋沢たちは大政奉還の知らせを受けます。大政奉還は前の年の10月に行われたので、遅れてフランスにその知らせがきたのですね。今みたいにネットもない時代でしたから。さらに鳥羽・伏見の戦いで幕府が負けた知らせも受けます。それでも、徳川昭武たちは日本に戻らずパリにとどまる道を選びます。しかし、幕府からの送金も途絶えてしまいます。そこで昭武を支えるため渋沢は鉄道債権を購入したり預金をしたりで自前で資金を調達したのです。

そして、とうとうパリにいる昭武たちに帰国要請が来ます。幕府が倒れてしまったのですから。そして使節が最後にやった仕事が万博展示品の後始末でした。幕府の展示品はフランス商人たちに委ねられたとか。幕府の出品した品々はヨーロッパ各地の博物館や美術館に引き取られたと言います。こうした芸術品はヨーロッパの人たちに高く標j化され、ヨーロッパの芸術家たちもこうした日本の品々からインスピレーションを得たと言います。ゴッホやモローも浮世絵をモチーフに絵を描いたと言います。それはジャポニスム(日本主義)とも言われております。

また、この留学を通して渋沢はヨーロッパの資本主義やインフラなどの必要性を学びました。それから渋沢は明治になって銀行を始めて作り、会社制度を整備したのです。もし、渋沢がパリ万博の体験がなかったら、彼は資本主義の父と呼ばれなかったでしょう。