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1 大和の概要
今日から数回にわたって戦艦大和のお話をします。あいにくメカニック的なことは僕はわからないので、戦艦大和をめぐる人間模様をお話しできたらなって。僕も戦艦大和の本を読ませていただいたのですが、色々数字が出てきて頭がこんがりました。軍事を語るにはある程度数学がわからないときついなって。僕は子供の頃から数学が苦手でして・・・とは言いましても、ある程度は戦艦大和がどんな戦艦だったかを語る必要があると思いして、今日が乏しい知識ながら語らせていただこうかなと。

戦艦大和の全長は263メートル、排水量は6400トン、最大幅38・9メートル、高さも十八階建のビルに相当するなど、当時の戦艦では世界最大と言われております。と言いましても、僕は実際に大和の現物を見たわけじゃないので、どれくらい大きいのか見当がつきません。ですが、以前に広島県の大和ミュージアムに訪れたら、びっくりしましたね、戦艦大和の模型があって、それがでかいこと、でかいこと。この模型は実物の10分の1だそうです10分の1でもこのデカさなのですから、いかに大きいかがわかります。

戦艦大和で目を引くのは主砲です。大和の主砲は、46センチ砲で、その長さは25メートル、重さは160トン、その主砲が砲塔に3門ずつあり、さらに砲塔が3基あって、合計主砲が9門あるのです。ちなみに砲塔一基の重さが2700トン。弾丸を積むと3000トンの重さになったそうです。これは当時の大型駆逐艦一隻分の重さに相当するそうです。そんな重いものが3基もあるのだから、いわば大和は大型駆逐艦を3隻も乗せているようなものです。

主砲が放つ砲弾の飛距離は42キロです。42キロと言ったら大坂から京都までの距離に匹敵します。結構すごいですね。アメリカ艦隊の主砲が放つ砲弾の飛距離が38キロですから、飛距離もアメリカのそれよりもスゴいのです。飛距離だけでなく威力もすごいのですね。40センチを超える装甲を打ち破るほどの威力だそうです。砲弾を放った時の爆風でさえ、戦闘機を壊してしまうほどの威力。爆風に当たらないように、大和の戦闘機の格納スペースは戦艦大和の艦内にあるのですね。普通の戦艦の戦闘機収納スペースは外にあるのですが、それだけ爆風がすごかったのです。

また防御も完璧で、ちょっとやそっとの攻撃にも耐えられるし、艦内に1147の防水区画があり、魚雷で攻撃されてもすぐには沈まないように設計されております。タイタニック号の防水区画はたったの17区画しかないのですから、いかに大和がすごいかが分かります。また、大和には注水設備があって、左右のうち、片方が攻撃されて穴が開いても、反対側に海水を入れて艦の水平を保つことができたのです。

大和に配属されることになった乗組員は、その時上官にこう言われたそうです。「大和は絶対沈没しない、あれが沈没したら日本は沈没する」と。それくらい、大和は不沈艦だと信じられていたのです。しかし、どんなに素晴らしい艦体であっても、人間が作ったものである以上、絶対に壊れないという保証はありません。その乗組員が大和に乗った数日後に大和は悲壮な最後を告げるのです・・・


そして、その戦艦大和は現在、九州沖の北緯三十度、東経百二十八度四分、水深345メートルの地点に沈んでおります。北緯だとか水深なんとかメートルと言われてもピンとこない頭の悪い私でありますがw、今も海に沈む艦体、そして大和に乗り込んで亡くなった人たちを偲ばずにいられません。

2 福田啓二
 戦艦大和が建造された経緯は、第一次世界大戦後、1922年(大正11)に開かれたワシントン海軍軍縮条約までさかのぼります。この条約で軍拡競争に歯止めをかける為、各国の戦艦と航空母艦の保有比率を決められました。例えば、アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアのそれぞれの割合が、5、5、3、1・67、1・67とされました。さらに10年間の建造中止も決まりました。この条約が不公平だと国内で不満が高まったのです。数値だけ見ていると、日本だけが特別不平等な条件を飲まされたわけではないのですが。

それから1931年(昭和6)には満州事変が勃発ボッパツ。領土拡大を目指す、日本は軍備拡大を目指したのです。軍部の間でも、「屈辱的クツジョクテキな不平等条約を破棄ハキすべし」という声が高まったのです。

そして1934年(昭和9)に、ある極秘の指令がある男に下されたのです。福田啓二。当時の造船大佐でした。その指令は世界最大の46センチ砲を搭載した不沈戦艦を設計しろというもの。つまり大和です。福田は高ぶる気持ちを抑えられなかったのです。軍縮条約以来、新たな船を造ることができず、仕事といったら船の修理とかでしたから。だからこそ、この国家プロジェクトに福田は乗ったのです。その時の福田の言葉が、

「我々はこの瞬間こそ鶴首カクシュして待ちわびていた」


福田にとって、頭を抱えたのは、その大和の重量です。主砲9門(3砲塔)の重さだけでも重量1万トン以上。これだけの主砲を搭載するには、どれくらいの大きさが必要か。福田にとっては未知の領域。それでも、福田は部下たちともに来る日も計算をし続け、最終的に6万5千トン必要だということがわかった。それは当時最大の軍艦だった長門の2倍の大きさでした。

それから福田は大和の模型を作り、様々な実験を行いました。東京目黒にある防衛省技術研究本部がありますが、ここでは当時、海軍の造船研究が行われおり、福田が実験に使った研究施設が今も残っております。大水槽と名付けられた実験用プール(全長およそ250メートル)があり、このプールに福田は模型を浮かべては、抵抗測定などを繰り返していたのです。そうして福田たちが基本的な大和の設計をし終えました。その時福田は「建造可能の最も優れた船になるだろう」と思ったそうです。そんな福田の元に1人の男がやってきます。山本五十六です。

3 山本五十六
山本はこういいます。

「どうも水を指すようですまんがね。君たちは一生懸命やっているが、いずれ近いうちに失職するぜ。これからは海軍も空が大事で大艦巨砲(※1)はいらなくなるんだから」


山本は巨大戦艦は無用の長物となると言いたかったのでしょう。戦争の主役は戦闘機になると見抜いていたのです。実際、大和はアメリカの戦闘機の攻撃になすすべもなかったのですから・・・

そして1934年(昭和9)はワシントン海軍軍縮条約を脱退。アメリカと日本はお互いに仮想敵国とみなし、せっせと戦艦建造を始めたのです。そんな軍拡競争を1人の男が憂いていたのです。山本五十六です。山本は、2年間アメリカに滞在していたので、アメリカの工業力をよく知っていのです。

「デトロイトの自動車工業とテキサスの油田を見ただけでも、アメリカ相手に無制限な建艦競争など始めて、日本の国力で到底やりぬけるものではない」と思ったそうです。


山本の心配をよそに、1940年(昭和15)8月8日、戦艦大和は完成。極秘で進水式が行われました。音楽隊の演奏もない密やかなものだったそうです。本来なら天皇の臨席もあったはずなのですが、それもなし。関係者だけの寂しいものだったそうです。その時、呉海軍造船部長だった庭田尚三は秘密裏に行われた進水式になってしまったことを悔んだと言います。

「人の子の誕生は、その一生の幸多かれと、できるかぎりの祝福をしてやるのが親たるものへの愛情である。艦船の進水式もこれと全く同じで、盛大に行われるのが普通である」とし、「大和の生みの親として不憫でならない」と戦後、庭田は振り返ったとか。

大和が完成した時、大和を設計した福田啓二は「私はとめどなく涙が出て仕方がなかった。それは大和建造に従事したものでなければわからない激情だ」と語ったとか。最初は大和建造に冷ややかだった山本五十六も完成した大和に乗ったところ、「これならやれるかもしれない」といったそうです。それくらい大和の能力を高く評価したのですね。


一方で、この大和を見て喜ぶどころか不安に思う人も少なからずいました。ある大和の元乗組員は「デカすぎる。大丈夫だろうか。敵からみたら、いい的だ。」と逆に大和の大きさに不安を抱いたと言います。事実、大和と同じタイプの大型戦艦は敵から見たら的を当てやすかったようです。レイテ沖海戦で、武蔵(大和型戦艦)に攻撃を仕掛けた電撃機体の隊長アントワープはのちに「そのとき私の心を捕らえたものは、あの艦の長さだった。実に長くて、およそ的を外しようにもなかった」と回想しています。




*1 海軍の主力は戦艦であるという考え方。その思想に基づき、戦艦と主砲が巨大化した。


* 参考にしたもの











また、この記事は、BS・TBSの「THE 歴史列伝」やNHK のDVD「巨大戦艦 大和 〜乗組員たちが見つめた生と死〜」を参考にして書きました。