1 初陣を飾ろうとしたが
 真珠湾攻撃を成功させた山本五十六は、ミッドウェー諸島でアメリカを叩き、その勢いでハワイまで進み、それから早期講和に持ち込もうと考えました。そして 1942年(昭和17)5月29日、戦艦大和は出撃をします。アメリカの艦隊を攻撃すべく大和を含む連合艦隊はミッドウェー諸島を目指しました。

しかし、日本の艦隊に敵機が襲い掛かります。実は、この作戦はアメリカに事前に傍受ボウジュされ、暗号も解読されていたのですね。結局、日本は空母や重巡洋艦などを沈められたりと、やられてしまうのですね。
いわゆるミッドウェー海戦です。

一方、大和は先行した機動部隊よりも300海里(約550キロ)も後方にいたので、機動部隊を助けたくても助けられません。大和に乗っていた山本五十六はミッドウェーでの戦いの結果を知り愕然とします。大和艦内は救いようのない空気になったとか。ミッドウェーで日本が失ったものは、空母4隻、重巡洋艦1隻、艦上機322機、戦死者約3000名という散々なものでした。特に空母を失ったことは大和の乗組員のにとってもショックは大きかったようです。赤城、加賀、飛龍、蒼龍といった空母も全て失ったのですね。これらの空母は真珠湾攻撃にも参加したほどの空母だったのに。その損害は大きい。五十六は作戦の中止を決意。いった言葉は「陛下には私がきちんとお詫びをする」

結局、大和は一本の砲弾を撃つことのないまま帰還。この戦いに参加することはないまま呉に帰ったのです。ある乗組員はこう語られました。

「呉に帰った時は、みんながそれは意気消沈だった。僕でも上陸した時に、女房にも話ができなかったよ。やったか、勝ったかって。勝ったとか負けたどころじゃないよ、もうって。辛かったよ。気持ちが全然乗らないのだから。」



1942年(昭和17)8月、ガダルカナル島で激戦が始まり、ソロモン島への支援をすべく出航、ソロモン方面の日本海軍の根拠地だったトラック島に入港しました。しかし、ソロモン方面で大和が活躍することはありませんでした。翌年の1943年(昭和18)2月には武蔵がトラック島に到着。連合艦隊旗艦の役割が大和から武蔵に交換。そして大和の方は一時本土帰還。レーダー装備などの改修を経てその年の8月にトラック島に戻ってきました。その間、山本五十六が亡くなります。

そしてその年の10月にマーシャル方面にアメリカ機動部隊が出現したという情報に武蔵、大和も出撃しますが、、結局4日間行動をするも、敵を発見できずトラック島に戻ってしまうのですね。その後も輸送作戦の支援など小さな作戦に参加するものの、本格的な海戦に出撃する機会がなかったのです。すでに戦闘機の時代となっており、大和のような大型戦艦の出番はしばらくなかったのです。そんな大和の状況に口の悪い一部の兵士からは「大和ホテル」と揶揄されたほど。武蔵は「武蔵御殿」と言われたとか。なぜこのような事態が起きたのか。

2 大和ホテルと言われたわけ
 一説には多大な予算をかけた最新艦の損出を恐れたからだと言われております。高い金をかけた一級の戦艦を失うのは惜しいという気持ちが当時の海軍のお偉いさんにあったのかもしれません。戦艦は戦ってなんぼだと思うのですが・・・また、連合艦隊司令部が大和に置かれているため、やすやすと海戦に出すことができなかったことも理由の一つでしょうし、資源不足のため大量の燃料を食う大型艦を出しにくいという事情もあったのでしょう。

昭和17年における大和の維持費は総額340万5373円と高額です。しかも戦時中の価値で、この金額ですから、現代の価値に換算したら相当なものでしょう。さらに燃料費もプラスしたら404万3373円になってしまうのです。しかも、大和が海洋を海戦で高額な砲弾を何発も発射すればもっと金額が膨れ上がります。また外洋を全力で航海すれば、燃料もさらに食ってしまいます。これでは海に乗り出すのも金がかかります。

じゃあ、大和を港に停泊すればお金もかからないじゃんと思いますが、それでもかかります。一日1750円かかってしまうのです。なんだ、1750円なんて大したことないじゃんっwって思うのは現代の感覚。昭和初期の中流サラリーマンの年収が百円。財閥系の一流企業に勤めるエリートサラリーマンでも年収の最高到達点は1800円ないし2000円です。大和は停泊費だけで結構経費がかかってしまいます。年間だと63万8000円にもなってしまいます。

また、大和には最新の兵器や機器が多数搭載されているのです。それを常に万全の状態に保つためには、こちらもメンテナンスにも費用もかかります。

そして人件費。大和の定員数は2300名。准士官以上が150名、下士官・兵は2150人となっておりますが、実際にはそれらの人たちに加え、理容師、コック、洗濯付といった軍属と呼ばれる人たちも乗艦しておりました。だから、最終的に大和に乗船したのは2500人とも2800人だったと言われております。その具体的な人件費ですが年間59万2694円くらいかかったといいます。


3 快適だった大和の中
 大和が「大和ホテル」と揶揄された理由のもう一つは、大和が実は快適な場所だったから。実際、乗組員だった人が「クーラーも効いているし、住むには快適だった」というくらい。食事事情もよく、有名ホテルで働いていてたコックが腕をふるい、カレーライスとかオムライスも出たし、フルコースさえでたそうです。大和ででた食事のお話は別の機会で詳しくお話しますが、トラック島にいた頃の連合艦隊の司令部のメニューは以下の通り。

(朝食)
 お味噌汁 小皿 生卵もしくは目玉焼き 香の物

(昼食)
 スープ 肉か魚料理 サラダ 果物 コーヒーか紅茶

(夕食) 
 刺身 焼き物 吸い物 煮込み

なかなか豪華です。これはあくまで司令部のメニューですから下っ端はもっと簡素なメニューだったと思われますが、その下っ端でさえ「(食事は)よかったですよ。量も多かった。細かいメニューは覚えていないのですが、炒め物とか魚の煮付けが好きでした」と語るくらい。大和が沈んで、駆逐艦に乗った人は駆逐艦ででた食事と比べ、「食事は大和の方がよかった」と語られたほど。

さらに司令部専属の軍楽隊による演奏が四十分も行われ、その演奏は放送で艦内中に流れたといいます。

大和の冷暖房も完璧で、冷房に関して低くても二十七度程度。あれ、現代の感覚からすれば結構暑いですね。でも、乗組員は「外は猛烈な暑さ。でも艦内は冷房が効いていて、至極快適だった」と回想するほど。暖房もよく効いていて、寒い思いをした乗組員はいなかったと言われるほど。

さらに理容師まで大和にいて、そこらの床屋よりも安い価格で散髪できたのです。海軍は身だしなみにやかましかったこともあり、おしゃれな方が多かったのですね。下っ端の兵でも髪を切ってもらうことはできましたが、いつも混んでいたので、下っ端の兵たちはバリカンを借りて、仲間の髪を切ってあげたとか。

お風呂もありましたが、入浴時間が決められ、階級によって風呂に入れる回数まで決まっていました。下士官以上は毎日入れたのですが、下っ端の兵になると週に2回くらいしか入れなかったといいますから、ちょっとかわいそう。

帝国海軍の戦艦は洋式トイレが主流ですが、仕切りがなかったといいます。しかし、大和の様式トイレには仕切りがあり、洋式だけでなく和式のトイレも設置されていました。

また大和には洗濯室もあり、艦長以下の士官の軍服などは専門に雇われていた洗濯屋にクリーニングされました。しかし、下っ端の兵は洗濯桶に水の配給を受け、甲板カンパンに行っては自分で選択したそうです。


* 参考にしたもの
徹底図解 戦艦大和のしくみ (徹底図解シリーズ)
市ヶ谷ハジメ
新星出版社
2012-07-19














また、この記事は、BS・TBSの「THE 歴史列伝」やNHK のDVD「巨大戦艦 大和 〜乗組員たちが見つめた生と死〜」を参考にして書きました。