アメリカ軍は沖縄も侵攻し、沖縄が陥落すれば、いよいよ本土も危うい状況になりました。昭和20年、当時の連合艦隊司令艦長の豊田副武トヨダソエムは、命令を下します。それは驚くべき指令でした。菊水作戦と言いまして、沖縄に来攻する連合国軍に対し、艦隊に特攻攻撃を実施した日本海軍の作戦です。作戦名の「菊水」は楠木正成の旗印に由来します。戦艦大和を沖縄に突入させ、敵艦隊と応戦し、その後、大和を沖縄の海岸に乗り上げて、陸上砲台となって戦えというもの。大和の乗組員もそのまま陸戦で戦えというもの。

しかも、大和には航空隊の援護もありません。そんな中伊藤整一中将がこの作戦に反対したのです。海軍きってのキレものと言われており、この当時の艦隊司令官だったのです。「これ以上犠牲者を増やして何になる」と呟いたほど。伊藤だけでなく、「大和の能力を超えた愚挙」だとか疑念を抱く声も上がり、豊田司令長官に非難の声まであがったほど。命令と服従が絶対の中で、上官に逆らうような意見が続出したのです。いわゆる水上特攻です。


戦艦大和は最強の戦艦と言われながら、その能力を生かしきれないまま、沈んでしまいました。これは、大和のスペックがどうというより、人間の使い方、運用面に問題があったように僕には思えます。どんなスペックの良いパソコンも使わなければ、ただの箱です。また、正しく使わなければ、パソコンは壊れてしまいます。

戦艦大和は当時の日本海軍が、実戦への出し惜しみ、トラックに泊めて、温存ばかりしていたのですね。何しろ戦艦大和は巨費を投じて造られたもので、技術者たちが精魂込めて造られたもの。しかも戦艦大和はデザイン的にもきれいで、かっこいい。だからこそ壊すのが惜しいと思ったのでしょう。しかし、敵と戦うために造られたのですから、実戦で使わなくては意味がありません。実戦でなかなか使われないものだから、大和は「大和ホテル」と陰口を叩かれるほどでした。

しかし、そうしている間に日本は大和を動かす燃料を確保できなくなります。燃料が少なくなれば艦体を動かすことができません。戦争末期の日本の燃料不足は非常に深刻で、それまでインドネシア周辺などから燃料を輸入していたのですが、戦況の悪化とともに輸送路が寸断スンダンされ輸入量が激減。昭和20年(1945)にはほぼゼロになってしまいます。この影響をもっとも受けたのは大量の燃料を食う大型戦艦です。ましてや大和の艦体は相当でかいですからね。さらに悪いことにレイテ沖海戦の敗北でまとまった艦隊運用がほぼ不可能になってしまい、事実上、戦艦は無用の長物となってしまったのです。

そうなると、本当に大和はオブジェクトになってしまう。それならば、とレイテ沖の海戦後、大和は水上特攻という形で、使わざるを得なかったのです。

そんな事態に連合艦隊司令部は、この作戦の説明にあたらせるため、大和に2人の人物を送り込みます。草鹿龍之介クサカリュウノスケ中将と、三上作夫ミカミサクオ中将。この時、三上は伊藤中将から厳しい質問をされたと言います。

伊藤「この作戦の範囲と成功度をどう思うか?」

三上「この作戦は戦利を超えたものです。死ににいけという意味のものなのです」。

すると伊藤はこう言ったと言います。

伊藤「そうか、それが聞きたかった。」

それから、伊藤は草鹿からも説得されます。

草鹿「一億総特攻の魁となって頂きたい」と。そして伊藤は決意。

伊藤「我々は死に場所を与えられた」


こうして、大和は水上特攻をすることになったのです。伊藤も大和にに乗り込みました。

4月6日午後4時45分、大和は3000人の乗組員と共に、帰る見込みのない航海をしたのです。12時34分、大和はアメリカ戦闘機100機による攻撃を受けたのです。この攻撃で多数の戦死者が出ました。大和のレーダーにより敵機(アメリカ)の接近は把握していたが、天候が悪かったために発見できなかったのです。凄まじい攻撃だったそうです。そして、13時30分ごろに、魚雷による攻撃も受け、大和の艦体に穴があき、浸水して大和が傾いたのです。すると反対側の区画にも水が注水され、なんとかバランスを保つことができ傾斜も復元できたのです。

しかし、アメリカ軍の作戦は巧妙でした。13時44分ごろ、大和の左舷さげん側に集中して魚雷攻撃されたため、注排水システムも限界を超え、大和はどんどん傾いてしまいます。伊藤は戦況を見つめながら、微動だにしなかったと言います。は14時17分頃、傾斜が二十度を超えたという知らせを聞くや、伊藤がつぶやいた言葉が「そうか、残念だったね」。

ここで伊藤は命令をします。特攻作戦中止命令です。これは伊藤の独断です。そして伊藤は厳命します。

「すぐ駆逐艦を呼んで移り、艦隊を収拾しろ」。

つまり、お前たちは大和から離れろということでしょう。そして駆逐艦のが大和に横付けされました。伊藤のこの決断が大和の乗組員たちの命を救ったことになります。もちろん、全ての乗組員が救われたわけではないのですが。

特攻作戦中止命令を出した後、伊藤は大和の長官室の扉を固く閉じ、二度と出ることがなかったのです。

傾斜が左三十五度を超え、さらにその直後に弾薬庫に誘爆、巨大な火柱が上がりました。 14時23分、戦艦大和は九州坊ノ岬沖で沈没しました。伊藤は部下を守り、自分は大和と運命を共にしたのですね・・・

大和の生存者は3009名中、269名。全ての命を救うことができなかったものの、伊藤はできる限り、これが伊藤ではなく牟◯口だったら、助かる命も助からなかったでしょう。


また、大和の最後の艦長は有賀工作でした。彼は机上の論理よりも実践を重んじた人物でした。また豪放磊落ゴウホウライラクで、戦上手な指揮官として部下に信頼されていたのですね。彼は大和の最後の艦長でした。彼も伊藤整一と同様、大和と運命を共にしたのです。

その時、羅針盤に自分の体を縛りつけたとも、羅針盤をグッと握りしめたとも言われております。

大和の歴代の艦長は六人いたのですが、有賀が唯一亡くなったのですね・・・・

ちなみに、大和沈没後、「艦長が泳いでいるのを見た」との生存者の証言が残されているが、これは有賀艦長の前任の大和艦長であり、第二艦隊参謀長となっていた森下少将と間違えたのだろうと言われております。


* 参考にしたもの
徹底図解 戦艦大和のしくみ (徹底図解シリーズ)
市ヶ谷ハジメ
新星出版社
2012-07-19














また、この記事は、BS・TBSの「THE 歴史列伝」やNHK のDVD「巨大戦艦 大和 〜乗組員たちが見つめた生と死〜」を参考にして書きました。