きょうは、平成最後の日です。僕は40年生きておりますが、今の時点で人生のほとんどを平成という時代にいきてきました。昭和から平成になったのは僕が中学生の時です。たしか、あの時は昭和天皇陛下が亡くなったときで、平成天皇のご葬儀の日には雨が降っていたのも覚えております。平成最後の東京も雨がふっております。「平成」と書かれた色紙を掲げたのはいまは亡き小渕恵三元総理でした(当時は官房長官)。平成になって、僕もいろいろなことがありましたが、もうすぐその平成が終わるのかと思うと寂しい気分です。

さきほど、天皇陛下の退位のお言葉をきかせてもらいました。陛下の平和への思い、そして全世界が平和になることを願っていることがひしひしと伝わってきました。

きょうはフランス革命のお話の続きをしようかと思いましたが、それは新しい令和の年になってから書かせてもらいます。きょうは僕が個人的に印象に残った平成のニュースを5つあげます。僕が思いついた順で書かせてもらいますので、あくまでも、順番はニュースの重要性とは一切関係ありません。あらかじめご了承ください。



 
1 東日本大震災
 あれほどの震災は僕は体験したことがないですね。平成の世になって阪神大震災、熊本震災、北海道の震災など震災が多かったですが、東日本大震災の被害は甚大なものでした。

たくさんの方が亡くなられたことにも心が痛みますし、僕の遠い親戚も福島の小高に住んでいて、いまも避難生活をしております。だからこの震災は一言とは思えないのですね。東京も相当揺れましたもの。テレビをつけてもほどんど震災のニュース。CMもすべてACジャパンのものに変えられてしまいました。あの「あいさつの言葉」のCMはいまも印象に残っています。「ぽぽぽぽーん」でしたっけ。

僕も震災から数年たって、なんども東北に行かせていただきました。実際、テレビやネットで取り上げられている状況とは違うなと思いました。奇跡の一本松の周辺はがれきの山。人もほとんど歩いておりません。コンビニもプレハブ店舗でした。

気仙沼もいったのですが、町はそれなりに復興をしていたものの、港にいくと、やはりがれきの山。津波の被害はこれほどひどいのかと思いました。原発事故のあった周辺には人が住んでいない状況でした。

風評被害もひどいもので、僕が福島の道の駅(原発事故からあった後から離れている)にも野菜が大量に売れ残っていました。福島産の野菜は美味しいのですよ。作り手の真心が感じられて。また、福島からの避難民の人たちが避難先で「放射能がうつる」とかいじめられていた事も問題になりました。


2 世界の情勢
 日本の出来事ではないのですが、あれはインパクトがありました。あの時僕は中学生でしたが、ベルリン市民が壁を壊すシーンは今も覚えております。今の若い子にとっては歴史の教科書のお話かもしれませんが、僕はこどものころはドイツは西ドイツ、東ドイツに分かれておりました。

さらにドイツの首都ベルリンは、これまた特殊で、ベルリンは連合国の合意でアメリカ・イギリス・フランス・ソ連によって周辺地域とは別に分割占領されました。ベルリンの街は東ドイツにありながら、ベルリンの街が西側(アメリカ側)と東側(ソ連側)に分かれていたのです。その東陣営と西陣営を隔てていたのがベルリンの壁でした。日本に例えるなら東京が23区がアメリカの領地、多摩地域が北朝鮮のように別の国みたいにわかれてしまったのです。(おっと、べつに多摩地域が北朝鮮だといっているわけじゃありません。誤解しないでくださいw)

同じベルリン市民でありながら、西と東で隔てられ、壁の向こうには親戚や友人がいるのに会えない。それで壁を乗り越え、親戚や友人に会おうとしたら、警察につかまったり、下手すりゃ殺されたりしたのです。そんな理不尽な状況が何年も続いたのです。

あのころはまだ冷戦の時代で、ソ連とアメリカがにらみ合っていた時代でした。ソ連にゴルバチョフが書記長に就任してから、雪解けムードにはなっていたのですが、それまで日本はソ連の核の恐怖にマジでおびえていたのですね。中国の脅威だとか、北朝鮮の脅威だといわれておりますが、1980年代もソ連脅威論が叫ばれていたそうですよ。実際、ソ連はアメリカのみならず日本にもミサイルを向けていたそうですし。

そのソ連が1991年に崩壊してしまうのですね。今にして思えば、ベルリンの壁崩壊もソ連崩壊の序曲だったのですね。

ベルリンの壁崩壊やソ連崩壊と同じく海外のニュースですが、これも印象に残っております。ニューヨークのワールドトレードセンターに飛行機が突っ込む映像に僕は衝撃を受けました。そして、崩れていくワールドトレードセンターのビル。あの建物はアメリカ人にとっても心の支えでもありました。あのテロ事件で亡くなった人もすくなくありません。

9・11事件以降、アルカイダなどテロリストをやっつけろみたいな空気が生まれたのですね。アメリカでも愛国心が叫ばれるようになり、ネオコンとよばれる勢力が台頭してきました。この事件が2年後のイラク戦争の呼び水となり、日本でも自衛隊を海外に派兵しようという動きもでてきました。あのころ2ちゃんねるも右翼的な発言やコメントがあふれていましたっけ。イラクの人質へのバッシングにも驚きました。それだけ世界全体が不穏な空気になっていったのでしょう。

閑話休題、NHKの「映像の世紀」で「それはニューヨークからはじまった」というセリフがでてきます。これは1920年代におきたニューヨークの株暴落がきっかけで第二次世界大戦が起こったことを、この短いフレーズでまとめたものです。歴史は繰り返すじゃないけれど、その言葉通り、この事件がきっかけで第三次世界大戦が起こるんじゃないかって思わずぞっとしましたね。最近はテロの話は聞きませんが、中東の情勢は不安定なままです。

3 オウム・サリン事件
 オウム真理教によるサリン事件には本当に驚きましたね。あのオウム真理教が、こんなテロ活動を行うなんて・・・僕もあの時予備校生で自宅から予備校にいくのに地下鉄を使っておりました。あの事件が起こったときは予備校が休みだったので、無事だったのですが。

僕がはじめてオウム真理教のことを知ったのは中学生のころです。そう平成元年です。あのとき麻原彰晃がテレビにもちょくちょく出ていました。バラエティー番組にも出てて、変なことを言うおっさんだなぁって思いました。オウムは選挙にもでたのですね。平成元年といえば消費税がはじめて導入された年でしたので、麻原は「消費税廃止」を訴えていました。子供心に「なんか気味の悪い人たちだな」と思っていました。それから、僕の知り合いがオウム真理教の関係者が経営していたラーメン屋に入ったことがあるそうです。そのラーメン屋のラーメンはまずく、しかも食べた後具合が悪くなったとか。変な薬でもはいっていたのではと僕も聞いててぞっとしました。

麻原ひきいるオウム真理教が選挙でぼろ負けしてから、オウムの名前はすっかり聞かなくなって、もう過去の人たちだと忘れていたころに起きたのがあの事件なのですね。一介の宗教団体がサリンという化学兵器をつくれるなんて大変恐ろしいことです。オウムがサリンを製造していた建物があった上九一色村も平成の市町村合併のあおりをうけて、村の名前もなくなってしまったのですね。

麻原彰晃が死刑になったのは去年でした。

4 バブル崩壊
 1991年にバブルは崩壊しました。戦後、日本は驚異的な復興を遂げ、経済においてはアメリカと肩を並べるほどになりました。しかし、それが1991年にガラガラとそれが崩れていったのです。

バブルが崩壊してからの10年間を失われた10年といわれております。しかし、当時学生だった僕には世の中が不景気だって言われてもあまり実感がありませんでしたね。でも、当時の自営業をしていた我が家は大変だったのですね。銀行はお金を貸してくれない、モノが売れない、膨らむのは借金ばかり。父親もいつも青い顔をしておりましたっけ。そして、とうとう借金返済のために家を売る羽目になりましたっけ。

それから、なんどか総理大臣がかわったり、政権交代があったりしたのですが、果たして日本は良くなったのでしょうか?さいきん景気が良くなったというけれど、本当にそうでしょうか?格差も広がっているし、地方にいくとひどいものです。この間も地方のある町へいったのですが、商店街はシャッター街。ほとんどのお店が営業をしていないのです。その町は某議員さんの地盤なのですが、正直「口ではうまいこと言っているけれど、まずは自分の地元の経済をなんとかしなさいよ。まず足元を固めてくれよ」ってマジで思いましたもの。ある海外の政治家は「今の日本の政治家は東京のことしか考えない」といっていたようですが、本当にその通りだと思います。それと贅沢もやめてほしい。議員の特権は自民どころか立民や共産でさえ、まともに追求しないし。

日本のバブル崩壊は三度目の日本の転換期だといわれております。一つ目は明治維新、二つ目は先の戦争の敗戦、そしてバブル崩壊。平成は悲惨な災害もあったり、不景気だったりと暗いこともありましたが、少なくとも国内においては戦争のない平和な時代でもありました。新しい令和が明るく、平和で、天皇陛下がおっしゃるように我が国と世界の人々がみな幸せになるといいですね。