1 幼名 景虎
 羽生結弦さん、すばらしかったですね。録画で見たのですが、4回転半ジャンプ認定されて良かった。4回転半ジャンプをやったのは羽生さんが初めて。まさに歴史的瞬間でした。また、フィギュアスケートで銅メダルの宇野昌磨さん、銀メダルの鍵山優真さん、おめでとうございます!

さて、羽生さんの演技で流れていた曲は「天と地と」。これは大河ドラマ「天と地と」のテーマ曲です。上杉謙信が主人公で石坂浩二さんが演じられました。僕は大河ドラマ好きだったので昔からこの曲を知っていたのですが、まさか羽生さんの演技で流れて、びっくりしました。羽生さんに上杉謙信が乗り移ったなんて意見もありますが、本当にそれは感じましたね。羽生くんの顔がすごく怖かった。いい意味で。いつもは王子様のイメージですが、今回はまさに軍神という感じで、迫力がありました。

今日は、その上杉謙信のお話です。

上杉謙信は元々は「上杉」という苗字ではなく、「長尾」と言いました。父、長尾為景ナガオタメカゲ、母 虎御前トラゴゼンの二人の間から生まれました。幼名は虎千代トラチヨ。謙信は大人になってからの名前です。虎千代は幼い頃から、わんぱくで、チャンバラ遊びをしては相手を泣かせていたと言います。しかし虎千代は弱いものイジメをしたことがなく、いつも泣かせていたのは年上の子。虎千代は母から「観音様から慈悲ジヒの心を持つのですよ」と教えられたのです。母は虎御前は観音様を信仰し、そんな母の教えを虎千代は守っていたのです。 7歳になった虎千代は父から突然「寺に入れ」と命じられます。虎千代は不満に思ったが、父の言いつけを守り寺で修行をしたのです。

なぜ寺に入れられたのかというと、虎千代には長尾晴景ナガオハルカゲという兄がいました。長尾家の跡取りは晴景と決まっていたのです。家督争いをさせないために弟の虎千代を出家させたのです。というのは、表向きの理由。

むしろ、父は虎千代を守るために寺に入れたと言われております。実は、長尾為景は越後の守護代でしたが、守護の上杉房能ウエスギフサヨシを殺し、同族の上杉定実ウエスギサダザネを新しい守護にしたのです。しかし、定実は名ばかりの守護で、長尾為景が実権を握っていたのですが、為景は敵も多かったのですね。いつ、長尾家が狙われるかわからない。家督を継いだ晴景にもしものことがあったときのための保険です。また、晴景も病弱だったので、余計でしょう。

2 生涯の師
一方、いやいや寺に入れられた虎千代ですが、そこで生涯の師に会います。 天室光育テンシツコウイクという曹洞宗の僧侶です。虎千代は天室から仏法だけでなく兵法も学んだようです。天室は虎千代に物事の道理や儒教に基づいた道理、そして義の心を教えたと言います。虎千代のわんぱくぶりは健在でしたが、そうした天室の教えは虎千代の心に焼き付いたと言います。生涯の師って大きいですよね。良き師匠に巡り会えたことは幸運です。

ある日、兄弟子二人と虎千代はケンカしていたそうです。天室はケンカを止めました。虎千代は天室に応えました。「兄弟子と相撲スモウをとっていた。相撲は一対一でやるものだが、それを兄弟子は二人がかりで襲ったので、卑怯ヒキョウな振る舞いと思い、懲らしめた」と。それをきいた天室は、「子供ながら筋が通っている」と感心したそうです。


そんな虎千代が楽しみにしていたのは、兵法遊び。城の模型と兵士に見立てた駒を使って遊ぶ、今でいえばシュミレーションゲームみたいなもの(例えば「ファイアー・エムブレム」)です。

3 家督を継ぐ
しかし、虎千代に哀しい知らせが入ります。1536年、父が亡くなったのです。兄の晴景は家督を継ぎ、守護代となり、春日山城の城主にもなりました。しかし、虎千代は寺での修行を続けました。そして天文12年(1543)に長尾晴景は、虎千代に「力を貸してほしい」と頼まれ、14歳となった虎千代は元服し、名を景虎と名乗ります。その当時の越後は内乱状態だったのです。為景が亡くなってから、こころぞとばかりに長尾平六らが立ち上がり内乱を起こしたのです。その内乱鎮圧のため、景虎は立ち上がったのです。この時景虎は14歳。栃尾城トチオジョウの戦いです。

天文12年(1543)10月、景虎は栃尾城に入りました。その時、長尾平六は景虎を14歳の子供だと侮りました。長尾平六はまるでネコがねずみを痛ぶるように景虎が篭っている栃尾城攻めを繰り返したのです。それでも景虎は動揺しません。戦局が動いたのは翌年の天文13年(1544)1月23日。平六軍の激しい攻撃に景虎の家臣たちもあせりますが、景虎は「汝ら老功の勇士たりと言えども、戦術に練達レンタツせず。今は兵を出すべき時節にあらず。しばし敵勢を耐えよ」と戒めるのです。この景虎の命令に疑問を抱く家臣もいました。しかし景虎には策がありました。景虎は自軍を二つに分け、片方を平六軍と正面から戦わせる一方で、もう一つの軍を平六軍の背後から襲撃シュウゲキしたのです。挟み撃ちをされた平六軍はたまりません。見事、景虎は勝利を収めたのです。

こうして景虎の人気は高まります。一方の病弱の晴景に代わって守護代になってほしいと願う者も出てきます。景虎は毘沙門天ビシャモンテンの化身じゃないかって声も上がります。まして、当時は関東の北条氏康や甲斐の武田信玄が力をつけており、越後まで攻めてくるという雰囲気だったから。まさに越後の国存亡の危機。この危機を救えるのは景虎しかない。そして、守護の上杉定実と兄晴景の要請を受け、景虎は守護代になり、兄は隠隠居インキョしたと言います。

しかし、守護代となった景虎は兄の晴景を立てることを忘れず、国の運営などの政策は晴景の許可を得て行ったと言いますし、自分は兄の病気が治るまでのワンポイント守護代だという認識があったそうです。そんな折、守護の上杉定実が亡くなります。定実には跡取りがいませんので、守護職がいなくなりました。それで、景虎は定実の代わりに実質的な越後の統治者として越後国を守ろうとしたのです。

そんなおり北信濃の領主、村上義清ムラカミヨシキヨが景虎のところへやってきます。甲斐の武田氏に領地が奪われ、景虎に助けを求めたのです。景虎は「見捨てるわけにはいかん」と快諾。景虎は川中島で武田軍と戦ったのです。天文22年(1553)から永禄7年(1564)の間に5度も景虎の軍と武田軍は戦ったのですが、結局決着がつかなかったと言います。1度目の戦いが終わった天文22年(1553年)9月、景虎は京に向かいました。景虎は前の年に朝廷から 従五位下弾正少弼 ジュゴイゲダンジョウショウヒツという位をもらい、その返礼として京に訪れたのですね。その際、時の天皇や将軍に会いました。遠方からわざわざ天皇に会いにきたということで、御剣と天盃を賜ったと言います。さらに「住国並びに隣国の敵を討伐トウバツせよ」との勅命までも天皇から受けたと言います。これは天皇が武田との戦いを正義の行いと認めたようなものです。

また、永禄4年(1561年)閏3月16日には、関東管領カントウカンレイ上杉憲政ウエスギノリマサから関東管領の職を譲られ、上杉の家督までも継いだと言います。それから景虎は上杉正虎ウエスギマサトラと名乗ります。ちなみに謙信は本名ではなく、法号です。元亀元年(1570)に法号「謙信」を称したそうです。法号とは出家したものに付けられる名前のこと。

*この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました。