北条時頼といえば、鎌倉幕府5代執権です。彼は20代で執権の地位に立ちましたが、彼が執権になってそうそうクーデータ未遂事件が起こるのですね。いわゆる宮騒動と呼ばれるものです。

鎌倉幕府は将軍と執権がおりまして、将軍は君臨すれども統治せずの立場で、執権が政治の実権を握っていたのです。源頼朝の時代はともかく、執権、つまり北条氏が権力を握っていたのです。頼朝の直系は3代で途絶えているので、幕府は摂関家から将軍をお迎えしていたのです。北条時頼の時代の将軍は、九条頼嗣でした。しかし、九条頼嗣はまだ若く、前将軍だった九条頼経が大きな顔をしていたのですね。そこへ御家人の名越氏が、御家人の三浦氏や九条頼経をそそのかし、クーデターを起こそうとしたのです。しかし、それは執権時頼が反乱の兆候を捉え、事前に取り押さえることができたから、大きなことにならなかったのです。歴史学者の磯田道史さんは北条氏のことを「地獄耳に千里眼の北条氏」とおっしゃっていたのですが、そうした北条氏の情報網はすごいなって。

おそらく名越氏と九条頼経らは、軍勢を集めているうちに北条に嗅ぎつけられたのでしょうね。軍勢を集めるとなると時間もかかるし、軍を集めるとなると、大掛かりな話になりますからね。やるんだったら、もっと秘密裏にやって、北条時頼を油断させて、暗殺するというやり方の方が良かったのでしょうが、名越氏はそれをしなかったのでしょうね。

また、北条時頼の抜け目のないところは三浦氏を味方につけたのですね。それで三浦氏と名越氏は仲違いさせることに成功したのですね。この宮騒動の結果、名越氏は流罪。九条頼経は鎌倉から追放され京都に送還されたのです。

しかし、時頼を悩ませる事件が翌年に起こります。宝治元年ホウジガンネンにおこた宝治合戦。これは安達景盛と三浦泰村の争いです。この事件の背景は安達氏と三浦氏の権力争いが背景にありました。

安達氏は北条時頼の母方の実家で、本来なら外祖父として権力を握れる立場なのですが、意外とそれほど権限はなく、三浦氏の方が大きな権力を持っていたのですね。三浦氏は人事に大きな発言力を持っていたと言います。三浦氏は名門であるし、宮騒動の時にも北条時頼に味方しましまたからね。三浦氏の専制ぶりに安達氏は不満を抱いていたのです。こうした三浦氏と安達氏の両家の対立に時頼は心を痛めておりました。

また、三浦氏当主である三浦泰村は北条氏への反抗の意志はなかったのですが、弟の三浦光村は反北条の強硬派であり、前将軍だった九条頼経の京都送還に同行し、九条頼経の前で「必ず今一度鎌倉へお迎えします」と涙ながらに語り、その様子は北条時頼に報告されていたとか。

だから、時頼は三浦氏を非常に警戒したのですね。実際、三浦氏は武具を集め、兵を集め、北条氏を倒そうとしているという噂も流れたとか。

時頼は三浦泰村邸に使者を派遣しました。泰村は「自分は、ありもしない噂を流され迷惑している」と答えたそうです。しかし、三浦館内に武具が揃えられていたのですね。三浦家は戦いの準備をしていたのです。時頼は悩んだことでしょう。鎌倉に軍勢が集結して厳戒態勢となる中、時頼は自分の腹心である平盛綱を泰村邸に送り、和平の義を成立させました。長期間の緊張を強いられていた泰村はこの和議を喜び、この直後に湯漬けを食して吐き戻したとか。


これで鎌倉も平和になると思いきや、その事を知った安達景盛は、三浦氏に戦いを挑んだのです。平盛綱が和議をまとめ、三浦の館に赴くのを出し抜いて、武装した安達の軍勢が館から出撃し、若宮大路を突っ切って鶴岡八幡宮に突入し、境内を斜めに駆け抜けて泰村の館を襲ったのですね。奇襲を受けた泰村は仰天し舘に立て籠もって迎撃の構えを取りました。合戦が始まると御家人達が続々と両陣営に駆けつけ始めて鎌倉に密集し、事態はめちゃくちゃになったのですね。

さらに悪いことに、それまで中立の立場だった北条時頼までも安達氏に味方してしまったのですね。三浦氏の館を攻め込まれ、三浦泰村は戦う意志を失ったのです。三浦光村は最後まで戦うべしという感じでしたが、兄弟一緒に亡き頼朝公の御影の前で死ぬべしとして、三浦泰村は弟の光村に法華堂へ来るように命じたのです。やむなく光村は数町に及ぶ敵陣の中を強行突破して法華堂へ向かったのです。法華堂は源頼朝が祀られていたのです。三浦氏いや当時の御家人たちにとっては源頼朝は神様のような存在でしたから。


三浦泰村は死ぬ間際にこういったと言います。

「北条殿の外戚として長年補佐してきたものを、讒言によって誅滅の恥を与えられ、恨みと悲しみは深い。ただし、私の父である三浦義村は他の一族の多くを滅ぼし、その罪は深い。これはその報いであろう。もうすでに冥土に行く身で、もはや北条殿に恨みはない。」と涙で声を震わせたといいます。

そして三浦氏にまつわるものたち500人余りが自害したとか。