今日は、宮本武蔵と佐々木小次郎が戦ったという巌流島ガンリュウジマ巌流島のお話。実は、言い伝えられている巌流島の決闘ケットウは結構ウソがあるのです。今日はその辺のお話をします。まず、武蔵が書いた「五輪書」。名著ですね。兵法だとか勝つための極意が書かれた名著で日本だけでなく、世界でも読まれております。僕もチラッと読んだことがあります。この五輪書にはなんと、巌流島の戦いのことが全く書かれていないのですよ。不思議ですね。もしかしたら巌流島の戦い自体がなかったのか???流石にそれはありません。なぜ、書かれていないのか、それはのちに話します。



  1. 佐々木小次郎は若くてイケメンだった?
    佐々木小次郎役といえば、若くてイケメンのイメージがあります。僕のなかで記憶に残っている佐々木小次郎役といえばTOKIOの松岡昌宏さんでしょうか。

    佐々木小次郎は有名な剣士で、ツバメ返しという技を使っていたと。巌流島にある武蔵と小次郎の銅像を見ても、確かに小次郎はイケメンでかっこいいです。しかし、巌流島の戦いが、いつ行われたか、はっきりしないのです。また、佐々木小次郎は小倉藩コグラハンの剣術師範だったといいますが、小倉藩には佐々木小次郎という名前の人物はいなかったといわれております。言い伝えでは、この決闘は小倉藩公認で、小倉藩の役人が見守る中、二人の決闘が行われたといいますが、実際は違うそうです。また巌流島は小倉藩の領地ではありません。

    武蔵の血糖じゃなかったw決闘のことを書き記した小倉碑文コクラヒブンには、武蔵の対戦相手は「兵術の達人、巌流」とあるだけ。「佐々木」と書いていないのです。『沼田家記』という文献には「小次郎」とあります。武蔵の死後130年経った1776年に書かれた『二天記』という本のの注釈には「岩流小次郎」とあります。他の文献には苗字ミョウジが佐々木ではなく、津田だったり、渡辺だったり。それどころか、多田市郎という名前だったという文献まであるとか。いづれにせよ、武蔵の対戦相手の名前はよくわかっていないのです。

    ともあれ、僕のブログでは武蔵の対戦相手は、小次郎とさせていただきます。また、小次郎が、若くてイケメンではなく、おじいちゃんだったという説まであるとか。小次郎が若くてイケメンのイメージがついたのは吉川英治の小説の影響が大きいとか。


  2. 宮本武蔵は遅刻した?
    伝説では宮本武蔵は約束の時間から2時間たってやっと武蔵がやってくりなり、小次郎は怒り出したと。実は武蔵は、わざと遅刻して、小次郎をイライラさせて冷静さを失わせたと。これも一つの策ですね。といいたいところですが、これは真っ赤なウソですwあれは物語を面白くさせるための作り話。武蔵はちゃんと約束の時間を守ったといいます。

    しびれを切らした小次郎が、刀のサヤを投げ捨てて、それを見た武蔵が「小次郎、敗れたり」といったそうです。なぜ、武蔵が「小次郎敗れたり」というセリフを言ったかというと、それは「勝つつもりならば大事なサヤを捨てはしないはず」だから。

    けれど、小次郎が本当に刀のサヤを捨てたか、どうか、これも史実かどうか怪しいところ。作り話である可能性の方が高そうです。
  3. 船のカイで刀を作った?
     はい、これも作り話w船の櫂から木刀を作ったといいますが、それはありません。武蔵はちゃんと事前に木刀を用意しておりました。対戦する小次郎は真剣だったのです。真剣とはここではマジメという意味ではありません。本物の刀です。小次郎が刀なのに、武蔵は木刀。武蔵の方が不利ですよね。しかし、これも武蔵の計算があります。

    一つは軽いから。木刀は真剣に比べると軽いそうです。軽くて動きやすいというメリットがあるのです。真剣は持ったことがないのですが、見た目よりずっと重いそうです。

    二つめの理由は小次郎を殺したくないから。武蔵は小次郎の頭をごつんと木刀で叩きました。小次郎は倒れてしまいましたが、幸いにして小次郎は息を吹き返したのです。武蔵から見たら、勝負に勝てればそれで良い、小次郎ほどの剣士を殺すのは惜しいというのがあったのでしょう。

    その小次郎ですが、武蔵に敗れた後、武蔵の弟子たちにボコボコにされ死んでしまうのですね。これは武蔵の命令か?違います。これは武蔵の父親が差し向けだといいます。晩年、武蔵が書いた「五輪書」に決闘のことが書かれていないのは、自分は小次郎と正々堂々と戦いたかったのに、結果的にダマシうちみたいになったことを恥じているのかもしれないと?なぜ、決闘のことを「五輪書」に書かなかったのか武蔵本人じゃないとわからないですけれど、武蔵にとっては苦い経験だったと思います。




*この記事はBS・TBSの「にっぽん歴史鑑定」を参考にして書きました。