1 反中共だった岸信介
明日は天安門事件です。早いものでもう三十年以上経つのですね。痛ましい事件でした。当時、僕は中学生したが、一般市民に銃を向ける当時の中国の恐ろしさにゾッとしたものです。中国当局は犠牲者は三百人くらいだと発表しておりますが、実際はもっといただろうと。下手すりゃ一万人くらいいたんじゃないかって説もあるほど。あれから中国はめざましい経済発展を続けておりますが、今なお中国共産党による独裁政治を続けております。

また台湾を巡って中国との緊張も高まり、日本でも中国の脅威を訴え、憲法を改正しようという声も上がっております。今の岸田総理が中国に対して宥和的ユウワテキな態度なので、対中強硬派の安倍晋三元総理が今なお根強い人気があるようです。では、安倍晋三元総理の祖父である岸信介は中国との関係について、どのように考えていたのでしょう?

岸信介が総理だった頃の中国は、大陸とは国交がなく、蒋介石率いる台湾と国交を結んでおりました。岸信介は台湾との関係を非常に重視していましたから、岸内閣時代は日中関係が最悪だったと言います。ちなみに、岸の次の池田勇人内閣では台湾との間でギクシャクします。池田内閣は中国との関係を持とうとする一方で、台湾と距離を置こうとした。そのことで蒋介石を怒らせてしまったとか。この池田内閣での中国に対する取り組みが、のちの田中角栄内閣による日中国交回復につながるのですが。

ともあれ、中国共産党は、岸に対して敵視していたのですね。中国が「岸内閣が米国と結託し、中国人民を敵視している陰謀に対して、極めて憤慨をおぼえずに居られない」(1958年11月19日、当時の中国の外交部長の声明)。それに対し岸信介は「トンと身に覚えのない話」と切って捨てております。さらに岸は「だいたい共産党員というものは、人間の誠実さとか善意の通用しない、我々の頭の中にある“人間“には当てはまらない連中だとは思っていたが、中共首脳の発言は全く理解に苦しむものであった」(※1)と断じていました。

2 政経分離
一方で岸信介といえども中国との関係を全く無視することができず、「政経分離」を考えていたのです。政治上では付き合いたくないが、経済の面ではお付き合いしましょうということでしょう。また岸も経済だけでなく、「文化的にも過去に日本と密接な関係を持ってきたから、そこの人民と友好を図るのは望ましい」という考えを持っていたのです。つまり、岸は中共は嫌いだが、人民には罪はないということでしょう。

経済的な結びつきの一環として昭和30年(1955)10月に大阪で中国の見本市が行われましたが、そこで揉め事があったのですね。見本市は二ヶ月以内との約束でしたが、中共関係者は開催前の準備と終了後の残務整理があるから、「二ヶ月では短い、さらに三週間延長してほしい」と要求したのですね。それで日本政府は関係者の指紋の押印を頼んだが、中共はそれを拒否。

当時の日本の法律(外国人登録法)では、政府の公務員及び国際間の公務を帯びる者を除き、外国人の滞在が二ヶ月を超える場合は指紋の捺印を押さなければならない決まりになっております。それは、どこの国であっても例外ではありません。当時の政府は苦慮しましたが、結局、政府は見本市の関係者は指紋の押印をしなくて良いと判断したのです。

見本市は各国政府が援助している国際的な組織とみなすべきで、国際貿易の増大に寄与しており、その行事の国際的意義も認めたれている。従って、見本市の関係者は、我が国の外国人登録法の適用外だから、押印は必要ないとのことです。もちろん、こうした特権を与えたことに対し、批判の声も上がったのですね。ましてや中国とは国交がなかったので。このような特権を上げればますます中共はつけあがるし、台湾も怒ってしまうと。しかし、そのようなリスクを踏まえた上で、見本市なら指紋の押印しなくて良いと岸内閣においても閣議で認められたのですね。


昭和三十年代はまだ中国と正式な国交はなかったのですが、自民党のイケショウこと池田正之輔イケダマサノスケが中心になって中国との貿易交渉に当たっていたのですね。1953年以来、訪中団を率いて数度も中国に訪れたそうです。1958年に第四次通商協定を結ぶなど、日中貿易にも貢献したのですね。こうして政治的にはともかく、経済の面では着々と交流が進んだのですね。とはいえ、国交がなかったので、民間レベルの細々とした貿易でしたが。政治では台湾、経済では中国と付き合うという、どっちつかずな態度を取れば、台湾と中共の双方の反発を招いてしまうと岸は考えました。それで岸は、日本の立場を誠実に訴えたと言いますが、なかなか納得してもらえず苦労したのとこと。

特に台湾の蒋介石は、大陸反抗政策をとっており、中共と激しく対立していたから余計です。蒋介石はマジで中国に攻め込もうとしていたのですね。今も台湾との関係に緊張が走っておりますが、この時代も中台関係はやばかったのです。岸が蒋介石にあった時、「軍事行動は不可能に近いから、それより台湾に理想的な国家を作るべき。そうすれば蒋介石の政治が宣伝となって、大陸を追い詰めることができる」と持ちかけたと言います。すごいですね。かつての李登輝や今の蔡英文総統がやっていることを先駆けてやりなさいと提案しているのだから。すると蒋介石は「そんな生やさしいやり方ではダメだ」と反発したとか。

3 長崎国旗事件
さて、岸が総理の時に事件がありました。長崎国旗事件です。1958年の5月2日に長崎で起きた事件です。長崎にあるデパートの催事会場で、日中友好協会長崎支部の主催により、「中国切手、切り絵展示会」が開かれていたのです。会場の入り口には中国側の国旗が飾られていたのです。中国政府の国旗🇨🇳が飾られてたこと対して、台湾側は怒ったそうです。台湾の領事館も「日本と国府(台湾)との友好関係に悪影響を与える」と警告。


そして事件が起こりました。右翼団体に所属する日本人の青年が会場に展示された中国国旗を引きずり下ろして毀損キソンしたといいます。一応、警察は青年を逮捕しましたが、すぐ釈放されました。中国側は、警察の処理の仕方がけしからんと激怒したと言います。岸信介もそのことで中国から批判されましたが、岸は「法律的にアレを国旗として認めるわけじゃないから、釈放させるしかなかった」と回想しております。確かに刑法に外国国章損壊罪という罪があるのですが、その保護すべき国旗とはその国を象徴するものとして掲げられた公式の国旗のみなんですね。引きずり降ろされた旗は会場の装飾品であり、いわば運動会で使う万国旗みたいなもの。中国政府の正式な国旗ではないのですね。さらに中国とは国交もなかったので尚更でしょう。

さらに中国政府はこの事件が起こってすぐさま、社会党を選挙支援しただけでなく、日中貿易を全面的に停止する処置を取ったのです。第四次通商協定も破棄されたのです。この事件のすぐ後に総選挙(1958年5月22日)があったのですが、長崎国旗事件の影響はなく、自民党は大勝しました。

*1 『岸信介回顧録』(p365)より

* 参考文献
岸信介回顧録―保守合同と安保改定
岸 信介
広済堂出版
1983-01-01



岸信介証言録 (中公文庫)
中央公論新社
2014-11-21