徳川家茂は14代将軍です。徳川将軍の中では知名度は高い方ではありません。和宮の夫といった方がわかりやすいくらい。和宮は有名ですからね。しかし、家茂はなかなかの名君で、かの徳川吉宗の再来だと言われたほどで、「天授の君」とも言われました。天授とは天がこの世に授けた人という意味。すごい絶賛ですよね。また、勝海舟は滅多に人を褒めない人ですが、家茂のことはベタ褒め。徳川家茂が将軍に就任したのは、わずか13歳。

家茂は子供の頃から、好人物だったと言います。家茂は弘化こうか三年(1846)
に紀州藩朱の嫡男として生まれます。幼名を菊千代と言いました。が、父の死去で、わずか菊千代は4歳で紀州藩主になります。菊千代には浪江という教育係の女がいました。浪江は厳しくも、優しく菊千代を育てたと言います。彼女の教育があって菊千代のリーダーとしての資質が磨かれたのですね。6歳になった菊千代は12代将軍徳川家慶へ謁見えっけんすることになったのです。江戸城登城の際、浪江は菊千代に「謁見の際、お泣きになられてはなりませぬ」と言ったのです。しかし、謁見の場の重々しい雰囲気に菊千代は号泣。無理もありません。菊千代は藩主とはいえ、まだ6歳ですから。見かねた家慶は「好きなものでなだめすかし、遊ばせよ」と言い、小鳥を菊千代のために将軍自らプレゼントしてくれたのです。菊千代は鳥や虫が大好きだったのです。そして、江戸の紀州藩の屋敷に戻った菊千代は浪江の顔を見るなり「浪江、泣いたよ」と正直に答えたと言います。誠実な人柄がうかがえます。

菊千代は将軍の家慶から「慶」の名をたまわり、徳川慶福トクガワヨシトミと改めました。そして藩主として恥じないよう、毎日手習のため筆をとり、論語などを素読、剣術の稽古も熱心にやったと言います。慶福は将軍になって名前を家茂と改めてからも、こうした真面目さは変わらなかったと言います。

将軍になった家茂は、学問を好み、養賢閣ヨウケンカクという学問所を作りました。これは小姓や役人たちが学問を学ぶための施設です。自ら学ぶだけでなく、周辺の人材のレベルアップも図ろうとしたのですね。

また、家茂の良い人のエピソードといえば、こんな話があります。家茂は戸川安清トガワヤスズミに書道を習っていたのですが、ある日、家茂がいきなり戸川の頭に水をかぶせ、手を打って笑い出すと、その場を去ってしまったのですね。いたずら好きな将軍様だと思うでしょ?違うんですね。その場にいた家臣が戸川を心配すると、戸川は「私のために」と泣き出してしまったのです。いぶかる家臣。実は戸川は高齢で、今風にいえばトイレが近くなっていたのですね。この日もがまん出来ず、その場で失禁をしてしまったのですね。失禁とはおもらしのこと。将軍の前で粗相をしたら大変です。それこそ流罪か切腹かというレベル。それを察した家茂は、機転をきかせ戸川の失禁を隠すために水をかけ、イタズラをするフリをしたのですね。将軍様が自ら戸川を庇えば、家臣だって処罰したくても手出しができませんね。いい人ですね。

そして、元服した家茂は和宮と結婚する運びになりました。これは政略結婚です。当時の幕府は、外は欧米の圧力、そして内は倒幕運動の盛り上がりと、内憂外患ナイユウガイカンでした。その状況を打破しようと、幕府は皇女との婚礼を画策。いわゆる公武合体です。家茂と年齢が近いということで孝明天皇の妹の和宮が選ばれました。和宮はすでに有栖川宮熾仁親王アリスガワノミヤタルヒトシンノウというフィアンセがいたのですね。さらに当時の江戸は、鬼のような外国人がウジャウジャいる怖いところと信じられていたのです。だから和宮はこの婚約話を当初は強く拒否。しかし、

「惜しまじな 君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」



という句を残しました。これは兄のため、民衆のため、この婚約を受け入れるという意味の句です。文久元年(1861)、和宮は京を発ちます。その輿入れ行列は総勢1万人以上だったというから、かなり大掛かりな行列だったことがうかがえます。翌年の文久2年に家茂と和宮の婚礼の儀がおこなわれます。この時二人の年齢は17歳。しかし和宮の苦難は始まったばかり。和宮は大奥に入ることになりました。大奥はよく言えば女の園。悪く言えば伏魔殿。しかも、武家のしきたりと皇族のしきたりは全然違います。和宮が大奥の人間から意地悪をされるのは火を見るより明らかでした。しかも和宮が京から連れてきた女官と、大奥の古株連中がバトルをする有様。和宮にとって辛い毎日です。そんな和宮に寄り添ったのが夫の家茂。家茂は、和宮に優しい声をかけたり、公務の合間に金魚バチなどさまざまな贈り物をあげたり、いろいろと配慮したのですね。優しいですね。これは家茂が和宮を大事にすることで幕府と朝廷の関係をよくしようという思いもあったかもしれませんが、家茂自身が和宮を愛していたからだと思います。そうした家茂の優しさに次第に和宮の心を開かせたのです。

しかし、世は幕末。動乱の時代。二人の平和な日々を脅かしていくのです。1863年、家茂は上洛をします。当時の京都は、現在みたいな観光地ではなく、尊王攘夷派が暴れ回る大変危険な場所でした。そんな危ないところをあえて出向いたのですね。将軍の上洛は三代将軍家光以来229年ぶり。それくらい幕府はあせっていたのでしょうね。そして家茂は義理の兄である孝明天皇にも謁見。孝明天皇は和宮の様子を訪ねたり、外国船を打ち払えと攘夷を命じたり。そんな最中、京にいる家茂のもとに和宮から手紙が来たと言います。

「寒さ厳しい中、無事着いたとのことを聞き、安堵しております。私は一時期、痘瘡トウソウができ困ってしまいました」と。

すると家茂は返礼を出しました。

「贈ってくれた見事な菓子を慰めとし、鬱情ウツジョウを晴らしております。痘瘡ができたのこと、難儀であったこととお察しします」

と和宮の病気を気遣う様子も伺えます。実は家茂は甘党でお菓子が大好き。和宮は家茂のために、そうした配慮もしたのですね。仲の良さが伺えます。家茂は21歳の若さで亡くなるのですが、その亡骸は和宮の元に届きます。一緒に届けられたのが、西陣織の反物。かつて和宮が家茂におねだりしたものです。家茂は買ってくれたのですね。悲しみに暮れる和宮が読んだ句がこちら。


「空蝉の 唐織衣 何かせむ 綾も錦も 君ありてこそ」



和宮は立派な着物も、君(家茂)がいてこそと読んだのですね。夫を失った悲しみが伝わります。夫を失った和宮は京に戻らず、そのまま江戸に止まり、徳川の女として幕府を守ったのです。幕府を滅ぼそうと、朝廷の総大将になんと元フィアンセの有栖川宮熾仁親王アリスガワノミヤタルヒトシンノウ。和宮は熾仁親王に手紙を何度も書き、幕府攻撃を思い止まらせたと言います。そして、明治10(1877)8月に和宮は亡くなります。和宮の亡骸は増上寺に葬られ、夫の家茂の隣に和宮の墓があります。和宮は亡くなる時写真を抱いておりまして、その写真がぼやけて誰だかわからないのですね。熾仁親王という説もありますが、家茂の可能性の方が遥かに高いと思われます。

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(いづれも関門海峡あたりにある大砲。奇しくも壇ノ浦の合戦のあった場所と同じ場所。関門海峡辺りは争いごとがおこる因縁なのかな?)

* この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました。