まずは、一曲お聴きください。映画「追憶」(「The way We were」)のテーマ曲です。バーブラ・ストライサンドの歌です。名曲です。切ないメロディーラインだけれども、じわじわと心の琴線に触れます。映画バーブラ・ストライサンドが出演し、歌の主題歌も歌いました。

バーブラ・ストライサンドは女優ですが、歌手としての実力も折り紙付で、米国で最も成功した女性歌手として認識されました。彼女のアルバムのセールスはすごくて、1970年代当時彼女より多くのアルバムを売り上げていたのはエルヴィス・プレスリーとビートルズだけと言われるほど。 1982年に、音楽評論家のスティーヴン・ホールデンは彼女を「フランク・シナトラ以来最も影響力のある米国ポップ歌手」と評されました。


映画の内容は理想主義的な左翼思想に傾倒する頑固なケイティーと、政治的主義にとらわれない考えを持つ人気者のハベル。信条が正反対の2人は大学で出逢い、卒業後それぞれの道を進むというもの。バーブラ・ストライサンドはその左翼思想にハマったケイティーを演じました。彼女が演じたケイティーですが、口を開けば政治の話ばかり。言わんとする気持ちは理解できるが現実にこんな女性が自分の彼女だったら嫌だなって思いました。そんな彼女をバーブラ・ストライサンドは見事に演じてました。

映画のテーマはマッカーシズム。

マッカーシズムと米国共和党上院議員J=R=マッカーシーを中心に米国内で行われた反共運動。いわゆる赤狩りです。赤つまり共産主義者が弾圧されたのです。戦後のアメリカは共産主義を根絶やしにするために、共産主義者だけでなく、共産主義者だと疑われたものまでが職を失ったと言います。まさに二十世紀の魔女狩りと言われてる時代で、その魔の手はハリウッドにまで及びました。

赤狩りそのものは戦前からありましたが、ひどくなったのは戦後。かのウォルト・ディズニーも熱心に赤狩りをやっていたと言います。びっくりしますよね。ディズニーって夢いっぱいのイメージがあるのですが、保守的な政治思想の人だったんだなって。ロナルド・レーガンは俳優でありタレントでもありましたが、この赤狩りに熱心に協力し、政界とコネクションができて、やがて大統領にまで上り詰めたのです。ちなみに「バック・トゥー・ザ・フィーチャー」で1985年から1955年にタイムスリップした主人公のマーティーが、1955年のドクに「僕の時代の大統領はレーガンだ」と言ったら、ドクが怒って「あの三流俳優が!?」って信じないのですね。それが1955年当時のアメリカ人の感覚でしょうね。考えてみたら、今のウクライナの大統領だって元はコメディアンだったし、人間の運命ってわかりませんね。

チャップリンは、共産主義者のレッテルを貼られてしまったのです。そんなチャップリンが作った映画が「殺人狂時代」という映画。金を目当てに殺人を繰り返す男の物語。この映画のクライマックスにこんなセリフが出てきます。

「一人を殺せば悪党だが、百万人を殺せば英雄。数が殺人を正当化するのだ」

このセリフはソ連を核兵器競争をしているアメリカを批判したもの。当然、アメリカの保守派は激怒。チャップリンを避難する声が上がるのです。自由の国アメリカと言われておりますが、全く逆のことをしている。アメリカに渡ったのに、いまだにイギリス国籍のままなのも攻撃材料になりました。

その時、チャップリンの言葉が、

「私は祖国を熱狂的に愛することができない。なぜなら、それはナチスのような国を作ることになるからだ。ナショナリズムの殉教者になるつもりはないし、大統領のため、首相のため、独裁者のため、死ぬつもりもない」


ところが赤狩りはエスカレート。チャップリン追放の声も上も上がりました。ある議員は「彼がハリウッドにいること自体、アメリカの体制には有害なのです」と。そして1952年9月、チャップリンはアメリカから追放されてしまいます。

「さまざまな政治力が支配する空気の中で反感を買い、残念ながらアメリカの大衆の愛を失ってしまったということになるだろう」とチャップリンと言い残し、寂しくアメリカを去っていったのです。

そして1972年、ロサンゼルスで行われた第44回アカデミー賞授賞式で、チャップリンは会場に呼ばれたのです。チャップリンの名誉が回復されたのです。しかし、セレモニーで多くを語ることはなかったのです。そしてチャップリンは1977年になくなります。

最後にチャップリンの言葉を引用します。


すべての映画はプロパガンダです。ボーイ・ミーツ・ガールの映画は愛のプロパガンダ。そして「独裁者」は民主主義のプロパガンダなのです。

※この記事は「映像の世紀」を参考にして書きました。