history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 中国・台湾の歴史

宋家の三姉妹(字幕版)
ニウ・チェンホワ
2016-09-23



近代、中国に三人の姉妹がいました。

一人は金を愛し、一人は権力を愛し、一人は国を愛した。


金を愛したのが長女の宋 靄齢そうあいれい、権力を愛したのが三女の宋美麗そうびれい、そして国を愛したのが次女の宋慶齢そうけいれい。宋家の三姉妹の話は映画にもなりました。

宋家は中国屈指の財閥でした。清朝末期に印刷業から身を起こし、やがて金融をとりあつかい、中国を代表する財閥に成長したのです。三姉妹の父、宋 嘉澍そうかじゅは中国の革命家孫文に資金援助をしていました。三女の慶齢は、孫文の秘書をつとめ二年後に結婚しました。映画では父が慶齢と孫文の結婚に反対する描写が出てきます。そりゃそうですね。相手は革命家、しかも年齢も親子ほど離れているから。慶齢は孫文のことをこう語っております。

辛亥革命は20世紀、最も偉大な出来事です。4億の民が4千年にわたる君主制のくびきから解放されたのです。私は中国を救うのを助けたいと思っていました。孫文博士はそれができるただ一人の人でした。


孫文は国民党でしたが、共産党とも組んで中国を改革しようと思ったのです。しかし、その孫文も志なかばにして亡くなります。そして孫文の後を継いだ蒋介石は孫文の遺志に背き、共産党を弾圧。いわゆる上海クーデターです(1927年4月)。中国は内戦状態になりました。その時、慶齢は蒋介石を裏切り者と厳しく批判。

蒋介石は、もはや孫文博士の後継者ではなく、国民党はもはや革命のための党ではなく奴隷制度にとりついた太った寄生虫に過ぎない。
(宋慶齢の声明)

しかも、その後、慶齢をさらに苦しめることがおこります。なんと妹の宋美齢があろうことか裏切り者の蒋介石と結婚してしまうのです。中国名門の娘と蒋介石との結婚はニューヨークタイムズの一面でも取り上げられたほど大きなニュースとなりました。もっともニューヨークタイムズでは、結婚を祝うというより、これは政略結婚だと皮肉るような論調だったようですが。この蒋介石と美齢の結婚を強く勧めたのが、長女の靄齢。靄齢の夫は孔祥熙こうしょうき。孔は孔子の末裔でのちに中華民国の財政大臣となります。靄齢は妹を蒋介石と結婚させることで、宋一族の権力基盤を強化させようとしたのですね。じつは蒋介石には妻がいたのですが、その妻を靄齢が無理やり離婚させて、妹を蒋介石に押し付けたのですね。ひどい話です。蒋介石の前妻がかわいそうだなって。宋靄齢はたいそう蒋介石のことを気に入っているらしく、こんな言葉を蒋介石に言っております。


あなたは今や重要人物になりつつある。だがその地位はもろい。宗家を通じて上海の銀行家から資金を引き出し、あなたに提供しよう。武器を買うためのお金も援助しよう。
(宋靄齢の言葉)

一方の宋慶齢は、姉と妹と距離を置き、国民党と対立する共産党に接近します。三姉妹は共産党と国民党との対立の中で次第に引き裂かれていくのです。そんな共産党と国民党も日本軍の侵略を受けて、協力するようになります。国共合作です。共通の敵と戦うため、いまはお互いに協力しようと。変化は三姉妹の間でも現れ、再び三姉妹が手を取り合うようになります。宋家の三姉妹は国際的にも有名で、三姉妹はメディアにもでて、日本の非を説いたのです。すると国際的世論は中国に傾いていったのです。日中戦争が泥沼化する中、三女の美齢はさらなる行動にでるのです。アメリカの軍事支援を得るためワシントンに蒋介石とともに乗り込むのです。英語が喋れない蒋介石に変わって、流ちょうな英語で宋美齢は演説。そしてアメリカ人たちを魅了したのです。

パリモードのドレスを着こんだ魅力的な中国人女性が南部なまりの英語でエネルギーと情熱にあふれつ演説をぶった。その日以来、彼女は永遠に私のプリンセスだ。(あるアメリカ人軍人の言葉)


1943年11月のカイロ会談では、通訳としてチャーチルやルーズベルトと会談。宋美齢は、ここでも首脳たちを魅了。チャーチルはその美齢の英語力、スピーチのうまさに感心したといいます。

カイロ会談の時、宋美齢は大変に魅力的で私は彼女の印象しかなかった。蒋介石が何を話したのか、ほとんど覚えていない。(チャーチル)


終戦後、三姉妹は再会。お互いに勝利の喜びを語り合ったのです。しかし、その三人の仲はそれまで。日本軍という共通の敵がなくなると、ふたたび国民党と共産党の対立は激化。第二次国共内戦(1946から1949)がはじまるのです。宋姉妹はふたたび敵と味方にわかれてしまうのです。内戦に勝利したのは共産党。蒋介石率いる国民党は台湾に追われてしまい、宋美齢も台湾に逃れてしまいます。長女の靄齢と夫の孔祥熙は金銭トラブルが発覚、二人はアメリカに逃れてしまいます。そして中国大陸に残ったのは宋慶齢ただ一人。そして宋慶齢は毛沢東らに迎えられ共産党の国家副主席の一人として抜擢。孫文の未亡人を幹部に抜擢した理由は、自分たち共産党が孫文の後継者だぞってアピールしたかったのでしょうね。

そんな共産党に取り込まれている慶齢を台湾にいる美齢は心配し手紙を送ります。

お姉さん、あなたのことをいつも思っております。中国でつらい思いをしているのではありませんか。私たちにできることがあればお知らせください。でも私はお姉さんが、どこか遠くに離れてしまっているように思えます。


そんな美齢の予感が当たったのか、次第に慶齢と毛沢東との間で、すきま風が吹き出します。きっかけは、毛沢東が自分に反対する人間を弾圧する反右派闘争。慶齢は黙っていなかった。人民日報に毛沢東にあてた手紙を搭載したのです。

かつて中国では、市民が自分たちの意見を述べたり抗議したりするとデマゴーグ(扇動者)とみなされ逮捕され、拷問され、処刑された。社会主義国である我が国では、そのようなことをしてはいけないのです。経済や社会の法則を使いこなし、人間らしく問題を解決すべきです。
(宋慶齢の手紙)


これに対して毛沢東はとうぜん激怒。

台湾でも、香港でも、アメリカでも行きたいところへどうぞ。私は止めません。(毛沢東の言葉)


こうして宋慶齢は役職を解かてしまうのです。そして1967年以降、嵐のような文化大革命が中国全土に広がります。国家主席だった劉少奇も紅衛兵に罵倒され、やがてアメリカのスパイとののしられ投獄。そしてそのまま獄死。その理不尽さに政治の表舞台からきえていた慶齢が立ち上がります。毛沢東に手紙を送りました。

劉少奇同志は長年、党の指導者として尽力してきたのに、なぜ裏切り者扱いされなければならないのでしょう。むやみに人を逮捕し、つるしあげ、無残に死なせることは革命だといえるのでしょうか。自分たちの仲間や国民を傷つけることは犯罪です。


宋慶齢もアメリカのスパイ扱いをされ投獄されそうになりましたが、周恩来のはからいによって、それは免れたのです。毛沢東の死後、劉少奇の名誉は回復。劉少奇の未亡人だった王光美と宋慶齢は抱き合って喜びの涙を流したといいます。1981年6月、宋慶齢は亡くなりました。死の直前、宋慶齢は名誉主席とたたえられました。慶齢の遺骨は故郷上海による宋家の墓に収められました。共産党の幹部は慶齢の葬儀に姉妹や宋一族を招いたものの、参列する者は誰もいなかったといいます。彼女の葬儀に参列したのは共産党の関係者と軍隊ばかり。宋慶齢は国のために尽くしたのですが、さみしい晩年だなって・・・姉の死を台湾で聞いた美齢は何度も涙を流したといいます。姉の慶齢の写真を美齢は自分が亡くなるまで飾っていたといいます。立場的には対立していたけれど、同じ血が流れている肉親同志。

宋美齢はやがて台湾を離れ、晩年はアメリカで過ごしたといいます。晩年、美齢は台湾の若者のアメリカ留学を支援する活動をしました。私財を投じて奨学金をあたえ、海外で学ぶチャンスを若者に与えたのです。その若者の一人が今の台湾の総統である蔡英文です。

※この記事は『映像の世紀』を参考にして書きました

今年は良い年になるとよいですね。昨年はコロナ禍でしたからね。今年最初のエントリーは中国の話です。毛沢東夫人の江青です。文化大革命で4人組の一人として非常に評判の悪い女性として有名です。

江青はもともとは上海映画界の女優でしたが、藍蘋(ランピン)という芸名を名乗っておりましたが、女優としては大成せず、それどころか不倫スキャンダルで映画の仕事もなくなってしまったのです。江青は、逃げるように上海から1300キロ離れた延安に行ったのです。そこには共産党が国民党の弾圧から逃れるように潜んでいたのです。共産党は自分たちの支持を得るにはまず農民たちだと考え、農民たちに共産主義のすばらしさを説いたのです。しかし、農民は識字率が低かったので、小難しい共産主義の理論など伝わるはずがありません。僕もマルクスの『資本論』を読んだのですがちんぷんかんぷんで。まあ、資本家や経営者が悪い!俺たち労働者が正しいと言っているのはなんとなく伝わりましたがw

それで役立ったのが江青。江青は売れなかったとはいえ女優。共産主義のすばらしさを説く演劇を演じたのですね。江青は演劇の指導も行ったといいます。その江青は毛沢東と恋をするのです。しかし、毛沢東には妻がいたのですね。江青はなんと、毛沢東の妻が療養で留守にしている間に、毛沢東に接近。いわゆる略奪愛をしたのですね。毛沢東も毛沢東で、江青を気に入り、妻を追い出して、江青と結婚したいといいだしたのですね。すると周恩来ら共産党の幹部たちは大反対。

しかし、毛沢東は譲りません。江青と結婚できなければ、おれは共産党をやめる!って駄々をこねたのですね。子供みたいですね。さすがにそれはこまると思ったのが幹部たち。幹部たちは江青に条件を付けたうえで結婚を許しました。

今後、江青が公に毛沢東夫人を名乗らない事。そしてその地位を利用して政治に参加しない事。



この約束は戦後になって破られてしまうのですね・・・


戦後、共産党は中国を仕切るようになりましたが、毛沢東の大躍進政策の失敗により政治的に遠ざけられてしまったのです。毛沢東に代わって中国の政治を担ったのが劉少奇。劉少奇をささえたのが妻の王光美。英語、フランス語、ロシア語が堪能で夫の通訳をして夫を支えました。王光美の優雅なふるまいに世界的にも評価が高かったのです。そんな王光美に嫉妬の念をたぎらせたのが江青。また毛沢東も毛沢東で劉少奇から権力を奪い返そうと虎視眈々とチャンスを待っていたのです。毛沢東は江青にひそかに劉少奇を陥れいれる策略を命じたのです。江青は王光美が憎かったので、毛沢東の命令をあっさり承知。江青は全国の大学を回り、講演を行い、毛沢東が若者のために新たな改革をしたいと考えている事を伝えたり、劉少奇の悪口を言いまくったのですね。無知な学生たちを味方につけたかったのでしょう。そうした江青に扇動された学生たちは紅衛兵となったのです。文化大革命のはじまりです。文化大革命で紅衛兵は知識人や教師や自分の親まで攻撃したのですね。

その文化大革命で一万人もの人間が命を失ったといいます・・・・


そして、文革の波は劉少奇夫妻にも及びました。江青は学生らの前で涙を流して王光美を批判。


王光美は外遊の際、私の進言を無視しネックレスをつけた。これはブルジョワ的なものだ。なんと悪い女だ。


王光美の批判大会になんと30万人もの紅衛兵が集まったというのです。王光美はその会場に引きずりだされ、紅衛兵たちはピンポン玉でネックレスを作り、そのネックレスをかけて罵倒したといいます。アメリカのスパイという濡れ衣を着せられ、なんと12年間も王光美は投獄されてしまうのですね・・・

国家主席の劉少奇も紅衛兵たちに罵倒され、共産党の裏切り者として除名され、捕らえられてしまいます。劉少奇は獄中で亡くなってしまうのです。そんな文革の嵐が吹く中で、ニクソン大統領が中国に電撃訪問。そのころ体調を崩していた毛沢東に代わって江青がニクソンのホスト役を務めました。世界の目がに自分に向いている。江青は得意になっていたのです。しかし、夫の毛沢東が1976年に亡くなってしまいます。江青はこの時、最高権力者になろうとたくらんでいたのです。江青を中心に4人組を結成していたのです。

かつて中国は西太后のような女帝が君臨した時代がありました。共産主義においても女性の指導者が必要です。男は位を譲り、女がこの国を管理すべきです。(江青の言葉)


中国では伝統的に女は政治に口出しするなという考え方が根強かったのですね。そんな常識に江青は苦々しく思っていたのでしょう。ルーマニアの独裁者だったニコラエ・チャウシェスク夫妻が中国に訪れたことがありまして、チャウシェスクの奥さんに江青が「女性ももっと政治にかかわるべきです」と伝えたほど。

しかし、先手を打ったのが毛沢東のやり方に不満を抱いていた党幹部たち。党幹部たちは江青ら4人組を突然逮捕。江青は文化大革命を起こし、国を大きな混乱に陥れたとして罪に問われたのです。江青の裁判には、釈放されたばかりの王光美の姿もあったといいます。


江青はこの裁判においても、自分の正しさを主張し、劉少奇は裏切り者だと批判。そして江青は死刑が決定。江青は死刑が執行される前に自ら命を落としました。遺書をのこして。

毛主席、愛しています。あなたの生徒、あなたの戦友が、いま会いに行きます。(江青の遺書)


そして劉少奇の名誉は回復されたのです。

※この記事は『映像の世紀』を参考にして書きました。






「渡る世間は鬼はなし」って言葉があります。世の中には鬼のように無情な人ばかりでなく、親切で人情に厚い人もいるということのたとえです。実際は鬼の方が圧倒的に多くて、親切で情に厚い人を探すのは難しい気がするのですがw、それはともかく、「鬼」っていうと悪いイメージがあります。また、鬼というと、虎のパンツで筋骨隆々で、おっかない顔のイメージがあります。いかにも強そうな感じですね。「桃太郎」とか「一寸法師」とかの昔話でも、鬼はラスボスのイメージですね。仕事の鬼という言葉がありますが、これはすごい仕事ができる人のことを言いますね。また、最近の若者よく「鬼」という言葉を使い、「鬼リピ」(鬼のようにリピートする)とか、「鬼やば」(とてもヤバい)みたいに使います。ここでは鬼ってすごいってイメージですね。いづれにせよ鬼は強いというニュアンスから、このような言葉が生まれたのだと思います。

この「鬼」という文字も中国から伝わりました。鬼の原点も古代中国です。しかし、古代中国における鬼は我々が考える鬼とはちょっと違うのですね。中国語の「鬼」は本来は人が死んだ後になるものという意味で、日本語でいうと「幽霊」に近いニュアンスです。現代でも人がなくなると鬼籍って言いますよね。その鬼籍もここからきているのです。

中国語の「鬼」は特に女性の幽霊のイメージがあるようです。古代中国の家制度で、未婚の女性が亡くなるとお墓にちゃんと入れてもらえなかったのですね。つまり女は結婚してやっと一人前。SDGSとかLGBTの現代では考えられないような女性差別ですが、そのため未婚で亡くなった女性の霊はこの世に未練を残してしまうと。それで男を探しに生きている男の前に現れると考えられたのです。

それが鬼は日本に渡って、いつの間にか得体の知れないものってイメージになったのですね。鬼が初めて登場するのは『日本書紀』。飛鳥時代、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅と別れておりましたが、日本は百済と友好国で、その百済を助けるべく日本も立ち上がったのです。時の天皇、斉明天皇自ら出陣し、京から九州に向かったのですが、しかし九州にあった朝倉宮で斉明天皇は突然病死。その時の『日本書紀』の記述。

「朝倉山の上に鬼ありて大笠を着て、喪のよそおいを臨み視る」

なんと、朝倉山の上に大きな鬼がいて、大きな笠を被っていて、鬼が天皇の葬儀を見ていたというのです。怖いですね。見ているだけで悪さをしたわけじゃないのですね。また『日本書紀」には「鬼神」と書いて「かみ」とまで読ませていたのですね。ここでは鬼は悪さをするというより、人智を超えたものというイメージですね。

そして奈良時代になると『出雲国風土記』には鬼が人を襲うって記述があるのです。島根県の阿用というところがあるのですが、ここに一つ目の鬼が現れ人間を殺したというのです。その鬼が殺された人が亡くなる際に「あよ、あよ」って言ってなくなったとか。それから、この地は阿用の郷と呼ばれるになったのです。実は、この地はタタラ製鉄が盛んで、製鉄の作業中に、作業員が片目を潰してしまったと。それでタタラの民は目が一つだと。タタラの人というと「もののけ姫」を連想します。タタラの民は人を襲うどころか、真面目に生きてきたのに、朝廷から悪魔のように言われた、まあ言ってみれば差別ですね。

おそらく朝廷は鉄が欲しかったから、タタラの民を鬼と言って悪者扱いしたのでしょう。正義の朝廷からが悪い鬼(タタラの民)をやっつけて困っている村人を救うんだ、なんて感じでタタラの地を侵略したのですね。なんだか、どっちが鬼だかわかりませんがw、かつてのイラク戦争のようなことが起こっていたのですね。あの戦争もイラクのフセイン大統領を大量破壊兵器を隠し持つ悪い独裁者をやっつけろ見たいな感じでしたが、結局は石油の利権でしたから。

また、山賊だとか海賊だとか、そういうものたちのことを鬼と呼ぶようになったのですね。だんだん、鬼が野蛮で悪い奴ってイメージが出てきたのですね。

平安時代になると都に百鬼夜行が現れたそうです。百鬼夜行とは、訳もわからぬ化け物や妖怪たちがうじゃうじゃ練り歩くことです。その姿はなんとも恐ろしげです。その百鬼夜行が現れる日は毎月決まっていて1月と2月 は子(ね)の日、3月と4月は 午(うま)の日という具合に。百鬼夜行を見たものは死んでしまうという言い伝えもあり、そのため百鬼夜行に会うと大変だということで、その百鬼夜行が現れる日は貴族は外出を控えたと言います。百鬼夜行は一条大路と二条大路あたりに出没するのです。そこは天皇が住む大内裏の周辺。その正体は、貴族から見た身分が低い者たち。貴族にとっては、それは排除すべきもの、異物だという感覚だったのです。今でいえば負け組とか底辺の人たち。要するに貴族はそいういった人たちを妖怪とみなし見下していたのですね。

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(百鬼夜行の絵 Wikipediaより)

*この記事は「ダーク・サイドミステリー」を参考にして書きました。

1 反中共だった岸信介
明日は天安門事件です。早いものでもう三十年以上経つのですね。痛ましい事件でした。当時、僕は中学生したが、一般市民に銃を向ける当時の中国の恐ろしさにゾッとしたものです。中国当局は犠牲者は三百人くらいだと発表しておりますが、実際はもっといただろうと。下手すりゃ一万人くらいいたんじゃないかって説もあるほど。あれから中国はめざましい経済発展を続けておりますが、今なお中国共産党による独裁政治を続けております。

また台湾を巡って中国との緊張も高まり、日本でも中国の脅威を訴え、憲法を改正しようという声も上がっております。今の岸田総理が中国に対して宥和的ユウワテキな態度なので、対中強硬派の安倍晋三元総理が今なお根強い人気があるようです。では、安倍晋三元総理の祖父である岸信介は中国との関係について、どのように考えていたのでしょう?

岸信介が総理だった頃の中国は、大陸とは国交がなく、蒋介石率いる台湾と国交を結んでおりました。岸信介は台湾との関係を非常に重視していましたから、岸内閣時代は日中関係が最悪だったと言います。ちなみに、岸の次の池田勇人内閣では台湾との間でギクシャクします。池田内閣は中国との関係を持とうとする一方で、台湾と距離を置こうとした。そのことで蒋介石を怒らせてしまったとか。この池田内閣での中国に対する取り組みが、のちの田中角栄内閣による日中国交回復につながるのですが。

ともあれ、中国共産党は、岸に対して敵視していたのですね。中国が「岸内閣が米国と結託し、中国人民を敵視している陰謀に対して、極めて憤慨をおぼえずに居られない」(1958年11月19日、当時の中国の外交部長の声明)。それに対し岸信介は「トンと身に覚えのない話」と切って捨てております。さらに岸は「だいたい共産党員というものは、人間の誠実さとか善意の通用しない、我々の頭の中にある“人間“には当てはまらない連中だとは思っていたが、中共首脳の発言は全く理解に苦しむものであった」(※1)と断じていました。

2 政経分離
一方で岸信介といえども中国との関係を全く無視することができず、「政経分離」を考えていたのです。政治上では付き合いたくないが、経済の面ではお付き合いしましょうということでしょう。また岸も経済だけでなく、「文化的にも過去に日本と密接な関係を持ってきたから、そこの人民と友好を図るのは望ましい」という考えを持っていたのです。つまり、岸は中共は嫌いだが、人民には罪はないということでしょう。

経済的な結びつきの一環として昭和30年(1955)10月に大阪で中国の見本市が行われましたが、そこで揉め事があったのですね。見本市は二ヶ月以内との約束でしたが、中共関係者は開催前の準備と終了後の残務整理があるから、「二ヶ月では短い、さらに三週間延長してほしい」と要求したのですね。それで日本政府は関係者の指紋の押印を頼んだが、中共はそれを拒否。

当時の日本の法律(外国人登録法)では、政府の公務員及び国際間の公務を帯びる者を除き、外国人の滞在が二ヶ月を超える場合は指紋の捺印を押さなければならない決まりになっております。それは、どこの国であっても例外ではありません。当時の政府は苦慮しましたが、結局、政府は見本市の関係者は指紋の押印をしなくて良いと判断したのです。

見本市は各国政府が援助している国際的な組織とみなすべきで、国際貿易の増大に寄与しており、その行事の国際的意義も認めたれている。従って、見本市の関係者は、我が国の外国人登録法の適用外だから、押印は必要ないとのことです。もちろん、こうした特権を与えたことに対し、批判の声も上がったのですね。ましてや中国とは国交がなかったので。このような特権を上げればますます中共はつけあがるし、台湾も怒ってしまうと。しかし、そのようなリスクを踏まえた上で、見本市なら指紋の押印しなくて良いと岸内閣においても閣議で認められたのですね。


昭和三十年代はまだ中国と正式な国交はなかったのですが、自民党のイケショウこと池田正之輔イケダマサノスケが中心になって中国との貿易交渉に当たっていたのですね。1953年以来、訪中団を率いて数度も中国に訪れたそうです。1958年に第四次通商協定を結ぶなど、日中貿易にも貢献したのですね。こうして政治的にはともかく、経済の面では着々と交流が進んだのですね。とはいえ、国交がなかったので、民間レベルの細々とした貿易でしたが。政治では台湾、経済では中国と付き合うという、どっちつかずな態度を取れば、台湾と中共の双方の反発を招いてしまうと岸は考えました。それで岸は、日本の立場を誠実に訴えたと言いますが、なかなか納得してもらえず苦労したのとこと。

特に台湾の蒋介石は、大陸反抗政策をとっており、中共と激しく対立していたから余計です。蒋介石はマジで中国に攻め込もうとしていたのですね。今も台湾との関係に緊張が走っておりますが、この時代も中台関係はやばかったのです。岸が蒋介石にあった時、「軍事行動は不可能に近いから、それより台湾に理想的な国家を作るべき。そうすれば蒋介石の政治が宣伝となって、大陸を追い詰めることができる」と持ちかけたと言います。すごいですね。かつての李登輝や今の蔡英文総統がやっていることを先駆けてやりなさいと提案しているのだから。すると蒋介石は「そんな生やさしいやり方ではダメだ」と反発したとか。

3 長崎国旗事件
さて、岸が総理の時に事件がありました。長崎国旗事件です。1958年の5月2日に長崎で起きた事件です。長崎にあるデパートの催事会場で、日中友好協会長崎支部の主催により、「中国切手、切り絵展示会」が開かれていたのです。会場の入り口には中国側の国旗が飾られていたのです。中国政府の国旗🇨🇳が飾られてたこと対して、台湾側は怒ったそうです。台湾の領事館も「日本と国府(台湾)との友好関係に悪影響を与える」と警告。


そして事件が起こりました。右翼団体に所属する日本人の青年が会場に展示された中国国旗を引きずり下ろして毀損キソンしたといいます。一応、警察は青年を逮捕しましたが、すぐ釈放されました。中国側は、警察の処理の仕方がけしからんと激怒したと言います。岸信介もそのことで中国から批判されましたが、岸は「法律的にアレを国旗として認めるわけじゃないから、釈放させるしかなかった」と回想しております。確かに刑法に外国国章損壊罪という罪があるのですが、その保護すべき国旗とはその国を象徴するものとして掲げられた公式の国旗のみなんですね。引きずり降ろされた旗は会場の装飾品であり、いわば運動会で使う万国旗みたいなもの。中国政府の正式な国旗ではないのですね。さらに中国とは国交もなかったので尚更でしょう。

さらに中国政府はこの事件が起こってすぐさま、社会党を選挙支援しただけでなく、日中貿易を全面的に停止する処置を取ったのです。第四次通商協定も破棄されたのです。この事件のすぐ後に総選挙(1958年5月22日)があったのですが、長崎国旗事件の影響はなく、自民党は大勝しました。

*1 『岸信介回顧録』(p365)より

* 参考文献
岸信介回顧録―保守合同と安保改定
岸 信介
広済堂出版
1983-01-01



岸信介証言録 (中公文庫)
中央公論新社
2014-11-21

最近、「ドラゴン桜2」を見ました。去年放送したものですが、リアルタイムでは見ていないので、CSでやった再放送を今更ながら見させていただきました。阿部寛さんの演技もすごかったけれど、こども店長だった加藤清史郎さんが生徒役としてご出演されたことに驚きました。ちょっと前までかわいらし子供だったと思っていたのに、今ではイケメンの好青年に。月日の流れの早いこと。自分も歳をとるわけだw個人的には、江口のり子さんが演じられた学園の理事長が印象に残りました。ちょっと怖いけれど、生徒思いで根は優しい理事長を見事に演じられました。理事長の「大人の都合で、子供を振り回すことは絶対に許さない」というセリフにはしびれました。僕も見ているうちに、この歳で東大受験しようかなw?なんて思ったほどw影響されやすいんですねw

しかし、東大といえば、最難関。入学試験も大変難しいです。僕もためしに図書館で、東大の日本史を借りて、問題にチャレンジしたのですが、チンプンカンプン。受験生も大変な思いで勉強しているかと思います。受験といえば、昔の中国でも大変でした。

昔の中国には科挙という役人の任用試験がありました。科挙の出題科目は、四書五経。それから美しい詩や名文を書くことまで求められたのです。役人に詩や文学のスキルまで本当に必要なのかって思うのですが、その点の問題点は後でお話しします。


四書とは「大学」「中庸」「論語」「孟子」。五経とは、「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」で儒教で一番大切な五つの経典です。試験は宋代は論文が中心でしたが、明や清の時代になると、四書五経に書かれた一字一句を正確に答えることが求められました。そのため、下着に儒教の経典の文字を細かい字でびっしり書いた受験生もいたようです。いわゆるカンニングですねw

では具体的に科挙はどのように行われたのでしょうか。宋代の科挙を例にとると、科挙は三段階に分かれていました。まずは地方で第一次試験がおこわなれ、それに合格したものが都の開封で第二次試験、その試験に合格すると、皇帝自らが出題するペーパーテスト。これに合格するとはれて役人になれるのです。皇帝自らというぐらいだから面接かと思われがちですが、違うようです。でも、皇帝が見ている前で試験を受けるなんて緊張しますよね。

しかし、こうした科挙の制度は、時代が下るにつれて大きくなっていったのです。科挙に合格した役人のたちは、文章や詩文のうまさといった教養のみを君子の条件として貴び、現実の社会問題を軽視していたのですね。そのため、治山治水など政治や経済の実務や人民の生活には無能・無関心であることを自慢する始末であった。これを象徴する詞として「ただ読書のみが崇く、それ以外は全て卑しい」と。しかし、役人になると現実のいろいろな難しい問題が出てくるんです。いくら美しい詩が作れても、計算ができなかったり、災害が起こったときに有効な手段が取れなくては意味がありません。実際、宋の時代は度々他国から攻められたのですが、その度に有効な手段が取れず、宋はどんどん弱体化していったのですね。




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