history日誌

カテゴリ: 中国・台湾の歴史

1 李登輝が亡くなった年
 今年は、志村けんさんや岡江久美子さん、野村克也さん、弘田三枝子さん他たくさんの有名な方がお亡くなりになりました。この場を借りてお悔やみを申し上げます。あと、今年は台湾の偉大な政治家李登輝氏が亡くなった年でもありました。彼は台湾の民主化を進めた政治家として名高い人物で、日本ともかかわりの大きい人でありました。

僕も彼の本は何冊か読んだことがあります。

李登輝元総統はたびたび日本に訪れました。総統退任後は持病の治療や講演、観光などの目的で計9回、日本に足を運んだといいます。特に2000年の訪日には中国から「李登輝を日本に入国させるな」という圧力があったそうですが、時の総理の森喜朗元総理がビザを発行したのですね。今年の李登輝氏の葬儀にも森元総理も駆けつけました。

2 農業博士だった李登輝
 さて、今年はコロナで大変な年になりました。今日東京でも1000人も感染したとか恐ろしいことになっております。僕も他人事ではありまえん。もしかしたら自分も感染しているんじゃないかくらいの気持ちを持ったほうが良いのかもしれません。

僕は医学的なことは全く分かりませんが、健康の基本は食だと思うんです。食といえば、李登輝も「食」に関しては大変熱心な取り組みをしました。李登輝は政治家であると同時に農業学者という顔も持っておりました。彼は反中国のプロパガンダ的存在のように思われがちですが、むしろ政治家というより優れた学識の持ち主といったほうが近いと思います。


李登輝氏が総統になって真っ先に取り組んだのは疲弊した農業をどう立て直すかでした。年1回しか収穫できないサトウキビに代わり、園芸作物や熱帯果樹、畜産に舵を切ったといいます。

畜産では台湾牛生産のためにサトウキビ畑を牧草地に切り替え、30万頭の養豚にも取り組みました。熱帯果樹では、八重山はマンゴーやレンブ、釈迦頭などの栽培に成功し、李氏の農業改革の恩恵を存分に受けたといいます。

また、李登輝はダムをつくって農業の生産量を上げたりしておりました。

 

3 抑えつけるのが権力の維持だという思い違い

李登輝は沖縄にも訪れましたが、その時このような話を述べたといいます。

「サトウキビは途上国や植民地に見られるプランテーション型の作物です。権力者は、民が貧しい方が治めやすい。抑えつけているのが権力の維持だと思い違いしている人が、今の政治家には多いです。思うに、サトウキビで豊かになった国は一国もないです。サトウキビは全世界で1億5千万点源困気譟⊂暖颪22%、78%が余剰なんです」

サトウキビの知識だけでなく、その歴史的背景までパッと出るところ当たり、李登輝の学識に驚かされます。

かつて琉球王国も島津藩からサトウキビから得られる収入を搾取されておりましたし、アメリカの黒人奴隷の話をみてもそれは明らかです。黒人にサトウキビ労働でこき使い、そうして得た収入を白人は搾取していたのですね。

民が貧しいほうが治めやすいというのは言えてると思います。一概に言えませんが、独裁者がいつまでも権力を握っている国は貧しい国が多いです。北朝鮮しかり、かつての中国もそうでした。毛沢東が権力を握っていたころの中国は本当に国民が貧しかったし、今は経済成長が著しいですが、その一方で貧富の差も激しい。

また、抑えつければ権力が維持できるわけではないのです。むしろ、抑えようとすればするほど、それに反発する動きがでてきて、下手すれば独裁者を倒す動きにまで発展する。台湾も長く戒厳令が敷かれておりました。 普通戒厳令とは、震災とか特別な時に一時行われるものですが、台湾のように長く行われたのは歴史上ないそうです。戒厳令が敷かれた台湾では、中華民国の秘密警察が、人を密告が奨励され、密告をしなかったものも逮捕されたというヒドイ時代でした。そんなんだから、台湾でも激しい民主化運動がおこりました。そうした民主化運動の積み重ねが李登輝総統の誕生につながったし、中国でも度々民主化運動が起こっております。今年、香港で民主運動家が逮捕されたのは記憶に新しいです。

「ドラえもん」にもそういう話が出てくるのですね。のび太がドラえもんの道具を使って「のび太王国」という国をつくるのですね。のび太はロボットの警察を操って、ドラえもんやジャイアンや出木杉など仲間を監視したり、こき使ったりしてきたが、怒ったドラえもんが反乱を起こしたという話。



4 後藤新平
 李登輝がここまで農業に関心をもったのは、日本での留学経験が大きいといわれております。李登輝は農業経済の専門家、新渡戸稲造を尊敬していたので、新渡戸が教えていた京大に進学したとも言われております。李登輝は新渡戸稲造と後藤新平の影響を受けたといいます。

後藤新平の話も出たので、後藤の話もちょっとさせていただきます。(新渡戸と李登輝の関係はまた別の機会に触れます)。後藤新平は医者だったこともあり、台湾の衛生問題に取り組み、当時台湾で流行っていたコレラの対策にもずいぶん取り組んだといいます。

予防接種を義務化し、上下水道の敷設を行い、伝染病の予防に寄与しました。衛生状況が悪かったので、後藤は衛生問題にとりくんだのですね。今日のコロナも清潔にすることが大事だといわれておりますしね。また、後藤は教育の充実を図り、医学校の創設も行い医療レベルを飛躍的に向上させたといいます。

李登輝が後藤新平から学んだことは、「人民が何を欲しているか」です。後藤は医者だったからこそ、生物学的に人民が何を欲しているかを知ろうとし、そのためには何をすべきかを考え、必要に応じて自分で法律を作ったりしたといいます。

5 クリスチャンだった李登輝


..李登輝はクリスチャンでもありました。彼のバックボーンにはキリスト教という信仰があったのです。彼が台湾省主席だったころ、東海大学(日本の東海大学とは別)で講演した内容をご紹介します。

「「私はキリスト教徒であります。個人的体験から見て聖書のなかの最も偉大な一字こそ「愛」であると思うのです。コリント前書第13章では、「愛」についての解釈は最も詳しく、そのなかで「愛は寛容であり・・・愛は誇らない、高ぶらない、無作法をしない、自分の利益を求めない、愛はいつまでも絶えることがない」






※ おまけ
今年はネズミ年。世界で最も愛されているネズミ、ミッキーマウスの動画をご紹介して、今年の僕のブログ更新を終わらせていただきます。来年は皆さんにとって良いお年になりますように。時期が時期だけに、お体にも気をつけて、なにとぞご自愛のほど。





https://hubokinawa.jp/archives/1347(参考サイト)

指導者とは何か (PHP文庫)
李 登輝
PHP研究所
2015-06-05

(参考文献) 

わが夫、溥儀―ラストエンペラーとの日々


前回の記事で取り上げた溥傑ふけつのお兄さんである溥儀ふぎにまつわるお話をします。溥儀ふぎには奥さんがいました。その人の名前を李淑賢り しゅくけん。といいましても溥儀は初婚ではありません。バツイチです。溥儀が満州の皇帝だったころ、婉容えんようというお妃がいました。そして、もう一人側室がいたそうです。で、婉容えんようと溥儀の二人の生活は最悪で、夫婦のすれ違いや自由のない生活のストレスが重なり婉容えんようもアヘン中毒にかかって、最後は狂人になって39歳の若さで亡くなってしまうのです。

で、李淑賢り しゅくけん の書いた本を読ませてもらいましたが、夫である溥儀ふぎに負けないくらい波乱に満ちた半生だったようです。

二人は結婚けっこんしてから大変な思いをしましたが、それでも夫との夫婦生活はとても充実じゅうじつしていて幸せだったことを知りました。そして溥儀ふぎが子供のような純粋な心を持ったやさしい人だということも理解できました。

李淑賢り しゅくけん は大変まずしい家庭に生まれ、少女時代は苦労をしたそうです。いちど結婚けっこんをしたが、最初の結婚はうまくいかず離婚りこんしたそうです。身分が違いすぎるとはいえ、最初の結婚生活がうまく行かなったところは溥儀と同じでした。

それから、バツイチの彼女の元に縁談えんだんが持ち上がりました。そのときの相手がラストエンペラーことruby>溥儀ふぎだったのです。

さいしょ、李淑賢り しゅくけんは最初の結婚生活でりている上に、「相手が自分とは身分がちがう人だから、結婚なんてとてもとても」と思っていたようです。


結局、元皇帝の溥儀ふぎと一般人である、李淑賢り しゅくけんは結婚をすることになりました。溥儀ふぎ皇帝こうていだったので、人にやってもらうことはあっても、自分で何かをするなんてことはありませんでした。だから、炊事すいじ(※1)だとか縫い物ぬいもの身支度みじたくなどが満足にできません。顔を洗うときも周りを水だらけにして、上着までびしょぬれにしちゃうほどだったとか。ご飯を食べるときもボロボロこぼしたといいます。

そんな溥儀ふぎを妻の李淑賢り しゅくけんはがんばって彼をサポートしました。まるでダメ亭主ていしゅとしっかり者の女房にょうぼうのようですが、それでも二人は幸せだったようです。

溥儀ふぎは妻の李淑賢り しゅくけんことを死ぬまで気づかったようです。溥儀ふぎ何不自由のない皇帝の生活よりも、平民で決して豊かとはいえないが、今の結婚生活のほうが幸せだと語っていたそうです。

しかし、そうした二人の幸せな生活も長くは続きません溥儀ふぎもガンにかかってしまったのです。しかも、溥儀ふぎが病気になった時期というのが、悪いことにちょうど文化大革命の真っ最中でした。昔、皇帝だったという理由と満州国皇帝として日本に協力したという理由で、満足な治療が受けられなかったそうです。

文化大革命というのは、毛沢東が党内で権力闘争をおこし、その余波が中国国民にも及んだ出来事です。それは、1965年から10年間続きました。この時期、先生だとか親だとかともかくエライ人がきらわれた時代でした。紅衛兵こうえいへい(※2)と呼ばれる若者達は、先生だとかエライ人たちをリンチしたのです。

https://www.youtube.com/watch?v=9DjOrC_PGWI&feature=youtube_gdata_player
(紅衛兵のことが出てくる動画)




※1 食物を煮たきして調理すること
※2 中華人民共和国の文化大革命時期に台頭した全国的な青年学生運動。毛沢東を支持し、教師だとか親だとか権威的なものを攻撃した。

  


  
  7年前の今日、東日本大震災がありました。年々、震災のことは風化しつつありますが、忘れてはいけない日です。僕も震災後からたびたび被災地に訪れたことがありますが、まだまだ復興は道半ば。特に原発事故のあった浪江町あたりはいまだ人も住めない状況で、7年前からずっと時計がとまったままのようでした。原発の事故で避難をした人たちもいまだに故郷に住めず、避難先でいじめにあっているという話も伺っております。僕の遠い親戚も福島県の小高町に住んでいましたが、原発事故以降住み慣れた故郷を離れ、いまも避難生活を余儀なくされていると聞いております。

改めて震災で亡くなった人たちのご冥福をお祈りいたします。

さて、震災直後台湾から200億円を超える義援金が届いたといいます。すごいですね!謝謝ですね。

このように台湾の人たちは隣人が困ったら助けてあげるという倫理観があるようですね。それと、台湾の人たちが日本人の勤勉さ、まじめさに敬意を称もっていること、哈日族(ハーリージュー)とよばれる人たちが多いこともあげられます。哈日族とは、日本の文化、たとえばアニメだとかゲームだとかファッションだとか、歌舞伎だとか能だとか伝統文化に興味をもったりするような人のことです。また、テレサ・テンさんをはじめ、ジュディ・オングさんやオーヤン・フィーフィーさん、僕の世代には懐かしいブラック・ビスケッツのビビアン・スーさんたちの日本でのご活躍も台湾の人たちには励みでもあり、誇りでもあるのではないでしょうか。



また、テレサ・テンさんのお兄さまのフランク・テンさんも280万円も震災後寄付をされたそうです。
フランク・テンさんは「被災者の方々が早く困難を克服し、災害に打ち勝ち、住まいを建て直されるようお祈りしています」とコメントされたそうです。フランクさんは妹が日本でお世話になったから、その日本に何か恩返しをしようと思われたのかもしれません。すばらしいことです。

震災といえば、僕がテレサ・テンさんの記事を書き始めてから数日後に台湾で大きな地震がありました。2月6日の出来事です。


  

この地震で17人が亡くなられたそうです・・・・花蓮市内では、7階建てのマーシャルホテル(統帥大飯店)や、12階建てのビル、そのほかに民家41棟が倒壊する被害が発生したといいます。ライフラインでは停電1,336戸、断水100戸の被害となっているとのことです・・・

日本からは、安倍総理が動画で手書きで応援メッセージを寄せ、激励する動画を公開した他、外国で唯一、国際緊急援助隊専門家チームを派遣したそうです。2月12日に行われた世論調査では、台湾に最も思いを寄せた国はどこだと思うかという設問で、日本との回答が75.8%に達し、2位の中国(同1.8%)を大きく引き離したといいます。また、阿部寛さんをはじめ多くの芸能人や著名人の方々も台湾の支援をされたそうです。



また、東北でも台湾の人たちを支援しようという動きがありました。以下、新聞の記事から引用します。

6日に発生した台湾東部の地震を受け、東日本大震災で被災し台湾から多額の支援を受けた宮城県南三陸町と、町内の復興商店街は8日、地震被災地の支援に役立ててもらおうと募金活動を始めた。

町は震災で被災し2015年12月に再建された町立南三陸病院の建設費として、台湾紅十字組織から約22億円を寄付を受けた。復興支援をきっかけに台湾から400人以上の高校生が町へ教育旅行に訪れたり、大学生が町内の観光施設でインターンシップを行ったりして交流を深めている。(略)

町内では16年2月に起きた台湾南部の地震の際にも学校や企業が募金活動を行い、約614万円の義援金を送った。
『河北新報』

また、ある方は「自宅が津波で被災した経験があり、今回の地震(2018年2月6日の台湾地震)の被害を知ってとても心配している。寄付金を現地で必要なものに使ってほしい」とコメントされております。


今回の台湾震災で亡くなられた人たちのご冥福をお祈りするとともに、東北や台湾の復興をお祈りいたします。そして、日本と台湾の友好に多大な貢献をされたテレサ・テンさんに敬意を表します。


※ おまけ
テレサ・テンさんの歌を聴きながらお別れしましょう。曲は「月亮代表我的心」。すべて中国語(北京語)で歌われております。

https://www.youtube.com/watch?v=hj4bnnek9MU
(↑クリックすると動画がでてきます)

1 「香港」を歌唱中に泣いたテレサ
   テレサ・テンさんの歌で「香港」という歌があります。1989年につくられた曲で、エキゾチックな曲調の歌です。個人的な話になりますが、この「香港」は、テレサ・テンさんの歌のなかで僕が一番好きな歌で時々カラオケで歌います。でも、カラオケでこの歌をDAMの精密採点で採点してもらっても毎回60点台と低い点数なんですwちゃんと音程通りに歌ったつもりなんだけどw、「つもり」ではダメなんですねw(「時の流れに身をまかせ」を歌ったほうが点数が高く、80点台をだせるのに) 1989年といえば中国に香港が返還されることが決まった年です(実際に返還されたのが1997年)。

その香港返還を記念して作られた曲らしいのです。この年に放映された日本の歌謡番組にテレサさんは香港からの中継でご出演されました。1989年当時のテレサさんは香港を拠点にしておりました。そして、「香港」を歌ったのですが、歌っている最中に泣き出してしまうのです。彼女はなぜ泣いたのでしょう? それは本人に聞いてみないとわかりません。けれど、彼女が泣いたのは1989年6月4日におきた天安門事件と何らかの関係がありそうです。

2 天安門事件
 
  この事件は胡耀邦こようほう総書記の死をきっかけに、北京の天安門広場にあつまった数万の学生たちが「独裁打倒、官僚主義反対」をさけびました。すると、共産党は、こうした事態が全国に広がることを恐れて、「動乱」として徹底的に弾圧することを決めました。人民解放軍は民主化を要求する学生や市民たちに発砲をしたのです。人民を守るはずの人民解放軍が罪のない市民に銃口を向けたのです。

当時中学生だった僕もこの事件はショックでしたね。 そもそも、学生や市民たちは一昔前の学生運動みたいに火炎ビンをもって暴れたりしませんでした。むしろ穏健なデモでした。それにもかかわらず人民解放軍の装甲車が市民をひき殺したことで、大きな動乱になったのです。テレサさんは天安門事件のことで、ひどく心を痛めておりました。テレサさんは中国の民主化をかねてから願っておりました。しかし、香港が中国に返還されたとしても、香港で政府による弾圧が起こるかもわからない。果たして香港返還は、香港で暮らしている人々にとって果たして幸せなことなのか?そんなことがテレサさんの脳裏に浮かんだのかもしれない・・・

3 私の家は山の向こう
 
 天安門事件がおこる一週間前の5月27日。香港のハッピーヴァレー競馬場で中国の民主化を支援するコンサートが開かれました。ジャッキー・チェンも出演するなど豪華な顔ぶれでした。そのコンサートには30万人もの市民がつめかけました。そこにテレサさんも出演されました。テレサさんは「民主万歳」と書いたハチマキをしめ、表には「反対軍管」、裏には「我愛民主」と書かれたゼッケンを身に着けておりました。軍事独裁を許さない、私は民主主義を愛するというテレサさんの強い意志が伝わります。

テレサさんはマジで中国の民主化を願っていたのですね。実際、テレサさんは「歌で中国人の心をひとつにしたいんです」と親しい知人に語られていたそうですから。 僕はテレサさんというと穏やかなイメージしかなかったのですが、ここまで強い人で政治色の強い方だったとは思いませんでした。


そしてテレサさんが歌ったのが「私の家は山の向こう」でした。「松花江上」という歌をもとに、大陸から台湾に逃げてきた兵士たちが1960年代に歌詞をかえて歌った歌でした。 その後、テレサさんは香港を去り、フランスのパリに移住をします。まさに「香港」の歌詞のとおり、銀色の翼にのって異国に旅立ったのですね。

4 恋人との出会いそしてテレサの死
 
  そしてフランスに移り住んだテレサさんですが、そこで、フランス人男性出会います。彼とは亡くなるまで交際を続けたといいます。もちろん二人は価値観や生活習慣の違いからしばしばケンカもしたそうです。が、ケンカするほど仲が良いという事か、二人の関係はテレサさんがなくなるまで続きました。

まもなくテレサさんはタイのチェンマイで生活するようになります。1993年には「あなたと共に生きてゆく」をリリースします。この歌の作詞はZARDの坂井泉水さん、作曲は織田哲郎さんという豪華なメンバーです。ヒットしませんでしたが、とてもいい歌です。この曲はテレサさんのオリジナル楽曲としては生前最後のシングルとなりました。


そして、テレサさんも次第に体調をくずし、この歌をリリースした2年後の1995年5月8日にテレサ・テンんさんはなくなります。テレサさんの死は多くの人に衝撃を与えました。テレサさんの死は世界中で報じられ、一時はテレサさんの歌声を禁じた中国のマスコミでも大きく取り上げられ、北京大学でもテレサさんを追悼する看板が立てられたそうです。 台湾でも日本でいう国民栄誉賞のような賞が与えられました。芸能人でこの賞を授与されたのはテレサさんがはじめてだそうです。


テレサさんは、台湾、日本、香港、フランス、アメリカ、タイと世界のあちこちを飛び回りましたが、インタビューではいつも「わたしはチャイニーズです。世界のどこにいても、どこで生活しても私はチャイニーズです」と答えていたそうです。波乱に満ちた人生でしたが、彼女が残した歌は今も多くの人々に親しまれております。


※ 参考文献
これならわかる台湾の歴史Q&A
三橋 広夫
大月書店
2012-05-01



 前回はテレサさんが日本でのご活躍をお話ししましたが、今日は時代を少しさかのぼります。日本に再来日する前のテレサさんのお話からはじめます。1980年にアメリカから台湾に帰国したテレサ・テンさんは、まっさきに中国との国境の島、金門島きんもんとうを訪れました。そして兵士たちと歌を合唱し、大陸にむかって「『何日君再来』をいっしょに歌ってください」とよびかけました。台湾の国民政府は、中国でも人気を博していたテレサさんを利用したのでした。

この「何日君再来」は1937年に映画の挿入歌としてつくられました。酒場の踊り子が、一人の抗日青年に思いを寄せつつ、その青年が作戦を成功させて次の任地に移っていくときに歌う、別れの歌でした。それを日本のレコード会社が日本語の歌詞をつけて発売し、広く知られました。しかし、日本軍は中国の抗日ソングだということで、この歌を歌うことを禁じました。戦争後は台湾の国民政府が、この歌の「君」は日本軍のことで、日本軍を懐かしむ歌だということで歌うことが禁じられました。

中国では文化大革命の混乱が収拾にむかい、改革開放政策がおしすすめられました。改革開放政策とは、中国は社会主義の国でありながら、資本主義の良いところも取り入れていこう政策です。海外の情報や文化も様々なルートから入ってくるようになりました。当時の中国人たちは、文化大革命の混乱でほとほと疲れていたので、平和におだやかにすごしたいという気持ちを強くおもっていました。そんなときにテレサさんの「何日君再来」のやさしい歌が当時の中国人たちに響いたのでしょう。

中国共産党は、これほど親しまれたこの歌を、革命精神を堕落させる歌だとして禁止しました。しかし、人々はそれでも、平気でこの歌を歌ったり聴いたりしていました。「小圧倒老」(かわいいが年老いたを負かした)などという人もいました。小平とうしょうへいによって、この歌は禁じられても、みんなテレサのことを愛し、逆に小平のことを煙たがっていたということでしょう。

その後、中国も胡耀邦こようほうが実験をにぎると、テレサの名誉も回復され「何日君再来」も愛国の歌とされました。そればかりか、北京などでコンサートを開くようにひそかに招待されました。

「何日君再来」は日本軍にも、台湾の国民政府にも、そして中国共産党の幹部にも疎まれたいわくつきの歌ですが、この歌もやっと日の目をみるようになるのですね。そして、この曲はテレサさんの代表曲でもあり、現在も数多くの歌手や音楽家によって歌われたり、演奏されたりしております。




※ 参考文献

これならわかる台湾の歴史Q&A
三橋 広夫
大月書店
2012-05-01





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