history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

カテゴリ: アメリカの歴史

俺たちに明日はない [Blu-ray]
ジーン・ハックマン
ワーナー・ホーム・ビデオ
2010-04-21



学生時代に「俺たちに明日はない」という映画を見たことがあります。学生時代、先輩に勧められ見てみました。カップルのギャングで、銀行強盗と殺人を繰り返し、最後は悲惨な目に会うのですが。そのドラマティックなストーリーなのです。実はこの映画は実話をもとにしたものです。1930年代のアメリカで暴れ回ったボニー&クライド。その凄まじいほどの命懸けの恋でした。その二人の恋は100年近く経った今もミュージシャンの歌詞に登場します。ビョンセさんとか、斉藤和義さん、ジャニーズWESTに宇多田ヒカルさんの歌にも登場します。悪いこともしたけれど、若者たちにとって憧れの存在でもあったのです。

ボニーの本名はボニー・エリザベス・パーカー。1910年生まれ、彼女は大変真面目な少女だったそうです。その少女がなぜ凶悪な犯罪を犯すようになったのか?ボニーは父を幼い時に亡くし、祖母のいるテキサス州ダラス近郊に引っ越します。しかし、そこはスラム街で治安が悪く、ボニーの実家も貧しかったそうです。そんな環境でもボニーの学校の成績はトップクラス。性格も明るく犯罪を犯すタイプではなかったようです。ボニーは16歳で結婚、カフェのウェイトレスの仕事をしたのです。この頃のボニーは活発でよく働き、貧しい客には店のおごりにしたこともあったといいます。そんな最中、夫が銀行強盗の容疑で刑務所に入れられたのですね。それでボニーは離婚を考えたのですが、結局離婚届は出さず、籍はそのまま。法的にはボニーと夫との婚姻は生涯継続、つまり死ぬまでボニーは既婚者だったのですね。NHKの「ダークサイドミステリー」では夫と離婚したとなっているが、実際は違うようですね。

そんなボニーに変化が訪れます。1930年1月、運命の人と出逢います。クライド・チャンピオン・バロウ。小柄でイケメンな男性。しかも若くして高価な服を着て、車を乗り回す。そして何よりもクライドの危険な香りがボニーにとって魅力的だったのです。ボニーは一目惚れしたのです。ボニーはクライドとの出会いを母親にまくしたてました。よほど、惚れたのでしょうね

のちに、母はその時のボニーの様子をこのように回想しています。

「人生を変えるような出来事の多くがそうであるように、あっけないもの。それが運命の出会い」

恋に落ちたボニーはラブラブ。毎日のようにクライドとデートを重ね、愛を深めたのです。。ところが、一か月後、クライドは窃盗容疑で逮捕。実はクライドもスラムの出身で幼い頃から悪さを重ねた悪ガキだったのです。刑期は2年。ボニーはクライドが更生することを信じて手紙をクライド宛に送ったと言います。この頃のボニーはまさか自分がのちにクライドを悪さばかりするようになるとは思っていなかったでしょうね。

しかし、クライドは刑期をおとなしくじっとするような男ではありませんでした。なんとクライドはボニーに銃を持ってくるように要求。脱走したいと言うのです。クライドの更生を願うボニーは拒んだか?とんでもない、ボニーは刑務所にいるクライドに銃を渡したのです。そしてクライドは脱走。しかし、またも逮捕。懲役も14年に延長してしまったのです。

しかし、クライドは恩赦オンシャを受けて刑期が短縮され2年で仮釈放されたのです。しかし、クライドは更生することもなく、刑務所で仲良くなった者と共に再び犯罪に手を染めていたのです。強盗や殺害を繰り返し、ボニーに会う為にダラスに舞い戻ったのです。

ちなみにこの頃のボニーは強盗事件を起こしていたのですね。クライドに会えない寂しさから犯罪を犯したのかも。しかし証拠不十分で釈放になったのです。そして、クライドとボニーは再会。二人は刑務所で知りあった仲間も加えバロウギャングを結成。クライドギャング団は盗んだ車を乗り回し、銀行強盗や追ってきた警官を殺すなどの犯罪を重ねていました。その盗んだ車は1932年型フォードV8。これは時代を超え、今も愛される自動車です。1930年代は最新式の大衆車でした。フォードV8は大衆車の中で最高の速度と加速力を備えており、一味の周到な逃走計画とも相まって、警察の車では容易に追いつけなかったのですね。犯罪を犯しても、隣の州まで逃げ込めば、警察も管轄違いで追っかけることができません。


その後、ボニーとクライドは強盗や殺人を繰り返していくのです。そんな二人の運命は?後半に続来ます。


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今、ゴールデンウィーク。どこを行っても、人、人、人。ここ2年はコロナで自粛ムードだったから、静かだったけれど、今年は少しはコロナがおさまったせいか、今までの自粛のうっぷんを晴らすかのような人だかり。かくいう僕も、浅草に行ったのですが、驚きましたよ。島倉千代子さんのうたじゃないですが、お祭りみたいににぎやかでした。観音様にお参りに行くことは良いことですが、去年のGWに行った時は比較的少なかっただけに驚いています。100年前のスペイン風邪が収束するのに3年かかったと言いますが、コロナも3年目、そろそろマジで収束してほしいなって。

さて、そのスペイン風邪とはインフルエンザのことです、スペイン風邪は世界で5億人が感染、4000万人も死亡したと言われ、亡くなった人もたくさんいました。電子顕微鏡が発明されるまで、ウィルスの存在が知られておらず、スペイン風邪の原因は菌の仕業だと思われていたのですね。スペイン風邪はウィルスの仕業なのに、菌を殺したところで、ウィルスを殺すことができません。そんなんじゃスペイン風邪はいつまで経っても治りっこないのですね。電子顕微鏡が発明されてから、ウィルスが発見。それをもとにワクチンも発明されたのですね。

さて、このスペイン風邪が第一世界大戦を終わらせたと言われております。第一次世界大戦は、泥沼化したのですが、スペイン風邪が兵士たちの間で大流行して、戦争どころじゃなくなったのです。一方でスペイン風邪が第二次世界大戦の引き金でもあったと聞いて驚かれる方もいらっしゃるんじゃないでしょうか。

1919年1月、フランスのパリ、ベルサイユ宮殿で、ベルサイユ講和会議が開かれました。この会議は戦争の後始末について話し合われました。焦点は敗戦国ドイツについて。イギリスとフランスは多額の賠償金を課そうとしました。それに対しアメリカの大統領ウィルソンは大反対。過酷な要求は恨みを残し、次の戦争の火種になると考えたから。会議は長引き3月になっても続きました。この頃、フランスのパリでもスペイン風邪が流行り、イギリスのロイド・ジョージ首相、フランスのクレマンソー首相、そしてウィルソン大統領も感染してしまったのです。特にウィルソン大統領は症状はひどかったと言います。

僕も昔インフルエンザにかかったことが何度かありますが、あれは苦しいですよ。熱は出るし、頭もガンガン痛いし、体がすごくだるくなるの。僕はゲームが好きなのですが、インフルの時は好きなゲームどころか、何もしたくない状況でしたもの。おそらくウィルソンも同じ状況で、立っているだけでもつらかったと思いますよ。


本来のウィルソンはいつも俊敏で、すぐに結論を出す人物だったのですが、この時のウィルソンは、覇気がなく、決断を迫られても、のらりくらりとはっきりしない感じだったのです。そりゃインフルにかかれば、そうなりますよね。そして1919年6月、パリ講和条約の調印式が行われました。結局、イギリスとフランスの言い分が通り、ドイツに巨額の賠償金が課されるようになったのです。その金額はドイツの国家予算の20年分に相当すると言うから驚きです。ウィルソンが元気だったら、断固として反対していただろうけれど、スペイン風邪にスタミナと判断力を奪われたウィルソンに、自らの信念を語る力もありませんでした。講和会議でそんなムチャが通ったことで、ウィルソンは「私がドイツ人なら、何があっても署名しないだろう」と吐き捨てました。


むちゃくちゃな賠償金はドイツ経済を圧迫、人々は苦しみ、フランスやイギリスといった連合国への恨みはどんどん強くなったのです。そんな中で、登場したのが、あのアドルフ・ヒトラーです。ある意味、スペイン風邪がヒトラーを生み出したようなものです。もし、ウィルソン大統領がスペイン風邪に感染していなかったら歴史は変わっていたかもしれない。

今年、コロナ禍のなか、ロシアがウクライナに侵攻しました。コロナ禍でヨーロッパ各国が苦しんでいる、そのスキをぬうかのように侵攻しました。プーチンの暴走を見るたびに、ヒトラーとダブってしまい、恐ろしいなって思いました。

※この記事は「映像の世紀」を参考にして書きました。

今日は、ユナボマーことセアドア・カジンスキーの生い立ちを見て行きます。生い立ちを通して、彼が犯行におよんだ過程カテイを見ていこうと。

セアドアは幼い頃から社会に適合テキゴウできないことに苦しんでいたのです。父親は彼が幼い時に突然自殺。つらかったろうな・・・セアドアは友達とも軽い雑談ザツダンもできず、小難こむずかしい話ばかりしていたと。クラスメイトがつけたあだ名は「歩く脳みそ」。

おそらく知能も高く、勉強ばかりしていた分、同年代の友達と遊んだり触れ合うこともしなかったのかと。勉強ばかりといえば、のび太のママは、すぐ「勉強しろ」とうるさい。一昔前の日本の団塊ダンカイママもそういう教育ママが多かった。でも、勉強も大事かもしれないが、友達と遊ぶことを通してコミニュケーションを学ぶことはとても大事なんですよ?のび太はドラえもんや仲間たちのふれあいを通して勉強よりもっと大事なものを学んだと思う。


そしてセアドアは16歳で名門ハーバード大学を飛び級入学。数学を専攻センコウしたのです。が、飛び級入学したがゆえに周りは年上ばかりで、いじめさえ受けたと言います。彼の孤独コドクは深まるばかり。そんなセアドアも、20代の若さでカルフォルニア大学の助教授に就任シュウニンしたのです。IQも167もあって、論文の内容もすばらしく、将来を嘱望ショクボウされたのです。しかし、セアドアは生徒から嫌われ、結局大学を2年で退職。


なんか頭が良いこと以外は僕とセアドアは似ているな・・僕も子供のころは、暗くて、友達もいなくて、テレビゲームが遊び相手。スポーツや歌が苦手で、野球やカラオケにさそわれても断ってばかりいた。しかもどもりがひどくて、自分の思うことがなかなか話せない。だから友達なんてできっこないですよね。そんな調子だから、大人になっても、まともな人間関係を築けず苦労しましたもの。人間関係ってわずらわしいかもしれないが、人間に生まれてきた以上は、人間とうまくやっていくしかないのだろうなって。今でこそ僕は、カラオケが好きで、誘われたら二つ返事で行くようになりましたが、横のつながりって大事なんだなって、この歳になってやっと気づきましたよ。せめて20代の時に気づいていれば、今頃オレはなんて時々考えてしまいます。

おっと、電線じゃなかったw脱線してしまいましたね、失礼。話をセアドアに戻しますwそうして世の中がイヤになった彼は、自然を求めて、モンタナの山里に小屋をたて一人暮らしを始めたのです。山小屋で一人静かに暮らしていたセオドアですが、その小屋の周囲の原野は不動産開発と工業化によって破壊ハカイされ、彼の怒りは頂点に達したと。静かな生活が壊されたことに怒りを覚えたのでしょう。

彼を犯行に駆り立てたのは、みじめな自分への苛立いらだちも理由の一つと考えられます。コンプレックスですね。彼が最初の犯行で大学教授をターゲットにしたのは、自分と同じ大学教授でありながら、成功して幸せな人生を送っている人物が気に入らなかったのでしょう。嫉妬シットですね。そして、彼は一人でなやみ、苦しんだ挙句あげくに、俺がこんなになったのは社会が悪いと思うようになったのかなあ・・・

良い方向へ持っていけば、セアドア・カジンスキーはすばらしい学者になれたかもしれないのに残念だなって。

それにしても、セアドアを理解してくれる人が周りにいなかったのかと、僕は考えてしまいます。例え一人でも理解者が周りにいるとだいぶ違うと僕は思います。ノーベル賞を受賞したジョン・ナッシュ博士も数学学者で、ひどい変わり者で人付き合いが苦手。だから世間からうとまれていたのです。が、そんな彼を献身的ケンシンテキに支えたのが妻でした。映画『ビューティフル・マインド』でも、そんな二人の夫婦愛が描かれております。ジョン・ナッシュ博士の奥様のような人が、セアドア・カジンスキーのそばにいたら、セアドアはユナボマーにならなかったかもしれない。

野村克也さんが「人間は『人の間』と書く」とおっしゃる通り、人は決して1人では生きられないんだなって。また、藤子不二雄A先生も、人は人間と交わることで成長するとおっしゃってました。本当にその通りだなって。ユナボマーという犯罪者のことを通して、僕も色々学ばせてもらいました。


ビューティフル・マインド(吹替版)
ヴィヴィエン カーダン
2017-07-01




※この記事は「ダークサイドミステリー」を参考にして書きました。

1993年6月、ユナボマーは大手新聞社に声明を発表、「近いうちに目的を伝える」と。そして1995年の6月28日、ニューヨク・タイムズ本社にユナボマーから分厚い封筒フウトウが届きます。なんと56ページにわたる文書が入っていたのです。そこには、自分の要求を受け入れたら爆弾をしかけるのをやめると書いてあったのです。その要求とは自分の書いた文章を新聞に掲載ケイサイしろというもの。FBIもこれを掲載ケイサイさせるかどうか悩みました。簡単に犯人の要求をのめば、相手はますますつけあがるのではないかって。しかし、FBIは最終的には彼の言い分を受け入れると判断。

1995年9月19日、ワシントン・ポスト紙に声明文が掲載。その声明文が掲載された新聞はあっという間に完売。それだけ人々の関心が高かったのですね。その声明文のタイトルは「産業社会とその未来」。産業革命から始まる文明や科学の発展は人々を不幸にさせ、自然を破壊すると。そして科学技術が発展したために、人類は自由がなくなり、社会の歯車ハグルマのような生活が強いられたと。これ以上人々を苦しめたり、自然を破壊しないためにも、自分は最先端技術を攻撃するというのです。

実際、ユナボマーは1970年代は航空関連をターゲットにしていたのが、80年代になるとコンピューター関連の研究をしている大学や、お店などをターゲットにしたのですね。アメリカでは、1970年代は航空機に代表される重化学工業が主力で、最先端でしたが、1980年代のアメリカは、コンピューターが最先端の科学技術でした。コンピューターに使う半導体や電子部分も急速に発展していったのです。90年代になると遺伝子工学が最先端となって行きます。

確かに、産業社会の発展が必ずしも人類を幸せにするものとは限らないし、それが自然の破壊をもたらしたことは事実。産業社会の発展が、人間を社会の歯車をさせている面は僕も女工さんのお話などを通して、このブログでも度々ふれました。こうした産業社会の危険性は、ユナボバーのオリジナルではありません。古くは産業革命から言われていたのですね。ユナボマーはのちに逮捕タイホされますが、ユナボマーを収監シュウカンした刑務所の係員が、ユナボマーのやったことは悪いが言いたいことは共感できると思ったそうです。さらに、犯行声明を読んだ幾人イクニンかが、ユナボバーを大統領に!と言い出したのですね。

とはいえ、主張や思想がどんなにすばらしくても、その思想が世間に受け入れられるような手段や方法でなければ全く意味がないし、ましてや人を殺すなんてとんでもない話です。

FBIはこの犯行声明をもとにさらに人物像を割り出し、情報提供も呼びかけたのです。すると有力な情報が得られたのです。その情報提供者はデヴィッド・カジンスキーという人物。デヴィッドの兄は変わり者で、モンタナ州の人里離れた山里の小屋に1人で20年間くらい暮らしていると。電気も水道もない自給自足ジキュウジソクの生活。まさに産業社会とは無縁の生活。また、犯行声明と以前に兄がかいた論文と内容とかよく似ているので、もしやというのです。

そして1996年4月3日早朝、この小屋の主人は逮捕。デヴィッドの兄こそユナボマーだったのです。名前は、セアドア・カジンスキー。彼の小屋から爆弾の原料やら、犯行文を打ったタイプライターも見つかりました。ユナボマーことセアドア・カジンスキーの終身刑シュウシンケイが決定。今もセアドア・カジンスキーは刑務所の中にいます。


それにしても、ユナボマーことセアドア・カジンスキーはなぜ、これほど悪いことをするようになったのでしょう。次回は彼の生い立ちを通して、そのへんを見ていきます。

ユナボマーという人物をご存知でしょうか。アメリカで、1978年から18年にも及んで爆破事件を起こした恐ろしい人物です。しかけた爆弾バクダンの数は十六個。しかも、彼が仕掛けた爆弾の威力はだんだんアップして、犠牲者ギセイシャもでたと。長きにわたってアメリカを震撼シンカンさせたのですね。FBIも彼をつかまえるのに大変苦労したそうです。あるFBIの関係者は「ユナボマーのような犯人は他にいません」と言わしめたほど。ユナボマーは「マンハント」という映画にもなりました。そのユナボマーのIQ167。すごい知能の持ち主ですね。ユナボマーもその能力をもっと良いところに使えばよかったのにと思いますね。


1978年、アメリカ・シカゴにあるノースウェスタン大学の材料工学のクリスト教授が怪しい荷物を受け取りました。クリスト教授は全く身に覚えがなかったので、教授は怪しんで警備員を呼びました。そして、警備員に荷物を開けさせたのです。するとその荷物は爆発。規模キボは大変小さいものでしたが、警備員が軽傷ケイショウを負ったとか。その爆弾はマッチの発火部分をつめ込んだだけのものでした。

翌年の1979年11月15日。シカゴ発、ワシントンDC行き アメリカン航空444便が離陸直後、小規模ショウキボの爆発を起こしたのです。機内はケムリにつつまれたものの、小規模な爆発ですんだこともあって、墜落ツイラクはしなかったのです。爆発したのは飛行機の貨物室内の郵便小包。航空機を狙ったというのでFBIも動きました。

1980年6月、ユナイテッド航空コウクウ社長宅に不審な郵便物が送られ、その郵便物が爆発、社長は顔や体に火傷を負ったと言います。FBIは犯人のコードネームを「UN IVERSITY」(大学)、「AIR LINE」(航空会社)の「U」「A」の頭文字に「BOMER」(爆弾)という言葉をつけて「ユナボマー」と命名しました。FBIは初め、ユナイテッド航空会社の元社員の仕業だと思ったそうです。当時、ユナイテッド航空は大規模なリストラを行なっていて、解雇カイコされた社員がうらんで、社長を狙ったと。それでシカゴ周辺を捜査そうさし、航空会社の関係者に色々あたってみたのですが、有力な容疑者は見つからず。

1982年には爆弾事件が続けて3件続けて起こったのです。現場もテネシー州、カルフォルニア州、ユタ州と各地で起こったのです。これまではシカゴで起こっていたのですが、1982年以降は各地で起こったこと、事件現場も航空会社ではなく、大学だったのです。犯人はいづれもユナボバーの仕業だと分かったのですが、動機がわからないまま。

なぜ、3件の爆破事件がユナボバーの仕業だとわかったかというと、ユナボバーの仕掛けた爆弾には特徴がありました。いづれも木をメインにして作られていたからです。FBIは、ユナボバーは木を使うことで何かしらのメッセージを残そうとしていると判断。また、ユナボバーの残した爆弾の破片ハヘンから指紋シモンはヤスリなどで消去されていたため残されていなかったと。FBIはユナボバーはタダモノではないと判断したのです。いづれにせよ、ユナイテッド航空の元社員の仕業ではないことが判明しました。

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(ユナボマーがしかけた爆弾。Wikipediaより)

1985年から1987年になると、ユナボマーの犯行現場はコンピュータショップなどにも及びました。そしてこの頃になると死者も出てきます。犠牲者はコンピューターショップの経営者。爆弾にしかけてあったクギが心臓シンゾウにささり死亡したのです。今までは人をおどかしたり、火傷ヤケドを負わす程度だったのに、犯行もエスカレートしていたのです。また、ユナボマーの作った爆弾は当初はマッチの発火部分を使っただけですが、この頃になると硝酸ショウサンアンモニウムアンモニウムを使うようになり、その爆弾の威力もアップしていたのです。

FBIは、ユナボマーは初めは爆弾の知識がなかったのに、独学でこれだけ爆弾を作れるようになったくらいだから、名門大学卒業できるくらいの頭はあるだろうと。またこれだけ危険な事件を起こすくらいだから血気ケッキ盛んな年齢で、年寄りではないだろうと。が、犯人像が少し分かったところで、有力な容疑者ヨウギシャもいなければ、犯人の動機もわからずじまい。捜査は難航ナンコウするばかり。ユナボマーはFBI相手に高笑いしていたことでしょう。「俺はFBIに勝った!」って。

しかし、悪いことはいつまでもできぬもの。ユナボマーも次第に追い込まれていきます。1987年に起きたコンピューターショップの爆弾事件のさい、コンピューターショップの駐車場で不審な男性を見たと。その目撃情報をもとにユナボマーの似顔絵ニガオエも発表。似顔絵と言いましても、グラサンにフードをかぶった男性の絵でしたが。その似顔絵に似ている人物を見たという人々からの通報ツウホウもFBIにドシドシ届くようになったのです。ユナボマーの存在も世間に知られるようになったのですね。

ユナボバーは、それでひるむどころか、ますます犯行を凶悪化させます。1993年6月22日、カルフォルニア州の遺伝子イデンシ研究の学者の自宅に郵便物を送り、爆発させます。その学者は重傷を負ったものの、幸い命は取りとめたそうです。その後1995年4月までの2年間で3件も犯行。被害者3人のうち2人が死亡。爆弾の威力もますますパワーアップし、やばい状況です。そんなユナボマーも1993年ごろになると、今までとは明らかに違う行動をとるようになります。それは何か、次回の記事で取り上げます。

※この記事は「ダーク・サイドミステリー」を参考にして書きました。




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