history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

カテゴリ: アメリカの歴史

今日は、ユナボマーことセアドア・カジンスキーの生い立ちを見て行きます。生い立ちを通して、彼が犯行におよんだ過程カテイを見ていこうと。

セアドアは幼い頃から社会に適合テキゴウできないことに苦しんでいたのです。父親は彼が幼い時に突然自殺。つらかったろうな・・・セアドアは友達とも軽い雑談ザツダンもできず、小難こむずかしい話ばかりしていたと。クラスメイトがつけたあだ名は「歩く脳みそ」。

おそらく知能も高く、勉強ばかりしていた分、同年代の友達と遊んだり触れ合うこともしなかったのかと。勉強ばかりといえば、のび太のママは、すぐ「勉強しろ」とうるさい。一昔前の日本の団塊ダンカイママもそういう教育ママが多かった。でも、勉強も大事かもしれないが、友達と遊ぶことを通してコミニュケーションを学ぶことはとても大事なんですよ?のび太はドラえもんや仲間たちのふれあいを通して勉強よりもっと大事なものを学んだと思う。

藤子不二雄A先生も、人は人間と交わることで成長するとおっしゃってました。本当にその通りだなって。人間関係ってめんどくさいけれど、そこから逃げると成長もできないばかりか、変なことばっか考えるようになりやすい。


そしてセアドアは16歳で名門ハーバード大学を飛び級入学。数学を専攻センコウしたのです。が、飛び級入学したがゆえに周りは年上ばかりで、いじめさえ受けたと言います。彼の孤独コドクは深まるばかり。そんなセアドアも、20代の若さでカルフォルニア大学の助教授に就任シュウニンしたのです。IQも167もあって、論文の内容もすばらしく、将来を嘱望ショクボウされたのです。しかし、セアドアは生徒から嫌われ、結局大学を2年で退職。


なんか頭が良いこと以外は僕とセアドアは似ているな・・僕も子供のころは、暗くて、友達もいなくて、テレビゲームが遊び相手。スポーツや歌が苦手で、野球やカラオケにさそわれても断ってばかりいた。しかもどもりがひどくて、自分の思うことがなかなか話せない。だから友達なんてできっこないですよね。そんな調子だから、大人になっても、まともな人間関係を築けず苦労しましたもの。人間関係ってわずらわしいかもしれないが、人間に生まれてきた以上は、人間とうまくやっていくしかないのだろうなって。今でこそ僕は、カラオケが好きで、誘われたら二つ返事で行くようになりましたが、横のつながりって大事なんだなって、この歳になってやっと気づきましたよ。せめて20代の時に気づいていれば、今頃オレはなんて時々考えてしまいます。

そうして世の中がイヤになった彼は、自然を求めて、モンタナの山里に小屋をたて一人暮らしを始めたのです。山小屋で一人静かに暮らしていたセオドアですが、その小屋の周囲の原野は不動産開発と工業化によって破壊ハカイされ、彼の怒りは頂点に達したと。静かな生活が壊されたことに怒りを覚えたのでしょう。

彼を犯行に駆り立てたのは、みじめな自分への苛立いらだちも理由の一つと考えられます。コンプレックスですね。彼が最初の犯行で大学教授をターゲットにしたのは、自分と同じ大学教授でありながら、成功して幸せな人生を送っている人物が気に入らなかったのでしょう。嫉妬シットですね。そして、彼は一人でなやみ、苦しんだ挙句あげくに、俺がこんなになったのは社会が悪いと思うようになったのかなあ・・・

良い方向へ持っていけば、セアドア・カジンスキーはすばらしい学者になれたかもしれないのに残念だなって。

それにしても、セアドアを理解してくれる人が周りにいなかったのかと、僕は考えてしまいます。例え一人でも理解者が周りにいるとだいぶ違うと僕は思います。ノーベル賞を受賞したジョン・ナッシュ博士も数学学者で、ひどい変わり者で人付き合いが苦手。だから世間からうとまれていたのです。が、そんな彼を献身的ケンシンテキに支えたのが妻でした。映画『ビューティフル・マインド』でも、そんな二人の夫婦愛が描かれております。ジョン・ナッシュ博士の奥様のような人が、セアドア・カジンスキーのそばにいたら、セアドアはユナボマーにならなかったかもしれない。野村克也さんが「人間は『人の間』と書く」とおっしゃる通り、人は決して1人では生きられないんだなって。


ビューティフル・マインド(吹替版)
ヴィヴィエン カーダン
2017-07-01




※この記事は「ダークサイドミステリー」を参考にして書きました。

1993年6月、ユナボマーは大手新聞社に声明を発表、「近いうちに目的を伝える」と。そして1995年の6月28日、ニューヨク・タイムズ本社にユナボマーから分厚い封筒フウトウが届きます。なんと56ページにわたる文書が入っていたのです。そこには、自分の要求を受け入れたら爆弾をしかけるのをやめると書いてあったのです。その要求とは自分の書いた文章を新聞に掲載ケイサイしろというもの。FBIもこれを掲載ケイサイさせるかどうか悩みました。簡単に犯人の要求をのめば、相手はますますつけあがるのではないかって。しかし、FBIは最終的には彼の言い分を受け入れると判断。

1995年9月19日、ワシントン・ポスト紙に声明文が掲載。その声明文が掲載された新聞はあっという間に完売。それだけ人々の関心が高かったのですね。その声明文のタイトルは「産業社会とその未来」。産業革命から始まる文明や科学の発展は人々を不幸にさせ、自然を破壊すると。そして科学技術が発展したために、人類は自由がなくなり、社会の歯車ハグルマのような生活が強いられたと。これ以上人々を苦しめたり、自然を破壊しないためにも、自分は最先端技術を攻撃するというのです。

実際、ユナボマーは1970年代は航空関連をターゲットにしていたのが、80年代になるとコンピューター関連の研究をしている大学や、お店などをターゲットにしたのですね。アメリカでは、1970年代は航空機に代表される重化学工業が主力で、最先端でしたが、1980年代のアメリカは、コンピューターが最先端の科学技術でした。コンピューターに使う半導体や電子部分も急速に発展していったのです。90年代になると遺伝子工学が最先端となって行きます。

確かに、産業社会の発展が必ずしも人類を幸せにするものとは限らないし、それが自然の破壊をもたらしたことは事実。産業社会の発展が、人間を社会の歯車をさせている面は僕も女工さんのお話などを通して、このブログでも度々ふれました。こうした産業社会の危険性は、ユナボバーのオリジナルではありません。古くは産業革命から言われていたのですね。ユナボマーはのちに逮捕タイホされますが、ユナボマーを収監シュウカンした刑務所の係員が、ユナボマーのやったことは悪いが言いたいことは共感できると思ったそうです。さらに、犯行声明を読んだ幾人イクニンかが、ユナボバーを大統領に!と言い出したのですね。

とはいえ、主張や思想がどんなにすばらしくても、その思想が世間に受け入れられるような手段や方法でなければ全く意味がないし、ましてや人を殺すなんてとんでもない話です。

FBIはこの犯行声明をもとにさらに人物像を割り出し、情報提供も呼びかけたのです。すると有力な情報が得られたのです。その情報提供者はデヴィッド・カジンスキーという人物。デヴィッドの兄は変わり者で、モンタナ州の人里離れた山里の小屋に1人で20年間くらい暮らしていると。電気も水道もない自給自足ジキュウジソクの生活。まさに産業社会とは無縁の生活。また、犯行声明と以前に兄がかいた論文と内容とかよく似ているので、もしやというのです。

そして1996年4月3日早朝、この小屋の主人は逮捕。デヴィッドの兄こそユナボマーだったのです。名前は、セアドア・カジンスキー。彼の小屋から爆弾の原料やら、犯行文を打ったタイプライターも見つかりました。ユナボマーことセアドア・カジンスキーの終身刑シュウシンケイが決定。今もセアドア・カジンスキーは刑務所の中にいます。


それにしても、ユナボマーことセアドア・カジンスキーはなぜ、これほど悪いことをするようになったのでしょう。次回は彼の生い立ちを通して、そのへんを見ていきます。

ユナボマーという人物をご存知でしょうか。アメリカで、1978年から18年にも及んで爆破事件を起こした恐ろしい人物です。しかけた爆弾バクダンの数は十六個。しかも、彼が仕掛けた爆弾の威力はだんだんアップして、犠牲者ギセイシャもでたと。長きにわたってアメリカを震撼シンカンさせたのですね。FBIも彼をつかまえるのに大変苦労したそうです。あるFBIの関係者は「ユナボマーのような犯人は他にいません」と言わしめたほど。ユナボマーは「マンハント」という映画にもなりました。そのユナボマーのIQ167。すごい知能の持ち主ですね。ユナボマーもその能力をもっと良いところに使えばよかったのにと思いますね。


1978年、アメリカ・シカゴにあるノースウェスタン大学の材料工学のクリスト教授が怪しい荷物を受け取りました。クリスト教授は全く身に覚えがなかったので、教授は怪しんで警備員を呼びました。そして、警備員に荷物を開けさせたのです。するとその荷物は爆発。規模キボは大変小さいものでしたが、警備員が軽傷ケイショウを負ったとか。その爆弾はマッチの発火部分をつめ込んだだけのものでした。

翌年の1979年11月15日。シカゴ発、ワシントンDC行き アメリカン航空444便が離陸直後、小規模ショウキボの爆発を起こしたのです。機内はケムリにつつまれたものの、小規模な爆発ですんだこともあって、墜落ツイラクはしなかったのです。爆発したのは飛行機の貨物室内の郵便小包。航空機を狙ったというのでFBIも動きました。

1980年6月、ユナイテッド航空コウクウ社長宅に不審な郵便物が送られ、その郵便物が爆発、社長は顔や体に火傷を負ったと言います。FBIは犯人のコードネームを「UN IVERSITY」(大学)、「AIR LINE」(航空会社)の「U」「A」の頭文字に「BOMER」(爆弾)という言葉をつけて「ユナボマー」と命名しました。FBIは初め、ユナイテッド航空会社の元社員の仕業だと思ったそうです。当時、ユナイテッド航空は大規模なリストラを行なっていて、解雇カイコされた社員がうらんで、社長を狙ったと。それでシカゴ周辺を捜査そうさし、航空会社の関係者に色々あたってみたのですが、有力な容疑者は見つからず。

1982年には爆弾事件が続けて3件続けて起こったのです。現場もテネシー州、カルフォルニア州、ユタ州と各地で起こったのです。これまではシカゴで起こっていたのですが、1982年以降は各地で起こったこと、事件現場も航空会社ではなく、大学だったのです。犯人はいづれもユナボバーの仕業だと分かったのですが、動機がわからないまま。

なぜ、3件の爆破事件がユナボバーの仕業だとわかったかというと、ユナボバーの仕掛けた爆弾には特徴がありました。いづれも木をメインにして作られていたからです。FBIは、ユナボバーは木を使うことで何かしらのメッセージを残そうとしていると判断。また、ユナボバーの残した爆弾の破片ハヘンから指紋シモンはヤスリなどで消去されていたため残されていなかったと。FBIはユナボバーはタダモノではないと判断したのです。いづれにせよ、ユナイテッド航空の元社員の仕業ではないことが判明しました。

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(ユナボマーがしかけた爆弾。Wikipediaより)

1985年から1987年になると、ユナボマーの犯行現場はコンピュータショップなどにも及びました。そしてこの頃になると死者も出てきます。犠牲者はコンピューターショップの経営者。爆弾にしかけてあったクギが心臓シンゾウにささり死亡したのです。今までは人をおどかしたり、火傷ヤケドを負わす程度だったのに、犯行もエスカレートしていたのです。また、ユナボマーの作った爆弾は当初はマッチの発火部分を使っただけですが、この頃になると硝酸ショウサンアンモニウムアンモニウムを使うようになり、その爆弾の威力もアップしていたのです。

FBIは、ユナボマーは初めは爆弾の知識がなかったのに、独学でこれだけ爆弾を作れるようになったくらいだから、名門大学卒業できるくらいの頭はあるだろうと。またこれだけ危険な事件を起こすくらいだから血気ケッキ盛んな年齢で、年寄りではないだろうと。が、犯人像が少し分かったところで、有力な容疑者ヨウギシャもいなければ、犯人の動機もわからずじまい。捜査は難航ナンコウするばかり。ユナボマーはFBI相手に高笑いしていたことでしょう。「俺はFBIに勝った!」って。

しかし、悪いことはいつまでもできぬもの。ユナボマーも次第に追い込まれていきます。1987年に起きたコンピューターショップの爆弾事件のさい、コンピューターショップの駐車場で不審な男性を見たと。その目撃情報をもとにユナボマーの似顔絵ニガオエも発表。似顔絵と言いましても、グラサンにフードをかぶった男性の絵でしたが。その似顔絵に似ている人物を見たという人々からの通報ツウホウもFBIにドシドシ届くようになったのです。ユナボマーの存在も世間に知られるようになったのですね。

ユナボバーは、それでひるむどころか、ますます犯行を凶悪化させます。1993年6月22日、カルフォルニア州の遺伝子イデンシ研究の学者の自宅に郵便物を送り、爆発させます。その学者は重傷を負ったものの、幸い命は取りとめたそうです。その後1995年4月までの2年間で3件も犯行。被害者3人のうち2人が死亡。爆弾の威力もますますパワーアップし、やばい状況です。そんなユナボマーも1993年ごろになると、今までとは明らかに違う行動をとるようになります。それは何か、次回の記事で取り上げます。

※この記事は「ダーク・サイドミステリー」を参考にして書きました。







今日は、9・11です。考えてみれば、あの悲惨な事件からもう20年たっているのですね。月日の早さに驚いております。改めて亡くなられた方々に追悼の意を表します。

今日は、9・11のお話をしたいところですが、今日の本題は陰謀論インボウロンについてです。9・11の時も結構陰謀論が流行ったのですね。あの事件は巨大組織が関わっているってウワサされましたし。








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1 スペイン風邪とは
 1918年第一次世界大戦中またしても、疫病えきびょうがはやります。それはスペイン風邪かぜ。風邪というと大したことがないイメージがありますが、これは新型のインフルエンザのことです。いまでこそインフルエンザはワクチンがあり、治療薬はありますが、この当時は未知の病で、致死率も高く、大変恐れられていたのです。個人的な話になりますが、僕も5年前にインフルエンザにかかったことがあります。幸い、タミフルが効いたので大事には至らなかったのですが。治療薬やワクチンがある現在でさえインフルエンザで亡くなる人がいるのです。当時のインフルエンザが人々に与えた恐怖と言ったら、それは大変なものでしょう。

また、スペイン風邪というから、スペインから発祥したイメージがありますが、実際はアメリカが発祥です。アメリカの軍事基地で48人の肺炎患者はいえんかんじゃがでたことから始まりました。当時は大戦中ですから、どこの国もインフルエンザが流行っていたことを隠蔽いんぺいしたのですね。それが当時のスペインだけは中立国で、インフルエンザが流行っていることを世に発表していたのですね。それで、あたかもスペインではやっているように思われていたのですね。スペインにとって風評被害もよいところなのです。

大戦で戦った兵士たちがどんどん感染しました。戦争が終わってからも、自分たちの母国に帰り、水際を通り越しして、市中感染につながったのです。まさに戦争による被害拡大です。それからインフルエンザの原因と思われる細菌さいきんを発見され、この細菌をもとにワクチンがつくられました。ところが、ワクチンは思ったような効果がでず、患者は増えるばかり。それもそのはず、インフルエンザの原因は細菌ではなく、ウィルスだったのです。ウィルスは細菌よりもずっと小さかったのでふつうの顕微鏡けんびきょうでは発見できなかったのです。まさにウィルスは未知の存在だったのです。ウィルスを発見できるようになったのは電子顕微鏡が発明された1932年以降です。

2 ハスラーの挑戦
その未知なるものに挑んだのがアメリカのサンフランシスコの保健委員会委員長ウィリアム・ハスラー。彼が行ったことは「人の接触せっしょくを減らす(人が集まりそうな娯楽施設ごらくしせつや学校・教会閉鎖」ことと「市民に対するマスクの着用義務付け」。

なんとサンフランシスコの市民99%ちかくがマスクを着けていたといいます。当時アメリカは第一次世界大戦の前線で兵士たちが戦っていました。その兵士たちにインフルエンザをうつさないためにも自分たち市民が協力せねばと思ったのですね。

ハスラーは「これはサンフランシスコ市民の持つ注目すべき知識レベルの高さと強調精神の証だ」と。そのハスラーの呼びかけに市民が応えたのですね。1918年10月には8000人の市民がインフルエンザに新規感染したのですが、11月には100人以下まで下がったといいます。11月21日にはマスク着用条例が解除。そして閉鎖していた娯楽施設や学校や教会も再開させます。

3 またしても流行りだした
 ところが、マスク着用条例解除の10日前、第一次世界大戦が休戦したのです。戦争終結の喜びとともに、自粛疲じしゅくづかれも手伝って気がゆるんだのですね。感染者の数は減ったものの、ウィルスが潜伏せんぷくしていたことは当時の人たちは気づかなかったのです。

そしてマスク条例を解除してから徐々に増え始めました。また悪いことに12月はだんだん寒くて乾燥していますからウィルスにとっては居心地のよい環境です。さらに悪いことに12月といえばクリスマス。ますます市民の気が緩みます。それでハスラーは12月7日、ふたたびマスク着用義務化の再実施を訴えます。

しかし、議会ではクリスマスが盛り下がるとかいろいろな理由をつけて反対されます。戦争が終わったので、兵士たちをマスクをつけて守ろうという愛国的な目標が失われてしまったのですね。今日の日本に例えればマスクをして自粛をして医師を守ろうという目標ですね。そのうえ戦争が終わった喜びから市民はクリスマスを楽しみたいという気持ちがあったのです。

インフルエンザでサンフランシスコの死者は3500人でした。そのうち1453人も亡くなりましたが、その1453人はマスク着用解除後の死者だったのです。

※ この記事はNHKの「ダークサイド・ミステリー」を参考にして書きました。

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