history日誌

カテゴリ: こ〜ひ〜ぶれいく

今日は久々に息抜きで「うた」の話をします。いつも歴史の話ばかりでは息がつまりそうですからねw
テーマは「動物を連想する歌」。曲名が動物だったり動物そのものを歌った歌だったり。

今年はなんといっても DISH// の北村匠海さんの「猫」でしょうね。今年はカラオケでもよく歌われたし、ようつべでも歌い手さんがこの歌を本当に良く歌っておりました。それにしても最近の歌は難しいですね。曲調もかっこいいのだけれど、高音が多いし、リズムを乗せるのも大変。今の歌い手さんの歌を聴くと、本当にうまいなって。

個人的には米津玄師さんの「馬と鹿」も好きですね。去年のドラマの主題歌にもなりました。それと、今年は古関裕而の人生をドラマ化した「エール」も話題になりましたが、その古関裕而が作曲された「白鳥の歌」と「若鷲の歌」。

「若鷲の歌」は作詞の西条八十と作曲の古関裕而は土浦海軍航空隊に一日入隊し、「若鷲の歌」はこの時の体験を生かして作られたものです。なんでも壁に貼られた予科練生徒募集のビラに描かれた、桜の花の下に立つ若い予科練生の姿とその胸の七つのボタンを見て第一聯が浮かんだそうです。

「白鳥の歌」は戦後につくられたもので、若山牧水の詩を3篇集めて、それに古関裕而が曲をつけたものです。藤山一郎さんの歌唱も相まって、大変美しい歌です。


※ 参考文献



明智光秀(あけちみつひで)は山崎の合戦で生きのびて、南光坊天海(なんこうぼうてんかい)となって家康のブレーンになったという説は昔から言われていました。

では、明智光秀=天海なのでしょうか?

そのように信じていらっしゃる方も少なくないかと思われますが、なんとも言えないというのが僕の意見です。

なぜなら明智光秀が天海と同一人物だという決定的な証拠がないと思うからです。

もちろん、歴史は荒唐無稽なことでも否定をせずに、とことん真実を調べないと真理がつかめないと思われます。実際、トロイはギリシャ神話にでてくる伝説で実際の話ではないと信じられておりましたが、シュリーマンの発掘でトロイが実在していたことが証明されましたからね。

とはいえ、天海が光秀だとはっきり書かれた資料が今後見つかれば、僕も天海=光秀だと認めますが、今の時点では保留ですね。


たしかに光秀が天海である根拠こんきょの一つとして、日光には明智平あけちだいらという場所があるとか、東照宮(とうしょうぐう)にも明智家の家紋かもんである桔梗紋ききょうもんがあるというのがあります。

ある歴史番組では光秀の家臣だった斉藤利三(さいとうとしみつ)のむすめのお福(のちの春日局かずがのつぼね)が天海にあった時「お久しぶりでございます。」と言ったことも根拠のひとつだと言っていました。

また、あるテレビの歴史番組で「光秀の筆跡ひっせきと天海の筆跡をくらべていて両方ともよく似ている」なんて番組のレポーターは言っていました。

光秀が天海である根拠があるように、逆に「光秀が天海であるわけがない」という根拠もあります。そのひとつは天海と光秀が年齢がちがいすぎるということです。天海=光秀だとすると、天海の死亡時の年齢が百歳ひゃくさいを越えてしまうのです。明智光秀が生まれたのが1528年。で、天海が亡くなったのは1643年。1643−1528=115。115歳なんてすごすぎです。これは安土桃山時代の平均寿命が50歳くらいだとすると、かなりすごいです。というか、現代でも115歳まで生きるのは大変ですね。

明智の家紋である桔梗紋ですが、この桔梗紋を家紋として使っていた武将は明智光秀だけじゃないみたいです。もともと桔梗紋は、清和源氏せいわげんじ系の土岐どき氏が使っていたものです。僕が大好きな加藤清正もじゃの目紋のほかに桔梗紋も併用へいようしていたようです。

それどころか、日光東照宮には桔梗紋なんてないなんて意見もあります。確かに似てはいるけれど、よくみるとデザインが違うとか。今度東照宮に行く機会があれば、確かめたいところですね。

天海が残したという筆跡にしても、明智光秀と天海の二つの筆跡を見た感じでは、同一人物には思えなかったなあ〜(あくまでシロウト判断だけれども)。それに、お福が天海をみて「お久しぶりでございます」といったのも、天海とお福が単なる知人だった可能性もありますし。

光秀が徳川の時代まで生き延びて天海となった可能性も否定はしませんが、逆に豊臣秀吉や徳川家康に殺される可能性も否めません。

なぜなら、光秀の存在は豊臣秀吉にとって非常に都合が悪いからです。秀吉が天下をとった大義名分たいぎめいぶんは、「主君を裏切った明智光秀をやっつけた」です。それで明智光秀が生きていたとなると、これは秀吉政権をゆるがすような大問題になるでしょう。光秀が生きていたとしても、たちまち密告者にチクられ、秀吉によって光秀は殺されたことでしょう

実際、光秀の首と遺体いたいは、山崎やまざきの合戦の後すぐに京都に護送ごそうされ粟田口(あわたくち)ではりつけにされたと当時の公家くげやおぼうさんの日記に書かれているようです。

徳川家康が権力を握る正当性も、織田信長と豊臣秀吉の後継者であることが前提となっておりますから、主君を裏切った光秀ことを家康は生かしておくにはいかないと思われます。というか、そんな主君を裏切るような危険人物を自分の手元に置くなんて僕だったらできませんね。いつ自分が信長のように寝首をかかれるか心配ですもの。

もちろん、家康がこっそり光秀をかくまった可能性も否定できません。家康はかつての敵だった武田の家臣を自分の部下にしたくらいです。優秀な光秀を召し抱えたという可能性もあります。ただ、何しろ資料もありませんので、これも憶測でしかありません。



※ オマケ





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1 結論から先に言えば「ありえない」と思う

源義経(みなもとのよしつね)は平泉にて、藤原泰衡(ふじわらのやすひら)におそわれて、自害したといいますが、義経は大陸に逃げて、ジンギスカンになったという伝説があります。

結論から先に言えば、個人的には「ありえない」と思います。


2 義経=ジンギスカンの根拠こんきょ



ただ、義経=ジンギスカンであるという理由がいくつかありますので、とりあえずあげておきます。


  1. ジンギスカンが戦いのときに白い旗をつかった。白い旗は源氏のシンボルでもあった。


  2. ジンギスカンはニロン族の出身。で、その「ニロン」は日本がなまったもの。


  3. ジンギスカンの父の名が「エゾカイ」といい、「蝦夷(えぞ)の海」がなまっている。


  4. ジンギスカンは母に「宣懿(せんし)皇后こうごう」という名をあたえている。


  5. ジンギスカンも義経も酒がきらい。「


  6. ジンギスカンは「9」という数字を好んだ。


  7. ジンギスカンの命日と「義経忌よしつねき」(※1)がどちらも同じ8月15日。


  8. ジンギスカンを漢字で書くと「成吉思汗」だが、これは「吉野で別れた静御前しずかごぜんを思う」という意味がこめられている。


全部の項目こうもくを説明できないので、ポイントをしぼって池上彰さんのようにはいきませんがw、解説をしていきます。

※1 義経が少年時代をすごした鞍馬山(くらまやま)では同じく8月15日に義経忌という法要が現在でも行なわれている。

3 母の名前と、源氏の恩人の名前が似ている?
 まず、4ですが、ジンギスカンの母の名前はホエルン・イケといいます。モンゴル帝国を建国してからジンギスカンは、母に「宣懿(せんし)」という名前をプレゼントしました。

それから母は、ホエルン・イケ・センシと名乗るようになりました。

この名を何度かくりかえすと、平清盛(たいらのきよもり)に懇願こんがんし源義朝(みなもとのよしとも)の遺児いじをすくった池禅尼(いけのぜんに)の名前がうかびあがるといいます。


4 義経もジンギスカンも酒がきらいといはいうけれど
 5ですが、義経はお酒が飲めなかったようです。一方のジンギスカンは「酒は平静を失うもの」として酒を飲むことを批判ひはんしていたそうです。どちらも酒がきらいだから二人は同一人物だといわれております。けれど、酒が飲めないのと、酒を批判するのは別問題だと思います。

酒好きな人でも「酒の飲みすぎはよくない」という人だっているだろうし、大酒のみでも飲酒運転を奨励しょうれいする人なんていないでしょw?

逆に酒がきらいでも、飲み会の雰囲気ふんいきが大好きで、自分はコーラを飲みつつ、その場を楽しむ人だっている。

5 義経は「9」の数字を好んだ? 
次は6の項目について。ジンギスカンは「9」の数字を好んだといいます。ある地方の王の遺児がジンギスカンに謁見えっけん(※2)したとき、おくり物を九つずつ用意したといいます。

また旧満州ではジンギスカンのことを克羅(クロウ)と呼んだようです。

「くろう」といえば、義経もかつては「九郎」と呼ばれていました。これは偶然ぐうぜんの,一致いっちか?

※2 貴人または目上の人に会うこと。


6 義経忌と同じ日に亡くなったジンギスカン。
 

 7の項目についてみていきましょう。ジンギスカンは8月の15日に亡くなったといいます。日本の終戦記念日と同じ日やんwといいたいところですが、この日は京都の鞍馬山で行われる義経忌と同じ日だといいます。これも偶然の一致か?



でも、義経が亡くなったのは旧暦の4月30日(いまの6月15日)なんですよね。

7 成吉汗の意味
  最後に8の項目を。「成吉思汗」はジンギスカンを漢字にあてたものです。「成吉汗」の「汗」という漢字は、歌やいをする遊女ゆうじょのことを指すといわれています。

で、「成吉汗」の「吉」が静御前と別れた吉野であると解釈すれば「吉野で別れた静御前を思う」という意味にもなるといわれています。

でも、どうかな〜。なんかこじつけのような気がするw



※ おまけ

アンケートをよろしければ、お願いします。お題は「義経=成吉汗?」




※ 参考文献





今日、歴史能力検定2級の結果がとどきました。今回受けたのは世界史2級だけでした。僕にとってはひさびさの検定です。

結果は不合格・・・・

今回はもしかしたらと思っていただけにショックです。

ちなみに、今回の合格率は38・3パーセント、合格ラインは60点です。僕は50点だったのでダメでした。

しかも、この点数と言うのはたまたま僕が知っていた時代や少し勉強したところが出てきたから取れただけの話。中世ヨーロッパや古代ローマの出題が多かったら、もっと点数が低かったかも。今年はぜひ、それも高得点で合格したいですね。

岩手県の花巻はなまきに宮沢賢治(みやざわけんじ)が通ったおそば屋さんが今もあるというからオドロキです。

場所は花巻の駅からわりと近い所にあります。大きな駐車場もあります。


賢治はよくこのお店に通い、天ぷらソバとサイダーを注文したそうです。僕も賢治に習って、天ぷらソバとサイダーを注文しましたwとはいっても、賢治が食べたのは温かいソバ。僕が食べたのは冷たいそばでしたが。

おソバもおいしかったのですが、サイダーもおいしかったです。

おソバがうまいといえば信州しんしゅうですが、岩手もおいしいなと思いました。よく考えれば、有名なわんこそばは岩手の名物の一つ。おソバがおいしい土地柄とちがらなのですね。

このサイダーも、ふつうのサイダーと味がちがうのです。ふつうのサイダーよりもさわやかな味で、あまさも適度なのもグーでした。

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