history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。

カテゴリ:日本の歴史 旧石器〜平安時代 > 飛鳥・奈良時代

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このブログをご覧になってくださっている皆さんこんにちは。写真に写っているのは何だと思われますか?

わたくしehatov1896の家?違いますよw

これは、福島県の二本松にある安達ケ原の岩屋です。この岩屋になんと人を食べるという鬼婆が住んでいたというから驚きです。この岩屋があるのが観世寺というお寺で、境内には鬼婆が出刃包丁を洗ったという血の池や鬼婆の石像などもあります。


僕がこの安達ケ原に住む鬼婆のことを知ったのは実は小学校の時です。小学校の時に読んだ『日本のミステリー』という怪奇や伝説が子供向けに書かれた本で、安達ケ原の鬼婆を知りました。僕も子供のころから、この岩屋に行きたいと願っておりました。けれど、なかなかその願いがかなわなかったのですが、昨年(2015年)に訪れることができました。長年の願いがかなったのですから、うれしかったですね。

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どういうお話かというと、この鬼婆というのはもともと悪だったわけじゃなく、京都で公家の娘(姫)の乳母だったのです。乳母の名前は岩手といいました。しかし、この姫様が病気がちで、姫の病気をなおすには妊婦の生き肝を飲ますしかないと、ある祈祷師から言われたのです。


その姫の病気を治すために、乳母・岩手は東北まで行ったそうです。なにしろ新幹線も飛行機もなかった時代ですから、女一人で京都から東北まで長い道のりを何日もかけて歩いたのですから、大変な旅だったと思います。ちなみに岩手には幼い娘がいたのですが、娘を京において一人東北まで行ったのです。岩手は二本松に庵をかまえまして、若い妊婦を待ち構えていたのです。それも何年も。

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そこへ、若い夫婦が岩手の庵にやってきたのです。嫁のほうが産気づいていたので、岩手はやったとおもったことでしょう。そして、岩手は快く若夫婦を庵に泊めました。夫が薬を求め外出をしたので、そのスキに若い妊婦を殺したのです。しかし、その岩手が殺した若い妊婦は、岩手の娘だったのです。

生き別れの娘を自らの手で殺してしまった岩手は気がくるってしまいました。それから岩手は鬼のような人間になり、庵に人を誘っては殺すようになったのです。


ある日、紀州の僧・東光坊祐慶が安達ヶ原を旅している途中に日が暮れ、岩木の庵に泊まりました。東光坊祐慶は岩木がニコニコ親切にもてなしたので、そんな恐ろしい女だとははじめは気づかなかったのです。


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ところが、岩木が薪が足りなくなったのでこれから取りに行くと言い、奥の部屋を絶対に見てはいけないと祐慶に言い残して庵から出て行きました。

けれど、見てはいけないといわれるとついつい見たくなるもの。あの女をやってはいけないといわれると余計やりたくなるものw。

祐慶がこっそり戸を開けて奥の部屋をのぞくと、そこには人間の白骨死体が山のように積み上げられていた。びっくりした祐慶は、あの老婆こそ人を食い殺すこと鬼婆だと感付き、その庵から逃げ出したといいます。

祐慶が逃げたことに気づいた岩木は恐ろしい鬼婆の姿となってすごい速さで追いかけて来たのです。祐慶のすぐ後ろまでせまる鬼婆。絶体絶命の中、祐慶は旅の荷物の中から如意輪観世音菩薩の像を取り出して必死に経を唱えました。すると祐慶の菩薩像が空へ舞い上がり、光明を放ちつつ破魔の白真弓に金剛の矢をつがえて射ち、鬼婆を仕留めたといいます。


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そして、鬼婆は観音菩薩の功徳により成仏したといいます。その鬼婆のお墓がいまも残っており、黒塚とよばれております。



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この話は考えさせられます。岩木は姫のために一生懸命頑張ったのに、誤って自分の娘を殺したためにおかしくなり、やがて人を殺す恐ろしい鬼婆になってしまった。やったことはとても悪いけれど岩木も気の毒だなと思いました。また、人間には恐ろしい鬼のような心もまた潜んでいて、何かのきっかけでそれが表に出ることもある、そんなことも考えさせられました。

話はかわりますが、浪江町など原発事故のあった地域の周辺に住んでいる人たちも避難生活を余儀なくされております。そして福島(原発事故のあった地域)の子供たちは避難先でいじめられているともききます。福島出身というだけでいわれもない偏見の目を持たれているのです。これも人間の心に潜む鬼の心だと思います。



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歴代の法隆寺ほうりゅうじ宮大工みやだいくたちは、毎日法隆寺のなかを見て回り、いたんだところを見つけたらすぐさま修理をしたといいます。それくらい宮大工たちだけでなく、時の権力者までも法隆寺を大切に守ってきたのです。

たとえば、鎌倉時代かまくらじだい五重塔ごじゅうのとうにカミナリが落ちたのですが、そのとき4人の大工が火を消して、五重塔の焼失をふせいだといいます。

そして安土桃山時代あづちももやまじだいには法隆寺ほうりゅうじの宮大工・中井正吉(なかいまさよし)をリーダーとする大工集団が大坂城づくりにかかわったといいます。法隆寺は、豊臣秀頼(とよとみひでより)によって大改修を行われましたが、それも中井達大工集団の大坂城づくりに活躍かつやくしたことに、秀頼が感謝したからかもしれません。

元禄時代げんろくじだい(五代将軍ごだいしょうぐん徳川綱吉(とくがわつなよし)の時代)にも、法隆寺は大修理を行いました。その時は綱吉のお母さんである桂昌院(けいしょういん)が法隆寺に修理に必要なお金をたくさん出したといいます。


法隆寺は今日まで持っているのは、その時生きている人たちの努力、たびたびのメンテナンスのたまものでもありました。

明治30年になると法隆寺は国宝に指定されました。昭和九年から、戦争をはさんだ20年間に大改修が行われました。いわゆる昭和の大改修で、西岡常一(にしおかつねかず)さんもかかわっていました。

しかし、昭和24年に法隆寺は火事になってしまい、壁画へきがなどが焼失しょうしつしたのは残念です。そして平成5年に法隆寺は世界遺産に登録され、今日まで至っております。

それにしても法隆寺が今日まで残るのはなぜでしょうか?いろいろいわれておりますが、やはり聖徳太子の仏教の教えで世の中を救いたいという願いが法隆寺にこめられているからではないでしょうか?

飛鳥時代という時代も戦乱があったり、疫病えきびょうや貧困の問題があって、大変な時代だったそうです。そんな乱れた時代を仏の力ですくってもらいたいと聖徳太子は願っていたのではないかと。

また、法隆寺の宮大工の口伝くでん(※1)の一つとして、


「仏法を知らずに、塔伽藍(とうがらん)を論ずべからず」


というものがあります。お寺を建てるのに、仏様のことをしらないでただ形ばかりを語ってはダメだということです。法隆寺の歴代の宮大工たちは、仏教の勉強もキチンとやっていたようですね。だからこそ、宮大工たちは聖徳太子の理想を肌で感じることができたし、聖徳太子の思いに少しでも応えようと思ったのだと思います。

宮大工だけでなく、時の権力者たちの心さえも動かしたのが、聖徳太子の世の中を救いたいという強い思いだったのではないでしょうか?

※1 言葉で伝えること




※ 参考文献





ブログネタ
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(宮大工がヤリガンナで木を削る様子)


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(ヤリガンナの写真)


ヤリガンナは飛鳥時代に使われていました。法隆寺が建立される際に使われたのもヤリガンナです。が、室町時代(江戸時代?)のころに使われなくなりました。しかし、最後の棟梁とうりょうといわれる西岡常一さんは法隆寺を改築するには、ヤリガンナが必要だと思い、鍛冶屋(かじや)にたのんで作ってもらったそうです。

ヤリガンナを使うと木材が長持ちするそうです。

電気ガンナでけずったものとヤリガンナで削ったものを、雨の中にさらすと、そのちがいがすぐに出てきます。

電気ガンナで削ったものは一週間くらいでカビが生えてきます。ところが、ヤリガンナだとそんなことはありません。水が木材にしみこまず、水をはじいてしまうのです。すごいですね。

※おまけ
最後に西岡常一さんの動画が見つかりましたので、ご紹介しょうかいします。




※ 参考文献 






宮大工棟梁・西岡常一 「口伝」の重み
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宮大工と歩く奈良の古寺 (文春新書)
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