history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

カテゴリ: 平安時代

平安時代に役所に勤める平安貴族は朝は早く、午前3時遅くとも4時に起床します。朝起きて貴族に最初にすることは、自分の属星の名前を7回唱えます。属星とは陰陽道で定められたもので、北斗七星の7つの星がそれぞれ自分の生まれた年の干支で振り分けられているのです。例えば、ネズミ年(子年)であれば、貧狼星ドンロウセイ、ウシ年(丑年)とイノシシ年(亥年)であれば巨門星キョモンセイという具合に決まっているようです。

自分の星を7回唱えることで、自分の行いの正しさを星に伝えるのです。それが終わると暦で今日の吉凶を決めるのです。もし、運勢が悪ければ仕事にも行かなくて良いのです。そのように災いから逃れることを物忌モノイミと言い、その日は一日家にこもっていいのです。欠勤の正当な理由にもなったのです。現代じゃ考えられませんね。運勢が悪いからと言って会社を休んだら、怒られるくらいじゃすまないですよネw

でも、どうしても仕事に行かなくてはならないこともあります。その場合は覆推フクスイといいまして、もう一度占いをし直すのです。それでちょっとでも良い運勢が出たら、出勤するのです。

仕事に行くとなると、まずは房楊枝で歯を磨き、手と顔を洗います。それから自分が崇拝する神に手を合わせます。例えば八幡様を信仰していれば八幡様を念じるという具合。それから昨日の出来事を日記にしたため、やっと朝食。その朝食もお粥が多かったそうです。貴族でも食事は割と質素なんですね。ちなみに、平安の時代の1日の食事は二食。今みたいに三食食べなかったのですね。それが済んだら髪を洗ったり、沐浴をして体を洗ったりしたそうです。とは言いましても、髪を洗ったり、お風呂に入るのは毎日じゃなかったみたいです。

髪をとかすのはは3日に一度。
爪を切るのは12日に一度。
沐浴は5日に一度。


その沐浴も毎月、1日と18日は入ってはいけないのです。1日にお風呂に入ると寿命が縮み、18日に入ると盗賊に入られると言われていたのです。長生きしたい人は毎月1日はお風呂に入らない方がいいですよw?なんてネw

しかし、毎日お風呂に入らないのは不潔だし、体臭が出そう。特に夏はきついものがありますね。それで、お風呂に入れない時は、お香を炊いたのです。きている着物に、お香の匂いをつけたのですね。

それからやっと着替え。


そして5時半くらいに役人は内裏に出勤するのです。貴族の収入は官職が高ければ上がっていきます。例えば、貴族の最高位である太政官の大臣クラスだと現在の価値で年収2億円もの収入(※1)があったというから驚きです。

さて、役人の仕事は部署や仕事の量によってまちまちで、夕方まで勤務したり、宿直とのいという冶金の仕事もありますが、基本的に1日の勤務は午前中の4時間で終わるそうです。現代の感覚からすれば羨ましいですね。

勤めを終えると、その後は遊びの時間。けまりをしたり、競射キョウシャ(※2)や囲碁、将棋、楽器を奏でたり、和歌を詠んだりしていたそうです。なんとも優雅で羨ましい話です。
しかし、これらの遊びも実は自分を磨くためのものだったので、単なる遊びではないのです。当時の貴族たちは漢詩、和歌、楽器の演奏を公的な行事などで披露されることがありました。そのため、日頃から、そういう教養を身につけ、自分を磨く必要があったのです。特に和歌は出世をするために必要なものでした。今に例えれば、接待のためにマージャンやゴルフを覚えたり、ヒトカラで上司が喜びそうな懐メロを練習をするようなものです。


また貴族の家には池があって、その池に舟を浮かべていたそうです。春は桜を見て、月の出ている夜は月見をしていたとのこと。なんとも優雅ですね。

一方の庶民は大変でした。貧しいアバラ長屋に住んでいたと言います。それで租庸調という今でいう税金を納めなくてはならないから大変だったのです。

※1 当時の貴族の収入はお金ではなく、主に年貢や作物、布など。
※2 射撃(弓)で勝者を競う。



プロ野球でクライマックスシーズンが始まっております。短期決戦なので、ささいなミスが命取りになります。そういう意味では油断大敵ですよね。さて、「油断」という言葉。実はこの言葉が元々は仏教用語からきているという説があります。比叡山延暦寺の根本中堂の中に不滅の法灯ホウトウという灯火があります。西暦788年(延暦7年)に最澄が灯明をかかげて以来、1200年間一度もその灯火が消えることなく輝き続けていると伝わっております。

最澄の「明らけく後の 仏の御世までも 光りつたへよ法のともしび(仏の光であり、法華経の教えを表すこの光を、末法の世を乗り越えて弥勒如来がお出ましになるまで消えることなくこの比叡山でお守りし、すべての世の中を照らすように)」との願いを込めたと伝わっております。

現在も菜種油を燃料にして火を灯しております。毎日、朝夕の2回、燃料の菜種油を絶やさないようにお坊さんが菜種油を注ぎ足し続けているのです。お坊さんがうっかり油を注ぐのを忘れたら、油が切れて火が消えてしまいます。それから「油断」という言葉が生まれたと言われております。

それにしても1200年も続いているのを、守り続けるのは大変なプレッシャーですよね。万が一急なトラブルで火が消えてしまうことだってあるでしょう。そうならないようにバックアップ体制もできているのですね。実は法灯は立石寺(山形県山形市)の天文12年(1543年)の再建の際に分灯されてあるのです。法灯が延暦寺と立石寺で二つあるのですね。パソコンのデータを外付けのHDなどにバックアップするのと同じですね。

実際、織田信長の延暦寺焼き討ちの時、一度消えていたのですね。延暦寺焼き討ちちのあと、立石寺から再度延暦寺に再分灯で戻されたのですね。

* この記事はウィキペディアを参考にしました。

今日は平泉の史跡について、いろいろお話します。平泉の中尊寺のことは前回の記事で取り上げましたので割愛します。

1 庭園が見事な毛越寺
岩手県平泉いわてけんひらいずみにある毛越寺もうつうじについて。毛越寺といえば、みごとなのが庭園です。僕も生でこの庭園が見れて、感激しました。

奥州藤原家おうしゅうふじわらけが理想とした極楽浄土ごくらくじょうどの風景を見た思いでした。毛越寺にはいくつもの伽藍がらん(※1)があったようですが、ほとんどの伽藍は火災などで無くなってしまったようです・・・・


毛越寺には、シカの伝説があるようです。


嘉祥かしょう3年(850)慈覚大師じかくだいしが東北に巡遊をしていたようです。慈覚が歩いているときに、あたりが白いきりおおわれたようです。あたりが真っ白で何も見えません。当然、慈覚大師はこまってしまいます。

それで、慈覚大師がなにげに足元を見てみると、地面に白い毛が落ちていたようです。しかも、その白い毛があちこちに落ちていたのです。その白い毛を大師がたどってみると、大師の前方に白いシカがうずくまっていたのです。大師がシカに近くづくと、シカはとつぜん消えてしまい、かわりに、おじいさんが現れたようです。

おじいさんは「この地にお寺を建てなさい」と大師に言い残しました。

大師は「あの人は薬師如来様やくしにょらいさま化身けしんにちがいない」と思い、お寺を建てました。そのお寺を嘉祥寺かしょうじと名づけました。この嘉祥寺かしょうじこそ、毛越寺の前身です。

嘉祥寺というお寺は毛越寺の境内けいだいにあったのですが、今はもう無くなっております。ちなみに、毛越寺の名前の由来は、大師がシカの毛をたどって山をこえた話が元になっているようですね。



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嘉祥寺跡かしょうじあとの説明板)
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嘉祥寺跡かしょうじあと
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講堂跡こうどうあと
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法華堂ほっけどうと旧・常行堂跡じょうぎょうどうあと
※ 他にも伽藍跡がいくつもあったのですが、写真をりそこなったためブログでご紹介しょうかいすることができませんでした。

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(毛越寺の本堂)


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(開山堂。毛越寺を開いた慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)をまつる堂だそうです。藤原3代の画像も安置あんちしています。 )




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(いづれも常行堂の写真。江戸時代に仙台藩主せんだいはんしゅ・伊達吉村(だてよしむら)の武運長久ぶうんちょうきゅう(※2)を願って再建されたものだそうです。




2 無量光院跡むりょうこういんあとについて。

 調べによりますと、無量光院とは、藤原秀衡ふじわらのひでひらが京都にある宇治うじの平等院をまねして建立した寺院だったそうです。それが、たびたびの火災によって、無量光院も焼失しょうしつしてしまったそうです・・・

そのため今は、無量光院は残っておりません。いまは礎石そせき(※3)と池のあとが残っております。かつての無量光院は、無量光院は本物の平等院よりも大きい建物だったというからオドロキです。


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3 柳之御所
 柳之御所やなぎのごしょとは、奥州平泉おうしゅうひらいずみの政治の中心だったところです。

なんでも 藤原清衡ふじわらのきよひら豊田館とよだのたち(奥州市)から平泉に移ってきて居館きょかん(※4)をかまえた所であり、3代秀衡が再整備を行ったとか。

しかし、源頼朝みなもとのよりともが平泉にめてきたとき、藤原泰衡ふじわらのやすひらがみずから火を放ち、御所は燃えてしまったようです。

いま柳之御所跡は広い公園なっております。僕もおとずれたのですが、柳之御所は本当に広い敷地しきちだったんだなって感心しました。

柳之御所では発掘調査はっくつちょうさが行われ、おびただしい量の土器、木製の生活用具、金属製品、金塊きんかい陶磁器とうじきなど、貴重な遺物いぶつが見つかっておりますが、特に陶磁器は国産および中国産のものが多数、柳之御所跡から出土している点に僕は注目しております。これは奥州藤原氏が中国産の陶磁器を中国から輸入していること、さらに日本海海運と太平洋海運を介して、国産の陶磁器、たとえば、愛知県知多半島の常滑焼とこなめやき、熱海半島の渥美焼あつみやきなどを輸入していたのですね。

奥州藤原氏が東北を支配できたのはその経済力にありました。金や馬だけでなく、こうした海外も含めた交易もしていたのですね。

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※1 寺院または寺院の主要建物ぐん
※2 武人としての命運が長く続くこと。 また、出征した兵がいつまでも無事なこと
※3 礎(いしずえ)となる石のことであり、建造物の土台となって、柱などを支える石のこと。
※4 住まいとしているやかた。

奈良〜平安中期まで、大和朝廷はたびたび軍を東北に派遣したりして、東北を支配しようとしてきました。それが、しだいに朝廷に従順な現地の豪族たちに現地の統治を任せ、微税の便を図るようになるのです。その豪族たちの中で頭角を現したのが、陸奥の安倍氏、出羽の清原氏です。





その一方で、朝廷に代わって、東北地方に食指を動かし始めたのが、清和源氏でした。清和源氏は清和天皇の子供の経基が臣籍降下しんせきこうかし、その経基が源姓を賜り、その経基を始祖とする源氏の系統です。源頼朝も清和源氏の末裔です。





東北には馬や黄金などの産物が多く、また広大な土地も魅力的でした。この東北の地を巡って、安倍氏や清原氏などの地元勢力、朝廷、そして源氏が東北の覇権をめぐって対立をするようになります。そして、前九年の役、後三年の役という戦争へとつながっていきます。この戦争で安倍氏は滅亡し、清原氏は衰退していきます。その中で台頭するのが奥州藤原氏なのです。



また、前九年の役・後三年の役のどちらの戦いにも源氏が関わっていたのです。特に前九年の役は、源氏が興隆こうりゅうした原点ともいえる戦いでもありました。この戦いで源頼義が陸奥守および鎮守府将軍に任じられましたから。



しかし、前九年と後三年とどちらの戦いにも源氏がかかわったにも関わらず、源氏は東北の支配権を握ることができなかったのです。それが源頼朝の代で成し遂げられます。源頼朝に滅ぼされるまで奥州藤原氏は4代続きます。



なお、前九年・後三年の役に関しましては、こちらの動画の方がうまくまとまっていると思います。なにしろ、前九年と後三年の役は人間関係が難しく僕もうまく説明ができません。また別の機会に詳しく触れたいと思います。

















そして奥州藤原氏は、平泉を中心に東北をおさめました。前九年・後三年とむごたらしい戦いを続けてきた初代藤原清衡は平和な世を望みました。前九年と後三年の戦いで亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方区別することなく慰めるために中尊寺を建立しました。東北地方を仏の教えによる平和な理想郷にしようと清衡は考えたそうです。



金色堂は覆堂(※1)とよばれる建物の中にあります。金色堂自体はもちろん、金色堂の中の仏像たちが本当に金ぴかなんでびっくりしました。

金ぴかといいましてもギラギラとしたイヤらしい金色ではなく、本当に上品な感じがしまし



また金色堂には金だけでなく、銀やガラス、象牙ぞうげ(なんとアフリカゾウの象牙!)などが使われているとうからおどろきます。



それにしても、象牙まで使われていたとはおどろきます。象牙なんて今の日本ならともかく、平安の昔に象牙をたやすく手に入るわけがありません。何しろゾウなんて日本にはいないのですから。これは、奥州藤原家おうしゅうふじわらけが海外との貿易を行っていた事の証拠しょうこだと言えます。



金色堂をみて、「ああ、東北は黄金の産地だったんだな」と感心してしまいました。しかし、黄金の産地だったからこそ、時の権力者に東北がねらわれたのでしょう・・・









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(中尊寺の覆堂ふくどう。この覆堂ふくどうの中に金色堂があります。)



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(旧覆堂ふくどうの写真。以前はこの覆堂の中に金色堂があった。覆堂が作られたのは金色堂の黄金を雨や雪から守るためだそうです。)









※1貴重な文化財、史跡等を風雨から保護するために、それらをおおうように建設された簡易な建築物である



※ 参考文献



いま、「東北」の歴史を考える
高山宗東
総和社
2011-06-28





これならわかる東北の歴史Q&A
進, 榎森
大月書店
2008-06-01

宮城県に多賀城たがじょうというお城がありました。朝廷はいくつもの城や柵をつくり、そこを拠点に東北の支配にあたったことは前回の記事でも触れました。そのうちのひとつが多賀城です。ぼくも高校生の時に訪れたことがあります。すでにお城は残っていないのですが、いまも礎石そせき(※1)が残るなど、その面影は今も感じられます。歴史のロマンを感じさせる場所でした。





さらに多賀城跡には日本三古碑の「多賀城跡碑」を収めた小屋の覆堂おおいどうがあります。この碑には多賀城の創建や修造などについて141文字でつづられています。都の貴族たちが憧れた和歌に詠んだ歌枕「壺碑」とも呼ばれ、江戸時代には松尾芭蕉がおとずれ、その碑文を見たときの感想を『奥の細道』にも書いていました。



この碑文には「この城は神亀じんき元年(724)に按察使あぜち鎮守府将軍の大野朝臣東人おおのあそんあずまびとが築いたもので、天平宝字てんぴょうほうじ六年(762)に同じく将軍の恵美朝臣朝狩えみのあそんあさかりが修復したと書かれています。恵美朝臣朝狩は藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ恵美押勝えみのおしかつ)の四男です。



そんな多賀城も貞観じょうがん11年(869年)の5月26日に起きた巨大地震により被害を受けました。多賀城の城郭や倉庫、門、やぐら、へいが無数にくずれ落ちたといいます。それに加えて多賀城城下まで津波が押し寄せたというのです。いわゆる貞観地震じょうがんじしんです。



この地震の様子は『日本三大実録』にも書かれております。なんでも、その地震が起きたのが夜だったの、まるで昼間のように明るなったりしたと。そうかと思ったら元の暗さに戻ったりと書かれております。あるものは家が倒れて圧死し、あるものは地割れに埋まって死んだといいます。人々は泣き叫び、牛や馬も驚いて走り回り、互いに踏みつけあったといいます。



そして、津波。海水は雷のような音を立ててえ、怒涛どとうとなっておしよせ、海から数十万里にわたって波がおよび、原野も道路も青々とした海になったと。船に乗る時間もなく、山に登ることもできず、溺死したものは千人もいたと。田畑も津波に飲み込まれてしまい、何も残らなかったと。かなりおびただしい被害だったことがうかがえます。この貞観地震は、東日本大震災とほぼ同じくらいの規模の地震だと推定されております。



閑話休題、東日本大震災の時に、地震兵器というウワサがネットでたちましたが、申し訳ないのですが、ナンセンスな話です。大津波も大地震も日本の歴史を紐解ひもいていくと結構あるのです。貞観地震は平安時代におきましたが、平安時代に地震兵器なんて考えられません。東日本大震災の場合は、原発事故とダブルパンチだったのが被害がより大きくなったわけで。





さて、この震災のことは『古今和歌集こきんわかしゅう』にも詠まれました。



「君をおきて あたし心を 我もたば 末の松山波もこえなん」





この歌にでてくる末の松山とは、宮城県多賀城市八幡の独立小丘陵 にある景勝地けいしょうち。にある景勝地です。2014年(平成26年)10月6日より、「おくのほそ道の風景地」の一つとして国の名勝にも指定されたそうです。で、この歌の意味は「(私が) 浮気心を持つようなことがあれば、あの末の松山を波が越えてしまうでしょう。」だそうです。逆に言えば、波が末の松山を超えることがないように、私が浮気心など持つはずがないという意味ともとれます。この歌から、末の松山までくれば津波はやってこないということを物語っております。東日本大震災の時も末の松山まで逃げ込んだひとたちは無事だったといいます。







※1 建物の柱を受ける土台石のことで、単に礎(いしずえ)とも呼称される。

※ 参考文献

歴史から探る21世紀の巨大地震 (朝日新書)
寒川 旭
朝日新聞出版
2013-04-29







                                               










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