history日誌

カテゴリ:日本の歴史 旧石器〜平安時代 > 平安時代

京都といえば、たくさんの曲がありますが、僕が今日と聞いて真っ先に連想するのは、デュークエイセスの「女ひとり」でしょうね。この曲は京都のいろいろな名所をめぐり、「名古屋帯」だとか「結城」だとか「塩瀬」だとか着物(帯)の名前がさらりと歌の中に出てくるのです。この曲を作詞したのが永六輔さんです。作曲はいずみたくさん。


名所とは言いましても、清水寺だとか金閣寺だとか、竜安寺だとか超がつくほどの定番スポットではなく、大覚寺や高山寺といった具合にどちらかというとやや穴場的なお寺がでてくるのです。大原の三千院はこの歌ができた昭和40年代からすでに有名なお寺だったようですが。でも、高山寺は世界遺産になっているようですね。大覚寺はまだ訪れたことがないので、京都に行く機会があれば行ってみたいですね。

大原の三千院は京都の町から離れており、京都駅からバスで何分もかかります。僕もバスで行ったのですが、バスで揺られて、バスの車窓から見える田舎の風景を見るたびに、こんなところに本当に三千院があるのかなって疑いたくなるほどでした。三千院のバス停から降りてみると、そこから三千院のところまで、お店がいくつも並んでいて、お客さんもたくさん歩いていました。三千院は、しっとりとしていてとてもいい雰囲気です。一日いてもいいくらいです。

三千院は8世紀、最澄の時代に比叡山に建立された円融房に起源をもち、のちに比叡山東麓の坂本(現・大津市)に移され、たび重なる移転の後、1871年(明治4年)に現在地に移ったものです。

大原は古くから偉い人や念仏修行者が都を離れて静かに暮らす場として知られていました。文徳天皇の第一皇子である惟喬親王これたかしんのう(844年 - 897年)が大原で過ごしたことは『伊勢物語』にも言及されています。藤原氏の権力が絶大であった当時、本来なら皇位を継ぐべき第一皇子である惟喬親王は、時の権力者藤原良房ふじわらのよしふさの娘・藤原明子が産んだ清和天皇に位を譲り、自らは出家しました。

あと、三千院ではありませんが、平清盛の娘である平徳子もやはり大原にある寂光院(じゃっこういん)で晩年は過ごしたといいます。

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最近、相撲の土俵を女人禁制にするのは時代錯誤ではないのかという意見があります。きっかけは、京都府舞鶴市での大相撲春巡業のときです。舞鶴市の市長が土俵の上で倒れ、たまたま客として相撲をみていた女性の看護師たちが土俵に上がり救命処置をしました。しかし、行司が看護師たちに土俵から下りるよう促したのです。さいわい市長は一命をとりとめましたが、もし看護師たちが応急処置をしなかったら、市長は命を落としていたのかもしれない。人命よりも伝統を重んじるのかということで、行司と相撲協会が随分叩かれました。

大昔には女性の力士もいたそうですが、土俵は基本的に女人禁制です。なんでも相撲という競技はもともとは五穀豊穣ごこくほうじょうの女神さまをよろこばせるために行われた催しだそうです。そして、土俵にはその女神さまがいらっしゃるそうです。その土俵に女性があがると女神さまは嫉妬しっとで怒り狂い、たちまち農作物がとれず凶作になるそうです。だから、土俵には女性が上がれないそうです。

でも、今回のケースのように人命がかかっているとか、やむを得ない場合は仕方がないと思われます。原則は原則としてきちんと守ることはべきですが、原則には例外がつきもの。例外のケースが発生した時は臨機応変に対処したほうが良いと僕は思いますね。

土俵に限らず日本のあちこちにも男性しか入れない神社、逆に女性しか入れない神社があるそうですね。今日お話しする沖ノ島もそうです。

沖ノ島は九州北端と対馬のほぼ中間、玄界灘げんかいなだに浮かんでおります。周囲約4キロ、面積わずか0・69平方メートルの小さな孤島です。この島には宗像大社沖津宮むなかたたいしゃおきつみやという神社があります。
え、宗像大社沖津宮ってなにかって?順を追ってお話ししますと、宗像大社とは福岡県宗像市にある大きな神社で、沖ノ島の沖津宮筑前大島ちくぜんおおしま中津宮なかつみや、宗像市田島の辺津宮へつみや(総社)の3つの神社をひっくるめて宗像大社というそうです。その沖ノ島にある沖津宮とは宗像大社にある3つの神社の一つなのですね。ちなみに宗像大社は世界遺産に登録されました。

この島には人が住んでおらず、しいて言えば宗像大社につとめる男性の神官一人が、10日間交代で島にやってきて神主の役目をされるそうです。ただし、神聖な島であるため、島に上陸する前に徹底したみそぎが行い身を清めるそうです。

それくらい沖ノ島は神聖な島で、女性が入ることもできず、男性であっても宗像大社の許可がなければ足を踏み入れることができないのです。なぜ、島に女性が立ち入ることができないのか?それは、この島にある宗像大社沖津宮の祭神・田心姫神たごりひめのかみが関係があるそうです。この女神さまは大変嫉妬深く、女性が上陸すると、それだけで嫉妬心を抱くそうです。女どうしの争い(逆に男同士の争い)はむごいものがありますからね。異性同士の二人だったら、お互いに手加減をすることがあっても、同性同士だと容赦しないのですね。え?うちのカミさんはダンナに厳しくて、容赦しないって?まあ、その辺のお話は置いておきましょうw

それはともかく、女神さまのたたりがこわくて、沖ノ島では女人禁制がずっと守られているようです。そして、めったに人が立ち寄ることもできないので、島内には手つかずの原始林が生い茂っております。そして、かつてはこの島で祭祀が行われ(4世紀〜10世紀ごろ)、銅鏡や玉類、鉄製武器、朝鮮半島由来の金製指輪や馬具、中国由来の金銅製品、ササン朝ペルシア製のカットグラスなど様々な宝物が発見されました。これらの宝物はすべて国宝か重要文化財に指定されました。それで、沖ノ島は「海の正倉院」と呼ばれるようにもなりました。

これらの遺物が出土した背景として、古来、沖ノ島が日本から朝鮮半島や中国にわたる際の要地にあったからです。古代、宗像地方を治めていた豪族・胸方むなかた氏によって宗像大社沖津宮が沖ノ島に置かれたのです。そして、祭祀が行われるようになったのです。何のためかというと、航海の無事を祈るためです。

昔は造船技術や航海技術が未熟であったため、海難事故が多発したそうです。沖ノ島に住む神様に航海
の無事を祈るべく祭祀が行われたのです。


(宗像大社の動画)


※ 参考文献および参考にしたもの




あと、『歴史秘話ヒストリア』も参考にしました。

東日本大震災は未曽有うの被害をもたらしました。しかし、あのような大きな地震とともに巨大な津波が1000年以上前に、しかも同じ東北で起きたのです。地震の規模は少なくともマグニチュード8.3以上であったそうです。恐ろしいことです。

その地震とは869年に発生した貞観地震です。869年といえば平安時代の初期で、朝廷では藤原家が実験を握っておりました。

貞観地震では、高さ9メートルの津波が何回も押し寄せたと推定され、仙台平野では内陸数キロメートルにまで達したというから恐ろしい・・・・

被害の様子を歴史書には、このように書かれております。



五月・・・廿六日癸未 陸奧國地大震動 流光如晝隱映 頃之 人民叫呼 伏不能起 或屋仆壓死 或地裂埋殪 馬牛駭奔 或相昇踏 城(郭)倉庫 門櫓墻壁 頽落顛覆 不知其數 海口哮吼 聲似雷霆 驚濤涌潮 泝玳長 忽至城下 去海數十百里 浩々不辨其涯諸 原野道路 惣爲滄溟 乘船不遑 登山難及 溺死者千許 資産苗稼 殆無孑遺焉

現代語訳(意訳)
5月26日20時、陸奥国で大地震が起きた。(空を)流れる光が(夜を)昼のように照らし、人々は叫び声を挙げて身を伏せ、立つことができなかった。ある者は家屋の下敷きとなって圧死し、ある者は地割れに呑まれた。驚いた牛や馬は奔走したり互いに踏みつけ合い、城や倉庫・門櫓・石や土などで築いた塀などが多数崩れ落ちた。雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧き上がり、川が逆流し、海嘯が長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。内陸部まで果ても知れないほど水浸しとなり、野原も道も大海原となった。船で逃げたり山に避難したりすることができずに千人ほどが溺れ死に、後には田畑も人々の財産も、ほとんど何も残らなかった。

(『日本三大実録』より)



甚大な被害が出たのですね・・・さて、このときの朝廷はどうしたかとうと、地震から3カ月を経た貞観11年9月7日((ユリウス暦869年10月15日)になってようやく、從五位上紀春枝を陸奥国地震使に任命したそうです。震災への対応の遅さは、今と比べて通信網や交通網が発達していなかったとはいえ、昔もあまり変わらないのですね・・・


九月・・・七日辛酉・・・以從五位上-行左衛門權佐-兼因幡權介-紀朝臣-春枝,爲陸奧國地震使。判官一人、主典一人。

現代語訳(意訳)

9月7日辛酉(かのととり)の日、従五位上行左衛門権佐兼因幡権介である紀春枝を陸奥国地震使に任命した。また、判官一人、主典一人を併せて任命した。(『日本三大実録』より)


発災から4カ月を経た11年10月13日(ユリウス暦869年11月20日)の記事には、清和天皇が、陸奥国の国境が被災地とする詔を発しました。朝廷は民夷を論ぜず救護にあたり、死者はすべて埋葬するように命じました。被災者に対しては租税と労役義務を免除したとのことでした。

※ おまけ
震災当時の仙台市商業施設の動画です。動画を見ても、震災が恐ろしさを感じます。震災の時は落ち着いて行動するものだとは頭でわかっていても、いざ実際に大地震がきたら僕は冷静ではいられないと思います・・・





※ 参考サイト 

ウィキペディア

前回の記事で『往生要集』には地獄について書かれていると書きましたが、この本の著者が源信というお坊さんです。源信は比叡山で修業をしました。調べによりますと紫式部の『源氏物語』、芥川龍之介の『地獄変』に登場する横川の僧都は、源信をモデルにしているとされるそうですね。もっとも僕は『源氏物語』も『地獄変』も読んだことがないから僧都なんて言われてもわからないけれどww


それはともかく、源信の人格形成には母の存在が大きかったようです。

源信が家を出たのは10代の時でした。父を亡くしてから源信は母に女手一人で育てられ、母の期待に応えるべく、比叡山に登り修行をしたのです。そんな源信の努力も実り、比叡山を代表する坊さんの一人になり、村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれたといいます。そして、天皇からいただいた褒美の品(布帛〈織物〉など)を故郷で暮らす母に手紙とその褒美を送りました。親孝行ですねえ。

数日後母から手紙が届きました。そしてその品物も送り返されてきました。「あなたが送ってくれた気持ちをうれしく思わないわけではありません。しかし遁世修道とんせいしゅうどう(※1)」というニュアンスのものだったそうです。ふつう親は息子の出世を素直に喜ぶものなのですが、源信の母はそうじゃなかったようです。世俗的な出世をするよりも、徳の高い立派なお坊さんになるために精進しなさいと源信の母は言いたかったのでしょう。


この手紙を見た源信は泣いたといいます。さっそく返信をしました。返信といいましてもメールじゃありませんよwこの時代はネットなんて影も形もありませんからw

「仰せの旨ふかく心にしみて承りました。仰せの通り山にこもり聖人になった暁には、母上から会いたいと仰せられればその時に会いましょう。そうでなければ決して山を降りません。ああ、わが母ながらなんという善知識(※2)でありましょう」という返事をかきました。

これまた母から返事があり「いまはほっと安堵しております。これで安らかに死ねる気がします。くれぐれもいい加減な修行はなさいませんように」と。



それから源信は母のいいつけに従い、山にこもって修行にはげんだといいます。何年からたって、源信の母が危篤との知らせを源信が知りました。

源信はさっそく母のもとにかけつけ、母の死をみとったといいます。そのとき源信は「聖の道に強く勧め入れ給ふ母」と評したといいます。

『往生要集』が書かれたのは源信の母が亡くなった後でした。

※1 遁世(とんせい)とは俗世間をはなれ仏門にはいること。おそらく遁世修道とは仏門の道をつきすすむという意味かと思われる。
※2 「善き友」「真の友人」、仏教の正しい道理を教え、利益を与えて導いてくれる人を指していう。ブッダはダイバダッタを善知識と呼んだという。

※ 参考文献




あと歴史秘話ヒストリアも参考にしました。

本題に入る前に、読者の皆さんにキツイ質問をします。気分を悪くされる方もいらっしゃると思いますが、なにとぞお許し下さい。

人は死ぬとどこにいくのでしょうか?天国?地獄?いまから死んだら地獄じごくに落ちないための5つの条件をお話しします。



1 小さな虫をふくめ「生物を殺したことがない」

2 形のないものをふくめ「人のものを盗んだことはない」

3 いかに愛していても「セックスをしたことがない」

4 それがやさしさだとしても、「ウソをついたことがない」

5 法律で許されたとしても「酒を飲んだことがない」



どうでしょうかみなさん?僕はここ2か月だけでも罪を二つあげています。先月も知り合いとお酒を飲んだし、昨日も我が家にゴキブリが現れたのでw、すぐさま僕も近所のスーパーでコンバット(殺虫剤)を買い、部屋にコンバットをセットしましたから、いまごろゴキちゃんは死んでいるかもしれません。ともかく人間は人間である以上地獄に落ちる条件を備えているのです。しかし、生前に良いことをたくさんすればエンマ様ほか、あの世の裁判官さまたちが情状酌量の余地があるといいます。みなさんボランティアをたくさんやりましょうねw?

それはともかく本題に入りましょう。





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