history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

カテゴリ: 江戸時代

前回の記事で、平三郎の話をしましたが、今日は同じく鳥島に流れ着いた野村長平のお話を。野村長平の方が漂流者としては有名かな?野村長平がこの島に流されたのは、前回の記事に出てきた平三郎より後の話。平三郎が流されたのは享保4年(1719)ですが、長平が流されたのは天明5年(1785)のこと。長平は土佐の出身で、船でお米を運び、帰る途中に嵐にあい鳥島に流されたのですね。長平の他に乗組員が三人いたのですが、鳥島に漂着してから2年以内に皆死んでしまい、長平は一人取り残されたのですね。しかし長平が流されてから3年後に、大阪からの漂流者、それから日向からの漂流者と合流し、総勢十八人が皆で助けあったのです。しかし四人も病気で亡くなったものの、5年かかって船を作って、鳥島を離れ、青ヶ島を経由し、八丈島に到着、そして長平たちは無事に帰路に着くことができたと言います。

ともあれ、僕がウダウダブログで語るよりも、こちらの動画で野村長平の功績を見ていた方が、はやいかと。↓



前回の記事で平三郎が洞窟に書き置きを残したと言いますが、長平ものちにくる漂流民のためにさまざまなものを残しました。火打ち石、鍋、ふいご、船の模型、それからやはり生き残るための書き置き、今で言うマニュアルまで洞窟に置いてきたと言います。

そればかりでなく長平たちは島で亡くなったものたちにも手を差し伸べたと言います。出航の際、長平たちは亡くなった四人の名前を呼んだと言います。まるで、お前たちも乗れと言わんばかりに。さらに、すでにこの島で亡くなった名も知らぬ漂流民たちの遺骨も持ち帰り、八丈島にあるお寺に葬ったと言います。生死の淵に追い詰められながも、人のことを思えるこの余裕。しかも亡くなった人たちのことまで心を寄せられるなんて。英雄と呼ばれる人たちはこういう人たちのことを言うんだなって。

野村長平は無事に土佐に帰ってきました。長平の死後、彼のことは語り継がれ、今も地元の人たちに愛されていると言います。長平の銅像が造られたり、長平を偲んだお祭りも開かれたり。


鳥島の漂流民たちはまさに生きるか死ぬかの瀬戸際のような生活でしたが、それでも彼らは諦めずに、帰りたいという強い信念で頑張ったのですね。鳥島の漂流民たちが現在に教えてくれるものは何か?それはどんな絶望的な状況に置かれても光があるということでしょうか。

鳥島という島をご存知でしょうか。伊豆諸島と小笠原諸島の中間あたりにある無人島です。明治になって人が入植したと言いますが、この島は火山島で度々噴火するので、人が住める状況ではないのですね。それでも昭和の初め頃までは人がいたのですが、結局、この島は無人島のままです。現在は、この島全体が特別天然記念物に指定されているため、特別な許可がないと入島できないのですね。

鳥島じゃないけれど、僕は高校の頃、青ヶ島に行ったことがあります。八丈島の先で、東京から船で八丈島に行き、八丈島からは小型船で行ったのですが、青ヶ島って遠いなって思いましたもん。鳥島は青ヶ島のさらに先だと言いますから、いかに遠いかって思いますね。

今は無人島です江戸時代、この島に何人も漂流したのです。1681年から1867年にかけて、なんと15件、遭難した数も122人にも及んだと言います。幕末にもジョン万次郎がこの島に漂流したのですね。幸い、ジョン万次郎はアメリカに助けられたのですが。

江戸時代にこの島に遭難した人たちは大抵は数ヶ月、早ければ一日以内に島を脱出するケースが多いのですが、なんと、この地に19年間も滞在した人たちがいたのです。1719年冬、この島に漂流した遠州新居出身の12人の男たち。しかし、病気や老衰とかで次々なくなって最終的に生き残ったのは三人だけですが。この島は植物も小動物もいない(強いて言えばアホウドリがいるくらい)の不毛の地です。だから、そんな島で暮らすのは大変です。島を脱出したくても、乗ってきた船が大波で大破されてしまい、帰るに帰れなくなったのです。

生き残るために、まず必要なのは、住処と食料それから水。住処は島にある洞窟にしました。食料は主にアホウドリ。彼らは幸い道具を持っていたのです。大きな斧、鍋、釜、おけ、火打ち石。火打ち石で火を起こし、鍋や釜でアホウドリを煮たり焼いたりして食べたのです。しかし、毎回アホウドリばかりでは飽きてしまいますし、肉ばかりで野菜も取らないとビタミン不足になり脚気になります。それで亡くなった仲間もいたのです。野菜がないなら海藻を食べればいいじゃないかと思われますが、鳥島あたりには海藻もそんなに生えていません。食糧不足、栄養不足は深刻です。

食糧よりも大事なのは飲み水。かといって海水を飲むわけに行きません。真水じゃないと。それで彼らは桶に雨水を溜めて飲んでいたそうです。しかし、持ってきた桶だけでは足りません。


そんな彼らを助けたのは海辺にちょくちょく流れてついた漂流物。例えば、難破船の破片。難破船の破片から木材や帆布ハンプ、それから舟釘を使って彼らは道具をいくつか作ったのです。まず、船の木材を使って桶をいくつか作っては雨水を溜めたと言います。

また、その木材の木を削って細くし、釣り竿を作り、さらに壊れた船の帆布から糸をひき抜き釣り糸にし、舟釘を石で叩いて釣り針にしたと言います。これで魚を取ることができたのです。

帆から抜いた糸をより合わせ、アホウドリから採れた脂を浸すと明かりになります。アホウドリの脂だけでなく道具を作る作業の時にでた木屑も火の燃料として無駄なく使ったと言います。まさにエコですね。

また、この島に米俵を乗せた船も流れ着いたと言います。その米俵の中に入っている籾米から芽が出てきたのです。しかもその米は赤米で、水が少ない土地でも育つもの。米のヌカの部分はビタミンも豊富だから脚気防止にもなります。流れ着いたのが赤米だったのが良かったですね。普通の米だったら、こうは行きません。大量のお水が必要になりますからね。不幸中の幸いですね。これは神仏の助けかもしれない。実際、十二人の漂流者たちは、いつも神仏に無事に帰れることを念じていたと言います。その願いが通じたのかもしれない。

それで岩の隙間にわずかに土がある場所をいくつか見つけ、そこを耕し、赤米の籾米を撒いたと言います。さらに肥料には食べた魚の頭や骨を使ったと言います。すると年に20升(約30キロ)も収穫できたと言います。しかし漂流者たちはやたらと食べたわけじゃなく、病人が出たときに、お米を薬代わりに食べさせたというのです。

しかし、島での長い暮らしは漂流者たちの心を蝕みます。女房、子供と生き別れたものたちは特に辛かったと思う。それでも、女房、子供に再び会える日を信じ続けたのでしょうね・・・

そして、仲間が病気や自殺で亡くなり、とうとう残ったのはも甚八、仁三郎、平三郎の三人だけ。三人の人間関係はどんどん悪くなります。死んだ仲間の衣類を独り占めしたり、一人で焚き火にあたるなんてこともあったし、とうとうケンカにまで発展したと言います。


そんな三人が揉めているところへ新たな漂着民たちが現れます。その漂流民たちは宮本善八を中心としたグループでした。宮本善八が乗ってきた船は修理すれば、なんとかなる状況。それで船を直して、甚八、仁三郎、平三郎、それから宮本善八一行は鳥島を出発。その船は順調に進み、八丈島に到着。そこから幕府の船に乗せてもらい、無事江戸に帰れたと言います。平三郎たちはなんと時の将軍徳川吉宗にも謁見できたと言います。平三郎たちは故郷の新居に帰り余生を過ごしたと言います。

平三郎たちが島を離れる際、洞窟の中に漂流の経緯を記した書き置きを残しました。さらに余った籾米も撒いておいたと言います。それは後から来た漂流者のためでしょう。普通だったら自分のことだけで精一杯なのに、人様のことを考えらえれるのだから素晴らしいですね。


*参考文献並びに参考にした番組
「ダークサイドミステリー」(NHK)




徳川家茂のことは前回の記事で書きましたが、今日は家茂の苦労話を。家茂は上洛し、孝明天皇に謁見。孝明天皇は攘夷を命令します。家茂は困惑します。アメリカなどの諸外国とは条約を結んでいる上に、武力も圧倒的に向こうのほうが上。戦争を仕掛けるわけにはいかない。かといって、天皇の命に背くわけにもいかない。家茂がトランプのような人だったら、孝明天皇の要望も「条約を結んだんだからしょうがないだろ!ガタガタ言うな!」ってキッパリ断るのでしょうが、家茂は心優しい人。悩んだ末に、孝明天皇と攘夷の約束をしてしまいます。その時の家茂は、ストレスも溜まりまくりだろうな。ましてや家茂はいい人だから、自分の心の中にあるモヤモヤを出すタイプではなさそうだし。

そんな折、1863年5月10日、長州藩が下関の関門海峡にて勝手にアメリカの商船を攻撃してしまうのですね。そうしたら報復父してアメリカの軍艦が長州を攻撃、長州藩はボロ負けしてしまいます。世にいう下関戦争です。長州戦争での負け戦の情報を孝明天皇は知ったのでしょうね。それから孝明天皇は無理な攘夷は危険だと感じたのです。家茂は再び上洛します。その時、孝明天皇が家茂に行った言葉が、

「汝は朕が赤子。朕、汝を愛すること子の如し 汝 朕を親しむこと父の如くせよ その親睦の厚薄コウハク 天下挽回の成否に関係す。」


孝明天皇は家茂に「自分を父と思え」といったのですね。家茂と孝明天皇は義理の兄弟の関係なのに、父と思えと言う言葉を賜っている。それくらい、家茂を孝明天皇は信頼しているだなって。同時に攘夷もしなくて良いといってくれたのです。その慈愛に満ちた孝明天皇の言葉に家茂もほっとしたことでしょう。家茂は一旦将軍職をやめようとしたのですね。何があったのでしょう?結論から申し上げれば、内乱と諸外国の圧力に加え、幕府内の対立が重なり、家茂の神経はすり減らし、将軍の辞職を望んだのですね。内憂外患な状況はもはや家茂のキャパを超えてしまったのですね。同じ将軍でも北の将軍様だったら、こんな状況でも図々しくふんぞり返っていたでしょうが、家茂は心優しい人物だったから余計に悩んだでしょう。

当時は、倒幕運動も盛んで、諸外国の外圧も相当なものでした。幕府は諸外国より兵庫(神戸)の開港と通商条約締結を結ぶよう強く求められていたのです。幕府内ではこのことに意見が分かれていたのです。開港やむなしという意見と、開港はダメという意見。開港やむなしと言うのは幕府の幹部たち。開港はダメというのが当時の将軍後見人だった一橋慶喜。慶喜は将軍を凌ぐほどの力を持っていて、一会桑というグループを作っていたのです。一橋家、会津藩、桑名藩からなる一大勢力で、京都を拠点としておりました。一会桑は朝廷と強く結びついていたのです。幕府の幹部連中は朝廷をコントロールしようという考え方。つまり幕府は朝廷を下に見ていたのですね。一方の一会桑は朝廷の意向を第一に考えておりました。幕府の幹部連中と一桑会の対立に、家茂は板挟みになって心を痛めました。その時、家茂がいった言葉が、

「なんとも致呉候」

どうにでもしてくれ、という意味。とうとう朝廷に辞表を出し、将軍職に慶喜を譲ろうとしたのです。しかし、慶喜は家茂を説得し、家茂の将軍辞職を思い止まらせたのです。慶喜はこの一番の難局に将軍となって火中の栗を拾う必要はないと考えたのでしょうね。

そして長州藩が幕府に立ち向います。家茂は大阪城に行き総大将として迎え討ちますが、突然、喉の痛みと胃腸の異常、そして足が腫れるのです。脚気です。家茂は虫歯が30本もあったくらい、甘いものが好きでした。家茂出陣の際にも甘いものが届けられたのです。糖分は脚気の原因であるビタミンB1の消費を加速させるのですね。それで症状が悪化したのです。孝明天皇は家茂の治療に自らの御典医を送ったものの、家茂は慶応2年(1866)7月20日に大阪城にて死去。将軍在位は8年9ヶ月、21歳の若さでした。家茂は若くしてなくなりましたが、幅広い人たちの信頼を得て、幕府の内紛や事件を未然に防いだのですね。バランスが良く、人との信頼関係を上手に築ける人物でした。逆に言えば調整型の人物。こういう人との信頼関係を作りつつ、ことに当たる政治家は平時はともかく激動の世には向かないのですね。戦後の政治家で言えば、竹下登元首相や羽田孜元総理みたいな方でしょうか。特に羽田元首相は金丸信から「平時の羽田」(*1)と言われたくらいですから。激動の世には吉田茂のような強いリーダーシップが必要なのですね。しかし、大変慕われていたリーダーであることは間違いなく、勝海舟は、家茂の死を持って「幕府の終わり」とつぶやいたほど。

*1 ちなみに金丸は「平時は羽田、乱世は小沢(一郎)、大乱世は梶山(静六)」といった

1 最近、「忠臣蔵」をやらなくなった理由
 最近、「忠臣蔵チュウシングラ」のドラマ化されませんね。僕が学生この頃は毎年、12月になると「忠臣蔵」のドラマをどこかしらで放送していたのですね。それが最近はパタリ。最近、映画で「決算忠臣蔵」をやったのですが、それくらいですかね。でも、CSの時代劇チャンネルとかをみていると「忠臣蔵」のドラマ(再放送)や映画をやっております。テレビではともかく歌舞伎カブキでは「仮名手本忠臣蔵カナデホンチュウシングラ」という題で、今でも上演しております。ただコロナ禍で、なかなか上演が厳しい状況みたいですが。ともあれ、今も「忠臣蔵」は人気があります。毎年、12月15日に泉岳寺に行くと、参拝客がいっぱいで、おハカにささげる線香センコウけむりがすごくて、目が痛くなるくらい。

それにしても、「忠臣蔵」のドラマをやらなくなったのはなぜでしょう?理由がネットに載っていて、謎が全て解けました。


その理由はとてもシンプル。お金がかかるから。

セットもお金がかかるし、とにかく人数が必要ですからね。あの広い吉良邸キラテイのセットを作るだけでも、お金がかかりそうですし。吉良邸だけでなく、松の廊下とかのセットとか、大石内蔵助オオシクラノスケが遊んだ祇園ギオン遊郭ユウカク、それから東下りで内蔵助が 瑤泉院 ヨウゼンインの屋敷も必要ですしね。戦国時代なら、見せ場が合戦なので屋外が多いですが、「忠臣蔵」の見せ場は屋内が多いです。

また出演者もやたら多いのも「忠臣蔵」です。四十七士もそうですが、浅野内匠頭アサノタクミノカミ、瑤泉院ほか赤穂方アコウガタ、徳川綱吉や柳沢吉保ヤナギサワヨシヤスら幕府側、吉良方、上杉方などたくさん出てきます。キャストの数も多くなるのも「忠臣蔵」の特徴です。俳優さんをたくさん集めるのですから、それなりの政治力も必要です。特にこれまでの「忠臣蔵」のドラマのキャスティングを見ても、本当に豪華キャストですからね。例えば、これまで大石内蔵助役を演じたのは、松本幸四郎さんとか、松平健さんとか、仲代達矢さんとか、この間お亡くなりになられた中村吉右衛門さんとか、そうそうたるメンバー。脇を固める俳優さんもこれまた豪華。ギャラも相当でしょう。

それでなくても時代劇はお金がかかるのに、「忠臣蔵」はとりわけかかるそうです。「忠臣蔵」のドラマを作ること自体が一つのプロジェクトですね。かつては「忠臣蔵」のドラマを作ることがテレビ局のステータスみたいなものでした。それが、テレビ局も今はあんまり予算がないから、作りたくても作れないのですね。


2 愛国心が薄れたからではない

 よく、ネットでは「最近の日本人は愛国心を失ったから『忠臣蔵』が作れなくなった」とか「義理人情や忠義心が薄れたことの象徴だ」なんてコメントも見かけますが、とんでもない間違いです。

そりゃ確かに戦後間もない頃は、「忠臣蔵」の歌舞伎の上演やテレビがGHQから禁じられたことがありました。当時、軍国主義に関する本や芝居などが弾圧されたのですが、特に「忠臣蔵」は、その浪士たちの忠義心が非常に危険視されたのですね。軍国主義につながると。しかし、「忠臣蔵」の人気は高く「忠臣蔵」をみたいという意見も少なくなかったのです。そして、昭和22年(1947年)7月その禁は解かれ、同年11月には空襲の難を逃れていた東京劇場で『仮名手本忠臣蔵』は上演されました。

最も、GHQの肩を持つわけじゃないが、忠義心も一歩間違えると危険な面もあるのですね。主君が英明で常に正しい判断ができるなら良いが、暗君に忠誠を尽くすにはかえって武士道に反する。本来の忠誠心は、盲目的モウモクテキに主君に従うことではないと思います。

実際に、討ち入りだの忠誠心だのを手放しでマンセーするのは危険じゃないかって意見は江戸時代にもあったようですね。明治の頃、この事件を検証しようという動きがあったそうです。しかし、赤穂浪士を手放しでほめ、逆に「赤穂浪士の悪口を言う奴を許さない!」って空気が強かったのですね。実際、明治政府は徳川幕府は悪い政権と全否定して、ある意味徳川幕府に逆らった赤穂浪士を手放しにマンセーしたと言いますし。

戦時中は、軍部当局でも、赤穂浪士の仇討ちは一封建的領主に対する忠義すなわち「小義」であり、日本古来の皇室に対する忠義である「大義」とは異なるものなので、これを推奨スイショウするのは好ましくないという意見が出てきて、国定歴史教科書でも赤穂事件の記述は縮小されたそうですが。おそらく、昭和に入って、5・15事件とかの2・26事件とかクーデーターが起こったり、要人が暗殺される事件が度々起こったので、その反動かもしれない。

3 上杉家の子孫たちの思い
 いづれにせよ、赤穂浪士の検証もまともにできないまま、吉良の子孫たちも、後ろ指を刺されながらも耐えに耐えてきたそうです。

え?吉良に子孫がいるの?って意見が聞こえそうですが、もちろんいらっしゃいます。吉良家は確かに断絶しましたが、吉良上野介の息子が上杉家に養子に入った上杉憲綱ウエスギノリツナ。「忠臣蔵」では、討ち入りの際、父を助けようと武器を取るのですが、それを家老の色部に止められてしまいます。と言っても、その辺のお話はあくまで物語。史実は違います。上杉家には討ち入り直後の報告文書が残っており、それによれば「殿はお顔色も変えず『そうか』とおっしゃるのみだった」とあるようですが。

ちなみに、名君で有名な上杉鷹山も吉良の血が入っているのですね。そして現在の上杉家の当主が、宇宙工学者で「はやぶさ」のプロジェクトでも指揮をとられた上杉邦憲博士。上杉さんは、「忠臣蔵」では吉良上野介が一方的に悪者になっていることに疑問を抱かれておりまして、ご専門の宇宙のお話だけでなく、吉良にまつわる講演もたびたびされております。邦憲さんは討ち入りを「テロそのもの」と断じております。赤穂浪士は完全武装しているが、吉良はほとんど丸腰、しかも浪士が吉良邸を襲ったのは夜中というので。

もちろん、当時の価値観と今の価値観は違うので、現代の価値観でもって、赤穂浪士をテロ集団だと断じるのも難しい側面もあります。昔は喧嘩両成敗ケンカリョウセイバイで、吉良にも原因があると。切った方も悪いが、切られた側にも原因があるという考え方でしょう。

いづれにせよ、吉良義周キラヨシチカ処遇しょぐうはひどいなと。義周は、罪人として、鳥かごに入れられて信州に運ばれたのです。当時17歳で、病気になって20歳で亡くなったのですから。何も悪いことをしていないのに、かわいそうだなって。

ちょっと前までは、赤穂浪士に肩入れする意見が根強く吉良の方が一方的に悪者でした。それが最近は風向きが変わり、むしろ浅野の方にも落ち度があるという意見も出てきております。時代は本当に変わったなあって。「忠臣蔵」をやりづらくなったのは、予算が最大の理由だが、吉良側のいい分が認められるようになったこともあると思う。僕はどちらかというと赤穂浪士派なのですが、一度、吉良や上杉家の立場から描いた映画やドラマを作るのも良いのではないかって思います。


毎週、水曜日は仕事が基本的に休みなので、平日の昼からブログ書いていますw


「経済」という言葉の語源は、中国の古典に出てくる「経世済民」(けいせいさいみん)に由来するそうです。意味は「世を経め民を済う」(ヨヲオサメタミヲスクウ)、経は『治める』、済は『救う』であり、つまり世を立て直し、貧しい人や苦しんでいる人を救いましょうというのが本来の意味。特に君主や政治家は、蓄えた財を貧しい人や苦しむ人のために使いましょう、分かち合いましょうというのが本来の意味だそうです。だから、お金を不当に蓄財して、己の金儲けのために、好き放題をしたり、汚職などやったり、ましてや戦争なんてあってはならないことなのですね。かつての十字軍もお金儲けのために戦争が長引いたというし、イラク戦争も石油の利権が背景にあったというし、今回のウクライナ戦争もどうかな。

日本では、お金の話はタブーになりやすく、経済というと冷たいイメージがありますが、とんでもない。経済は決してお金儲けの学問でもなく、むしろお金を使って人々を救済しましょうというのが根底にあるのですね。お金そのものがタブーじゃなくて、その使い方なんですよね、問題は。お金を使う人の心次第で、人を生かすことも殺すこともできるのです。お金で救われる命もあれば、逆に借金とかで苦しんで、つまりお金のために自殺に追い込まれることもある。

経済に明るい人というのは、それだけ人々を救う力があるということなんでしょうね。

今、韓国で大統領選挙が行われており、アメリカでも中間選挙、そして日本でも今年の夏に参議院選挙があります。経済に明るい政治家が生まれるといいですね。

ただ日本はなぜか経済に明るい人があんまり評価されていないのですね。江戸時代の萩生徂徠然り、田沼意次しかり、近代では高橋是清。田沼意次は近年、やっと再評価されておりますが、戦後になっても、賄賂政治家というネガティブなイメージがずっとあったのですね。

高橋是清は2・26事件で暗殺されましたが、これは日本にとって大変痛手なのですね。もし、たか橋是清が生きていたら、日本はあの戦争は避けられたかもしれない、そんなことまで考えてしまいます。高橋是清は軍縮を行おうとしました。しかし、軍縮は軍隊の失業にも繋がります。だから、青年将校の恨みを買ったのですね。


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