キリスト教の教えは本来争いごとを否定し、島原の乱のように城に立てこもり戦って死ぬことは邪道なのですね。天草四郎以下一揆の指導者たちは、ひどい目にあった幕府を打ちのめしてやろうと企てて行ったのが島原の乱です。こんなことを言うと長崎や熊本の人に怒られるかもしれないが、彼らは一方的な被害者ではないのですね。島原の乱の指導者たちは神社仏閣を燃やしたり、お坊さんを迫害したりしてきり、無理やり人々を改宗させたのですから。本当に信心があって亡くなったのであれば悔いがないと思いますが、無理やり改宗させられて殺されたのでは合わないなと僕は思いますね。
え?、「島原の乱の一揆勢は松平信綱の提案を拒み、みな快く死を選んだぞ」って?たしかに、原城で立てこもった一揆勢を、松平信綱は「キリスト教の信仰を捨て、ふつうの農民に戻るなら命だけは助けてやる」と助け船を出したそうですね。でも、残った一揆勢はそれを拒否。信綱はやむなく一揆勢を女子供関係なく殺してしまいました。徳川の言いなりになるくらいなら死を選ぶという、まさに太平洋戦争中の日本みたい。素晴らしい信仰心だと思う反面、中には本当は死にたくなくて、信綱の「助けてやる」発言は渡りに船だと内心喜んだ人も絶対いたと思う。けれど、周りの空気に流されて、結局自分も信綱の提案を拒み死を選んだと。たとえは悪いけれど、会社で本当は帰りたいのにみんな残業しているからしぶしぶ残業する心理と共通するものが感じられます。
あわわ、別に僕は天草四郎を悪意を持って悪者に仕立てているわけではないのですよ。地元の英雄として、最近では天草四郎がモデルのゆるキャラも登場しています。だから、天草四郎の悪口を言うのも僕は本来は気がひけるのですから。ましてや震災のあった後で、一日も復興を願うのは僕も同じです。天草四郎を旗印にした復興のシンボルにすることは僕も否定しないし、できません。でも、事実は事実として語らなくてはいけないと思うんですよ。過剰な美化はよくない。織田信長にしても、ナポレオンにしても英雄と呼ばれる人物を色々調べると、ばっちい話だとか、残酷なエピソードだとか、そういった黒歴史はたいていあるものです。僕が一番好きな武将の加藤清正でさえ、クリスチャンを弾圧した記録が残っておりますし。
指導者層たちはともかく、キリストの教えを信じ、キリスト教を認めてもらいたいと願っていたが、乱で亡くなった敬虔な信者さんたちもいたことも事実。無理やりキリスト教に改宗され参加した人たちがたくさんいたとお話ししましたが、本当にキリストの教えを信じて天に召された人たちもいたのですね・・・
平成になって原城の発掘調査が行われておりますが、おびただしい人骨がみつかりました。人骨の傍らには曲がった十字架もいくつか発見されました。おそらく激しい戦火で変形してしまったのでしう。きっと「私は信仰を守って死ねるのだから悔いがない」と亡くなったのでしょうね。やるせない話です・・・
島原の乱以降、幕府は鎖国をはじめ、ほとんどの外国との関係をうちきり、キリスト教の弾圧もこれまで以上に厳しくなりました。だから、キリスト教信者たちは、マリア観音をつくったり、神社をカモフラージュしてキリスト教の伝道師たちをお祀りしていて、幕府の監視におびえながらも信仰を守ってきたのです。
その島原の乱から230年、明治維新をむかえます。明治になってやっと長崎でもキリスト教が認められるようになります。
長崎にも外国から宣教師がくるようにもなりました。宣教師たちを迎えたのは、江戸時代から禁教令を耐え忍び信仰を守り続けた人たちの末裔でした。人々の信仰心に感激した神父の言葉です。
「苦難に直面しながら、彼らの信仰の精神は打ちのめされていない」
キリスト教信者たちは、長崎の地に浦上天主堂をつくりました。信者さんたちはせっせと労働奉仕をしたといいます。あいにく、この浦上天主堂も原爆で破壊されてしまいます・・・そして、1959年に再建されます。いまも、地元の信者さんたちは祈りをささげております。そして原城跡では、毎年秋に乱で亡くなった人たちを弔うためのミサが行われているそうです。
※ 参考
『その時歴史が動いた』
え?、「島原の乱の一揆勢は松平信綱の提案を拒み、みな快く死を選んだぞ」って?たしかに、原城で立てこもった一揆勢を、松平信綱は「キリスト教の信仰を捨て、ふつうの農民に戻るなら命だけは助けてやる」と助け船を出したそうですね。でも、残った一揆勢はそれを拒否。信綱はやむなく一揆勢を女子供関係なく殺してしまいました。徳川の言いなりになるくらいなら死を選ぶという、まさに太平洋戦争中の日本みたい。素晴らしい信仰心だと思う反面、中には本当は死にたくなくて、信綱の「助けてやる」発言は渡りに船だと内心喜んだ人も絶対いたと思う。けれど、周りの空気に流されて、結局自分も信綱の提案を拒み死を選んだと。たとえは悪いけれど、会社で本当は帰りたいのにみんな残業しているからしぶしぶ残業する心理と共通するものが感じられます。
あわわ、別に僕は天草四郎を悪意を持って悪者に仕立てているわけではないのですよ。地元の英雄として、最近では天草四郎がモデルのゆるキャラも登場しています。だから、天草四郎の悪口を言うのも僕は本来は気がひけるのですから。ましてや震災のあった後で、一日も復興を願うのは僕も同じです。天草四郎を旗印にした復興のシンボルにすることは僕も否定しないし、できません。でも、事実は事実として語らなくてはいけないと思うんですよ。過剰な美化はよくない。織田信長にしても、ナポレオンにしても英雄と呼ばれる人物を色々調べると、ばっちい話だとか、残酷なエピソードだとか、そういった黒歴史はたいていあるものです。僕が一番好きな武将の加藤清正でさえ、クリスチャンを弾圧した記録が残っておりますし。
指導者層たちはともかく、キリストの教えを信じ、キリスト教を認めてもらいたいと願っていたが、乱で亡くなった敬虔な信者さんたちもいたことも事実。無理やりキリスト教に改宗され参加した人たちがたくさんいたとお話ししましたが、本当にキリストの教えを信じて天に召された人たちもいたのですね・・・
平成になって原城の発掘調査が行われておりますが、おびただしい人骨がみつかりました。人骨の傍らには曲がった十字架もいくつか発見されました。おそらく激しい戦火で変形してしまったのでしう。きっと「私は信仰を守って死ねるのだから悔いがない」と亡くなったのでしょうね。やるせない話です・・・

島原の乱以降、幕府は鎖国をはじめ、ほとんどの外国との関係をうちきり、キリスト教の弾圧もこれまで以上に厳しくなりました。だから、キリスト教信者たちは、マリア観音をつくったり、神社をカモフラージュしてキリスト教の伝道師たちをお祀りしていて、幕府の監視におびえながらも信仰を守ってきたのです。
その島原の乱から230年、明治維新をむかえます。明治になってやっと長崎でもキリスト教が認められるようになります。
長崎にも外国から宣教師がくるようにもなりました。宣教師たちを迎えたのは、江戸時代から禁教令を耐え忍び信仰を守り続けた人たちの末裔でした。人々の信仰心に感激した神父の言葉です。
「苦難に直面しながら、彼らの信仰の精神は打ちのめされていない」
キリスト教信者たちは、長崎の地に浦上天主堂をつくりました。信者さんたちはせっせと労働奉仕をしたといいます。あいにく、この浦上天主堂も原爆で破壊されてしまいます・・・そして、1959年に再建されます。いまも、地元の信者さんたちは祈りをささげております。そして原城跡では、毎年秋に乱で亡くなった人たちを弔うためのミサが行われているそうです。
※ 参考
『その時歴史が動いた』