history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

カテゴリ: 江戸時代

徳川11代将軍、徳川家斉は健康オタクだったと言います。家斉は生まれながらに体が丈夫で、一年中薄着だったそうです。カゼで寝込んだことも一生で数回程度だったそうです。家斉の健康の秘訣は散歩。毎朝、江戸城内の散歩を欠かさなかったそうです。歩くのは健康に良いそうですよ。

運動不足からジョギングをするのも良いけれど、それより合理的なのは比較的近いところなら自転車か、散歩で行き来することって話を昔誰かから聞いたことがある。


体を温めるということで、毎日ショウガを食べていたと言います。ショウガはカゼにも良いと聞きますね。僕もちょくちょくショウガ湯飲んでますよ。僕はノドが弱いので。ショウガ湯は飲みにくいけれど、体によいから、しょうがなくw飲んでます。実際、僕も昔はカゼを引くとすぐ37度以上の熱が出て寝込んじゃうのですが、最近はあまりカゼを引かなくなりましたし、引いても熱も出なくなりました。コロナの影響で手洗いなどを徹底するようになったのも理由の一つかもしれませんが。

そして家斉が好んだものは、白牛酪ハクギュウウラク。これは何かと言うと、一言で言えばチーズみたいなものです。白牛酪は、精力減退や疲労衰弱ヒロウスイジャクに効くそうです。白牛酪は牛乳を煮詰めて作ったものです。

牛は吉宗の時代にインドから日本に輸入され、その時は3頭で、牧場で飼育したと良い亜ぼうhす。家斉の時代になると70頭以上も増えたと言います。

そんな家斉も天保12年(1841)に 疝癪 センシャクという病気にかかります。症状は胸や腹などが差し込んで痛む病気です。今でいう急性腹膜炎キュウセイフクマクエンではないかと言われております。そのまま家斉は亡くなりました。69歳でした。69歳というと現在の価値観だと早死にですが、平均寿命も今より短く、医療が発展していない当時の状況から考えたら十分長生きだったのです。健康に気を使い長生きをしたことも家斉が長期政権を担えた理由の一つだと言えます。

1 家斉が将軍になれた経緯
 徳川11代将軍徳川家斉は、一橋家の出身。一橋治済ヒトツバシハルナリ嫡男ちゃくなんで、徳川吉宗のひ孫にあたります。一橋家は、徳川吉宗が設立した御三卿ゴサンキョウの一つ。御三卿は、清水家、田安家、一橋家といづれも吉宗の血筋です。幕府は将軍の跡取りがいなくなったら、水戸、尾張、紀伊と御三家から将軍を出すことになっておりましたが、吉宗は御三家とは別に、御三卿というものを作って、御三家だけでなく御三卿からも将軍を輩出ハイシュツすることができたのです。

家斉もすんなり将軍になれたわけじゃありません。10代将軍徳川家治の後継者は家治の嫡男、徳川家基トクガワイエモトと決まっていたのです。もし家基に何かあった場合に備え、次期将軍の候補も決められました。それが吉宗の孫の賢丸マサマル(のちの松平定信)と、家斉でした。しかし、筆頭ヒットウはあくまで家基イエモト。二番目が賢丸。家斉は第三候補でした。

しかし、時期将軍候補の家基は18歳の若さで急死。あまりに家基が早く亡くなったので毒殺されたのではないかってウワサもあったほど。賢丸は田沼意次らの陰謀で、白河松平家に養子に出されてしまうのです。田沼は10代将軍家治に仕え権力を握っておりましたが、将軍が変われば自分の地位が危うくなる。ましてや、日頃から田沼を「ワイロ政治」と批判していた賢丸(松平定信)が将軍になったら余計です。


そして家斉は天明テンメイ7年(1787)に晴れて将軍になります。将軍が変わっても田沼は権力を握ろうとしました。しかし、家斉が将軍になって早々、浅間山アサマヤマ噴火フンカし、飢饉キキンも起きたのです。しかも悪いことに米屋も米を買い占めたために米の価格は高騰コウトウ。それに怒った江戸の町人たちは暴動ボウドウを起こしたほど。責任を取らされる形で、田沼とその取り巻きは失脚シッキャクしたのです。田沼の代わりに松平定信が老中に就任しました。かっては将軍職の座を争っていたもの同士が協力し合う形になったのですね。幕末にも一橋慶喜ヒトツバシヨシノブ(徳川慶喜)が14代将軍の徳川家茂トクガワイエモチをサポートしましたが、何か因縁みたいなものを感じます。

2 ひょっとして名君かもしれない家斉
 松平定信は家斉の元で理想の政治を行おうとしました。それは祖父の吉宗に倣う政治改革で、のちに寛政の改革と呼ばれました。また家斉も定信の能力を高く評価し、彼に政治改革を一任したのです。定信は質素倹約シッソケンヤクを命じ、ワイロも否定。江戸城の人間だけでなく、町民の隅々すみずみにまで質素倹約を進めたのですね。その結果、町は活気が消え、経済は停滞。あんまり政府が倹約だの、欲しがりません勝つまでは、だの言うとロクなことにならないのですね。

定信は失業者に仕事を教えて社会復帰を促したり、七分積金シチブツミキンといって町人や商人に町内費を積立をさせる(※1)など良いこともたくさんしたのですが・・・彼の努力も空しく「白河シラカワの清き流れに魚住まず、にごれる田沼、今は恋しき」なんて揶揄ヤユされたほど不人気だったのです。

戦時中とか、今日のコロナもそうですが、あんまりアレもするな、コレもするなって言われると人間はかえって反発するもの。家斉も定信を次第にうとましく思うようになります。実際、怒った家斉は小姓コショウから刀をとり、定信に斬りかかろうとしたくらい。そして定信と家斉の仲が悪くなる決定的な出来事が起こります。家斉は父の治斉に大御所の号を与えようとします。それを定信は「先例がない」と猛反発。そして二人の仲は決定的に悪くなり、家斉は寛政カンセイ5年(1793)に定信を罷免ひめんしてしまいます。

最も晩年の家斉も「(自分のために意見してくれたのに)あの時、罷免したのは申し訳なかった」って反省しているのですね。また、金ピカ好きの家斉があんまり古そうな硯箱すずりばこを大事に使っていたので、小姓が気を効かせて「処分しましょうか」と尋ねたら、家斉は「これは定信からもらったもの」と大切にしていたのですね。

家斉の良い話はこれだけではありません。家斉はある時、家臣に「お前たち、この菊を育ててみせよ」と家臣に菊の苗を渡したのですね。それから時が経って、家斉は「お前たちが育てた菊を見せよ」とチェックしたのですね。家臣たちはそれぞれ育てた菊を用意したのですが、一人だけ貧相だったのですね。家斉はその家臣をしかりつけた?とんでもない、逆に「菊は貧相ヒンソウだが、この男は自分で一生懸命、菊を育てた」って言ったのですね。他の家臣たちは庭師とか専門家に菊を育ててるのを任せていたのですね。その貧相な菊の持ち主こそ、水野忠邦ミズノタダクニだったのです。のちに老中として天保の改革を推進します。

手伝いの者が掃除の際、誤って家斉が大切にしていた牡丹ボタンの枝を折ったと言います。周囲のものは慌てふためきました。「こりゃ、手打ちモノだぞ」と。しかし、家斉は怒るどころか、「おお、枝が折れたら、かえって枝ぶりがよくなったのう」と言って全くとがめなかったと言います。器が大きい人だったのですね。

家斉は毎年初夏に飛鳥山(東京の北区)に訪れていました。ある日家臣の一人が「飛鳥山に行くなら春に行きましょう」って言ったのですが、「確かに桜は美しかろう。だが、飛鳥山の桜は、多くの庶民が楽しむところだ。わしが行けば、二〜三日前から人の往来を禁じたりして、庶民の楽しみを奪う事になる。これは隅田川でも御殿山でも同じ事だぞ」と家斉は答え、家臣は感心したと言います。


また、家斉は『三国志』が好きで、劉備玄徳リュウビゲントクの軍師だった諸葛孔明ショカツコウメイの絵を自ら描くほど。そして家斉はいったのです。「なぜ(諸葛孔明のような)幕臣がいないのか」と。その場にいた幕臣たちは申し訳なさそうに固まってしまったと。すると家斉は「上に劉備玄徳のような立派な君主もいないのだからなあ」と笑ったと言います。その場にいた家臣たちの心も和んだと言います。

よく、家斉は家臣に政治を任せっぱなしの無能な人物ってイメージがありますが、実際はそうでもなさそうですね。家斉は良い幕臣を見つけて、適材適所テキザイテキショに当てる能力に長けていたのです。

3 幕府を傾かせた?将軍
 定信が失脚してから、タカがはずれたかのように贅沢をするようになります。東京の汐留シオドメ浜離宮ハマリキュウを造り、度々幕臣や大奥の女性を招いて宴会を開いたと言います。他にも釣りをしたり、なんと巨大なクジラを運んで見物までさせたと言いますから驚きです。他にも寺社を建て替えたり、その出費もバカにならなかったようです。有名どころでは、東京は雑司ヶ谷ゾウシガヤ鬼子母神堂キシボジンドウ。家斉の寵愛チョウアイを受けた、お美代みよの方という側室がいたのですが、彼女の父親に頼まれて造ったとも。

その贅沢ぜいたくぶりは大奥にも波及ハキュウ。家斉時代の大奥は3000にも及ぶ大所帯だったそうです。そのため出費も余計重なったと言います。例えば家斉の正室の 寔子ただこ(※2)の小遣いは年間5千両+銀百貫。現在の価値でなんと8億円!奥さんに8億の小遣いなんて太っ腹ですね。そして大奥の年間経費は側室の小遣いも含め30万両から40万両。これは現代に直すと、約300〜400億!!。天文学的な経費がかかったのですね。これだけのお金があれば庶民を救えますね。幕府の年間経費が140万両の4分の1を大奥が使っていたと言うから、いかに当時の大奥が贅沢をしていたかが伺えます。

また家斉の50人以上の子供たちを養子縁組に出したために、結婚の費用も重なったのですね。 家斉の女が他の大名に嫁いだ際、化粧料ケショウリョウとして一万両それプラス手当も一万両でした。一万両は今の価値でなんと約10億円。結婚費用に現在の価値で20億はくだらなかったそうです。他にも50人ないし60人もの女中も姫の嫁ぎ先について行ったため、女中の人件費も幕府が負担したから大変だった。嫁ぎ先の大名に幕府が貸していた借金返済を免除メンジョしたり、そうして幕府の財政は傾いたのですね。

そうして幕府の蓄えもどんどん減ったのですね。それを幕閣ばっかくが、ただ指をくわえて黙って見たわけじゃなく、貨幣の改鋳カイチュウを行なったのですね。市中に出回っている貨幣を一度回収し金と銀の含有量をかえ新たな貨幣を作ったのです。もっと言えば金の含有量(品位)を減らして流通させたのです。それをまた市中に流通させたのです。しかも家斉の在位中、貨幣改鋳を8回も行われたのです。吉宗の時代に改鋳された元文小判ゲンブンコバンの金品位は65%でしたが、家斉の時代の文政小判ブンセイコバンの金品位は56%と落としているのですね。


しかし、品位の落ちる貨幣が大量に流通するとお金の価値が下がります。するとインフラになったのです。インフラになって物価も上昇し、庶民は困り果てたのですね。しかし、悪いことばかりではなく家斉の時代は浮世絵ウキヨエだとか歌舞伎カブキだとか江戸の文化が花開いた時代でもあったのですね。文化だけでなく庶民たちにとって大変自由な時代だったのです。

家斉は贅沢をしたかもしれないが、それだけ庶民の方にお金を落としてくれたという側面があったのですね。よく政治家が贅沢をしているってマスコミが叩きますが、悪いことばかりじゃないんです。現代は、先行きの不安から、お金があっても使いたくないor貧困でお金が使えない、という家庭が多いと思います。ましてやコロナ禍ですから。そんな時に政治家がお金を使ってくれるとありがたいのです。経済ってある程度贅沢をする人がいないと回りませんので。

そういう意味で、家斉の時代はある意味、江戸時代の最盛期だと言われております。しかし、頂点を極めると後は下り落ちていくだけ。頂点を極めることは良いことばかりではないのです。中国映画の巨匠、チェン・カイコー(※3)の映画のセリフにもあったなあ。「私にはお前の成功の裏に潜む危機が見える」って。絶大だと思われていた幕府の力も次第に衰えて行ったのです。家斉の死後、30年近く経って幕府は滅んでしまうのです。









※1 この積立金が明治の世になって役立った。インフラを整備したり、今でいうホームレスを収容する養育院の原資ともなった。

※2父は薩摩藩主・ 島津 重豪 シマヅシゲヒデ。のちに広大院と呼ばれる。

※3「中国第五世代」と呼ばれる世代の映画監督。代表作は、「北京ヴァイオリン」、「さらば、わが愛 覇王別姫」、「黄色い大地」など。

※この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にしました。

冬季オリンピック盛り上がってますね。今回の北京オリンピックの開会式みましたが、素晴らしかったですね。演出は中国映画の巨匠チャン•イーモウ(※1)でした。彼の映画は何本か見ましたが、色の使い方とかさすがだなって。 2008年にも北京でオリンピックをやりましたが、あの時の開会式は、やたら長く、人海作戦でただ同じことの繰り返しだったからウンザリ😩したのを覚えています。今回はコンパクトで洗練されていてよかったです。さて、長いといえば、この人の話題を触れたいなって。徳川幕府は250年以上続き、その間15人もの将軍がおりました。

では、クイズです。徳川15代将軍の中で、最も在位期間が長かったのでは誰でしょう?



  1. 徳川家康

  2. 徳川吉宗

  3. 徳川家斉

  4. 徳川慶喜





正解は、徳川家斉トクガワイエナリ。その在位期間はなんと50年。半世紀も将軍の座に着いたのです。しかも鎌倉幕府、室町幕府、徳川幕府と歴代の武家政権を振り返ってみても、家斉の将軍在位期間は最長。最も長く武家の頂点に立ち続けた男といえそうです。そんな家斉の人となりについて、このような記録が残っております。

遊王ユウオウとなりて数年を楽しみたまふ 嗚呼ああ 福徳王と申したてまつるべきかな

家斉は派手な性格で贅沢ぜいたくをしていたのです。だから遊王と言われたのかも。あと家斉といえば、オットセイ将軍と言われました。オットセイの粉末を飲んで精力をつけていたから、そう呼ばれたそうです。実際、家斉は側室も多く、子供もたくさんいて、男子は25人、女子は27人と計52人。まさに大家族のお父さん。ダイナミック・パパという称号を与えたいくらいw二人の側室が同時に子供を産んだというエピソードもあったほど。家斉は好色家コウショクカとしても有名(※2)でした。家斉は健康で病気もあまりしなかったと言いますが、あそこも結構盛んだったのかもw?


※1 「中国第五世代」と呼ばれる世代の映画監督。代表作は、「紅いコーリャン」「HERO」「活きる」など。
※2最も将軍家の血筋を守るために、子供をたくさん作ったという見方もできる。実際、先の将軍家治は子供が少なくなった上に早く亡くなった。

「士農工商」という言葉は、江戸時代の身分制度のことです。武士を表す「士」が一番えらく、その次が百姓を表す「農」。年貢を収めたり作物を作る大事な人たちだから序列としては武士の次。そして職人を表す「工」がきて、金もうけをする卑しい人たちだから「商」が一番ペケと。僕らはそう教わりました。ところが、近年の教科書では、「士農工商」という言葉が出てこないのです。江戸時代にはそのような明確な身分の区別がなかったというのが新しい常識になりつつあるのです。


もともと、士農工商という言葉は中国の古典の中に出てきて、しかも身分の上下関係を示すのではなく、あくまで士農工商は並列としてとらえられておりました。それを江戸時代の儒学者の中江藤樹ナカエトウジュがこれを引用し、支配者としての「士」と被支配者の「農工商」と区別したのです。しかし、それもあくまで一つの考え方でしかありません。


確かに「士」は別格の身分でしたが、農工商の間にとくに序列はなかったのです。あくまで職能の違いでしかないのです。また、当の本人らもこれらの身分に縛られておらず、百姓から職人になることもあったし、商人が百姓を始めることだってあったのです。極端な話、百姓だったものが武士に抜擢バッテキされることもあったのです。結婚も自由で、商人の娘が百姓の息子と結婚することもアリでした。それに、幕府がこれらの身分制度を強要したこともありませんし。ちなみに百姓という言葉ですが、これは農業従事者だけではありません。漁業や林業に携わったものも、百姓と言われました。

このように士農工商が厳しい身分制度だと言われるようになったのは明治時代。明治政府は江戸時代を身分制度が厳しい悪い時代、明治は四民平等の良い時代だと言いたかったのですね。

* 参考にしたもの
「にっぽん歴史鑑定」(BS TBS)


江戸時代は鎖国をしていたと習った方は多いと思います。僕もそうでした。そして鎖国が始まったのが1641年とも教わりました。この年はオランダ商館が長崎の出島に移った年でしたから。

鎖国といえば、外国と交流をしない、今で言えば北朝鮮のイメージですが、実は幕府は貿易をしていたのですね。中国、琉球、オランダ、朝鮮とも交流が続いていたのです。交易の拠点は、長崎の出島は中国とオランダの窓口、朝鮮との窓口は対馬、琉球は薩摩藩を通して交流していました。それに田沼意次の時代には、もっと外国、具体的にいえばロシアと交流しようという意見も出たほどですから。幕府は貿易を制限しただけで、今の北朝鮮みたいに外国との交流をしていなかったわけじゃないのです。

幕府が貿易を制限した理由は、二つ。一つはキリスト教が国内で広まることを防ぐため。ポルトガルやスペインはキリスト教の宣教師を送り込み、内乱を起こさせ、それから軍隊を送り込んでアジア諸国を侵略したのですね。そうした手口を知っていた幕府はキリスト教が広まることを懸念したのです。島原の乱なんてまさに内乱です。あれを許したら、外国は日本に侵略していたかもしれない。だからこそ、幕府は徹底的に一揆軍を根絶やしにしたのですね。

もう一つの理由は、外国との交易を独占するため。諸大名が交易を通して力をつけることを幕府が嫌ったのですね。それで貿易港を制限して、その利益を幕府が独り占めしたかったのでしょう。

そもそも鎖国という言葉自体、1641年には使われておりませんでした。「鎖国」という言葉が初めて使われたのが17世紀末にオランダ商館医として日本にやってきたドイツ人医師ケンペルの著書『日本誌』の中にある。ケンペルは「日本は長崎を通じてオランダとのみ交渉を持ち、閉ざされた状態である」としたのですが、これを1801年にオランダ通訳の 志筑 忠雄シヅキタダオが「鎖国」と訳したのです。


だから、現実的には鎖国のイメージと当時の日本の状況は一致していないのですね。それで、将来、教科書から鎖国という言葉が消えるかもしれないのですね。最も、教科書には「鎖国」という言葉は当時の日本をイメージしやすい言葉だし、教える側からすれば「鎖国」という言葉を使った方が便利なので、現代の教科書では一応「鎖国」という言葉はまだ使われております。

* 参考文献





このページのトップヘ