history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 江戸時代

大奥は男子禁制です。男で入ることができるのは基本的に将軍だけです。しかし、大奥に出入りできる男性の役人もいたのです。たとえば御留守居おるすい。御留守居は大奥を取り締まる最高責任者で、町奉行や勘定奉行、大目付を歴任した人物が最終的になる役職。それだけの役職を歴任したのですから年齢的には50を超えていたのですね。

毎年、節分になると豆まきが行われます。基本、豆まきは男性の役目。じゃあ大奥ではだれが豆まきをするかというと、それは御留守居の役目。御留守居は節分当日、大奥の中に入ると、まずは炒り豆で「寿」という字を畳の上につくり、そのあとで大奥の各部屋で豆をまき、それが終わると残った豆を懐紙に包み女中たちに渡したのですね。そして豆まきの役目が終わって御留守居もほっとしたのもつかの間、奥女中たちが御留守居のところになだれ込んで御留守居を布団でぐるぐる巻きにして胴上げしたり、なでたり、突っついたり、やりたい放題。奥女中たちは日頃のストレスをぶつけたのですね。大目付まで歴任し、諸大名たちにも恐れられた御留守居たちも奥女中に囲まれては形無しです。

また大奥には警備の男性も数名いたのですが、奥女中と間違いがあってはならないということで年配者が多かったのです。爺さんになってもお盛んな人だとこまりますがねw

あと五菜ごさいという役職もあります。これは上級女中にやとわれて米の換金や買い物、それから部屋方のあっせんも行いました。部屋方とは上級女中が個人的に雇った女中のことです。



新人さんは、どこの社会でも大変です。特に新人さんは慣れない仕事をするわけですから、どうすればよいのかわからず戸惑うばかり。先輩たちはそんな新人さんに優しく手をさしのべるばかりか、「そんなこともできないのか!」って怒るばかり。自分たちが新人だった頃のことも忘れて。怒るだけならともかく、新人さんイジメに発展することもしばしばです。意地の悪い先輩は新人さんをいじめてストレスを発散しているのでしょうね。

大奥にも新人いびりがありました。大みそかになると、新人の奥女中たちが集められ、いきなり全員裸にさせられてしまうのです。先輩たちの「新参舞を見しゃいな」というお囃子に乗せて、裸の新人さんたちはダンスをするのです。新参舞とよばれるイジメです。しかも、御年寄とか上級の奥女中たちもいる前で。その新参舞のはじまりは、刺青していた奥女中が過去にいて、それを防止するために始まったともいわれております。もっとも明治時代に元大奥で奥女中をつとめた女性が「裸踊りなどありえなかった」と証言していることもあり、作り話である可能性もあります。

ただ、大奥は女性たちの嫉妬と欲望がうずまく伏魔殿。裸踊りがなかったとしても、ドラマ『大奥』に出てくるような、いやがらせみたいなものはあったんじゃないかって思います。

大奥とは、江戸城に存在した将軍家の子女や正室・奥女中(御殿女中)たちの居所のことです。大奥という表現は狭い意味では江戸城本丸大奥のみを指すが、広い意味では西丸大奥・二丸大奥も含みます。大奥の女たちは奥女中といい、奥女中たちは将軍や正室の身の回りの世話をする、はたまた将軍に気に入れられば、お部屋様になれます。奥女中のほとんどが旗本の娘だったが、お部屋様となれば実家一門も高位高禄に引き立てられるため、出世の手段として美しい娘を自家の養女にして将軍家に奉公に出す旗本もあったのです。そのため大奥は欲望と嫉妬が渦巻く女の園でした。その大奥のすさまじさはドラマでもおなじみです。奥女中たちは何人もおりましたが、細かくランク分けされており、ピラミッド式になっており、下位の身分の者は将軍や正室にあうことも許されず下働きばかりさせられますが、上の身分になると将軍や正室に会うことができます。その奥女中たちのトップが御年寄。御年寄になると老中と同クラス、下手な大名よりも力を持つことができたのです。

大奥で働く奥女中たちは給与をもらっておりました。基本給は年2回払われる切米(1石=一両にあたります)。大奥トップの御年寄となると基本給は50石。いまの価値に直すと500万円。衣装代や化粧代も別途支給。さらに扶持ふちとよばれる下働きの雇用のためのお金、それから炭、薪、油などの光熱費も支給されたし、みそや塩といった食料品の購入費も銀で支払われました。これらのものをすべて合わせると、給料総額は御年寄の場合は今の金額で2千万円以上ももらっていたのですね。すごいですね。御年寄は老中に匹敵するほどの権力を持つとはいえ、いわゆるがこんなにもらっていいのって思うくらい。

また御年寄クラスになると江戸の町に拝領屋敷というものを持つことができて、そこに町人を住まわせ家賃をとることができました。つまりアパートの管理人さんも御年寄はこなしていて、その家賃収入もあったのです。大奥に30年以上勤めると今の年金にあたる手当ももらえ、老後の生活も困らなかったといいます。ほかにも大奥の女中全員に年3回(年始、中元、歳暮)にはご祝儀、今でいう臨時ボーナスがもらえたのです。この大奥たちに支払われるボーナスだけでも年間3億円だというから驚きです。逆に言えば、幕府の財政を圧迫していた面もあるのですね。特に徳川家斉の時代は大奥がもっとも贅沢三昧をしていましたから、その出費も相当だったのではないかと。

12月25日すぎると諸大名や江戸の商人たちから贈られる付け届けも届くのですね。これはワイロにも思えますが、武家社会では年の暮れの付け届けは、今のお歳暮みたいな感じだったのですね。御年寄クラスになると相当付け届けをもらってました。付け届けをいくらもらっても一人では持て余してしまうので、部下たちに分け与えたり、そういった贈り物を現金化してくれる商人が大奥に来てくれたりしていたので、せっかくもらった付け届けを捨てるなんてことはなかったと思います。

また冬になると雪の降る日に雪中御投物せっちゅうおなげものというイベントも大奥で行われました。これは御年寄以下、上級の奥女中たちが中庭にて菓子や反物など、お歳暮のあまりものを庭に投げたのです。これを必死に拾ったのが最下級の女中、御末おすえたち。放り投げられる高価な品物になりふりかまわず御末たちは飛びつくのです。御末たちはお風呂掃除だとかきつい仕事ばかりで給料も安かったので御末たちは、このイベントを心待ちをしていたのですね。

1 実は名君だった吉良上野介
吉良上野介は『忠臣蔵』では意地が悪くて、ワイロ好きな爺さんという悪いイメージがありますが、実際の吉良上野介はもっと違くて、地元では名君だといわれております。黄金堤こがねつつみという堤防をつくって水害から守ったり、新田開発を積極的に行いました。上野介の妻の富子の名前にちなんで富好新田とみよししんでんという新田もつくったほど。また上野介は家族思いであり、妻の富子だけでなく、仕事の合間をぬって幼い娘たちに手紙もおくったほど。その手紙は子供でも読みやすいように、仮名文字だったと。優しい父親だったのですね。

また吉良家は由緒ある名家で、清和源氏足利氏の流れを汲んでおり、室町時代には「御所(将軍家)が絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と言われていたほど。なんと、今川家よりも吉良家のほうが家柄としてはランクが上だったのですね。今川家といえば戦国時代、今川義元が有名ですね。

吉良家は江戸時代には高家と呼ばれ優遇されたのです。高家とは江戸幕府における儀式や典礼を司る役職でした。いわば幕府の渉外部といったところでしょうか。身分は旗本なので低かったもの、天皇とか朝廷の人間と謁見する機会が多いので、総じて官位は高かったのです。たとえば吉良上野介は4200石の旗本でありながら、従四位上と下手な大名よりも身分が高かったのです。従四位上とはなんと仙台藩伊達家や薩摩藩島津家と同格です。すごいですね。

高家は室町時代から続く名門じゃないになれないのです。高家といえば、吉良家だけでなく、織田信長の子孫である織田家や武田信玄の子孫の武田家、あと今川家とかもそうです。あと高家の大事な役目といえば儀式儀礼の指南、つまり今でいうマナー講師です。特に吉良上野介の父は吉良流という儀式儀礼を確立させ、その父から上野介は儀式儀礼を徹底的に叩き込まれ、高家肝煎こうけきもいりと呼ばれるほど儀式に精通していたのですね。

また吉良上野介の長男、綱憲は上杉家の養子となって上杉家の家督を継ぎ、さらに綱憲は紀州徳川家の栄姫と婚約。つまり吉良家と徳川家は遠いながらも親戚なのですね。だから幕府の信頼も厚かったのです。

2 マナー講師だった吉良上野介
 諸大名は饗応役きょうおうやくという朝廷の使者をもてなす役を務めるのですが、諸大名は高家の指導を受けるのが習わしとなっていて、どんな大大名でも低頭して高家に教えをうけていたのです。教えを受けた大名は高家に相応の謝礼を払うのが武家社会の常識だったのですね。いまでいえば月謝です。宇和島藩の伊達家は金銀だけでのなく狩野派の絵まで吉良に贈ったとか。逆に浅野家は小判二枚とカツオ節だけだったので、それで上野介はカンカンに怒って、それから意地悪をするようになったってドラマで描かれております。

実際、文献でもほかの諸大名は吉良に金品を贈ったのに浅野内匠頭は、そういった金品を贈ることを嫌い頑として吉良に贈らななかった書いてあるのですね。内匠頭はワイロだとおもったのかもしれませんが、吉良からみたら、浅野はワイロどころか月謝を滞納したようなものです。悪いことに吉良家もお金に困っていたから、謝礼の未払いをされると非常に困るのですね。さらに、饗応役に任命された大名は接待費用を自費で負担しなくてはなりません。本来は幕府が払うべきなのですが、幕府は一切そんなことはしてくれません。これは大名にとって痛手ですよね。

浅野は700両、今のお金で7千万円しか出せないと主張。7千万なんてでかい金額ですね。接待にそれだけ使うなんて、いくら相手が朝廷とはいえ、すごいです。しかし、吉良は高家としての経験から1200両は必要だと主張。1200両とは現代の金額にすると、なんと1億2千万円。ひえーって言いたくなりますね。いくら朝廷が相手とは言え、一億もかかる接待ってどんだけって思いたくなります。これじゃあ浅野も拒否りたくなります。

そんな浅野の態度に吉良が腹を立て、浅野にたいして厳しい態度をとったのかもしれません。また、吉良からすると大事な儀式儀礼を台無しにしたくないから、大名たちに厳しく指導したのでしょうね。しかし、指導を受けた大名たちにはパワハラとしか映らなかった。実際、吉良はほかの大名からの評判が悪く、刃傷事件のあとも吉良ではなく、浅野に同情した大名もいたのですね。



悪いことに浅野内匠頭も短気な性格なうえ、つかえ、現在でいう自律神経失調症だったのですね。実際、饗応の役をやった当日も薬を飲んでいたという記録があるほど。朝廷への接待のことで緊張からくるストレスもたまっていたのですね。それで、日頃、吉良のことを不満に思っていたのが、何かの拍子で浅野はカーっとなって突発的に斬りつけたのかなと。

3 仮名手本忠臣蔵
吉良は刃傷事件のあと退職願をだします。幕府はその退職願を受理。そして吉良の屋敷ははじめは江戸城近くの呉服橋にあったのですが、江戸の場末の本所へ引っ越せと幕府は吉良に命じたのです。なぜ幕府は吉良に引っ越しを命じたのか。それには謎が多いのですが、実は浅野家の家臣たちが主君の仇をとるべく、吉良の首を狙っているのではないかというウワサが幕府はもとより町人の間でも広まっていたのですね。呉服橋なら浅野家の家臣たちが襲撃しても江戸城の近くなので、それを防ぐことができますが、本所ではそれを防ぐのが難しい。が、本所なら守りも薄く攻めやすい。これは幕府が浅野の家臣たちにかたき討ちを仕向けているとも解釈できるのですね。赤穂浪士の襲撃の噂は、当然吉良の耳にも届いていたので、吉良も自宅の警備を固め、吉良が日頃つきあっている職人や商人のなかにも、浅野のスパイじゃないかって目を光らせたほど。

これは綱吉が下した浅野内匠頭即日切腹があまりに早急で、吉良に対して何のお咎めがないのは不公平だという声が、世間どころか、幕府の中でも疑問にもつ者が少なくなかったのですね。現在の感覚だと、吉良は浅野に斬られても何も抵抗しなかったし、むしろ被害者ですが、この時代の価値観はケンカ両成敗で、いきなり斬りつけた浅野も悪いが、その原因は吉良にもあるのだから、吉良も責任をとれというのが、この時代の考え方なんですね。

それで世間の評判を気にした綱吉が、吉良に急に冷たい態度をとったのですね。ましてや、綱吉は生類憐みの令をだしていたから、幕府への不満を持つものもが多かったのです。庶民は幕府の不公平な裁定の被害者という認識で、浅野に同情的でした。

それで、これ以上幕府の評判を落とさないために、上野介を見捨てたのですね。支持率が落ちまくって、人気を取ろうと、小手先だけの人気取りを行う総理大臣と同じですね。たぶん、幕府に対する庶民への不満を吉良に向けさせたのですね。そうやって吉良を悪者に仕立て上げたのでしょう。それで上野介も捨てられたのだから、気の毒だなって。

そして大石率いる赤穂浪士が見事に吉良を討ち取ると庶民たちは拍手喝采。赤穂事件をもとにした浄瑠璃や歌舞伎が上演されるようになったのです。ただし赤穂事件のあらましをそのまま上演すると幕府からお咎めがあるので、物語の舞台を南北朝に置き換えて上演されたのですね。吉良上野介を足利尊氏に仕えた高師直に置き換えたのです。高師直は色男で、塩治判官しおやはんがんの奥さんに不倫をしようとしたのですね。それに怒った判官は高師直に斬りつけるのですが、高師直は時の権力者の尊氏に近いこともあって、お咎めなし。判官のほうが切腹され、御家も断絶したのです。この構図が赤穂事件とにているということで、この話をベースに物語が作られたのです。そして大星由良之助(*1)という架空の人物を付け加え、大星とその同志たちが高師直をやっつけるというプロットになっております。そうしてできたのが『仮名手本忠臣蔵』。こうした芝居を上演するたびに、庶民の間にますます吉良が悪者だと刷り込まれてしまうのです。

史実からみたら、大石のほうがテロリストで、吉良のほうがいい人なのですが、芝居を面白くするためにも吉良が悪者でなくてはならないのですね。芝居とか映画は勧善懲悪で悪者と正義の味方がはっきり区別しているほうが見ているほうはわかりやすいですからね。『ああ野麦峠』の映画だって、原作は製糸工場の厳しい事情も書かれているのに映画では一方的に製糸工場のほうが悪者になっていて、逆に映画を見た製糸工場の元工女さんたちからクレームがくるほど。


4 明治になって益々吉良が悪者に
明治時代になると、赤穂浪士たちは国家的に利用されたのですね。明治政府は天皇を中心に中央集権国家を構築し、欧米に立ち向かおうとしていました。主君のために命を投げ出す四十七士の生きざまは国家にとって都合がよかったのです。彼らを称賛し模範とすることで、国家のために戦う人間を育もうとしたのです。学校教育でも忠臣蔵が盛り込まれたほど。また、明治政府は江戸幕府に否定的です。その江戸幕府にある意味逆らった四十七士は明治政府からみたらまさに英雄です。だから明治から昭和の初期までは、吉良は完全に悪者になって、赤穂浪士の悪口を言うやつは不届きものみたいな空気があったようです。こうなると益々吉良が悪者になってしまいます。

もっとも太平洋戦争がはじまると話が変わってきます。軍部は赤穂浪士の仇討ちは一封建的領主に対する忠義すなわち「小義」であり、日本古来の皇室に対する忠義である「大義」とは異なるものなので、これを推奨するのは好ましくないという意見が強くなったのですね。それで、歴史教科書でも赤穂事件の記述は縮小されたのです。おそらく、昭和初期に2・26事件とかいろいろ政府の要人が殺される事件が起こり、そんな事件が今後起こっては困るというののが当時の軍部のお偉いさん方の頭にあったのかもしれない。




*1 判官の家老という設定


*この記事は『にっぽん!歴史鑑定』を参考にして書きました。







江戸時代、名君と言われた人がいました。会津藩主の保科正之です。2代将軍徳川秀忠の子で、家光の母親違いの弟です。33歳の時に会津藩主になります。保科の前の藩主が悪政を敷いていたので、領民は疲弊し、疫病にも苦しんでいたのです。他藩に逃亡する人間もいる始末。

それで、保科は領民第一の政治を行いました。保科の政治の根底にあったのは「仁」。全ての人に健康と福祉を推進した名君だったのです。



保科は社倉制という政策をとりました。社倉制とはまず、藩が米を買い占めます。そして共作の年に領民に貸し出します。生活に困った領民は2割の利息で米を借りることができたのです。次の年、年貢を納めるときに利息と共に借りた米を返済する決まりになっているのですが、たとえ生活に困って返せなくても、利息を払わなくて良いのです。その年の年貢も納めなくても、待ってくれるということです。ずいぶん寛大な処置ですね。

さらに社倉制でえた利息分も、藩のもうけにしないで、その利息で米を買い、飢饉の時に備えたと言います。そのため、会津藩では飢饉になっても、餓死者を出さなかったと言います。


 
お話は保科が生まれる前にさかのぼります。実は保科正之の母が、身籠った時、徳川秀忠の妻、お江与の嫉妬を買ったのですね。それで、一度はお腹の子をおろそうとしたのです。そのお腹の子こそ保科正之だったのです。もし、母親がおろしていたら、保科はこの世にいなかったでしょう。そのため保科は命を守りたいという意志が強かったのです。それで、領民に間引きを禁じたのです。

さらに保科は旅人にも心遣いをしました。領内にやってきた旅人が倒れたら、医者に連れて行くように政令を出したのです。その旅人がお金を持っていなかったら、藩がお金を出したのです。



高齢者の保護も手厚く行いました。領内の90歳以上の領民全てに一日5合分の米を毎年支給したのです。ある年は該当者が百人以上にも及びましたが、分け隔てなく配ったので、涙を流して喜んだ者もいたのです。

また、保科は4代将軍家継の時代に幕閣の1人に任命され、そこでも人命を守る政治を行いました。明暦3年(1657)1月18日から20日(いまの3月2日 - 4日)の三日間、明暦の大火が起こりました。火事とケンカは江戸の華といいますが、それくらい江戸は火事が多かったのです。明暦の大火はとりわけ被害が大きかったのです。火災は三日間にもわたり、江戸の6割を焼き尽くしたのです。明暦の大火は本郷にあった日蓮宗本妙寺で発生。その火は風にあおられ、あっという間に周囲に燃え広がりました。また『むさしあぶみ』という文献によると「はげしき風に吹きたてられて車輪のごとくなる猛火地にほとばしり」という記述もあります。これは火災旋風(火の竜巻)までが起こったことを意味しております。それくらいひどい火災だったのですね。



(火災旋風)

大名屋敷160軒、旗本屋敷810軒、町人地(町人たちがすむ住宅街)800町以上も消失。しかも江戸城天守閣も焼けてしまいます。死者もおよそ10万2千100余人にもおよんだといいますから、いかにひどい火災だったかがうかがえます。これほど火災が広がったのは消防システムの脆弱さとあまりに江戸の町が密集しすぎていたからです。

一応、大名火消しという消防団があったのですが、これがあまり役にたたないもので。幕府から任命された大名が10日交代で火消しの役を担ったのです。しかし、この大名火消し、火災が大名屋敷で起こったら出動したものの、町人地でおきたときは出動しなかったのです。つまり町人地で火事が起こっても知らんぷり。そんな大名火消しを「消さぬ役」と皮肉ったほど。

町人地では町人たちが火災は自分たちで消しなさいというのが幕府の方針。つまり武士と町人たちが火災にあってもお互いに協力しようという姿勢がなく、それどころか、武士は町人たちを犬畜生かのように見下していたのですね。同じ人間と思っていない。まさに人間軽視だったのです。実際、明暦の大火で武士たちは火災でさほど被害を受けておらず、火災で亡くなったのは町人たちがほとんど。つまり武士たちは町人が火あぶりになっても知らんぷり。これでは助かるはずの命も助かりません。

火は三日で収まったものの、被災者たちは身も心もズタズタです。家も焼かれ、家族や友達を失ったもの。保科はまず、被災者のために、お粥の炊き出しをしました。その粥は幕府の米蔵から使われました。しかも、老人や病人には塩分控えめの粥を配るという配慮。

焼けた家屋の再建のため、幕府から資金も保科は渡しました。家康以来貯めてきた御金蔵も使ったのですね。これには幕閣も猛反対。今のご時世でいうならコロナ給付金みたいなものですね。しかし、江戸時代には、民間人のために政府がお金を使うなんてことはありえなかったこと。御金蔵はあくまで、いざ戦争になったときの備えだという認識が幕閣の間にあったのですね。それを保科は「お金は下々の人々を救うためにあるのだ。金を貯めるだけでは、それはないものと同じ」と幕閣たちを説得。大名や幕臣だけでなく町人たちにも返済義務のない援助金をわたしたのです。その総額はいまの価値で200億円だというから驚きです。

さらに保科は火災で亡くなった無縁仏の供養塚も作ったり、江戸城再建をやめたりしたのですね。

もちろん、江戸の町再建は保科ひとりだけの手柄ではなく、知恵伊豆こと松平信綱らの活躍もありました。幕府は町中に広小路という空き地を作って、火災の被害をすくなくしようとしたのです。有名なのは上野にあった広小路。いまも地下鉄の駅名(上野広小路)にもなっております。

江戸城内にあった御三家の屋敷も移転、被災した大名たちの屋敷も当時は野原が広がっていた麻布などに新たな屋敷を与えたり。本郷や湯島にあった寺も、当時は発展途上だった浅草に移されたり。また墨田川には橋がなかったので多くの人が亡くなったのですね。それで、立派な橋をかけてあげたり。万治2年(1659)には両国橋が完成。そして両国橋の先の本所をニュータウンとして開発。のちの『忠臣蔵』に出てくる吉良邸も本所に移されるのですね。また赤穂浪士たちも両国橋をわたって吉良邸に討ち入りするのですね。もし、両国橋がなかったら、赤穂事件はなかったかもしれない。

また幕府は消防システムも整えました。従来の大名火消しに加え、定火消じょうびけしを組織をつくりました。今でいう消防隊ですね。


 
※この記事は『英雄たちの選択』、『にっぽん!歴史鑑定』を参考にしてかきました。

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