history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

カテゴリ: 明治・大正

1 三毛別ヒグマ事件
近年、熊が町にやってきていると言います。それも年々増えていると言います。怖いだろうな。実際、熊が町の通行人を襲っている様子を動画で見ましたもの。怖い世の中になったなあって。東京でも奥多摩や八王子で熊を見かけたなんて話を聞きます。こうした熊の被害は昔からありましたが、最もひどいのが大正時代に起きた「三毛別サンケベツヒグマ事件」


NHKの「ダークサイドミステリー」という番組で知りました。事件が起こったのは、1915年(大正4年)12月9日から12月14日の間。北海道の開拓民の人たちが住む集落にヒグマが現れ、そのヒグマが7人も殺し、重症者も3名出たのです。狙われたのは女性と子供ばかり。女性を狙うとはずいぶんスケベなクマだなって僕は思わず思ってしまいました。以下、ヒグマに殺された人です。



・阿部マユ(34)
・斉藤タケ(34)
斎藤巌サイトウイワオ(6)
蓮見幹雄 はすみみきお(6)
明景金蔵ミヨケキンゾウ(3)
斎藤春義サイトウハルヨシ(3)
・斉藤タケの胎児たいじ


専門家によりますと、クマはめったなことでは襲ってこないそうです。実は熊は臆病おくびょうな生き物で、人間をある意味怖がっているそうです。だから、熊が出そうな山道を歩くときは鈴とかふえラジオとか音の出るものを持っていくと良いそうです。あと、歌でも歌えば完璧でしょうかw?それと最近は熊撃退スプレーなんて売っているので、万が一熊が襲ってきたときのために持っていくのも良いかも知れません。

そうやって人間がいるということを熊に知らせると良いそうです。万が一、熊にあったら絶対にやってはいけないのが、逃げること。逃げると熊が自分より弱いと認識し、熊は襲ってくるそうです。

あと、俗に言われている死んだふりは微妙。有効という人もいれば、絶対ダメという人もいるので。死んだふりは、あんまりおススメできるやり方ではないみたいです。万が一、熊にあったら、まず熊の目を見て、穏やかに声をかけながら、そのまま、ゆっくり後退りをして、熊がいなくなるまで、ずっとそれを続けると良いそうです。ともかく、熊にあったら怖いけれど、それにビビったら向こうもつけあがって襲ってくるというのです。なんだか、いじめの構図と同じような気がします。いじめっ子だって相手が弱いと思うから、意地悪をするのだから。

2 凶悪なヒグマ
さて、事件が起こった原因は、熊の生息地に人間が住むようになってからです。明治から大正にかけて、本土から次々と開拓民が北海道にやってきたのですね。そして開拓民が北海道に住むようになったのですが、開拓民が「ここは俺の土地💓」って勝手に住むことはできません。土地を割り当てがあったのです。平野だとか海に近い便利な土地を割り当てられた開拓民もいれば、逆に辺鄙へんぴな場所を割り当てられた開拓民もいたのですね。

辺鄙なところを割り当てられた人たちは運が悪いということで。辺鄙ということは山奥。そういう山奥は熊の生息地。熊に出くわすリスクが高まるのです。事件の始まりは12月9日。の太田家で、太田家当主(太田三郎)の内縁の妻・阿部マユ(当時34歳)と、太田家に養子に迎えられる予定であった子供の 蓮見幹雄 はすみみきお(当時6歳)の2人が、窓を破って屋内に侵入したと見られるヒグマに殺害されたのです。そして、ヒグマはマユの死体を口にくわえたまま、そのまま立ち去ったようです。殺害現場となった太田家には、マユの髪の毛だけが残っていたようです。

翌日の12月10日の朝、集落の男たちがマユを探したところ、太田家から150メートルほど離れた付近でヒグマに会います。童話の「森のクマさん」に出てくるような優しいヒグマではありません。そのヒグマはとてもでかい熊でした。それもそのはず、このヒグマの大きさは体長2.7メートル、体重340キロ、立ったら3.5メートルほどだそうですから。

集落の男たちは手に持った鉄砲でバンバンとヒグマを狙ったら、ヒグマは一目散に逃げたと言います。そして、ヒグマがいた地点には、変わり果てたマユの遺体でした。集落の人たちはマユの遺体を持ち帰り、同日夜、太田宅で幹雄とマユの通夜が行われ、集落の人たちも数人集まりました。午後八時過ぎ、外から物音が聞こえてきたと思うや否や、なんと今朝に追っ払ったはずのヒグマがまた襲ってきたのです。しつこいですね。当然、その場にいた人たちは大混乱。恐怖のあまり逃げ出す人も。ヒグマは自分の獲物が消えたものだから取り返しにきたのでしょうね。


そして、太田宅からヒグマが消えて、20分と経たない午後8時50分ごろ、窓を破ってヒグマが今度は、太田家から500メートル離れた明景家みよけけに侵入したのです。その時明景家には女や子供も含め十人もいたのです。戸主である明景家の家族だけでなく、斎藤家の人間もいました。斎藤タケ(34)、斎藤巌(当時6歳)、斎藤春義(当時3歳)の3人。しかもタケのお腹の中には赤ちゃんがいたのです。ヒグマにおびえて、明景家に集落の者が何人か集まっていたのでしょうね。

ヒグマに居間に引きずり出された斎藤タケは、「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」とお腹の中にいた赤ちゃんの命乞いをしたのですね。どんな自分がひどい目にあっても子供を守ろうとする母の愛情ですね。しかし、その母の慈愛も虚しく、ヒグマは上半身からタケを食い始めたのです。駆けつけた集落の男性らが鉄砲を空に向かって放つと、ヒグマは玄関から躍り出たのち裏山の方へと姿を消しました。タケの腹は破られ赤ちゃんが引きずり出されていたが、ヒグマが手を出した様子はなく、そのときには少し動いていたといいます。なぜ、ヒグマがわざわざ赤ちゃんをお腹の中から出したのか謎ですね。しかし、その赤ちゃんも間も無く亡くなります。明景家の三男の金蔵と、斎藤巌、斎藤春義もヒグマに殺されてしまいます。こんなに幼い子供まで無慈悲に殺すとは憎たらしい。


3 ヒグマを退治したものの・・
 12月12日は、警察が駆けつけました。ヒグマは獲物を取り戻そうとする習性があるので、明景家にに残された犠牲者の遺体をエサとして誘き寄せようとしたのです。するとヒグマは当たりを警戒しながら、のっしのっしとやってきたところを、警察が射殺しようとするが、失敗。ヒグマは逃げてしまうのです。

そして12月13日、歩兵第28連隊の将兵30名がヒグマ退治のために出動。また、熊退治の名人の山本兵吉も助っ人で駆けつけます。翌日の14日には、そのヒグマをやっと打ち取ることができたのです。退治したのは山本兵吉。熊撃ちの名人であったは一撃でヒグマの心臓近くを撃ち抜き、続く銃弾でヒグマの頭を貫通させたのです。

ヒグマの死骸しがいは住民によってそりで運ばれました。すると、にわかに空がくもり雪が降り始めたのですね。事件発生からこの三日間は晴天が続いていたが、この雪は激しい吹雪に変わり、ソリを引く一行を激しく打ったと言います。不思議なことですね。この天候急変を、村人たちは「熊風」と呼んで語り継いだとか。

さらに不思議なことが続きます。そのヒグマは解体され、その肉も人々が食べたのですが、鍛冶屋の息子が、肉を食べたその日の夜から家族にいきなり噛みついてきたりと乱暴し出したのです。その凶暴性は日に日にエスカレート。そこで彼を寺に連れて行ったところ、間違いなく熊のタタリであることが判明したのです。そのため鍛冶屋の近親縁者が集まり、一心に祈りを捧げたところ、息子の症状は治まったと言います。そういうことってあるのですね・・・怖

この事件が起きて以来、人々は集落を離れてしまったのですね。三毛別ヒグマ事件があった現場は今も人が住んでおりません。

4 人間を恐れなくなった熊
それにしても人間を恐れるはずの熊がなんでこんなに何度も襲って人間を殺しにきたのでしょう。それは熊が人間を恐れなくなったからだと言います。当時、開拓民の家の外には、干したトウモロコシが置いてあったのです。実はクマはトウモロコシが大好物。トウモロコシの匂いに誘われクマはやってきたのです。そういうことが何度も続いたのです。村人たちも思ったでしょうね。なんでトウモロコシがなくなるのかって。そうやって人間の気配を感じても、それを恐れなくなったのです。いわゆる慣れでしょうか。

実はクマは獲物を捕まえるのは得意な動物じゃないのですね。例えば山にいる鹿を襲ってもクマはうまくそれを仕留めることができず、逃げられてしまうことの方が多い。鹿はすばしっこいですからね。ところが、人間のいる里に行けば、容易に食べ物を手に入れることができる。

最近、熊が町にも現れるようになりましたが、それもきっと同じことでしょう。食べものを求めて町までくるようになったのですね。町に行けば、畑もそうですが、生ごみだとか色々ありますし。何回も町を訪れているうちに人間への警戒心が薄れたのでしょうね。

そして、三毛別事件では、ヒグマが人間を襲って、その人間の味を覚えるようなり、それで人間の肉を求めて何度も集落にやってきては、人間を襲うようになったのでしょう。人間は鹿ほどすばしっこくないし、どんなに足が早い人でも熊から逃げるのは容易ではありません。ヒグマは時速60キロで走れると言いますからね。これはオリンピックのメダリストより早いかもしれない。こりゃ人間を襲った方が楽だとヒグマは学習したのでしょう。

三毛別のヒグマ事件は漫画や小説の題材にもなりました。そして、亡くなった人たちへの供養も地元の人たちがしているようですね。



*この記事は「ダークサイド・ミステリー」を参考にして書きました。





あけましておめでとうございます。本年も良いお年になりますように。

今年は寅年なので、プロ野球でも阪神タイガースに頑張ってもらいたいなって。

言っておきますが、わたくしはプロ野球特別どこのチームも応援しておりません。その時その時で応援するチームが違いまして。西武がめちゃくちゃ強かった時(1980年代から90年代にかけて)は、日本シリーズではセリーグの優勝チームを毎回応援して、パリーグ覇者の西武をやっつけろなんて思ってまして。あの時の西武は憎たらしいほど強かったから。今は西武バスや西武鉄道をちょくちょく利用するせいか、西武は嫌いじゃなくなりました。震災の時は楽天を応援していました。ちなみに知り合いや友達は阪神ファンと中日ファンがなぜか多く、巨人ファンの方とは、あまりお会いしたことがありません。東京に住んでいるのにおかしいなwちなみに僕の母親が巨人ファンでした。ともあれ、プロ野球もコロナで色々大変なことになっておりますので、選手のみなさんもお体に気をつけてプレーしてほしいなって。

それでは本題に移ります。今日は演歌のお話、演歌の話をして、ええんか?なんちゃってw




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幕府はパリ万博に出品するため使節を送りました。全権に徳川慶喜の弟の徳川昭武。その使節団には若き日の渋沢栄一もいたのです。外交のためであり、ヨーロッパの優れた技術を学ぶためでもあったのです。慶応3年(1867)1月に使節団は横浜を出発。その年の3月にパリに到着。

パリ万博では日本も出品もしました。日本が出品したのは、鎧、昆虫標本、和紙、屏風、蚕紙など。面白いのは丸太まで出品をしていたのです。なぜ、丸太なのか謎ですが、日本は林業が盛んだと言うことを言いたかったのかもしれません。はじめは樹皮も磨いて綺麗な丸太を出品をしようとしたのですが、幕府が雇っていたフランス人アドバイザーが樹皮のついたままの方がいいと助言をしたのですね。それで、当日は、樹皮がついたままの丸太と樹皮が磨かれた丸太の両方が出品されたのです。

そして、割り当てられた日本の展示ブースに幕府の使節がきて驚いたのです。そのブースに薩摩焼、薩摩切子など薩摩藩の品々が所狭しと置かれていたのです。薩摩藩が幕府に先んじて展示ブースに品々を置いていたのです。これには幕府の面目も丸潰れ。

さらに薩摩藩が用意したのは工芸品だけではありません。勲章まで作ったのです。その勲章には薩摩琉球国の文字があしらわれていたのです。薩摩藩は藩の一つに過ぎないのですが、あたかも薩摩藩が独立国であるとアピールしたのです。ヨーロッパ諸国は当時の日本の情勢なんて知らないですからね。薩摩琉球国の勲章があれば、日本には江戸幕府の他に薩摩琉球国という別の国があると思ってしまいます。琉球王国は薩摩の支配下とはいえ、一応独立国でした。そこに薩摩藩は目をつけて、この勲章を使ったのです。当時のヨーロッパ外交では勲章を用意し、その勲章を国の元首に渡すのが習慣になっていたのです。

そのことに怒った幕府の使節団は薩摩に抗議をしたのです。「日本の代表は江戸幕府なのにお前ら薩摩がしゃしゃり出るとは何事だ!」って。薩摩も「悪かった」と言ったのですネ。そして薩摩藩は「gouvernement de satsuma」として出品するという話を持ちかけたのです。「gouvernement」はフランス語で「藩」という意味です。それで幕府はそれなら良いと了承したのです。しかし、それが大きな失敗だったのです。

ところが数日後の新聞に驚くべきことが書かれていたのです。新聞には「徳川将軍は、日本の皇帝ではなく薩摩や他の大名と同等である」と。このような報道が出たのは「gouvernement」という言葉のせいでした。実は、この言葉、フランス語では「藩」ですが、英語だと「政府」っていう意味になるのです。つまり日本には薩摩と幕府という二つの国があるという印象をヨーロッパ諸国に与えてしまったのですね。実は幕府も事前に薩摩が不穏な動きをしているのは掴んでいたのですね。しかし、まさかここまで薩摩が、したたかだっとは思わなかったのでしょう。

さらに薩摩がやったことといえば、こんな話があります。幕府が当日手間暇かけて作った武者人形。この人形を作るのに幕府が大変な期間と巨額な経費をつぎ込んで出品したのですね。当然、人々の注目が集まります。それを薩摩はあたかも自分達が作ったかのように印象付けるために薩摩藩の家紋の入った看板をその人形の前においたのですね。これは誰かがこの人形の写真を撮っているなと目ざとく見つけた薩摩藩士が、その看板を人形の前に置き素早く逃げたとか。


薩摩藩が幕府を出し抜くことができたのは、パリ万博が開かれる2年前、薩摩藩は留学生をフランスに送り込んでいたのですね。それで留学生の五代友厚が、シャルル・ド・モンブランという人物と接触。五代はモンブランからパリ万博の情報を入手。それで、いち早く日本の展示ブースをほとんど乗っ取ることも、勲章の件でも幕府を出し抜くこともできたのですね。要するに早い者勝ち。事前に周到な準備をした薩摩藩の勝利でした。薩摩藩の対応の速さ、情報の正確性、スピード感には驚かされます。

薩摩との駆け引きには敗れましたが、幕府の出品したものは高評価を得ます。中でも人気だったのが日本のパビリオン。日本の茶屋をそのまま再現したのです。座敷には三人の女性が優雅に座っていて、茶を客に振る舞うのです。そのエキゾチックな雰囲気に、パビリオンに来た客は魅了されたです。日本のパビリオンの1日の来場者は1300人もいたとか。

さらに養蚕や工芸品、和紙などの技術が評価されたのです。来場者は「日本の展示品の大部分は入念に制作されており、芸術的な価値を備えている」「日本の磁器は全てを備えている。色彩、優美さ、多様性、洗練された形、奇跡が実行されている」と評価。慶応3年(1867年)5月に行われた万博の表彰式では、グランプリを受賞し、徳川昭武がフランス皇帝のナポレオン3世からグランプリメダルを受け取ったのです。

またフランスから見ても日本は重要な国だと認識していたのでしょう。実はフランスも絹が盛んでしたが、蚕が病気になって、フランスの養蚕業が大変なダメージを受けていたのです。それでフランスは日本から蚕卵を輸入し、フランスの養蚕を復活させようとしたのですね。


ちなみに徳川昭武とナポレオン3世の息子が仲良くなって、昭武に犬をプレゼントしたなんて話もあります。

パリ万博を終えた一行はその後もヨーロッパ各地を歴訪しました。スイス、オランダ、ベルギーなど。ベルギーでは国王と面会。国王はベルギーの鉄をアピール。その時の渋沢は衝撃を受けたのです。日本は商売は卑しいものだという認識があったので。翌年の慶応4年(1868年)の1月、渋沢たちは大政奉還の知らせを受けます。大政奉還は前の年の10月に行われたので、遅れてフランスにその知らせがきたのですね。今みたいにネットもない時代でしたから。さらに鳥羽・伏見の戦いで幕府が負けた知らせも受けます。それでも、徳川昭武たちは日本に戻らずパリにとどまる道を選びます。しかし、幕府からの送金も途絶えてしまいます。そこで昭武を支えるため渋沢は鉄道債権を購入したり預金をしたりで自前で資金を調達したのです。

そして、とうとうパリにいる昭武たちに帰国要請が来ます。幕府が倒れてしまったのですから。そして使節が最後にやった仕事が万博展示品の後始末でした。幕府の展示品はフランス商人たちに委ねられたとか。幕府の出品した品々はヨーロッパ各地の博物館や美術館に引き取られたと言います。こうした芸術品はヨーロッパの人たちに高く標j化され、ヨーロッパの芸術家たちもこうした日本の品々からインスピレーションを得たと言います。ゴッホやモローも浮世絵をモチーフに絵を描いたと言います。それはジャポニスム(日本主義)とも言われております。

また、この留学を通して渋沢はヨーロッパの資本主義やインフラなどの必要性を学びました。それから渋沢は明治になって銀行を始めて作り、会社制度を整備したのです。もし、渋沢がパリ万博の体験がなかったら、彼は資本主義の父と呼ばれなかったでしょう。

1 労働組合に理解を示した渋沢栄一
 労働組合というと資本家(経営側)といつも対立しているイメージがあります。しかし、渋沢栄一は資本家でありながら、労働者の環境や地位の向上を求めて、大正元年(1912)8月に鈴木文治スズキブンジが創設した労働団体の「友愛会ユウアイカイ(現在の連合)の活動を支援したそうです。また、大正8年(1919)8月16日には、資本家と労働者の協調を図るために財団法人協調会を設立したと言います。

「治安警察法第17条は撤廃テッパイし、労働組合の勃興ボッコウを促し、労働者の利益を計るとともに、資本家側の利益をも計らねばならない。労働組合は意思の疎通ソツウを計り、労働者を統一する機関として、最もその必要を認めるものである」


今もそうかもしれませんが、渋沢の生きていた時代も労働組合に理解を示した経営者はほとんどいませんでした。従業員を安い給料でこき使うような経営者が多い中で、これはすごいなと。労働組合側にとっても渋沢の存在はとても大きかったのではないかと。

ネットでは渋沢は労働者を守る工場法の制定に反対したトンデモないやつとありますが違います。彼が工場法に反対したのは日本で工場法を導入すつのは早いから反対したのです。彼が工場法に反対したのは明治29年(1896年)のこと。発展途上にある産業の育成を優先せざるを得なかったのですね。そんな彼ものちに工場法に賛成します。

2 病人や震災復興に積極的に取り組む
 渋沢はハンセン病患者とも向き合いました。ハンセン病はらい病と呼ばれ、これにかかったものは差別されていました。渋沢は初代のらい予防協会の会長を務めるなど、らい病の予防にも力を入れたのですね。

他にも渋沢は災害の復興支援も熱心にやりました。明治39年(1906)に起きたサンフランシスコ地震では、サンフランシスコのために震災見舞金を率先して出したのですね。当時の多くの日本企業は躊躇チュウチョアメリカが日本人移民排除をおこなっていて怒っていたから。

大正12年(1923)の関東大震災でも国会と 商業会議所が共同して設立した大地震善後会の副会長に渋沢が就任し、復興活動に尽力したそうです。この時渋沢は高齢に達していて、家族も埼玉の深谷に戻るように進めましたが、渋沢は拒否。

「このような非常時にお役に立てなければ、何のために生きているのかわからない」と言ったとか。

 
3 救護法にも尽力
 渋沢が91歳の時に、社会福祉団体の代表が渋沢の邸宅テイタクを訪ね、生活困窮者セイカツコンキュウシャを救うために救護法キュウゴホウの予算化に尽力ジンリョクして欲しいとの依頼があったようです。救護法は、貧困者の救護を国や自治体に初めて義務化させたもので、今の生活保護にあたります。大正の昔は生活保護のみならず社会保障がなかった時代ですから。(あっても今と比べ乏しい時代)

しかし、救護法は政府の中でも「怠け者を増やす」など反対意見も少なくなかったのです。

当時の渋沢は風邪カゼをひいて体調もすぐれなかったのですが、車の用意をさせ、すぐに大蔵大臣オオクラダイジン内務大臣ナイムダイジンに面会申し込みの電話を入れたそうです。渋沢の主治医シュジイも渋沢の奥さんも驚き、渋沢の外出を止めようとしたのですね。よろける足で立ち上がり、大蔵大臣の元へ向かったそうです。その時、渋沢はこのように述べたそうです。

「こんな老ぼれが、平素から養生ヨウジョウを心がけているのは、こういう時に役に立ちたいからなんです。もし、これがもとで私が死んでも、20万もの不幸な人たちが救われるのであれば結構なことではないですか」


素晴らしいですね。自分の体が弱っても、人様のために働こうという気持ちが素晴らしい。これがどこぞのブラック企業の社長さんだったら、「甘えるな!そんなん自己責任だ」で終わりですもん。

しかし、救護法が制定される1932年(昭和7)の前年の昭和6年に渋沢栄一は永眠します。享年92歳。

* 参考文献


渋沢栄一は新一万円札の顔です。2024年には一万円札が一新され、福沢諭吉ともお別れです。なんだかんだで諭吉さんにはお世話になったのですね。ちょっとさみしい気がします。例えば3万円がサイフに入っていたら、諭吉が三人なんて言い方を僕はしていましたが、2024年以降は栄一が三人になるのですね。今のうちに諭吉さんの顔をしっかり脳裏ノウリに焼き付けておきますねw?

ちなみに、僕が小学校3〜4年生の頃まで一万円札といえば聖徳太子でした。驚いたのですが、聖徳太子がプリントされた一万円札は現在(令和3年9月23日現在)でも一応使うことができるそうですね。聖徳太子から福沢諭吉にバトンタッチして30年以上たつのにすごいですね。最近、ニセモノの聖徳太子の一万円をコンビニで使って捕まった事件も起こりましたっけ。

それはともかく本題に入ります。今日は渋沢栄一のちょっといい話です。

渋沢栄一が亡くなった後、当時の代表的な短歌誌である『アララギ』に渋沢栄一をしのんだ歌が掲載ケイサイされました。

「資本主義を罪悪視する我なれど 君が一代は尊くおもほゆ」


渋沢栄一は日本を代表する資本家です。しかし、彼はもうけ至上主義ではありませんでした。むしろ、目先の損得からは距離を置き、世の中全体のことを考えていました。彼がどのような社会活動を行なってきたか。みていきます。

* この記事は「英雄たちの決断」を参考にして書きました。



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