history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。

カテゴリ:日本の歴史 近現代 > 日本の歴史(明治・大正・昭和初期)

※ この記事はウィキペディアを参考にしてかきました。


<SP盤復刻>決定盤 初代 桂春団治 落語傑作集
桂春団治(初代)
コロムビアミュージックエンタテインメント
2009-08-05





きょうは大阪が舞台の歌です。浪花こおこの歌は都はるみと岡千秋さんのデュエットソングです。この曲の主人公は、桂春団治(初代)という漫才師と、その奥さんのお浜です。桂春団治は実在した人物です。昭和初期に有名な漫才師で、従来の古典落語にナンセンスなギャグを取り入れた大胆な改作をはかり、天才的かつ巧みな話術で、爆笑王として人気を集めました。

当時の先端技術でもあったレコードに落語を吹き込んだことでも有名です。ただ、私生活が派手な人で、後家殺しとかいろいろ言われていたそうです。この歌にもあるように酒も飲んだし、女も泣かせました。借金もたくさんしたそうです。そんな彼の生きざまは伝説化し、脚色が加えられ、小説、演劇、歌謡曲などの題材となりました。




この曲には、お浜という女性しかでてきませんが、実在の春団治には二人奥さんがいました。一人目は東松トミ。二人目は岩井志うという女性でした。

トミは春団治が貧乏の極みにあったときも黙々と夫を支え、金銭感覚のない夫の代わりに内職で生計を立てていたそうです。後妻の志うは世間知らずな上に、完全に春団治にほれ切っていたため、そのばく大な資産を全て春団治に使い果たされても、文句も言わず、喜んで金銭を出してやっていた。一方の春団治も、周囲の者に志うのことを「御寮人さん」と呼ばせ、常に顔を立てていたそうです。

ともかくも、この春団治と志うの二人の間に夫婦の愛情があったことは疑い得ません。後年、志うは酒で身体を壊し晩年の春団治の看護ができなくなり、先妻トミと、トミと春団治の間にできた一人娘が看病していたそうです。志うは夫の死後、奈良県桜井市の親戚に引き取られ、翌年、その家の玄関脇の小部屋で寂しく世を去ったといいます。

最後に春団治の残した名言(迷言?)をご紹介します。


  • 名を上げるためには、法律に触れない限り、何でもやれ。芸者と駆け落ちなど、名を売るためには何べんやっても良い

  • 借金はせなあかん


  • 芸人は衣装を大切にせよ


  • 自分の金で酒呑むようでは芸人の恥


  • 使用人は時間に寝かさなあかん。弟子に時間は無し


  • 女は泣かしなや


春団治は噺家としてはすごかったけれど、家庭人としては?だったのだなあって,、というか人としてどうかなって彼のセリフをみても感じます。まあ、衣装を大切にせよだけは納得できますが。


1 長崎の鐘と永井隆

 今日は藤山一郎さんがお歌いになった「長崎の鐘」。長崎に落とされた原爆の悲劇と、平和への祈りがこもった名曲です。昭和24年にこの曲は発表されました。作詞はサトウハチロー。作曲は古関裕而です。本当はこのエントリーを8月9日に書きたかったのですが、あの日は暑さのあまりに体調を崩してしまってブログを書けなかったのですね。「長崎の鐘」の鐘とは、廃墟となった浦上天主堂の煉瓦の中から、壊れずに掘り出された鐘のことです。 この歌は、永井隆の著書「長崎の鐘」がベースになっております。永井隆は小説家でも随筆家でもなく、医師です。被爆して重傷を負いながらも、献身的に被害者の救護活動を行った人物です。



2 永井隆のおいたち
明治41年(1908年)に島根県の松江で生まれました。中学校時代は5年生に級長となり、当時摂政宮だった昭和天皇を全校生徒の先頭に立って迎えたそうです。ところが、運動は苦手で運動会の競争はいつもビリから二番目だったと回想しています。僕もそうだったなあ、運動が苦手で、走るのもいつもビリだったっけ。

松江高等学校を卒業後、長崎医科大学(いまの長崎大学医学部の前身)入学しました。永井は、運動オンチだったのですが、体格がよかったこともありバスケ部に誘われました。彼はメモ書きを怠らない熱心さで、、明治神宮で行なわれた全国大会で3等、西日本選手権制覇などに貢献したといいます。熱心やれば、僕もスポーツができるようになるのかなw?スポーツに限らず何事も一生懸命やることが大事なのですね。

昭和7年(1932年)卒業し、永井は助手となりました。昭和8年に見習医官となり、満州事変に従軍しました。昭和9年長崎医科大学物理的療法科副手。同年6月に受洗(※1)をしました。パウロという霊名(※2)をいただいたそうです。永井隆はクリスチャンだったのですね。そして結婚をしました。それから、妻の仲介によりカトリックの信徒組織である聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会(ヴィンセンシオ会)に入会しました。無料診断・無料奉仕活動などを行い、この頃に培った奉仕の精神が、晩年の行動へと結びついて行くのです。

昭和12年には陸軍軍医中尉し、日中戦争にも動員されました。。

昭和15年に長崎医科大学助教授、物理的療法科部長とエリートコースを進みましたが、何しろ当時は戦争真っただ中。この頃は「この戦争は是非勝たなければいけない。日本国のために、陛下のために。」と口癖のように言い、地域の婦人部の竹槍を指導したり、きもだめしと称して血の付いたガーゼを暗くした部屋に散らし、ガイコツを置いたりして地域の婦人部屋の端から出口まで通らせることもしたとか。

3 被爆した永井。そして「長崎の鐘」
そんな永井も昭和20年の8月9日に被爆。右側頭動脈切断という重傷を負うも、布を頭に巻くのみで負傷者の救護活動にあたりました。永井がこの爆弾が原子爆弾だと知ったのは、原爆投下の翌日にまかれたアメリカのビラでした。


’永井)先生はまたサッと見られて、顔がもう真っ青になって、豆粒のような汗が滲み出て「あー、これが原子爆弾であったか」先生も放射能の専門家ですからね。「アメリカが原子爆弾の研究をしているということは知っておった。しかしこんなに早くに使えるまでになってるとは、知らなかったー」とそれだけおっしゃった。


そんな永井にも原子病の症状が現われ、傷がさらにひどくなり高熱が続き昏睡状態に陥ったといいます。薄れる意識の中で

「光りつつ 秋空高く 消えにけり」


と詠んだそうです。

昭和21年にはれて長崎医科大学の教授となりますが、長崎駅ちかくで倒れ、以来病床についたといいます。昭和23年に二畳の庵に二人のお子さんとともに暮らしました。その庵の名前を如己堂にょこどうといいます。「己の如く人を愛せよ」の言葉からとったそうです。昭和23年にはヘレンケラーが永井のもとを訪れたといいます。昭和24年に、永井が書いたのが『長崎の鐘』です。そして、同じ年の5月に永井は昭和天皇から見舞いのお言葉を賜ったといいます。そして同年12月には長崎市名誉市民に選ばれました。また、昭和24年は「長崎の鐘」の歌ができた年でもあります。昭和25年には『長崎の鐘』が映画化。しかし、永井隆は昭和26年5月1日に亡くなりました。

4 福島の原発と長崎の鐘
 広島と長崎に原爆が落とされ、人類は核兵器の恐ろしさを知りました。しかし、それにもかかわらず、終戦後も米ソを中心に核兵器開発が続いております。ちょくちょくと核兵器を減らす話し合いがおこなわれたり、条約も何度か結ばれたりしたのですが、核兵器が地上から消えるのはいつの日になることやら。また、核兵器とはいいいませんが、先の東日本大震災で原発事故がおこり、改めて核エネルギーとどう向き合っていくか、それとも原発を完全になくすべきか問われております。僕も永井隆の「長崎の鐘」をよませてもらいました。この本の最後のほうにでてくる内容がとても印象に残ったので引用させていただきます。


「人類は大昔から石器時代、銅器時代、鉄器時代、石炭時代、石油時代、電気時代、電波時代と進歩してきて、今年から原子時代に入ったんだ」(中略)

人類は原子時代に入って幸福になるのだろうか?それとも悲惨になるのであろうか?神が宇宙に隠していた原子力という宝剣をかぎわけ、探し出し、ついに手に入れた人類がこの諸刃もろはの剣をふるっていかなる舞を舞わんとするか?善用すれば人類文明の飛躍的進歩となり、悪用すれば地球を破滅せしめる。(中略)人類は今や自ら獲得した原子力を所有することによって、自らの運命の存滅そんめつの鍵を所持することになったのだ。思いをここにいたせば、まことにりつ然たるものがあり、正しき宗教以外にはこの鍵をよく保管し得るものはないという気がする。
『長崎の鐘』P184〜185



※ おまけ


僕も修学旅行で長崎に行ったことがあります。いいところですよ。本場のちゃんぽんもおいしいです。また、平和についても考えさせられるところです。






※1 キリスト教で洗礼をうけること。
※2 洗礼名 クリスチャンネーム

広島県呉市に音戸の瀬戸(おんどのせと)とよばれる海峡があります。海峡自体は比較的狭いのですが、海流がはやく泳いで渡ることができないので、船を使って海峡を渡ったのです。現在の音戸渡船の形は江戸時代からと言われています。

そしていつごろからか急流から舟歌『音戸の舟唄』が作られ歌われました。戦後、渡船は24時間開かれ、4隻で船頭10人以上で運航していたそうです。それが海峡に橋がかかったのですね。

1961(昭和36)年に瀬戸内海初の有料道路橋(現在は無料)として開通した音戸大橋と、2013(平成25)年に開通した第二音戸大橋(愛称:日招き大橋)が架かり、1つの海峡に2つの橋がかかる日本では珍しい景観を作り出しています。

そんなこおもあって渡船のニーズが減っているのですね。しかし、いまでも地元の人は交通手段として渡船を利用したり、観光目的でも渡船は使われております。

この音戸の瀬戸を切り開いたのは平清盛だといわれております。安芸の厳島神社に参拝するための航路の整備のために切り開いたとか、荘園からの租税運搬のため、日宋貿易のための航路として、海賊取り締まりのため、など様々な説が言われております。






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(清盛の塚)

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(清盛の塚)

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(平清盛の人形)

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