history日誌

カテゴリ:日本の歴史 近現代 > 日本の歴史(明治・大正・昭和初期)

大山捨松は、万延元年(1860)、会津の家老の家に生まれました。幼少のころはサキといいました。それが、会津戦争で彼女の人生が変わりました。この戦で会津藩は、鶴ヶ城に立てこもって籠城戦をしました。その時捨松ことサキはまだ8歳でした。彼女の当時の心境をのちにこのように回想しております。


「毎日のように大砲の弾が私たちの頭の上をかすめお城の中に落ちてきました。私たち女子供も精いっぱい、男たちを助けて働きました。幼かった私に割り当てられた仕事は弾薬づくりの準備を手伝うことでした」

結局、会津藩は負けてしまいます。それから薩長を中心に新しい政治がはじまりますが、新政府は士族の子弟を留学生を募集します。岩倉具視を中心に使節団を欧米にわたり、条約改正の準備と欧米の視察をすることに決まったのですが、ついでに欧米に留学生も送ろうと政府は考えたのですね。山川家はこれに応じ、サキを送り込みます。これは山川家が薩長を見返したいという思いと、学問を通してお家再興を願ったのです。

その時、母がサキに贈られた名前が「捨松」という名前です。犬の名前のようですがw、これは「捨てたつもりで待つ」という意味合いが込められております。日本初の女子留学生は5人の少女がいましたが、捨松のほかに津田梅子もいました。津田梅子はなんと当時8歳です。捨松11歳、梅子8歳で海外へ留学。親は内心とても心配したと思います。コロナやテロが心配だから?それは21世紀の話でしょw?ましてや今の留学とは訳が違い、当時のアメリカは日本にとって未知の国でもありましたから。

捨松当時11歳でした。明治4年(1871)11月、捨松はアメリカへわたりました。捨松がアメリカでステイホーム先になったのが牧師のベーコン家。ベーコン夫妻は地元から尊敬されていたほどの名士で、英語やマナーなどを学んだのです。捨松はベーコン家で実の娘のようにかわいがられたのです。捨松に影響を与えたのはアリスというベーコン夫妻の娘です。彼女は教師を目指しており、人はみな平等だと主張していました。

ベーコン夫妻やアリスを通してキリスト教に基づいた価値観を捨松は学びました。捨松は武家の娘。武士の倫理は、親の言いつけを守ったり、上の人間に忠義を誓うことしか頭になかったのです。生命を大事にするなんてもってのほかで主君のためには命さえも捨てろという価値観でした。これがキリスト教に基づく愛や慈愛の精神とは真逆の考え方です。そういう意味ではカルチャーショックを受けたのではないでしょうか。

明治政府が捨松ら留学生に求めていたのは良妻賢母になること。しかし、アメリカはその逆で女性の社会進出も盛んでした。アリスの影響を受けた捨松はニューヨーク州のヴァッサ―大学に入学します。英語はもちろんフランス語、政治学なども学び、成績はトップクラスでした。22歳で捨松は大学を卒業。捨松は日本で学校を作りたいと思うようになりました。

明治15年(1882)、捨松は学校をつくるという夢を抱き日本に帰国します。しかし、喜びもつかの間、捨松には過酷な運命が待っていました。政府は男子には仕事を与えましたが、女子には何一つ仕事を与えていませんでした。日本に帰国した捨松はアメリカのアリスに手紙を送りましたが、その時捨松はこのようなことを書きました。

「ああ、アリス、人生はなんて複雑なのでしょう。私はいままで人生の暗い面など想像したこともありませんでした。自分の未来、自分の強さにとても自信を持っていたのに、その両方を亡くしてしまいました」

22歳になった捨松、家族からの結婚するように迫られました。そんな時、大山巌からプロポーズされます。大山は18歳年上ですが、前妻に先立たれた大山が新しい嫁さんを探していたのです。この縁談に捨松の兄は断固として反対。そりゃ18歳も離れたらね。親子ほどの差がある。今でこそ親子ほどの年の差カップルなんて珍しくありませんが、当時はとても珍しいものでした、もちろん、年の差だけでなく、大山は薩摩の出身。かつての会津戦争の敵。それでも大山はあきらめなかったので、兄は根負け。判断は捨松本人に委ねられました。

また、捨松に教師の仕事の話が舞い込みますが、捨松は11年の留学生活のため日本語は初等教育レベルしか話せません。いくら英語ができても日本語がしゃべれなければ、日本人の生徒に勉強を教えることはできません。そのため教師の話を断念。しかし、捨松は学校をつくる夢をあきらめておりません。その夢を果たすためにも実力者の大山と結婚したほうがよいのではと思うようになったのです。大山は包容力があり、薩長の幹部たちがケンカをしても、大山が仲裁に入ったほど。また、指揮官として部下が働きやすいように配慮をする人でもあったのです。そんな大山を捨松は見抜いたのでしょうね。

そして、明治16年(1883)6月、悩んだ末、捨松は大山巌と結婚すると決心します。その時の心境をアリスへの手紙につづっております。

「大山氏はとても素晴らしい方で私は将来を託すことにしました。未来の夫のために自分自身を捧げ、よき協力者になりたいと思っています。今、私は自分がしたことが正しかったと思っています」

大山巌と捨松の夫婦関係はなかなか良好で、捨松は夫のことを「巌」と名前で呼んでいたそうです。大山も自分の娘に外国の教養を学ばせようとする進歩的な考え方だったので、価値観も一致していたそうです。

大山は陸軍卿として軍隊の強化を行っていました。しかし、厳しい訓練だけでは軍はつよくなりません。西洋から優れた軍事物資を取り入れる必要があります。そのためにも欧米とも仲良くならなくてはなりません。

茄子じゃなかったw那須の塩原に大山の別荘があるのですが、ここで各国の要人をもてなしたといいます。捨松は国ごとの作法でもてなし、パーティーを取り仕切ったといいます。椅子やテーブルなどの調度品もアメリカから取り寄せてたといいます。欧米の要人たちがまるで母国のようにくつろいでもらいたいという捨松の配慮でした。

そんな彼女のおもてなし術は新政府の眼にとまります。

明治政府は鹿鳴館をつくりました。政府は不平等条約を改正させるため、夜な夜な各国の要人を鹿鳴館に招いて、ダンスパーティーを開いたのです。日本が文明国であることを証明しようとしたのです。当時の人たちは西洋のもてなし方など知らなかったのです。そんな中、捨松は本場仕込みの巧みなダンスのステップと語学力で各国の要人をもてなしました。各国の要人たちは捨松のエレガントな立ち振る舞いを称賛。捨松は「鹿鳴館の華」とも呼ばれました。

そんな捨松は看護学校をつくりたいと考えるようになりました。実は捨松は大学を卒業後、半年くらい看護学校に通っていたのです。チャリティーバザーを開き、その資金で看護学校を作ろうとしたのです。新聞も捨松のこうした動きを大きく取り上げした。当時の日本にはバザーなんてありませんでしたからね。新聞を見た婦人たちも、捨松のこうした動きに賛同。手製の人形やハンカチなど多くの品物が集まりました。そして鹿鳴館を会場に日本初のバザーが開かれました。そのバザーには皇室の関係者がくるなど、すごいもので、3日間で一万人も集まったとか。集まった金額は現在の価格で一億円だとか。すごいですね。この資金をもとに有志共立東京病院看護婦教育所を設立しました。これは日本初の看護学校でした。

これは捨松がアメリカでの経験もそうですが、幼少時の会津戦争での経験も大きいと思われます。照姫という会津藩主の義理のお姉さんが、籠城戦で場内の女性や子供を指揮したのですが、照姫がうちかけを傷ついた兵士にかけてあげたりするなど、身分の差を超えて看護をする姿をみたのです。それで、彼女は看護学校をつくることの必要性をかんじたのですね。

小平市にある津田塾大学ですが、この大学の前身、女子英学塾をつくったのが津田梅子ですが、捨松もこの学校設立の際に全面的な協力をしたそうです。この英学塾の顧問に捨松が就任。梅子のために資金集めなどで協力したのです。また、アリス・ベーコンを英学塾の教師へと招聘したのです。

明治37年(1904)、日露戦争がおこります。大山巌は満州軍総司令官に任命されます。95万の兵士を率いて、大国ロシアに立ち向かいます。戦争中、捨松は出征兵士たちの家族を支援する活動をしたといいます。働き手を失い困窮する家族には、軍服の裁縫や洗濯をする仕事を与えたり、母親が働きやすいように無料の託児所をつくっていたそうです。そして総司令官の妻として何よりも大切なことは戦死者の遺族を慰問することでした。


「いま、私が一番つらいことは遺族の方たちを訪ね、慰めの言葉をかける時です。たとえ国中の人が栄誉ある死について褒め称えたとしても、私たち女性は悲しみを殺して愛国主義者となる前に、妻であり母なのですから」


日露戦争当時の日本はイケイケムードで、おそらく日本の歴史上もっともネトウヨみたいな人が多かった時代だと思います。そんな時代で「家族のつらさ」を語るとは勇気があります。捨松は幼少のころに、会津戦争で多くの死を目の当たりにし、戦争で亡くなった遺族のつらさを身をもって経験していました。だからこそ、彼女は慰問活動を大切にしたのでしょうね。

晩年の捨松と大山巌夫妻は那須塩原の別荘で静かな余生を過ごしたといいます。その時の心境を親友アリスにこう手紙につづっています。

「親愛なるアリス、私は自分の生活が今とても幸せであることに心から感謝をしています。夫もとても元気で、私たちは仲の良い老夫婦となりました。あなたの親友捨松より」

大正8年(1919年)2月18日)、捨松は亡くなります。

捨松は愛する伴侶、巌とともに那須の地で今も眠っています。



ところが板垣に思わぬスキャンダルが発覚するのです。板垣が政府のお金を使って洋行、つまりヨーロッパへの視察旅行をしたことが発覚したのです。その板垣に洋行の話を持ち掛けたのが、後藤象二郎。後藤も政府の元参議で後藤のい盟友です。政党活動に興味を失っていた後藤は政府への復帰をもくろんでいたのです。そこで板垣を洋行させるかわりに自分を政府へ復帰させてくれと伊藤博文と井上馨に持ちかけました。政府にとってこの話は願ってでもない話でした。これで、自由党を分断することができると。こうして板垣は洋行したのですが、それが外部にばれてしまったのです。

このことに怒った自由党の人間もいました。「板垣は政府の犬になった」って。そうして何人かの自由党員が板垣の元を去ったのです。

さらに悪いことに自由党の弾圧も地方で行われておりました。たとえば福島県。ここでは府県会という地方議会がすでに行われておりました。ここでは自由党幹部の河野広中が福島県会議長をつとめるなど、自由党の勢力が強かったのです。そこで議会になったのは地方税の問題。それまでの2倍の重税を課そうとする地方政府と、それに反対する自由党。いまなら自由党はパヨク政党と叩かれそうですねwこれに対し福島県令の三島通庸みしま みちつねは福島の自由党全員一斉検挙。さらに河野たちが政府の転覆をはかっているという理由で彼らを断罪したといいます。

この事件で福島の自由党は壊滅状態。各地の自由党も同じように弾圧されます。そんな仲間たちがピンチの中でのんきにw板垣は洋行に出発します。それは明治15年(1882)のことでした。仲間がピンチの中で何をやっているんだと思いますが、おそらく板垣は、政党活動は何だかんだで盛り上がっているのだから自分ひとり抜けても、全然問題ないだろうと考えていたのかもしれないし、この洋行自体が、板垣を陥れるためのものなのに、それを見抜けなかったのかも。

さらに不況の影響で、政党活動がままならず、詐欺や強盗で活動資金を調達する不届きものまで現れるのです。

クリーンな政治とは聞こえが良いのですが、実際政治活動をするにもお金がかかります。選挙活動にもお金がかかるし、議員になると付き合いもありますし、秘書に給料を払ったり、事務所の家賃を払ったり。また、議員が国会で質問をする際、資料を買い集めたり、シンクタンクにいろいろと調べてもらったりするのですが、そうなると一回の質問に付き100万円はくだらないみたいな話を聞いたことがあります。もちろん、これは現代の話ですが、当時も政治活動をするにはお金がかかったのです。遊説をするにしてもその交通費や宿泊代だけでもバカになりません。


翌年の明治16年に板垣は帰国しますが、仲間たちの惨状を目の当たりに、がく然とします。国会開設(明治23年)まであと7年あります。その間に自由党をどうするか?板垣は悩みます。

自由党をこのまま存続させ、地道に力を蓄えるべきか?

それとも

いったん解党して次の一手を考えるべきか?(福島のような弾圧事件がまた起こりうるから)


板垣は、党員に提案します。党の活動に必要な費用10万円を募金で賄おうと。当時の10万円と言ったら、いまの価値に直すと数億円にもなるといいます。10万あつめられなければ解党やむなしと、板垣は党員たちにハッパをかけたのですが、翌年の党大会で集まったのは一万円。目標の10万円にはとても足りません。その結果を受けて、板垣は自由党を解党することを決心しました。明治17年(1884年)10月29日、自由党大会で板垣は解党を決定。

自由党解党からわずか数日、秩父事件(明治17年11月1日)が勃発します。民衆たちが蜂起したのです。当時養蚕で収入を得ていた農民たちは、生糸の価格の大暴落で苦しんでいました。負債に苦しむ農民たちは立ち上がったのです。この決起活動のバックには自由党党員がいたのです。彼らは「負債の据え置き」や「減税」を主張していました。

「金のないのも苦にしやさんすな 今にお金が自由党」

当時、蜂起した農民たちが口ずさんでいた歌です。自由党に入って、板垣様の世ならしに参加すれば、俺たちの負債がなくなると当時の農民たちが思っていたのです。それだけ当時の農民は自由党に大きな期待をしていたのですね。農民たちは借金の焼き払うなどをしながら、勢力を増したのです。しかし、政府は軍隊を送り、鎮圧されていきました。この秩父事件を機に民権運動は下火になるのです。

しかし、板垣本人は政党への情熱を失っておりませんでした。第一回帝国議会が開かれると、かつての自由党のメンバーが再結集し、自由党が復活したのです。板垣はこのような言葉を残しております。

「自由党の特色は破壊的な働きにあった。専制を打破し、国会開設への道を切り開くためには、古いものを破壊するほかなかった。彼らが政府に抵抗し、血を流しても屈しなかったのは、このためである」


板垣は民衆のため、良い政治をしたいと考えておりました。一方で民衆たちは難しい政治のことはお上に任せ自分たちの生活さえよくなれば良いみたいな発想がありました。悪く言えば、いくら板垣が理想を唱えても、民衆は強い権力に飼いならされていることに慣れているので、板垣の理想を今一つ理解できない。そんなギャップも感じます。

1 自由民権運動へ

今日から2回にかけて板垣退助のおはなしをします。日本初の政党、自由党をつくったのが板垣退助。

板垣退助が世に出たのは戊辰戦争。土佐藩で迅衝隊じんしょうたいという部隊の指揮官をつとめました。それで会津戦などで活躍し、新政府軍の勝利にも貢献しました。600人のメンバーのほとんどは下級武士で普段は農作業をしていたそうです。

そんな彼らに板垣は銃剣をさずけ、フランス式の軍隊に彼らを鍛え上げました。この迅衝隊じんしょうたいを通して、能力のあるもの、志のあるものは身分関係ないことを痛感しました。この体験が後に彼が自由民権運動に突き動かした動機の一つともなっております。

戊辰戦争での功績により、明治3年(1870)、高知藩大参事に就任しました。すぐさま大改革を行います。それは身分制の撤廃です。江戸時代まで士農工商という身分制度がありましたが、そうしたものを撤廃し、身分が低くとも能力の高いものを登用したり、上級士族による要職や身分の独占を禁じました。板垣は身分制の撤廃を明治政府よりも早く藩で行ったのです。


その手腕を評価され板垣は明治4年(1871年)に中央の参議に就任しました。板垣は、徴兵制の導入にも尽力し、それによって四民平等をめざしたのです。しかし、思わぬ外交問題が板垣を苦しめたのです。それは征韓論争です。当時政府内は国交のない朝鮮半島にいる日本人を保護するために兵をおくるかどうか意見が割れていたのです。板垣は西郷隆盛とともに「兵をだすべきだ!」と主張しましたが、明治6年(1873年)、西郷隆盛とともに参議を辞職します。

しかし、翌年の明治7年(1874)、板垣は民選議員設立の建白書を政府に提出しました。その建白書には「現在権力を握っているのは天皇でも人民でもなく一握りの官僚である。しかし政府に税を払っている人民には、政府が行う政治に関与する権利がある。」と書かれていたのです。この建白書の内容は新聞にも掲載され、早期議会の設立をという声も高まりましたが、政府は̪シカトしたのですね。

2 政治結社設立
 板垣は故郷高知に戻り、政治結社立志社を設立しました。「自由は土佐の山間より出づ」。そのキーワードを旗印に立ち上がりました。立志社は戊辰戦争で戦った士族たちが中心でした。その立志社を震撼させる出来事が起こります。それは明治10年(1877)に起きた西南戦争です。立志社の中には西郷さんと戦おうという動きもありました。しかし板垣は「もっと平和的にやろう」と立志社の過激派を抑えたのです。さらに板垣はブレーンである植木枝盛にあらたな建白書「立志社建白」を作成させました。あくまでも言論で人民の政治参加を呼びかけたのです。

西南戦争後、日本の方々で政治結社が結成されました。その動きは士族だけでなく、農民にも波及しました。農民結社だけでも36社もできたというからオドロキです。

高知から広まった自由民権運動ですが、新たな局面を迎えました。各地の政治結社は明治13年(1880年)、国会期成同盟を結成。国会の早期開設を主張したのです。彼らは各地で演説などを行い支持者を広げようとしました。また、私擬憲法という自分たちで憲法を考えようという動きも出てきました。以前にも僕のブログでご紹介した五日市憲法もその一つです。もちろん、こうした私擬憲法は、実際の大日本憲法に反映されなかったし、世に広まることもなく、ようやく戦後になって注目された私擬憲法もあります。でも、それだけ当時の人たちは真剣だったのです。

しかし、運動の理念とはかけ離れた行動をとった結社も現れました。その一つが愛国交親社。参加者は2万8000人ほど。愛知や岐阜の農村部で組織を拡大していました。「兵役免除」「永世禄支給」(※1)「税金免除」といった、よく言えば巧みな、悪く言えばかなり玉虫色の主張をしていたのです。

また、講談師の川上音二郎はおっぺけぺー節という政府批判の歌を歌いながら自由民権運動への参加を呼び掛けたのです。

こうした、自由民権運動の動きに板垣は意外にも冷ややかな目で見ていたのです。板垣はあくまでも政府との話し合いで国会を開こうと。ところが、結社の人たちの主張は、政府が開く気がないのなら、自分たちで勝手に国会を開き、それを天皇に認めてもらおうという過激な主張でした。これ以上、過激化すると、そのうち政府に国会を開くためなら武力さえもためらわないという動きまで出てくるのではないかと板垣は懸念を抱きます。その板垣の懸念は現実のものとなります。


3 板垣死すとも自由は死せず

 明治13年(1880年)、政府は集会条例発布。これによって集会を開くことを規制されたり、結社を作ったりすることを禁じたのです。このため多くの結社は大打撃を受けてしまうのです。その打開策として板垣は、自由党という政党をつくります。政党をつくり、全国の結社をこの政党のもとにまとめてしまえば、集会条例にひっかかることはないと板垣は考えました。しかも、バラバラだった結社を一つにまとめれば、意見の集約もできると板垣も考えたのです。

ところが、意外にも政府は国会開設の勅諭をだしたのです。天皇の名のもとに憲法も国会を明治23年に開設することを政府が決めたのです。へえ、よかったじゃん、板垣たちの苦労も実ったね。といいたいところですが、ちっ、ちっ、ちっ。

これは、盛り上がった民権運動を抑えるためでもあったのです。

板垣は、国会に向け、自由党の組織づくりを急いだのです。各地に自由党の支部を設立するために、歩き回ったのです。板垣は6か月におよぶ遊説の旅に出て、民衆の政治参加を強く訴えました。

「我が国の人民は社会一般の自由を伸ばそうとする精神にかけているが、これは積み重なった専制政治の慣習によるものである。ゆえにこの弊害を正すためには、人民に政治に参加させ国家公共のことに関与させるしかない」

と板垣は訴えました。そんな板垣の主張は行く先々で拍手喝采。
んなさなか遊説先の岐阜で暴漢に襲われ、刺されてしまいます。そのとき板垣が言った言葉が、

「板垣死すとも自由は死せず」

板垣の不屈の精神に、自由民権運動はさらに熱気が高まります。

板垣がここまで支持されたのは、板垣が明治維新でみんなが期待していたことをやろうとしたからです。新政府の政治がはじまりましたが、政治の実権を握っているのは薩長藩閥や、官僚が中心で、彼らは天皇の虎の威を借りて威張っている。それで、徳川時代より良い政治をやってくれればよいが、相変わらずの専制政治を行っていると。そこに不満を持っている人が多かったのです。また、自分たちが民権運動に参加すれば、よりよい社会ができるんじゃないかって思った人が少なくなかったのです。つまり民衆のユートピア願望が民権運動にエネルギーを供給しているのです。



※1 身分の低いものでも武士になって永久的にお金が支給されるようになる

この記事は「歴史秘話ヒストリア」をもとにして書かせていただきました。

1 鼻っぱしが強かった
 きょうは映画監督、小津安二郎の話。日本を代表する巨匠です。代表作は「東京物語」。彼の作品は一度も見たことがないのですが、ほとんどの作品が家族がテーマで、独特のセリフ回し、考え抜かれた構図が特徴だといわれております。小津安二郎は1903年〈明治36年〉12月12日に産まれました。

小津は東京の生まれですが、1913年(大正2)に父の郷里松坂に移りました。十代の中頃、小津安二郎は活動写真に出会います。小津は活動写真に夢中になり、一年で40本も映画を見て、遠く神戸にも行ったといいます。そんな中ある一方の映画が小津に影響を与えます。アメリカの映画「シビリゼーション」です。戦争がテーマの超大作です。これまで見たことがないドラマティックな展開。小津少年の心を揺さぶります。小津が映画監督になろうと決心をしたのは、この映画がきっかけだそうです。

映画に夢中になるあまり、高校を中退。代用教員をやりますが、一年で辞めてしまい、彼は撮影助手、助監督を経て、映画監督になりました。しかし、彼は鼻っぱしが強い性格で、その性格が事件を起こします。ライスカレー事件。

腹ペコで撮影所の食堂にきた小津。ところが、小津よりも後に来た映画監督のほうが先にライスカレーが配られたのです。これに怒った小津。監督が先、助監督は後だという理屈ですが、小津は収まりません。とうとう食堂の人とケンカになったそうです。それで所長室に呼び出されてしまいます。小津は厳しい処分を覚悟します。ところが所長が言った言葉は「一本取ってみたまえ」。

所長は小津の自己主張の強さこそ、これからの日本映画に必要だと思ったのでしょう。今なら考えられませんね。こんなことをしたら役職を降格させられ「ゆとり」のレッテルを貼られる始末でしょう。

所長は小津のことを「自分だけはもっと体当たりをしてみようという考え方を感ぜられた」と評していたそうです。

もっとも、小津は、それまで現場で映画製作のノウハウを体得しながら、監督として必須の作業とされたシナリオ執筆に励んでいたのです。そのうちの一本『瓦版カチカチ山』(映画化はされず)が所長の目にとまったのです。彼の地道な努力が評価されたのですね。

2 小津と戦争
 1927年(昭和2)、初監督作『懺悔の刃』(同年10月公開)を撮りました。これは小津の長い監督歴の中で唯一の時代劇作品だそうです。それから小津は青春ものやギャング映画なども描いたといいます。戦後の小津は静かな感じの映画を描きますが、戦前はスピーディーな映画も撮っていたといいます。

そんな小津も時代の大きな流れに巻き込まれます。それは1937年に始まった日中戦争です。小津に召集命令が下ります。一兵士として小津が送り込まれた場所は、激しい戦地でした。一度に数千の死者が出るようなそんな悲惨な状況でした。小津はそんな戦地の状況をのちにこう語っております。

「戦友もだいぶ亡くした。仲間の坊さんは頭をやられた。脳みそと血が噴きこぼれ、物も言わず即死だった。毒が流されたとの噂を聞き、水も飲めなくなった・・ミジンコがいれば安全だと汚かろうが構わず水を飲んだ。戦地に行って映画のことは考えなかった。少しも考えつかないのだ。それほど兵隊になりきっていたのだと思う。」

そんな状況の中、小津は一人の友を探していました。その人物こそ映画監督の山中貞雄です。小津より6歳年下で戦前からお互いに切磋琢磨した良きライバルでした。二人は再開するやいなや映画の話に花を咲かせたといいます。わずか40分ほどの語らいでしたが、小津が忘れていた映画のことを呼び起こしたのです。しかし、小津と山中が再会することは叶いませんでした。山中は1938年(昭和13年)9月、戦地で病死してしまうのです、わずか28の若さでした・・・

しばらくして、山中の遺書が掲載された雑誌を読んだ小津は衝撃を受けます。そこには未公開の映画のアイディアの数々がたくさん掲載されていたのです。山中は戦地においても映画への情熱を忘れていなかったのです。遺書の最後に「よい映画をこさえてください」という言葉で締めくくられていたそうです。

小津は惜しい人物を亡くしたと嘆いたといいます。それから小津は戦地においても映画は何かを考えるようになったといいます。

戦地から帰って小津が最初につくった映画が「戸田家の兄妹」。1941年の作品です。この映画は戦争に関する描写がほとんどない家族物語だそうです。それは時流から大きく外れたものでした。当時は戦意高揚の映画がメインでしたから。そんな中あえて戦争を描かなかったのです。小津は「戦争映画を自分は軽々しく撮れるか?」「それがリアリティーがあるか?」と考えたのです。小津にとっては、戦争というもは悲惨を通り越して非日常的なものだと考えていたようです。それよりも家族を通して日常を描いたのでしょう。

そして何よりも小津が家族モノを描くようになったのは、ある体験も理由の一つだと考えられております。軍に命じられシンガポールに派遣されたのです。そこで小津が見たのはアメリカの映画。「風と共に去りぬ」などの名作です。それを見た小津は「これは相手が悪い。大変な相手とケンカをした。」。ハリウッド映画に衝撃を受けたといいます。小津にとって超大国アメリカと戦うこと自体が茶番であり、非現実的であり、ある意味コメディーだと思ったのかもしれません。だからこそ、戦争映画を描くことをためらったのかもしれない。

3 野田高梧との出会い
 1945年8月15日、戦争は終わりました。戦後、小津がつくった映画は「風の中の雌鶏めんどり。ある夫婦の物語です。夫の復員を待つ妻は貧しさゆえ一度だけ売春をします。そのことを告白してしまうことで壊れてしまう夫婦関係。しかし、この映画は酷評されてしまいます。それで悩んだ小津が相談した相手が脚本家の野田高梧。野田ははっきりと「風の中の雌鶏」を批判したといいます。「売春を告白するとき夫への重いとかいろんなものがでてくるはずだけれども、割とすっと妻は夫に言ってしまう」と。

それで小津は野田の厳しい意見を受け入れることに決めたといいます。自分のウィークポイントを的確に指摘してくれる野田を信頼したのでしょう。1949年公開の映画「晩春」。選んだテーマは「娘の結婚」でした。淡々とした親子の日常の中に心のひだが丁寧に描かれており、この映画は高く評価されました。以後、小津は野田とコンビを組んで次々に映画を作っていきます。

小津と野田は長野県の蓼科にある山荘に二人でこもり、映画の脚本を作り上げていったといいます。まず二人は原稿用紙を4つ切りにし、二人で思いついたことを書いていったといいます。しかし、順調なのは最初だけ、セリフの言い回しなどで、次第に激論が始まったといいます。ケンカがひどくなるとお互いに口を利かなくなったことも。そんな二人をなだめたのが、野田の家族でした。特に野田の妻の静は2人に散歩を勧めたりしたといいます。脚本が進むと二人は安心したのか深酒と昼寝。怠けている二人にハッパをかけるのも妻のシヅの役目。そのとき静がよく口にした言葉が「ちょいと」。この言葉は時々脚本にも反映されているそうです。

また野田の娘の玲子は原稿の清書をしたり、物語に出てくる娘のことについて、同世代の玲子に意見をきいたりしたといいます。

また小津は野田の山荘の近くに別荘をたて、しばしば野田家の人たちと本当の家族のように付き合っていたといいます。そんな小津も1963年〈昭和38年〉12月12日)、60歳の生涯を閉じます。

小津は監督としては厳しい妥協を許さない人で100回もNGをだしたといいます。小津は「悲しい時に悲しい顔をするんじゃないよ。人間の喜怒哀楽というものはもっと複雑。そんな単純なものじゃないんだよ」と語っていたそうです。

家族もの描きながら小津は生涯独身だったそうです。そのため、彼は家族のあり方について念入りに取材したり、野田家との触れ合いを通して家族のあり方も描いたと思われます。経験が大事と言うけれど、そればかりが重要じゃないんだなって。経験があるゆえにへんな思い込みがあったりするから。




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