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カテゴリ:日本の歴史 近現代 > 日本の歴史(明治・大正・昭和初期)

柳家金語樓―泣き笑い五十年 (人間の記録 (120))
柳家 金語楼
日本図書センター
1999-12-25



かつて柳家金語楼という噺家がいました。彼は戦後になってテレビタレントとしても、俳優としても活躍しました。その彼は戦時中は、国策落語を通して戦争協力をしたのです。しかし、彼が戦争協力をしたのは本心からではありません。太平洋戦争がはじまる前までは兵隊落語とよばれる新作落語を演じておりました。ちなみに新作落語とは大正以降につくられた落語で主に現代が舞台となっております。江戸時代から存在し、お話の舞台も江戸時代の落語が古典落語です。

柳家金語楼は新作落語の名手でした。その中でも兵隊落語は人気がありました。これは金語楼が大正時代に軍隊に入隊し、そのときの体験をもとにして作った落語です。兵隊落語と聞くと、「兵隊さんえらい」みたいな落語のように思えますが、厳しい軍隊生活を笑いにしてしまう、時に軍隊批判もあるようなそんな内容だったのです。たとえば、「兵隊落語」に兵隊検査のシーンなんか象徴的です。


検査官「おい、山下、お前は甲種合格だぞ」
山下「え、合格、しまったッ」
検査官「なに、しまった?」
山下「いえ、家の表のカギはしめてきたはずで・・・」
検査官「軍人になれてうれしかろう」
山下「あー、ん〜。う、れ、し、い。・・・」
検査官「なんだ、お前、泣いとるのか?」
山下「はい、うれしなきです」


噺にでてくる山下とは山下達郎さんのことではありませんw柳家金語楼の本名です。それはともかくとして、こういう兵隊落語を当局は黙っているわけではありませんでした。金語楼は憲兵本部から出頭を命じられ、「兵隊モノを遠慮してほしい」といわれてしまいます。そして太平洋戦争が勃発して、戦争ムードが広がると、金語楼の落語も変化をしていきます。ほのぼのとした金語楼の落語も次第に国策落語の性格を帯びてくるのです。同じ兵隊検査のシーンでも、太平洋戦争前とでは異なります。こんな感じです。

検査官「いい体をしている」
山下「じゃあ兵隊になれますか」
検査官「その体なら大丈夫だろう」
山下「ありがたい、ありがたい」(話に出てくる山下はこの時裸体のまま跳ね上がって喜んだと)


太平洋戦争前とは180度オチが違いますね。それまでは、兵隊になったことを内心嫌だなって描写だったのに、太平洋戦争が始まってからは、表面的とはいえ喜んでいる描写なのです。

金語楼は兵隊落語だけでなく、国策落語も演じました。彼が演じた演目の中で「産めよ育てよ」というのがあります。内容亜はこうです。はじめは主人公と親友が男同士で酒を飲みながら、子供ができないことを嘆くことから始まります。途中で、主人公の友達の奥さんが三か月とわかり、怒った主人公が家に帰ると、自分の女房も三か月とわかります。すると主人公は「マッチより重たいものを持っちゃダメ」と大騒ぎ。それで子供が生まれると、翌年には二人目、また今度は三人目ときて、最終的に子供の数も十人を超えてしまい、まさに主人公はビックダディーになってしまったというお話。

まさに当時の政府の方針である「産めよ、育てよ」に忠実な内容の噺です。さらに、この噺には、子供を産めない奥さんも登場します。その奥さんに対して「兵隊さんになるような男の子を、一日でも早く産むことが、お国のために尽くす仕事だとしたら、子を産めない女なんか意義がないぞ。さてはお前は敵国のスパイだな、憲兵に訴えるぞ」みたいなセリフがでてくるのです。今のご時世だったら確実にモラハラ、セクハラですよね。こんなセリフ当時の政府のお偉いさんとか右翼は涙を流して喜んだでしょうが、こんな話が出てくるようでは笑いたくても笑えません。

金語楼の国策落語は戦況が悪化すれば、悪化するほど一層権力マンセー、戦争バンザイの内容の噺をしました。さぞ、当時の政府のお偉いさんたちやウヨは金語楼のことを、ほめたことでしょう。しかし、昭和17年に政府は金語楼に対して、噺家をやめ、俳優になるように強要されます。この非常時に人を笑わせている場合か!まじめにやれという言い分でしょう。金語楼はしぶしぶ噺家の看板を下ろす羽目になったのです。

さんざん政府のために働いたのに、いざとなったら冷たく突き放す。ひどい話ですね。国策落語をやれというからやったのに。


※ 参考文献


桂歌丸 名席集 CD-BOX
桂歌丸
ポニーキャニオン
2018-03-07



桂歌丸師匠が亡くなって、もう一年たつのですね。月日のたつのも早いものです。「笑点」では時事問題を得意とし、時に厳しい政治批判を回答者時代よくされておりました。たとえば、「説得力のないセリフは?」というお題に対し「政治家の"日本を変えてみせる"」と答えておりました。

そういう彼のピリリと辛い風刺は定評がありました。司会者になってからも、政治批判だとか風刺がらみの回答を好み、そういう回答をした人には(たとえば三遊亭円楽さんとか)座布団を気前よく上げていたのを覚えております。そんな調子ですから、歌丸さんはある政治家から圧力があったそうです。ある政治家が「あんまり政治家の悪口を言うなよ」というと、歌丸さんは得意のとんちをきかし「悪口言われるような政治家になるな」と言い返したそうです。すごいですね。その歌丸さんの言葉に政治家はぐうの声も出さなかったそうです。歌丸さん、かっこいいですね!

歌丸さんが亡くなってからも、政治批判する回答がちょくちょくでてきます。すると、炎上をしたり、保守系言論人から批判もされるそうです。そもそも、落語とは庶民のためのもの。庶民が噺家たちの風刺をきいて、留飲をさげるのです。「自分たちが言いたいことを代弁してくれてありがとう」って。逆に言えば、噺家が権力マンセーになったら面白くありません。権力への批判精神を失い、弱者や庶民を切り捨てるようになったら落語はおしまいだと僕は思います。

戦時中はまさに噺家が政治批判をできない時代でした。

1940年9月に、当時の講談落語協会などは「磁極柄ふさわしくない」として、遊郭にまつわったお話や、恋物語、残酷な話を自粛したのです。これは上からの圧力ではなく、自主的な行為です。そして、ただ自粛しますと宣言しただけではダメと思い、記念碑をたてることにしました。翌年の1941年に浅草の本法寺に「はなし塚」を建立し、その塚に禁じた落語の台本、せんすや手ぬぐいを奉納したといいます。その「はなし塚」は今もあるそうですよ。



そうして、いくつもの落語が時節柄ふさわしくないとして演じられなくなりました。太平洋戦争に突入し、戦況が悪化していくなかでも庶民は笑いを求めていました。しかし、庶民が心から楽しんでいた落語は、古典落語(江戸時代にできたもの)で、平和で明るく、実にのんきでほのぼのとしたお話ばかりです。しかし、政府はそんな落語さえも目の敵にしたのです。政府は庶民が天皇マンセーして、戦争に協力してほしいと願っていました。そうして作られたのが国策落語です。

国策落語はいくつもの演目がありますが、その中でも「緊めろ銃後」という演目についてお話しします。この演目には大家さん、熊さん、八っつぁんがドイツの欧州での戦争ぶり、日本の戦争、銃後について語られております。この演目の最後のオチの部分を紹介します。


『いづれにしても、銃後はいま一段の緊張が絶対必要だよ。そうして、いざとなれば、法律で臨む。私は国策違反はこの際反逆罪と認めてもいいと思っているくらいだ」

「国賊ですからな。へえ、日本時とは言わされねえ。蒋介石の間者(スパイ)も同じだ。だから罰金ぐらいじゃすまされねえ」

「罰金以上とすると・・どうするか」

「日本から追い払ってしまおう」

「国外追放は厳罰だな。どこへ追い出す」

「そいうやつは重刑(中国の重慶)でいい」


この落語は政府の立場からすれば、よくできた落語といえます。国策落語はほかにもいろいろな演目があります。「隣組の運動会」、「産めよ殖やせよ」、「防空演習」、「スパイご用心」、「出征祝」など。あと「債権万歳」というものもあります。これは戦費を調達するために国民に国債を買わせるためにつくられた演目です。このように国家権力べったりの落語が戦時中につくられました。

※ 参考文献





ここのところ、戦時中の日本の暮らしについて触れてきましたが、今日は少し脱線したお話をします。かつて辻元清美議員が、天皇制について批判をしたことがあるそうです。以下、引用します。

平成29年6月の衆院憲法審査会で、辻元氏は、自身の過去の言動について反省を表明した。昭和62年3月出版の著書『清美するで!!新人類が船を出す!』で、皇室について述べていたことに関してである。

「生理的にいやだと思わない? ああいう人達というか、ああいうシステム、ああいう一族がいる近くで空気を吸いたくない」「天皇とあの一族の気持ち悪さ」


https://www.sankei.com/politics/news/170608/plt1706080021-n1.htmlより引用

この辻元発言をあげつらって批判した保守系の議員さんがいたようですが、この発言は30年前の話。令和になったいま現在も彼女がこのような発言をしているというのならば問題ですが。今更って正直思います。

ちなみに本人は、「30年ほど前、学生時代にご指摘の発言をした」と認めた。その上で「日本国憲法の下、日本は生まれ変わり、戦争放棄の国になった。憲法に規定されている象徴天皇を尊重しなければならない。私は考えが一面的だったと痛感し、深く反省した」とのことでした。

かつての自分の発言の非を認め、反省しただけでも、僕は偉いと思うんだけれど。戦時中、軍国主義をマンセーしておいて、戦後になったとたんに、なんの反省も説明もないまま極端な平和主義者になった人よりマトモです。そんな人物は「はだしのゲン」にも登場します。鮫島という男で戦時中は、戦争協力しないゲン一家を非国民だと言っていじめたくせに、戦後は、議員に立候補し、自分は始めから戦争に反対していたがバカな軍部のせいでなんたらかんたらと嘯いていたのです。鮫島のようにコロリと手のひらを返した人間は結構多かったのです。

それだったら戦時中、戦後一貫して軍国主義者だった人の方がまだ尊敬できます。軍国主義者の主義主張には全く賛同できないが、自分の信念を曲げないところ、ブレないところは凄い。


言論人だけでなく学校の先生もひどいものでした。戦時中熱烈な軍国教師ほど、戦後になってウソみたいな平和主義者になったという指摘があります。逆に戦時中それほど軍国主義者じゃなかった先生は、戦後、GHQのやりかたに反発したのかも。あるジャーナリストはそんな先生の変わりようをみて、「ああ、人間はこれほどまでにいい加減なんだ。その先生は自分に『人をみたらまず疑うことを教えてくれた。今はその先生に感謝している』」とおっしゃっていたほど。

戦後になって進歩的文化人と呼ばれる左巻きな人たちが雨後の筍のように登場しましたが、彼らのほとんどが戦時中は戦争をマンセーしていたといいます。それが、戦後になって平和憲法マンセーどころか、マルクス主義やソ連にしっぽを振ったというのです。で、戦時中に自分の書いた論文を燃やしてしまったり、戦時中の発言を人から指摘されると逆切れして怒鳴りつけた者もいたといいます。

言論人もひどかったけれど、一番ひどいのは新聞社。特に朝日新聞の戦時中と戦後の論調の違いすぎはとてもひどいものがありました。朝日は戦後になっても北朝鮮を「地上の楽園」なんて言っていたのですから・・・

それにしても、日本の言論人やマスコミはなぜ、ここまで極端から極端にものの考え方が偏るのでしょうね。共産党員だったのが、いまでは極右の言論人になった人も少なくありません。右→左、あるいは左→右というのは多いけれど、その中間がないのが僕には不思議でしょうがありません。

「右翼と左翼の違いこそあれ、それは表の看板だけで、頭の構造は同じではないかと疑われるほどだ。自分と異なった意見には全く不寛容で、異常なほどの敵意を抱き、大声で言いまくることで相手を圧倒しようとする性癖まで瓜二つである。テレビの討論番組で見かける声だけが大きい進歩的文化人のモノマニアックな言動は、昔の柄の悪い関東軍参謀の姿を彷彿とさせるではないか。」
稲垣武『悪魔祓いの戦後史』より


これは朝日新聞に勤められた稲垣武さんの本から引用したものですが、確かにそうだよなって思います。思想が変わったというよりも、本人の頭の構造が変わっていないだけなのかもしれない。多様な考え方を認めないから極端な考え方に走りやすい。ある意味正義感が強いのでしょうね。世の中を良くしたいという気持ちが人一倍強い。

でも、一つの思想で世の中全体をよくするのは、僕は無理だと思う。戦時中は八紘一宇、戦後はマルクス主義こそが世の中全体を良くする処方箋だと信じられましたが、世の中全体をいっぺんに良くするような思想はないと断言します。ガンを治すすごい薬があったとしても、その薬で虫歯や骨折、脳梗塞を治せますかって話になりますよね。病状にあった薬や治療法をしますよね。それと同じ。不良の更生だって、子ども達もそれぞれ個性もあるし、置かれた状況も異なるから、先生はよく相手の話を耳に傾け、アプローチを一人一人変えていかないとうまくいかないと思う。

また、一つの問題が解決すれば、絶対また別の問題が出てくる。だから、問題の一つ一つを地道に解決していくしかないです。そこに利害関係も絡むから本当に難しい。それに困っている人を助けたいなら、目の前の困っている人を、自分の出来る範囲で手を差し伸べればいいのでは。マザーテレサもそのような事をおっしゃっていたような気がする。

それから正義感というと聞こえはいいけれど、正義の名において惨たらしい虐殺や悲惨な戦争が幾度も起こった事は歴史が証明しています。正義感は否定しませんし、むしろある程度の正義感がないと、汚職や犯罪、ブラック企業による不当な労働もへりません。ただ、正義感も限度があります。山本夏彦翁は「汚職で国が滅びることはないが、正義感は国を滅ぼす」とおっしゃってましたっけ。まあ、汚職も限度がありますがね。

それか、ズバリ保身ですね。はだしのゲンの鮫島はもろこのタイプ。いつも上司にゴマすっているが、本心は、じぶんの栄達やお金儲けしか頭にない。上司に対する尊敬などまるでなし。

とはいえ、言論人の頭の構造ばかりをなじるわけにはいきません。彼らの頭の構造も確かに問題もありますし、行きすぎた正義感は褒めれるものではありません。けれど、言論で飯を食うのは本当に大変だと思います。多様なものの考え方を許容しつつ、かといって自分の意見を正直に言ったところで、それで飯が食えるわけではない。場合によっては政権よりのことを言わないと食っていけないのですから。

市川房枝さんがおっしゃっていたのですが、外国は戦時中でも、政権に批判的なことをいっても仕事があったそうです。だから、外国では政権に批判的なことを書いたりしても、あんまりとがめられることもなかったといいます。逆に日本は戦争反対っていうと全く仕事が無くなったと言います。

たとえば、原爆が投下された翌日、アメリカの主要な新聞は、その原爆投下を非難したといいます。それが日本だと違ったといいます。日本では原爆が投下されたことは新聞では非常に小さな扱いだったそうです。


政権に批判的なことをいったり、戦争反対なんていえば、仕事もなくなるうえに、最悪警察に捕まってしまったといいますから、当時のジャーナリストも大変だったと思います。でも、日本にもそんな状況でも戦争を批判したサムライもいたのですね。石橋湛山元首相もその一人でした。彼は戦時中ジャーナリストだったのです。ちなみに石橋は戦後はGHQの批判をしたため、連合国側から危険な軍国主義者のレッテルを貼られたのですよ、石橋本人はあれほど戦争に反対したのに、むごい話です。








戦う石橋湛山 (ちくま文庫)
半藤 一利
筑摩書房
2019-04-10





戦時中の日本は、体育を重視しました。精動運動(※1)は「健全な精神は健全な肉体に宿る」と信じていたからでしょう。本当は「健全な精神は健全な肉体に宿る」という体育会系が好きな言葉は間違っているのですね。これは、本来の意味は健全な肉体をもち、健全な精神をもっているのならそれ以上高望みするなよって意味だそうです。それにこの名言(迷言?)の元ネタには「宿る」なんて言葉はついていないのですね。決して健全な肉体を持っているからといって健全な精神を持っているとは限りません。部活でも先輩のシゴキと称したいじめが横行したり、会社でも体育会系上司によるパワハラがはやっていますから。

当時の精動運動も国のお偉いさんたちも「健全な精神に健全な肉体に宿る」と固く信じていたのでしょうね。それで、国民に体育をさせようということで、武道や水泳などが奨励されました。

たとえば、水泳は市営プールが無料開放をするところがでてきたり、無料で水泳を教える指導員もでてきました。へえ、いいなって僕も思ったのですが、国がここまでするのも理由があります。これも戦争の影響がありました。それは戦争で川や海を泳ぐこともあるからです。海から敵地に上陸したり、陸地でも川を渡って進軍しなきゃいけないこともある。元兵士のある関係者は満州事変のことを「敵前波間でいかに水泳が必要であるか痛感した」というのです。この元兵士はプール開きのときに軍服を着たまま泳いだそうです。その兵士は(プール開きの)参加者から満場の拍手を浴びたといいます。

昭和17年7月21日から8月30日までの間、「健民運動夏季新進鍛錬運動」が全国民を総動員して開催されました。そのときやったのがラジオ体操。ラジオ体操って戦前からあったのですね。7月21日から8月30日までずっと毎朝ラジオ体操を半ば強制されたといいます。おそらく、出席カードみたいなものがあって、町会や隣組のボスにハンコをもらい、さぼったり、休んだりしたら、いじめられたりしたのでしょうね。

こうしたラジオ体操の強制はなにもにほんだけではありません。当時の日本の植民地でもおこなわれえておりました。たとえば、フィリピンとか。写真週報には、その植民地におけるラジオ体操の普及をこのように賛美しておりました。

「電波がまき散らす希望と健康の贈り物ーやがて見るからに弱弱しい原住民たちの体位も、かうしたラジオ体操の普及によって、建設と歩調を一つに盛り上がっていくことでせう。まこと共栄圏の確率はラジオ体操からといふところです。」(『写真週報』第250号、昭和17年12月9日)

                              
そして、精勤運動がもっとも力を入れたのが、武道です。とりわけ剣道。戦争が泥沼化していて、一刻も早く現地で戦える兵士を育てたかったのでしょう。「剣こそは日本建国精神の象徴であり、惟心大道の表現である」と。宮公私立男子中等学校以上の学生が、全国七大年で剣道大会が行われたといいます。           

※1 日中戦争の拡大に伴って,国民に戦時意識を徹底させ戦争に協力させるために起こされた,国民的規模の精神運動。


                                           
※ 参考文献                                          

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       

国民精神総動員運動は、メディアを積極的に活用しようとしました。とはいえ、今みたいにネットはもちろん、テレビもない時代。あったのは新聞とラジオ。政府は運動を展開する手段としてラジオの活用をしました。1937年のラジオ普及率は、都市部で48・2パーセント、郡部では14・3パーセントでしたが、実際にラジオを聴いていた人たちはもっと多かったようです。商店街や隣家から大音量で流れるラジオ放送をもらい聴きする人がたくさんいましたし。

精勤運動が始まった年度のラジオ番組の内容は精動中央連盟のお偉いさんの講演の実況中継やら、「非常時の国民の生活様式」やら、そんな番組を流しておりました。それは1937年と1938年の二年間流しておりましたが、特に講演については評判が悪かったようです。1939年4月に内閣情報部がまとめた関係各方面からの意見をみると「講演会の効果は薄し」。その他の意見として「講演会などの集合の不振」、「運動、講演会などの不徹底」など。熱烈なアイコクシャさまはきっと講演を聴いて涙を流して感動したかもしれませんが、ラジオを聴いていたほとんどの国民はウザいとしか思っていなかったようです。その講演会事態も不人気、不入りだったようです。

とくに地方ではその傾向がつよかったようです。だから「地方においては演壇よりする啓蒙的運動はもはや効果少なくかつその必要性乏し」と精動はあきらめモードだったようです。

そして精動運動はラジオの利用の仕方を改めます。1940年1月から毎週金曜日午後4時30分から50分に「精動特報」を放送するようになりました。「精動特報」は放送内容は「国民生活の指導と国民組織の問題」がメインで、「都市部のぜいたく全廃運動」をとりあげたり、「冠婚葬祭の新様式について」(要するに贅沢するなといいたい)という特集をくんだりしたそうです。しかし、聴いているほうは、講演会よりはマシくらいにしか思っていなくて、上から目線の精動運動のやり方に反発する声も決して少なくなかったと思われます。

国民が一番関心をもったラジオ番組は「早朝ニュース」でした。このニュースでは戦況が伝えられ、戦地に赴いている兵士の安否情報も取り上げられたそうです。国民は、戦勝気分に踊らされたわけではなく、自分の身内や知人が無事かどうかを心配していたのですね。

一方、戦時下とはいえ、国民はラジオに娯楽をもとめていたのです。浪花節、歌謡曲、講談、落語、漫才、ラジオドラマが人気でした。

※ 参考文献


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