history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。

カテゴリ:日本の歴史 近現代 > 日本の歴史(明治・大正・昭和初期)

広島県呉市に音戸の瀬戸(おんどのせと)とよばれる海峡があります。海峡自体は比較的狭いのですが、海流がはやく泳いで渡ることができないので、船を使って海峡を渡ったのです。現在の音戸渡船の形は江戸時代からと言われています。

そしていつごろからか急流から舟歌『音戸の舟唄』が作られ歌われました。戦後、渡船は24時間開かれ、4隻で船頭10人以上で運航していたそうです。それが海峡に橋がかかったのですね。

1961(昭和36)年に瀬戸内海初の有料道路橋(現在は無料)として開通した音戸大橋と、2013(平成25)年に開通した第二音戸大橋(愛称:日招き大橋)が架かり、1つの海峡に2つの橋がかかる日本では珍しい景観を作り出しています。

そんなこおもあって渡船のニーズが減っているのですね。しかし、いまでも地元の人は交通手段として渡船を利用したり、観光目的でも渡船は使われております。

この音戸の瀬戸を切り開いたのは平清盛だといわれております。安芸の厳島神社に参拝するための航路の整備のために切り開いたとか、荘園からの租税運搬のため、日宋貿易のための航路として、海賊取り締まりのため、など様々な説が言われております。






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(清盛の塚)

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(清盛の塚)

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(平清盛の人形)




南国土佐を後にして」はペギー葉山さんの名曲です。ペギー葉山さんといえば、僕の世代だと「ひらけポンキッキ」にでてきた、しつけおばさんのイメージが強いです。また、紅白歌合戦にもたびたび出場され、昭和41年の紅白では司会もされました。ペギーさんがお亡くなりになり、一年になるのですね。早いものです。

それでは、「南国土佐を後にして」の曲の説明をします。この曲は武政英策が作詞・作曲しました。もともとこの曲は中国戦線に赴いた兵隊たち(通称くじら部隊といったが、望郷の思いから歌っていた「南国節」あるいは「よさこいと兵隊」という曲名の歌だったそうです。それが戦後になって歌詞が変わったのですね。

空襲で焼け出され、高知県に疎開をしていた武政は、酒の席で元歌の「南国節」or「よさこいと兵隊」を聴き、その望郷の思いに心を動かされたといいます。そして、戦後になって武政は原曲の「南国節」or「よさこい兵隊」を採譜、整理、改編しており、原曲の歌詞にあった「中支ちゅうし」「露営ろえい」など戦時下を連想させる言葉を、集団就職の若者をイメージさせる言葉に置き換えたといいます。

昭和28年(29年?)にレコード化し丘京子さんという歌手がお歌いになり、昭和30年には鈴木三重子さんという歌手がお歌いになったのですが、いづれもヒットしなかったそうです。それが、昭和34年にペギー葉山さんがお歌いになり、この曲は大ヒット。

昭和34年といえば高度成長期。いままで高値だったテレビが一般家庭でも普及しはじめたのです。そして集団就職で都会に出た多くの若者の、望郷の思いを代弁する歌として、100万枚も売れたといいます。戦時中、そして集団就職の時代、どちらの時代においても、遠く離れた故郷を思う人々の心に、この曲が響いたのですね

また、この歌の歌詞に「かんざしを買った坊さん」という言葉が出てくるのですが、そのお坊さんは実在したのですね。五台山竹林寺の純信というお坊さんです。鋳掛屋いかけやの娘、お馬に恋をし、彼女を喜ばせようとかんざしを買ったそうです。むかしは、お層板がそんなことするなんて考えられない時代でした。お坊さんが女性に恋をして、何かをプレゼントするということはとてもハレンチなことだったのですね。そのお坊さんのウワサはたちまち広まり、歌にまでなったのですね。


(原曲を歌われている元兵隊さんの動画)

※ 参考文献

「赤とんぼ」は言わずと知れた日本の唱歌の名曲です。学校でも習うし、EXILEのATSUSHIさんも「赤とんぼ」をカヴァーされたくらいですから日本人なら誰でも知っている。といいたいところですが、知らないという人も少数ですが、いらっしゃるのですね・・・特に若い人。2002年の調査で18人の未成年にアンケートをとったら「赤とんぼ」という曲を全く知らないという子がなんと6人もいたのですね・・・。

ちなみに、ちあきなおみさんに「紅とんぼ」という同名異曲(厳密にいえば「赤」と「紅」の字が違う)があるのですが、こちらは知らない人のほうが多そうですねw

この「赤とんぼ」を三木露風が作詞しました。三木露風の故郷は兵庫県の龍野町たつのちょう(今の兵庫県たつの市)のうまれで、大正10年にこの曲が生まれました。「赤とんぼ」の歌詞は三木露風が北海道・函館のトラピスト修道院内で書いたものです。故郷の龍野で過ごした子供のころの思い出を詩に託したといいます。その後、昭和2年に山田耕筰が曲をつけました。

歌詞の舞台となったたつの市は、かつては龍野藩5万3千石の城下町として発展をし、「播磨はりまの小京都」とよばれるほど美しい街でした。いまでも城下町時代の町割りが残っているそうです。

「赤とんぼ」は、NPO法人「日本童謡の会」が行った「好きな童謡」アンケートで一位をとったそうです。舞台はたつの市ですが、多くの人たちにとって故郷、そして母をこの曲から思い浮かべるそうです。歌詞にはどこにも「母」の文字および「母」を連想させるようなキーワードはないのですが、抒情ただよう曲調が、なんとなく故郷で暮らす自分のお母さんのイメージを浮かべるのでしょう。

しかし、三木露風の母は、彼が幼い時に夫の放蕩ほうとうを嫌い、家を飛び出したのですね。作曲をした山田耕筰も家が貧しかったので、9歳で養子に出され、母のぬくもりを知らずに子供時代をすごしたのですね。母のぬくもりを知らないがゆえに、母への思いが強かったのですね。そんな山田と三木の思いが、この歌に込められているのかもしれません。そう考えると「赤とんぼ」を聴いた人が「母」をイメージする人がいらっしゃるのも、うなずけます。

また、この歌にでてくる「ねえや」とは三木露風のお姉さんのことではありません。子守娘のことだそうです。今でいうベビーシッターですね。むかしは子守娘といって、よその家へ奉公をしている女性がいたのですね。朝ドラの「おしん」でも、主人公のおしんは幼少のころに子守娘として材木商のところへ奉公したのですね。奉公先の材木商では、子守だけでなく、いろいろな雑用を命じられり、そこの女中のボスからもいじめられたりと、おしんはつらい思いをしたのですね。

この「赤とんぼ」に出てくる娘も15歳になり、晴れて嫁に行くことができたというのですね。今ではあんまりいないけれど、昔は15歳でも結婚する人はいたのです。あるサイトでは大正〜昭和初期でも15歳で結婚できた人は極めて少数だったといいますが、それでも結婚できた人はできたのですね。

しかし、15で結婚できたとしても、嫁ぎ先で女中のようにこき使われる人も少なくなかったといいます。今でこそ、愛する二人が結ばれて結婚というのが当たり前で、下手すりゃダンナが仕事の合間に子育てをしたり家事をしたりなんてケースも見受けられます。けれど、昔は農家であれば農作業の手伝い、あるいは商人の家は商売の手伝いという具合に、嫁としての働きだけでなく、労働力として働いてくれることを求められたといいます。

そうした話は戦前の話ではなく、戦後になってもしばらくは続いたようですよ。僕の母親が我が家に嫁いだ初日に祖母に言われた言葉が「あんた、体は丈夫かい?」だったそうですから・・・要するに、家のことをしてもらうのに体が弱いと困るということでしょう。


(「赤とんぼ」の動画)

※ 参考文献



紅とんぼ
ちあきなおみ
テイチクエンタテインメント
1988-10-05





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