history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。

カテゴリ:日本の歴史 近現代 > 日本の歴史(明治・大正・昭和初期)

1 戦中に起きた3つの大地震
 今日は、東北の話から脱線して、戦時中の地震の話をします。戦争中というと地震がないようなイメージが自分にありました。が、中島飛行機という会社で働いていた人が、「戦時中は地震が多く、仕事で疲れてウトウトしていたら、突然ぐらっとして、目が覚めた」なんて話を聞きます。ウィキペディアなどで調べてみると1943年9月10日には鳥取地震が、1944年の12月8日には東南海地震が、1945年の1月13日には三河地震が起きました。いづれも千人以上の方々が犠牲になりましたが、正確な犠牲者の数や詳しい被害の状況はよくわからないそうです。

なぜなら、地震によって戦意が失われることを恐れた当時の政府当局が、報道管制をしたからです。それは敵への情報流出も作戦へ影響するため。当時の日本は、「国民全員が火の玉となって戦え」でしたから、槍が降ろうが、地震があろうが、お構いなし。

でも、いくら戦争中でも、地震だとかそういう大事な情報はきちんと流さなきゃダメだと思うんだけれどもねえ・・・他の自治体や赤十字などからの支援を受けるにしても、軍隊を派遣するにしても、情報がわかんないんじゃどうしようもないです。もちろん三河地方に駐在していた軍人さんたちは懸命になって救助活動をしましたが、三河地方にいる軍人さんだけではマンパワーが足りません。情報がないから助っ人もよべない。だから、余計に被害が大きくなってしまいます。もし、戦時中に東京や大阪で大地震が起きたら。考えるだけでもぞっとします・・・

しかも悪いことに三河地方は軍事工場も多く、学徒勤労動員という学生さんたちが工場で働いておりました。震災だけでなく、米軍の空襲の恰好のターゲットとなりました。そのために震災と空襲のダブルパンチで亡くなった人もたくさんいました・・・

2 鳥取地震
 鳥取地震は起きた時間が悪かったそうです。なぜなら、おきたのは9月10日の午後5時37分。午後5時37分といえば夕方。方々の家々でお風呂を沸かしていたり、夕食の支度をしていた頃です。そこへドーンという音とともに地面が上下に揺れたといいます。七輪や風呂の焚口から出火して大火災。燃え広がる火を消すのに、翌朝5時すぎまでかかったといわれています。

それは、まともな防災活動をせず、やったのは住民によるバケツリレー。戦時中は空襲の際に起きた火災はバケツリレーで消せと言われたのです。戦時中は日本のあちこちで竹やり訓練とともにバケツリレーの訓練もされておりました。今じゃ考えられない非科学的なことが大マジで信じられていたのです。もちろん当時の人にもバケツリレーの効果を疑問視する人もいました。しかし、そんな人は密告をされたり、隣組のメンバーからしばかれたりしたのです。ひどい話になると妊婦にバケツリレーどころかハシゴに乗ることを強制され、そのためにおなかの中の子が流産したという悲劇まであったという話も聞いたことがあります。そんな感じでしたから、皆しぶしぶやらざるを得なかったのです。しかし、それは全くの効果なし。結局、死者は1083名で、鳥取市の中心部は壊滅し、古い町並みは全て失われてしまったそうな・・・


3 戦時中のマスコミの地震報道

 さて、鳥取地震をマスコミはどのように報道したののでしょうか?地元の「日本海新聞」(9月13日付け)の一面トップはなんと「ニューギニアのポポイでの戦果」!その一面の片隅に内務大臣が被災地を視察したことが書かれ、具体的な被害状況は二面に小さく書かれていただけ。

あと、1944年の12月8日におきた東南海地震も被害が大きかったのです。だけど、各紙の1面トップはいずれも昭和天皇の大きな肖像写真および戦意高揚の文章で占められていたそうです。地震についての情報は、(1面ではない)紙面の最下部のほうにわずか数行程度、申し訳程度に記載されただけで、しかも「被害は大したことはない」「すぐに復旧できる」といった主旨だったそうです。

しかも、呆れた事にアメリカのニューヨーク・タイムズは「地球が6時間にわたって揺れ、世界中の観測所が、「破壊的」と表現した」と、この東南海地震を大々的に報じたそうな。外国のメディアが被害の深刻さをきちんと伝えて、日本のマスコミが「大した事ない」と報道するなんてシャレになりません。要するに、軍国主義マンセーで、一般国民がどうなろうと知ったこっちゃないって事ですね。軍部からの圧力があった事は同情できますが、辟易していしまいます。

しかし、これを笑い話だと思ってはいけません。東日本大震災における原発事故に関しても、日本のあちこちのメディアに東電から圧力があったといいます。そして、今後もこのようなことが起こる可能性がゼロだとは言えないのです。政府が都合の悪い情報のみならず、本来国民が知らなきゃいけない情報までシャットアウトされてしまったら、多くの国民が犠牲になり、国を守るどころか国はほろぶでしょうね・・・そのことを戦時中の震災の話が教えてくれます。

※ 参考サイト 
ウィキペディア


※ 参考文献




隠された大震災―太平洋戦争史秘録
山下 文男
東北大学出版会
2009-10

本題に入る前に、羽生結弦選手の動画をご紹介します。



すごいですねえ〜。羽生選手の演技は本当に美しい。あと羽生弓弦選手といえばおととしの紅白歌合戦の審査員をつとめ、「千本桜」を口ずさんでいたのも印象的でした。ボカロが好きだとは羽生選手も今時の若者だなってなんとなく親しみが持てました。

さて、羽生選手は宮城は仙台のご出身。震災の時、羽生一家は避難所での生活を余儀なくされ、家族4人で1つのおにぎりをほおばっていたそうです。当時16歳だった羽生選手はこんな状況で自分はフィギュアを続けていいのかと悩んだとか。2011年以降、羽生選手の頭から震災のことが離れたことはないそうです。ある時羽生選手はエキシビションの曲目に「天と地のレクイエム」を選んだそうです。これは震災の鎮魂歌としてこの曲を選んだといいます。

羽生選手だけでなく、2006年のトリノオリンピックで金メダルをとった荒川静香選手も幼いころから仙台で過ごしたといいます。(もっとも荒川選手は東京のご出身)

このように仙台市はフィギアスケートが盛んな土地なのです。実は仙台市は日本のフィギアスケート発祥の地でもあるのですね。仙台の歴史というと僕はつい伊達政宗にまつわる話ばかりしてしまいますがw、調べてみますと仙台もいろいろな歴史があるのですよ。

仙台城跡に整備された青葉山公園内に五色沼という沼があります。仙台城の堀の一部としてつくられた五色沼こそが、実は日本ではじめてフィギアスケートが行われた場所だといわれております。

明治時代末に、アメリカ人宣教師が、冬に水面が凍った五色沼でフィギアスケートを楽しんでいました。その様子を見た旧制二高(現在の東北大学の前身校の一つ)の生徒たちが「俺たちもあんな風にすべりたいな」と思うようになったのです。生徒たちは学校でドイツ語を教えているウェルヘル氏に滑り方をならい、五色沼で滑り始めました。

その旧制二高の学生のメンバーに、のちに日本スケート界の指導者として大きな功績をのこす田代三郎や佐藤幸三、「日本スケート会」を設立した川久保子朗しろうらがいました。

彼らは滑り方や、スケート靴も独自に工夫し、スケートを発展させていきました。また、彼らは遠方にまで滑りに行き、各地にスケートを広めていきました。

そして、1931年(昭和6年)には、五色沼でフィギアスケート選手権が行われました。五色沼はこれほど由緒あるスケート場だったのですが、いまでは五色沼は現在はまったくスケート場として使われておりません。

なぜでしょう?


それはずばり温暖化です。温暖化のために五色沼で厚い氷が張らなくなったのです。凍ったとしても薄い氷しかはらないため、五色沼ではスケートなんてできっこないのです。残念な話です。ちなみに、五色沼に荒川静香・羽生結弦両選手のモニュメントが設置されたそうです。


(現代の五色沼の様子)

※ 参考文献および参考サイト


http://www.news-postseven.com/archives/20151218_371477.html?PAGE=2



今日の話は震災とは関係ないかもしれませんが、福島のグルメにまつわるお話をします。喜多方といえばラーメンが有名です。僕も喜多方ラーメンが大好きです。というか、喜多方に訪れてから喜多方ラーメンが好きになりました。


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いま喜多方にはたくさんのラーメン屋がありますが、その元祖のお店が「現来軒」。藩欽星が創業しました。中国の浙江省のうまれの藩氏は、若くして両親に先立たれ、1925年(大正14年)、19歳の時に来日しました。長崎と横浜で土木作業員として働いたのち、現在の喜多方市熱塩加納町にあった加納鉱山で働いていた叔父を訪ねて、苦労の末喜多方で叔父と巡り合ったようです。

藩氏はここで祖国の食べ物であるラーメンを打ち、屋台で売り歩くことになります。2年間ほどチャルメラを吹き、屋台を引いて生計を立てた後、1926年(昭和元年)に店舗を構えました。この藩氏がつくったラーメンこそ喜多方ラーメンのはじまりです。

藩氏のラーメンは評判を呼びましたが、中でも出前は注文が絶えないほどでした。というのも、かん水を少量しかつかわず、力をこめて手打ちをする藩氏のつくるラーメンは出前をしてのびても、切れることがなかったのです。さらには出前のラーメンが残っても、その翌日には麺がワンタンのようにふくらみ味がしみこんでうまいという声も聴かれるように。

遠くても出前をとってくれるお客さんや、煮込み料理で二度楽しみたい人の思いにこたえるには、細麺よりも切れにくく、味をたっぷり吸うことで時間がたってもうまい太麺のほうがよいと藩氏はおもったのかもしれません。

当時の日本は中国人の差別がひどかったので、藩氏も相当苦労もしたと思いますが、それでも、日本人においしいラーメンを食べさせてあげたいという真心が、ラーメンが地域に溶け込み時代をこえ、人々に愛されるようになったのですね。

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※ 参考文献


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