history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

カテゴリ: 明治・大正

渋沢栄一は新一万円札の顔です。2024年には一万円札が一新され、福沢諭吉ともお別れです。なんだかんだで諭吉さんにはお世話になったのですね。ちょっとさみしい気がします。例えば3万円がサイフに入っていたら、諭吉が三人なんて言い方を僕はしていましたが、2024年以降は栄一が三人になるのですね。今のうちに諭吉さんの顔をしっかり脳裏ノウリに焼き付けておきますねw?

ちなみに、僕が小学校3〜4年生の頃まで一万円札といえば聖徳太子でした。驚いたのですが、聖徳太子がプリントされた一万円札は現在(令和3年9月23日現在)でも一応使うことができるそうですね。聖徳太子から福沢諭吉にバトンタッチして30年以上たつのにすごいですね。最近、ニセモノの聖徳太子の一万円をコンビニで使って捕まった事件も起こりましたっけ。

それはともかく本題に入ります。今日は渋沢栄一のちょっといい話です。

渋沢栄一が亡くなった後、当時の代表的な短歌誌である『アララギ』に渋沢栄一をしのんだ歌が掲載ケイサイされました。

「資本主義を罪悪視する我なれど 君が一代は尊くおもほゆ」


渋沢栄一は日本を代表する資本家です。しかし、彼はもうけ至上主義ではありませんでした。むしろ、目先の損得からは距離を置き、世の中全体のことを考えていました。彼がどのような社会活動を行なってきたか。みていきます。



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1 ホラ吹きと呼ばれた今村明恒イマムラアキツネ
 以前に「歴史秘話ヒストリア」でという今村明恒イマムラアキツネ人物の事を取り上げていました。彼は、1923年(大正12)の関東大震災カントウダイシンサイの予測を何と18年も前から予測したというからオロドキです。もちろん、当てずっぽうに予測したのではなく、過去の統計トウケイに基づいて地震の予測をしたのです。。

今村は、1870年、鹿児島県鹿児島市に生まれました。1891年に東京帝国大学理科大学(現・東京大学)物理学科に進学、大学院では地震学講座に入り、そのまま講座助教授となります。1896年からは陸軍教授を兼任し、陸地測量部で数学を教えたそうです。

1896年(明治29)に起きた明治三陸地震メイジサンリクジシン発生を期に、今村は津波は海底の地殻変動チカクヘンドウを原因とする説を提唱テイショウしました。さらに今村は、震災予防調査会のまとめた過去の地震の記録から、関東地方では周期的に大地震が起こるものと予想し、1905年に、今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告し、震災対策を迫る記事を雑誌に掲載ケイサイしました。

ところが、この記事はマスコミによってセンセーショナルに取り上げられて社会問題になってしまった。この記事を真に受けた人びとはパニくってしまったのです。彼の上司であった大森房吉オオモリフサキチらから「今村は世の中を混乱させている。今村の説はデタラメ」として攻撃。「ホラ吹きの今村」と中傷チュウショウされてしまったのです。

ヒドイヨねえ。上司なんだから、部下の事をカバいなさいヨwと言いたいところですが、大森もやはり責任を感じていたのでしょう。自分の部下が世の中を混乱コンランさせたことに対して。混乱コンラン収拾シュウシュウさせるには今村を悪者にするしか方法はなかったのです。

結局、今村はほら吹きと呼ばれ、辛い思いをしたのですね。この今村の回の「歴史秘話ヒストリア」を放送をしていた時、ツイッターをのぞいてみたら、「ヒストリア」を見ていた人たちが「マスコミが悪い」とツイートしていたっけwあと、「学会(学者達)は今も昔もよくないね」とツイートしていた人もいたっけ。

2 地震の神様になった今村明恒
 しかし、1923年に関東地震(関東大震災)が発生。今村の忠告が現実のものとなりました。これといった地震の対策をしなかった事もあり、被害は拡大。おびただしい数の犠牲者ギセイシャが出た。

今村はたちまち「地震の神様」とよばれ、人びとから尊敬をされるようになりました。自説の正しさを訴え続けた貝じゃなかったw甲斐カイがあったというもの。でも、今村本人は複雑な気持ちだったと思います。結果的に地震から人びとを救う事が出来ず、多くの犠牲者ギセイシャを出すことになったのだから・・・

雑誌にも「地震の神様のコラム」が大人気となり、このコラムがらないとクレームが来るほど。公演の依頼も殺到サットウしました。

また、東京の復興フッコウにもいろいろと提言をしました。広い道路をつくったり、隅田川スミダガワ立派リッパな橋もかけたりした。1911年に今村式強震計イマムラシキキョウシンケイを開発しました。

3 次は南海に地震がくる
1923年に亡くなった大森教授の後を継いで地震学講座の教授に昇進。次の大地震は南海地震と考えた今村は、これを監視するために、1928年に南海地動研究所(現・東京大学地震研究所和歌山地震観測所)を設立。設立費用はなんと今村の自腹じばら。地震から人びとを救いたいという思いで、身銭ミゼニを切ったのだ。出来る事じゃありません。

また、津波被害を防ぐには小学校時代からの教育が重要と考えて『稲むらの火』の国定教科書にのせてほしいと訴えました。

しかし、満州事変以降、日本は戦争一色。今村の事を人びとは忘れ去られるようになりました。戦中も大きな地震が起き、莫大バクダイな被害があったが、その時の政府もマスコミもほとんど黙認モクニン。「地震の復興よりも、お国のために戦え」というのが政府の方針でしたから。

今村の予測どおり、戦後間もない1946年に南海地震が発生しました。そして多くの犠牲者を出してしまった。今村は「またしても人びとを地震から救い出すことが出来なかった」と自責の念にかられたそうです。しかし、昭和の南海地震のとき、今村の言葉を信じて助かった人が今村に感謝の手紙を送ったそうです。


※ 参考サイト等
ウィキペディア
歴史秘話ヒストリア

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ブログネタ
歴史のお話 に参加中!
明日は関東大震災があった日です。今日は関東大震災に関係するお話をします。かつてNHKのEテレで「さかのぼり日本史」という番組をやっていました。平成から弥生時代くらいまでの日本の歴史を未来から過去までさかのぼるという番組。けっこう面白い番組でした。この番組で「中華義荘チュウカギソウ」が出てきました。中華義荘とは日本に住んでいる中国人の共同墓地です。横浜の山の手にあります。中華街からはちょっと遠いです。

明治・大正まで、日本に亡くなった華僑カキョウ(※1)のなきがらは船で中国に運ばれるのですが、中華義荘は仮安置所として使われていました。しかし、関東大震災で多くの犠牲者が出て、この中華義荘にて埋葬まいそうされるようになったそうです。さらに、先の大戦の横浜大空襲で亡くなった在日中国人達もここに眠っているそうです。

「さかのぼり日本史」をみて、横浜の中華義荘に行きたくなりました。2011年に横浜に訪れ、ついでに中華義荘に立ちよろうとしました。事前にグーグルマップで場所を確認したのですが、いざ横浜の山の手に来てみると目的の中華義荘がどこにあるのかわかりません。道端の所々に設置された案内板(地図)を見ながら何とか近くまでこれたのですが、なにせ横浜はめったに行かないところ。

土地カンがないうえに方向オンチなものだから、僕はあっちへウロウロこっちへウロウロ歩いていました。とちゅうで道を歩いている、おばあちゃんに「中華義荘どこですか」と僕がたずねても、「え❓」という返事が返ってきただけでした・・・ 

グーグルマップの地図よりも航空写真で位置関係を調べればよかったなあ。地図は意外と位置関係がつかみにくいんですよね。航空写真のほうが、建物なんかもチェックできるから便利ですから。

しかたがないのでコンビニの店員さんに中華義荘を聞くことにしました。店員のオバさんに「中華偽装中華義荘はどこですか」とたずねたら、オバサンは首をかしげながら「中華義荘?さあ?」と答えるだけでした。それで僕は「中国人の墓地がこの辺にあるらしいのですが」とたずねたところ、オバサンは合点がいった顔をして「ああ、南京墓地ナンキンボチ」と答えたのです。

コンビニを出て、オバサンに言われたとおりに道をさかのぼってみたら、あったあったありました。中華義荘は地元では南京墓地と呼ばれていたのですね。はじめに尋ねたおばあちゃんに「南京墓地どこですか」って聞いたてたら、ちゃんと教えてくれたかもしれない。

中華義荘に来たのですが、やはり墓地ということもあってさみしいところです。日曜日に来たのですが、ここに来たのは僕以外誰もいない。夜来たら怖いかも。同じ横浜の外人墓地とは明らかに雰囲気が違います。外人墓地は観光地化していることもあってか、観光客やアベックが夜でも外人墓地の辺りを歩いています。だから、外人墓地は夜でもそんなにこわいとか、さみしいとかそんな感じはしません。

話を中華義荘の話に戻して、中華義荘には年季の入った中国の建物が建っています。この建物は「地蔵王廟」といって1892年に建設されたようです。敷地シキチに所狭しと立ち並ぶお墓には、「王」だとか「陳」だとか、中国人の名前がきざまれていました。日本なんだけど、日本じゃないような、まるで異国に来たような不思議な雰囲気を味わえる場所です。




※1 中国国籍を保持したままで、海外に移住した中国人およびその子孫。






※この記事は2011年7月16日に書いたものです。
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24時間テレビをやっておりますね。この番組に関しては厳しい意見も散見しますが、この番組を楽しみにしていたり、募金で救われている人たちもいらっしゃるので一方的に非難すべきかどうか難しい所です。まあ、あんまり障害を持った人たちに対して手荒なことだけはやめていただきたいなと。あと,募金の使い道(内訳)の情報公開もお願いしたいなと。募金のネコババなんてもってのほかですから。

また、まもなくパラリンピックが始まります。頑張って欲しいなって。

歴史上で障害を持った人で有名人と言えば,仙台四郎でしょうか。え、知らない?東京や大阪ではともかく仙台ではめっちゃ知名度高いです。仙台四郎の本名は通説では芳賀 四郎であるが、親族によれば「芳賀 豊孝」だそうです。また、口の悪い者は「バカ四郎」と呼んで痛そうです。

彼は1885年生まれで,1902年に亡くなっております。仙台四郎は知的障害で,会話もままならず,時々出てくる言葉は「バヤン、バヤン」だったとか。また、四郎は、まねごとが好きで、例えば商家の小僧さんが店先で掃除をしていると、小僧さんと一緒になって掃除をするのですね。そんな四郎のことを迷惑がるお店と、逆に喜んで、四郎に食事を食べさせてくれるお店と分かれたのですね。四郎を大切にしたお店は繁盛し、逆に煙たがったお店は経営が悪化したのですね。

それで,四郎自身が選んで訪れる店は繁盛するとの迷信のマスメディアを巻き込んで流布し、売上増を企図する店舗等が四郎の気を引こうと厚遇したのですね。四郎が有名になると、それまで四郎を冷遇したお店も手のひらを返して、四郎の気を引きます。が、不思議なことに、一度四郎を冷遇した店に、四郎は二度と近づかなかったのです。


また、四郎が亡くなった後の大正期に入ると、仙台市内のある写真館が「四郎の写真を飾れば商売繁盛のご利益がある」と謳って写真販売を始めたのです。昭和の戦後恐慌以降、四郎のブームが度々発生し、お稲荷さんやえびすさまを差し置いて、四郎は仙台で信仰され、さらには全国的に知られる福の神として定着したのですね。今でも仙台の商店街やモールのあちこちで仙台四郎の人形などを見かけます。四郎は福の神さまだったのかもしれませんね。





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(仙台四郎の写真。ウィキペディアより)

*この記事はウィキペディアを参考にしました。

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1 金属回収
 
日本は今も昔も輸入に頼っていました。だから、諸外国と戦争して、貿易がシャットアウトされると、えらいこっちゃになるわけです。輸入が途絶えると食糧だけでなく、武器や航空機、戦艦、大砲をつくる金属も不足してしまいます。特に鉄の不足は深刻です。当時の日本の鉄鉱石はほとんど中国とイギリス領マレーからの輸入でした。アジア・太平洋戦争開始前に、イギリスやアメリカなどによって石油と鉄鉱石の輸入を封鎖されてしまい、鉄鉱石が手に入らなくなったのですね。

それで1941年金属回収令がだされました。翌年の1942年には寺の鐘や仏具、エレベーターなどあらゆる金属が強制的に回収されました。

銅像も、その対象になりました。1930年ごろから、ほとんどの小学校の校庭に建てられていた二宮尊徳像も金属製のものは回収され、石像に作り替えられました。また、東京・渋谷駅前の忠犬ハチ公の銅像も回収されたといいます。ハチ公の銅像って戦時中からあったのですね。


公共のものだけでなく、家庭の金属類も回収されるようになりました。家庭にある火ばち、鉄びん、窓ごうし、ネクタイピンや指輪などの装飾品、さらには時計のチェーンまでその対象なりました。「家庭鉱脈」という新語もうまれたほど徹底していました。


そのような取り組みをしても、金属は十分ではなく、おけ、コップ、さじ、フォーク、家具の取っ手まで回収されるようになりました。防火に必要なバケツも布製のものが売り出され、こどものおもちゃも金属製のものは回収されてしまいます。

2 代用品
 
鉄や銅などの金属は、まず軍のために使われました。そのため各家庭にあった金属類は姿を消してしまいます。日用品の多くは陶器や竹などでつくった代用品を使用するようになりました。金属どころか、国民の衣服にかかせない木綿の使用まで政府の管轄下におかれてしまいました。国民は代用品をつかってガマンをするしかなかったのです。

金属の代用品といえば、僕は陶製の湯たんぽを思い出します。僕は母と骨董の仕事をやっていたのですが、骨董市で陶器の湯たんぽをみた覚えがあります。アイロンも陶器をつかっていたそうです。陶器の中に暑いお湯をいれて使っていたそうです。陶器だけでなく、セルロイドやセメント、ガラスなども使われておりました。学生がかぶる学帽につける交渉や制服の金ボタンも代用品がつかわれました。校章も金属がないので紙をかさねて圧縮して金粉をふきつけたものをつかっていたそうです。紙で作られた校章なんて雨の日はぐちゃぐちゃになりますね。

あと、なんと陶製の硬貨も作られたといいます。硬貨に金属がつかわれなくなったのですね。しかし作られただけで実際には陶器の硬貨は用いられませんでした。

陶製だけでなく、代用品の材料として脚光を浴びたのがセルロイドです。主にこどものおもちゃなどに使われました。セルロイドとは、化学的につくられたプラスチックの一種です。缶づめの容器、画びょう、こどものおもちゃなど様々な金属製品の代用品として重宝されたといいます。ただ、セルロイドって燃えやすいのですね。そこが難点です。

金属だけでなく、革製品も代用品が用いられるようになりました。革靴には牛革が使われておりました。ほかにも布や紙に塗料をぬった鞄、ハンドバック、クジラの皮でつくったベルト、時計バンド、サイフなど。ランドセルも竹でつくられたそうです。竹をほそく割り、竹かごのようにあんで形をつくったといいます。

綿をつかった繊維製品も代用品が使わました。綿は江戸時代から日本人にとってかかせない繊維です。だから、「綿の流通禁止」が新聞の号外にのったとき、国民は驚いたといいます。綿の代わりにスフとよばれる一種の化学繊維が配給されました。スフは洗うと縮んだり、すぐにきれたりするので評判は悪かったといいます。

3 木炭と松根油
 
1938年5月からガソリンの切符制が実施されました。ガソリンも切符がないと買えなくなったのです。石油の輸入も連合軍によってストップされ、燃料となるガソリンが不足したからです。恐ろしい話ですね。我々はガソリンがあることが当たり前のような生活を送っておりますが、ガソリンがないとどれだけ厳しい生活になるか。 「ガソリンの一滴は血の一滴」といわれるほど、この当時のガソリンは貴重でした。

それで木炭自動車が登場しました。木炭を燃やして発生するガスを燃料して走るものでした。木炭自動車といっても、木炭自動車をわざわざ買う必要はありません。持っている自動車に木炭ガス発生装置を取り付けるだけで改造できたことから、たちまち普及したといいます。

また、ガソリンの代わりに松根油を使おうという動きもありました。松根油は松の木を切り倒し、根っこからにじみ出る白いヤニから作られます。この松根油をとりだす作業は小学生までかりだされたといいます。

しかし、松根油は非常に労力が掛かり収率も悪いため実用化には至らなかったといいます。戦後、進駐軍が未調整のままの松根油をジープに用いてみたところ、「数日でエンジンが止まって使い物にならなかった」という記述がJ. B. コーヘン『戦時戦後の日本経済』にあるそうです。

※ 参考文献
戦争とくらしの事典
ポプラ社
2008-04-01



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