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カテゴリ:日本の歴史 近現代 > 日本の歴史(明治・大正・昭和初期)

岡村隆史さんが結婚されるそうですね。おめでとうございます!お相手は一般の女性の方だそうです。これでチコちゃんに「ボーっとしてるんじゃねえよ!」って叱られなくてすみますねw?コロナが流行る不穏な時代だからこそ、明るいニュースはよいものですね。いつまでもお幸せに。

僕のブログでも、著名な夫婦のお話をしたいと思います。僕はまだ独り身ですが、記事を書いて少しでも、あやかれるようにと願いと、こういう先行き不安な時代だからこそ家族の絆が問われるんじゃないかとおもいましてね。今日は愛新覚羅溥傑あいしんかくらふけつひろのカップルです。


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これまで、日本の防空法のことを書かせていただきました。書くたびに防空法が悪法であること、当時の為政者たちが国民を守ろうとする気概がまるでなかったことに腹が立って仕方がなかったのですが、もっと悪いのは無差別に爆撃を行った米軍です。

そもそも米軍が大都市のみならず無差別に地方都市まで攻撃したのは、日本の軍需産業は当時家内手工業にかなりの部分を頼っていたのです。つまり家庭の内職で部品を作っていたのですね。また、下請け企業も都市部だけでなく地方の都市にもあったことも理由の一つだと考えられます。


また、米軍は日本本土空襲に入る前にガダルカナルの攻防や硫黄島など、日本軍の激しい抵抗にあいました。日本軍の果敢な戦いぶりは米軍も震え上がったといいます。捕虜になることを拒否し、捕虜になるくらいなら玉砕も恐れないというその士気を恐れたのです。もし、今後も徹底抗戦にあったら、米軍の被害も甚大なものになる。そこで米軍が取った戦略は徹底的に空き地にして、抵抗する日本人がいなくなったところを確かめてから進出し、占領するとう作戦をとったといいます。 そして何よりも大きいのはパールハーバーの報復だと考えらえます。なにしろアメリカによる空爆は無条件降伏のポツダム宣言受諾を伝えた後の「8月15日」でさえ行われたくらいです。ルーズベルト大統領をはじめアメリカの指導者たちは日米戦争が始まる前からすでに日本に敵意をむき出しにしていたといいます。なんでも日本が重慶爆撃をしたことも、アメリカを怒らせたといいます。そのうえパールハーバーですからね。そのことで、パールハーバー直後に「一日でも早く日本本土を爆撃したいものだ」という感情を抱いたといいます・・・


そのときアメリカの爆撃兵団を率いたのがカーチス・E・ルメイ。日本の都市を無差別に焼き尽くした張本人に、なんと日本政府は勲章を贈ったといいます。呆れた話です。その勲章は勲一等旭日大授章。最高位の勲章です。授章の理由は「航空自衛隊の育成に貢献したから」


それは昭和39年(1964年)のことです。時の総理大臣は佐藤栄作氏。そして当時の防衛長官が小泉純也氏。小泉純一郎元総理の父親にあたります。

ルメイに勲章をおくった理由として佐藤栄作元総理は次のように述べております。

「今はアメリカと友好関係にあり、功績があるならば過去は過去として功に報いるのが当然、大国の民とはいつまでもとらわれず今後の関係、功績を考えて処置していくべきもの」

小泉元防衛長官は、勲章授与について次のように説明しております。

「功績と戦時の事情は別個に考えるもの。防衛庁の調査でも当時ルメイは原爆投下の直接部隊の責任者ではなく、原爆投下はトルーマン大統領が直接指揮したものである」

当然、勲章について国会でも批判が大きく、社会党などが反対したといいます。当時の国民感情からすれば、これは当然でしょう。ちなみに今でもこの勲章は返すべきだという意見も少なからずあるようです。

そのルメイは東京大空襲ほか日本各地の空襲で良心の呵責がなかったのでしょうか。


「当時日本人を殺すことについてたいして悩みはしなかった。私が頭を悩ませていたのは戦争を終わらせることだった」

「もし戦争に敗れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことにわれわれは勝者になった」

「答えは“イエス”だ。軍人は誰でも自分の行為の道徳的側面を多少は考えるものだ。だが、戦争は全て道徳に反するものなのだ」


またルメイは自著でもこう述べていたそうです


「焼夷弾空襲での民間人の死傷者を思うと、私は幸せな気分にはなれなかったが、とりわけ心配していたわけでもなかった。私の決心をなんら鈍らせなかったのは、フィリピンなどで捕虜になったアメリカ人―民間人と軍人の両方―を、日本人がどんなふうに扱ったのか知っていたからだ」[




※ 参考文献
日本空襲の全貌
洋泉社
2015-02-26


「悪法も法」という言葉がありますが、「防空法」は悪法もいいところ。これまで10回にわたって書かせていただいたのですが、憤りさえおぼえました。いくらお上が決めたことでも、悪法であれば従う必要はないとおもうんですよね。
戦時中、敢えて政府や軍部の意向に逆らい、多数の命を救った良識派もいました。今日はその良識派の人たちを取り上げます。

1 新潟市の場合
 新潟市は昭和20年(1945年)8月まで大規模な空襲を受けませんでした。そんな新潟にも8月10日、空襲に合いました。死者は47名だったそうです。その日、新潟知事・畠田昌福が知事布告をだしました。「(8月6日に落とされた広島の原発は)従来の民防空対策をもってはよく対抗しえない程度のもので人命被害もまた実に莫大」であり、「この新型爆弾はわが国未被害年新潟に対する爆撃に、近くしようせられる公算極めて大きいのである」と。


そして、畠田知事は「新潟にも原爆が落とされたら大変」ということで市民に「徹底的人員疎開」を命じました。内務省は新潟市民の疎開に不快感を示しましたが、畠田知事は市民の命を守ることを優先したのです。


市内から郊外へ向かう道は人々であふれかえったといいます。当時は車もあまり普及していない時代でしたから、大八車を押して避難した人も少なくなかったそうです。結局新潟市に原爆が落とされることはなかったのですが、避難が禁じられた時代に、その禁を破ってまで市民を守った畠田知事の決断はすばらしいなって。

ちなみに、新潟がアメリカの原爆投下であることが判明したのは戦後のことでした。

2 八戸市の場合
 青森県八戸市は、昭和20年(1945年)7月14日と8月9日に空襲を受けていました。さらに「8月17日に大空襲を実施する」という米軍による予告ビラも撒布されました。八戸市民も恐怖におびえたといいます。

そこで八戸市の山内亮市長は、8月10日付で市街地からの「総撤退」を命じました。市民はみな避難をし、戸市は「さながら無人の廃墟の街のごとき」と言い伝えられるほど。

山内市長は、戦時下の市民の食糧確保に奔走したといわれております


                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              
 ※ 参考文献




1945年(昭和20年)8月6日に広島、8月9日に長崎に原爆が投下されました。おびただしい被害がでました。8月8日に防空総本部がこのような声明を発表しました。8月8日といえば長崎に原爆が落とされる前日ですね。


「(広島に落とされた)新型爆弾は現地報告によると落下傘のようなものをつけて投下するもので、大爆音を発し、相当広範囲に被害を及ぼすものであるが、次の諸点に注意すれば被害を最小限にとどめ、かつ有効な措置であるから各人は実行しなければならぬ」とし、「敵機は一機でも油断禁物、待避壕に待避し、待避壕に掩蓋えんがい(※1)がない場合は毛布や布団をかぶって待避する。」と。

翌日の8月9日で発表された対策は「軍服程度の衣類を着用していれヤケドの心配はない。防空頭巾および手袋を着用しておれば手足を完全にヤケドから保護することができる」

さらに「新型爆弾もさほど恐れることはない」とまで言い切っているのです。

防空総本部は広島の原爆のことを知らないのかと思わず思ってしまいます。

さらに防空総本部が11日付で発表したのは

「破壊された建物から火を発することがあるから初期防火に注意する」

「白い下着の類はやけどを防ぐのに有効である」


白い下着がなぜ原爆の爆風に有効なのか謎ですが、ともかく原爆まで大したことがないと言い切る防空総本部の見通しの甘さにあきれてしまいます。現代に例えるなら「コロナはただの風邪だ。マスクなんてするな。じゃんじゃん外に出て経済活動をしろ」と官房長官が言うようなものです。

※1 陣地・ざんごうなどに、敵弾の危害を防ぐため、設ける屋根。 



※ 参考文献








1 通せんぼ
空襲にあったら、最初にすべきことは逃げることです。しかし、戦時中は防空法のため、逃げることを禁じられました。実際に住民が逃げることを阻止しようとした警察もいたといいます。

1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲では、警察官がサーベルを振りかざしながら「逃げるな!火を消せ!火を消せ!」って一人猛火でわめき散らしたという話があります。一人でわめき散らしたということは、その警察の悲痛な叫びもむなしく、住民たちは我も我もと逃げ回ったということでしょう。

1945年(昭和20年)8月2日未明、169機ものB29が二時間にわたり来襲し市街地の8割を攻撃したといいます。恐ろしいですね。爆撃機一機だけでも怖いのに169機とはすごい数です。戦闘機の爆音もそうとうなものでしょう。しかも、その戦闘機が一斉に爆撃し、死者は約450名にも及んだといいます・・・

猛火から逃れるため、住民たちは市街地から北へむかい、浅川橋という橋から少し進むと山へ避難しようとしました。しかし、その橋のところに長蛇の列ができたといいます。なぜでしょう?その橋の入り口のところで約20人の消防団が道をふさぎ、住民の避難を阻止しようとしていたのです。その消防団の一人から言われた言葉が、

「男のくせになぜ逃げてきた。早く言って火を消せ、消さなければ胴をつく」とか「ぶったたく」とか。

いまならモラハラものですよね。というか、いつの時代にも自粛警察みたいな人はいるのですね。そんなことを言われたものだから、地獄のような猛火にさらされた市街地へ戻ったといいます。

また、ある家族は浅川橋で憲兵(もしくは在郷軍人)に呼びかけられたといいます。そしてサーベルを振り回して「男は戻れ!」と怒鳴ったといいます。その家族の一人が「背負っている老婆を安全な非難させる」といったが、「この非国民が!」と罵られビンタを受けたといいます。

この八王子空襲が起きた同じ日に富山県富山市でも空襲があり、やはり消防団が逃げる人たちの通せんぼをしていたといいます。富山市に神通川という川があって、その川にかかっている橋を避難者が渡ろうとしたら消防団が通せんぼし、空襲で燃えている街に追い返し、消火活動をさせたといいます。


2 青森空襲
 1945年(昭和20年)7月中旬、青森市内にも空襲予告ビラがまかれました。空襲予告ビラは前の記事でも書かせていただきました。http://ehatov1896rekishi.diary.to/archives/2486477.html

青森市内よりも一足早く、青森港や青函連絡船は猛烈な攻撃を受けていました。当然市民はそのことを知っていましたから、いよいよ市街地にも及んだかと震え上がったといいます。ビラをみた市民は避難をし始めたといいます。そんな状況を青森県知事の金井元彦が黙っていませんでした。金井知事はかつて内務省の検閲課長として言論弾圧と国策流布に剛腕をふるった曰く付きの人物でした。彼はこのような言葉を語っております。

一部に家を空っぽにして逃げたり、田畑を捨てて山中に小屋を建てて出てこないというものがあるそうだが、もってのほかである。こんなものは防空法によって処罰できるのであるから断固たる処置をとる。勝つには積極的精神、この精神をもって一にも二にも戦力を充実することである。(略)敵が去ったならば直ちに秦らう、どんなことがあっても増産を確保する。この心構えで敢闘する。それを空襲だからと一日も二日も秦からず逃げ回ったりするものがあれば、当然処罰する。(『東奥日報』昭和20年7月18日付)
さらに、金井知事は7月28日までにもどらないと、町会台帳から逃げた人間(家族)の名前を削除すると脅しをかけてきたのです。町内会の台帳から名前が消えるということは、町内会の人たちから非国民のレッテルをはられてしまい、また配給物も止められてしまうということです。配給物は町内台帳に書いている名前をもとに配られるものです。戦時中は配給制でした。食べ物などが配られなくなることは大変なことです。ましてや赤ん坊がいるお母さんにとっては大変です。赤ちゃんのミルクがもらえなくなるのですから。食べ物を買うにしても闇ルートで買うしかない。今みたいに自由にスーパーで買い物ができる時代とえらい違います。

そして多くの市民たちがが、期限とされた7月28日までに青森市に戻ってきました。その夜、約100機のB29が青森市を来襲し、午後10時半から約1時間20分にもわたり574万トンの焼夷弾を投下。しかも悪いことに青森の空襲で使われた焼夷弾は従来型に黄燐を入れ威力を高めた新型焼夷弾で、青森市がその実験場となったのです。人の命を実験台に使うとはアメリカもひどいことをしますね。大火災により死者1018名の大惨事となりました。

3 どさくさに紛れての火事場泥棒
 空襲の被害が日本のあちこちにも及び、各地は焼け野原が広がっている。いくら、お上が「逃げるな、火を消せ」と騒いだところで、消火の素人である隣組の防空活動、たとえばバケツリレーとかが無意味であることに多くの人がわかるようになりました。空襲が起こる前は、政府やマスコミは「焼夷弾は怖くない」としきりに宣伝していましたが、実際はそうじゃないことが明白になりました。しかし、そうした国民の考えとは逆にマスコミは以前にもまして「逃げるな」「火を消せ」とまくしたてるのです。それだけ、現実に国民の士気が低下していることの表れといえます。そのことに対する政府の焦りも見え隠れします。 

それだけではありません。空襲のどさくさにまぎれて泥棒被害も多発していたのです。

よく戦時中の日本には美徳があったという意見をよく聞きます。僕のブログでもたびたび戦前の日本人が必ずしも高いモラルをもっているとは限らないとたびたび書かせてもらいましたが、戦時中も例外ではありません。「火垂るの墓」でも主人公のセイタが畑の野菜を盗んで、とがめられるシーンがでてきますが、実際にあのようなことはありました。物資が窮乏してみながみな追い詰められていたからです。

「武士は食わねど高楊枝」ということわざがありますが、僕は半分は本当ですが、半分はウソだと思います。やはり人間は食べるものがなければ、モラルもヘチマもあったものではありません。昭和20年4月22日付の『読売新聞』には「火事場泥棒という言葉があるが、最近空襲のどさくさにまぎれて泥棒被害が少なくない。ひどいのになると命からがら持ち出した罹災者(※1)の物品までかすめとる」と書かれておりました。実際、昭和20年の5月から7月までの間だけでも約3500件もの盗難事件が発生し、そのうち3割が食糧だというのです。

4 その後の金井市長
 さて、青森の金井市長のお話に戻ります。彼は1946年(昭和21年)1月、公職追放処分を受けて知事を免職となりました。公職追放後は民間企業に勤めていたのですが、1948年(昭和23年)に自らの命令で空襲により多くの犠牲者を出したことを悼んで慰霊のため観音像の建立を提唱し、柳町交差点のロータリーに三国慶一作の「平和観音像」が設置されたそうです。

1964年(昭和39年)に道路拡張のため2代目の観音像が10メートルほど北に作られ、金井らが建立した初代の像は青森市文化会館の4階で展示されているそうです。

彼は生涯、青森空襲で人を死なせたことを大変悔やんでおり、その罪滅ぼしに観音像をたてたり、1944年(昭和19年)に金属類回収令で解体された能福寺(神戸市兵庫区)の兵庫大仏再建事業に際して奉賛会会長を務め、1991年(平成3年)5月9日の開眼法要に出席したそうですね。罪滅ぼしをしたかったのでしょうね。戦後になってもインパールの責任をとるどころか、部下たちに責任転嫁をした牟田口廉也よりはずっといいと思いました。ただ、金井市長は良くも悪くもマジメすぎたのですね。上の人間には忠実に守るし、彼なりに正義感もあったのでしょう。それゆえに自分でも無意識のうちに人を傷つけてしまう。そういう人はナチスにもいたみたいですよ。金井市長が戦後になって一人の人間に戻り、人間としての良心をとりもどしたのでしょう。

 
※1 災害にあった人(人々)のことである。


※ 参考文献






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