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カテゴリ:日本の歴史 近現代 > 日本の歴史(明治・大正・昭和初期)


今では信じられないことですが、太平洋戦争の目的はアジアの開放だって言われていたのです。欧米列強の魔の手からアジアを救い、日本を盟主とした「大東亜共栄圏」をつくろうと。

しかし、これも後付けなんですよね。真珠湾攻撃をしたときは、政府はアジアの開放という見解ではなかったのです。あくまでも自存自衛のためだと。しかし、自衛のためといっても、アメリカと戦争をする大儀がありません。当時のアメリカは中国の利権をめぐって対立をしていたものの、アメリカが日本に侵略しようとは考えておりません。

それが、真珠湾攻撃で中国だけでなくアメリカまで本格的に敵に回してしまったのです。また、アメリカはアジアに植民地を持っておらず、むしろ植民地支配に批判的で、イギリスとフランスとも微妙な立場にありました。イギリスやフランスは世界中に植民地をもっておりましたから。だから、日本がアジアの開放をいうならイギリスやフランスと戦わなければいけなかったのです。

さらに日本は資源とりわけ石油がないので、東南アジアを占領し、石油資源を確保しようと考えたのですね。それで苦し紛れに当時の政府は「アジアの開放」って言いだしたのです。本当のことを言ったら国民はついていきませんからね。

ちなみに、当時の日本人は大東亜共和圏に関しては冷めたものの見方をした人も少なくなかったようです。矢部貞治という東京帝国大学の教授が、真珠湾攻撃の翌年の1942年(昭和17年)に大学で大東亜共和圏の理念を学生たちに語ったところ、学生たちはマジメに聴くどころか、げらげら笑ったといいます。矢部は怒り、日記にも不愉快な思いをしたとつづったほど。しかし、最先端の英語教育を学んだエリートたちにとって、大東亜共和圏なんて絵にかいた餅にしか思えなかったのです。当時のエリートたちは貿易相手のアメリカと戦うことがいかに無謀かわかっていたのですね。また、戦争が悪化すると「どうせ、戦争なんてお偉いさんが喜ぶだけだから、早く戦争を終わらせてほしい」と学生が言ったといいます。学生だけでなく当時の華族たちもみな戦争に反対していたそうです。庶民でもゲンのお父さんのようにわかっている人はわかっていたと思います。

新型コロナが蔓延し、なかなか収まりそうもありません。安倍総理が非常事態宣言を延長しました。コロナが収まっていないので、仕方ないといえば仕方がないのですが、僕もカラオケができなくてイライラしておりますw5月7日に非常事態宣言が解除されるはずだったのが、それが伸びてしまいました。カラオケは当分お預けですね。それはともかく、自粛、自粛で正直イライラされている方も少なくないかと思われます。そうなると僕が懸念するのは自粛という言葉が独り歩きし、本来、コロナの感染を防ぐため、これ以上犠牲になる人をなくすためのの自粛が次第に意味をなさなくなり、自粛のための自粛になるのではないかって。本来は思いやりから始まったことが別のゆがんだ形ででるのではないかって。

歴史上、日本のお上は下々の人間の生活を縛るのが大好きですがw?、人間はそんなに長く修行僧のような暮らしを続けられるはずがありません。そのひずみはゆがんだ形ででてきます。現に、ドラッグストアーでレジ打ちの店員さんをバイ菌扱いしたり、県外から来た車のナンバーに傷をつけられたという出来事が現実に起こっているのです。

もちろん、自粛も大事ですが、長引くともっとエスカレートして、もっとひどいことが起こりうる可能性も否めません。以前に隣組の記事でも書きましたが、いじめの問題も出てくる可能性もゼロとは言えないのです。もし、コロナの自粛をめぐって事件沙汰にまで発展したら、世も末ですね。

それはともかく、今日は教育勅語のお話をふれます。教育勅語は1890年(明治23年)に発布され、公式には「教育二関スル勅語」といいます。道徳や区の教育方針について、明治天皇の名のもと国民に発せられた言葉です。天皇を敬い、国を愛し、そして自分の命をよろこんで天皇陛下や国のためにささげることを示されていて、全国の学校には教育勅語の謄本(複製)が配られました。

もともと教育勅語は、明治時代以降もっとも大切にされてきましたが、それがもっとも重要視されたのが太平洋戦争中です、国の祝祭日の式典などでは、児童・生徒は、ご真影(明治、大正、昭和の天皇・皇后の写真)に拝礼し、校長先生が読み上げる教育勅語を静かに聴くことが義務付けられました。教育勅語は天皇の言葉として崇拝され、きわめて神聖なものとして扱われました。そして、児童たちには教育勅語を暗記させられたといいます。

ネットでは、戦前の人たちは教育勅語の教えが身についていたから、戦後日本を復興できたといいますが、本当にそうでしょうか?僕は全否定はしません。戦時中の方は凛とした人もおおかったし、今の人よりも厳しさの中にも温かいものをかんじます。教育勅語に書かれている隣人愛、家族愛はまさに現代人が欠けているものであり、そういう意味では教育勅語に光を当てるのも一考かと思います。しかし、僕が調べたところ、必ずしも当時の子供たちが教育勅語の教えを身に着けていたわけではないのです。

授業で教育勅語を習い、友達と仲良くすること+の大切さを教えられたといいます。当然授業をきいた子供たちはなるほどそうだと納得をしました。ところが、授業が終わり休み時間になると、さっき教育勅語の話を聞いた子供たちが取っ組み合いのケンカをしたといいます。また、暗記することに重きがおかれすぎたために、かえって教育勅語にか書かれている言葉の中身をあまり把握できなかったと回想する方も決して少なくないのです。私ごとになりますが、僕が某宅配業者のアルバイトをしたのですが、それで社訓みたいな言葉を毎回復唱したのですが、今ではどんな言葉だったか覚えていないし、その言葉が今の僕の人格形成においてどれほど役立っているのか正直わかりかねます。

また、戦時中といえども凶悪犯罪があったといいますし、児童虐待も少なくなかったそうです。戦後になってもそれはおなじ。むしろ昭和30年代は、平成よりも犯罪件数や児童虐待の被害件数が多かったようですよ。昭和30年代の親御さんと言えば、教育勅語を習った世代。教育勅語を幼いときに学んでいながら我が子をぎゃくたいする、教育勅語が身についていませんね。

また、ある方がおっしゃっていたのですが、教育勅語を「官僚的」って批判をしていましたっけ。さらには、「どんないいことでも強制され、形式的になったら、心がなくなる。それに人間は成長する。大人になったのに小学生の時の服を着ようとしても無理だ」とまでおっしゃっていたのですね。僕も悪いけれどそう思います。たしかに教育勅語にもいい言葉が書かれておりますが、良い言葉でも強制するといかがわしいものになります。

人間ってあんまり強制すると反発するんですよ。今回の自粛だってあんまり強制すると、かえって自粛しない人間が出てくると思う詩、あるいは内心反発しても反発できない人もいます。そういう人は自粛しない人間や弱い立場にいる人間をいじめたりするんです。僕は戦時中のあんまり色んなことを強制したから、戦後は極端ともいえるような人権が叫ばれたり、自由が強調されるようになったのではないかとにらんでおります。

教育勅語の謄本やご真影は各学校に配られましたが、学校の金庫に保管していたわけではありません。「奉安殿」とよばれる建物にしまっておいたのです。レンガやコンクリートでじょうぶに作られ、空襲をさけるために、校舎から少し離れた場所に建てられました。登下校時などには、教師も生徒も奉安殿に向かって最敬礼をしなくてはなりませんでした。空襲で学校が火事になったとき、校長先生が奉安殿に真っ先にかけつけ、ご真影と教育勅語の謄本を守りにいったそうです。ご真影と教育勅語のご真影は無事でしたが、校長先生は焼死したといいます。

美談ともとれますが、人の命より、いい方は悪いけれど物のほうが大事なのかって僕は思ってしまいます。歴代の天皇陛下のご真影だって、原本とかネガならともかく、写真のネガを焼き増ししたものですからね。ご真影も教育勅語の謄本も大切なものかもしれませんが、人の命には代えられないような気がします。

太平洋戦争が終わると、進駐軍によって、教育勅語は学校現場から排除され、奉安殿は解体、撤去されました。が、一部では奉安殿が残っているところもあるそうです。貴重ですね。僕は現物の奉安殿をみたことがないので、実際に見に行きたいです。





※ 参考文献







※関連記事

http://ehatov1896rekishi.diary.to/archives/2248371.html

1 学童疎開とは
いま、コロナの影響で学校が休みになっております。もし僕が小学生だったら、「学校が休みだ、ばんざーい」なんて思っていたかもしれません。不謹慎ですね。僕は勉強も嫌いだったうえに、いじめにあっていましたから、学校に通うことが苦痛のほか何者でもなかったのですね。まあ、コロナのために外出もあまりできなくなったので、元気な子供たちはウズウズしているのではないかと。もっとも、いまはネットやゲームなど中で遊べるものも沢山ありますからね。いづれにせよ非常事態であることは間違いないでしょう。

非常事態といえば、戦争中は、今とは比べ物にならないほど大変なものでした。太平洋戦争の末期、日本各地は度重なる空襲にまみれました。とくに東京、横浜、大阪、名古屋、くべなどの大都市への空襲は、日を追うごとに激しさをましてきました。

1944年(昭和19年)6月、政府は、都市部の国民学校初等科(※1)に通う児童を対象にして、空襲の恐れのない地方の農村部へ移住させることを決定します。それが学童疎開です。はじめは、親戚や知人を頼った「縁故疎開」がメインでした。僕の父親は縁故疎開でした。僕の父は昭和11年生まれですから、戦争をリアルに体験しているのですね。僕の祖母の実家が千葉県なのですが、僕の父も戦争中は千葉に疎開をしたそうです。やがて学校や学年ごとにまともって疎開をする「集団疎開」が行われるようになりました。全国で約40万〜60万人の児童が集団疎開したといいます。

2 学童疎開の現実
集団疎開の主な受け入れ先は、お寺や旅館など。子供たちは、そこで規律の厳しい集団生活を送らなければなりませんでした。なれない田舎暮らし、少ない食事、子供同士のいじめ。都会から来た子供たちが田舎の子供たちにいじめられるケースもあったそうです。僕だったらいやだな。あと、「ドラえもん」の「白ゆりのような女の子」にも、教官に怒鳴られながら農作業をする場面もでてきましたっけ。農作業なんて都会育ちの子供たちには大変だったのではないでしょうか。

そんなこともあって疎開先から脱走する子供たちも多くいたといいます。藤子・F・不二雄先生の「エスパー魔美」にも魔美の父親がクオーターということが理由でいじめにあい疎開先から脱走したなんて話も出てきます。藤子先生は昭和8年生まれで、実際に学童疎開を体験している世代です。だから、作品に出てくる学童疎開の話はご自身の体験に基づいているのでしょう。








僕の父親は縁故疎開だったので、そういったいじめの話はなかったようですが、そのかわり大変なおもいをしたそうです。なんと田んぼのあたりを歩いていたら、空から爆撃機がやってきて父をめがけてババババっと攻撃したそうです。命からがら父は逃げられたといいますが、父は今思い出しても恐ろしいと語っていました。

さて、都市部のこどもたちがすべて疎開できたわけではありませんでした。学童疎開は、原則として保護者の申し込みによるものです。保護者が疎開費用を負担できない子供や病弱なこどもなどは疎開できませんでした。疎開できなかったこどもたちは「残留組」と呼ばれ、激しくなる空襲におびえながら暮らしていたそうです。

3 日本のタイタニック 対馬丸
疎開といえば悲劇的なことがありました。対馬丸です。1944年8月21日、沖縄から集団疎開する児童や、一般の疎開する人たちを乗せた貨物船「対馬丸」が那覇港から長崎に向けて出港しました。日本の護衛艦に守られながらの主公開でしたが、その対馬丸の背後にアメリカの潜水艦ボーフィン号に追跡されていたのです。翌日の夜、対馬丸はトカラ列島悪石島付近の海で魚雷をうけて沈没。1500人以上の命を失ったといいます・・・

僕が対馬丸のことをしったのは小学校のころ。とうじ対馬丸の事件がアニメ映画化され、そのアニメ映画のパンフレットが学校でも配られたのです。僕はいかなかったけれど、そのアニメ映画は近所の公会堂で上映されました。僕も親にねだって見に行けばよかったなあ。

対馬丸の生存者もいらっしゃて、その動画もYouTubeであがっております。その方は元引率教師で、対馬丸に沈没して、海に投げ出されたが、漁船に拾われ一命をとりとめたそうです。沈没したときは大変で、船がものすごい音を立てて徐々に沈んだといいます。水がどんどん船に入ってきたといいます。怖かったろうな・・・小さなボートに数名の人が助かろうと群がったとか。僕はその人の動画をみて映画「タイタニック」の場面とかぶりました。一命をとりとめた人たちは、対馬丸の事件のことは一切言うなと口止めされたといいます。当時の日本は非常事態で、もしそんな事件があったとしたら、騒ぎになる、戦意が消失すると軍の上層部は思ったのかもしれません。


※1 国民学校初等科とは6年制で、現在の小学校に相当。





※ 参考文献


1  配給制がはじまった
   現在コロナが悪化し、日に日に感染者が増えております。マスクやアルコールティッシュが品切れで、トイレットペーパーさえ売り切れることもありました。しかし、僕が不幸中の幸いだと思うのが、食糧がいまのところ十分にあるということです。スーパーに行けば大抵の食料品が手に入ります。このことには感謝せずにいられません。


戦時中は食糧が足りないから大変だったのです。戦時中の日本も輸入に頼っていた面が大きく、しかもアメリカとか貿易相手国を敵にまわしてしまった。悪いことに東北地方では冷害で作物も十分に取れない状況でしたからね。

戦局が悪化し、物資が不足し、日本も配給制がはじまりました。戦時下の日本は社会主義的な国家だったのですね。主食のコメについては1941年4月に6大都市(東京、大阪、名古屋、京都、神戸、横浜)を皮切りに始まりました。一日一人当たりの割り当ても決められており、その配給量は年齢や職業によって違いました。


6歳以下は120グラム、6歳から10歳までは200グラム、11歳から60歳までは330グラム、61歳以上は300グラムです。農民や漁師、機械工や紡績工、車掌や自動者運転手など、重労働とみなされる人たちは少し多めに配給されたといいます。


しかし、その配給の量は十分とは言えません。。たとえば、横浜大岡警察署が所管する1万421戸について、10日分の配給米の消費動向をしらべたところ、6割超の6599戸が10日ももたずに全量を食べつくしたといいます。

さらに戦況が悪化すれば、量だけでなく、質も低下しました。国産から外国産の米も使われるようになり、その外国産の米も足りなくなってきたので、それをおぎなうために、サツマイモや食用粉(とうもろこし、大豆などを粉末にしたもの)などの「代用食」が配給されました。また、砂糖、みそ、しょうゆを入手するにも配給切符とお金が必要でした。

家ではわずかなコメにサツマイモをまぜて炊いたり、コメとくず野菜を一緒に煮た「ぞうすい」、食用粉をねって「すいとん」をつくったりと、料理に工夫を凝らしていました。それでも十分な量はなく、家族みんなの空腹を満たすことはできませんでした。

戦争で地方に疎開に行ったこどもたちは一汁一菜(主食のほかに、汁物と副菜が一つずつ)という質素な食生活だったそうです。

2 日の丸弁当さえ持ってこれない子供
 「昼食を持参するものは激減」「持参するものも少量にして、小型の弁当箱を用いる者が漸増」「弁当持参者も朝食をとらずに登校するものあり」

戦況が悪化するにしたがって、お弁当を持ってこない児童も増えたのです。戦時中のお弁当というと日の丸弁当を連想しますが、日の丸弁当さえ持参もできないほど苦しい子もいたのですね。すべての学校で、食事を抜かざるを得ない子供が発生し、コメではなく、お粥やパンなどですませることが恒常化したといいます。三食ともコメそれも白米が食べらえる家なんてそうそうあったものではありません。横浜や大阪など都市部では2食しか食べれない児童もいたといいます。

コメ不足から他人の弁当を盗んだり、芋畑を荒らすなどの事件も頻発したといいます。

「朝礼訓示の際、体操の時間などに昏倒する」「空腹を恐れ、体操、作業、遠足などを欠席する」

ような児童も増加傾向にあったといいます。

健全なる第二国民たるべき発育盛りの児童の体位の低下は(中略)国家的社会問題として憂慮すべき状況にある者のごとし」と当時の政府が危惧したといいます。野坂昭如さんの「火垂るの墓」や米倉斉加年さんの「おとなになれなかった弟たちに」にも当時の子供たちの食事状況がうかがえます。「おとなになれなかった〜」は米倉さんの自伝的なお話で、ご飯もろくに食べれなかった主人公が弟のミルクを何度か盗み飲みしたのです。それで、赤ん坊だった弟は、栄養失調で亡くなってしまうと言うお話です。

3 輸入に頼っていた日本のコメ
 今の日本はコメを時給自足ができますが、戦時中の日本はコメさえ輸入に頼っていたのです。東南アジア、インドなどから輸入をしていたのです。また、植民地だった台湾や朝鮮半島からもコメを送ってもらっていていました。

太平洋戦争に突入すると、日本はコメを確保するために南方を狙ったのです。当時の日本は南進か北進か意見が分かれたのですが、南進をしたのは石油だけでなく、食糧問題もあったのかもしれませんね。

日本と満州、中国、フィリピン、マレーなどに占領地におけるコメの不足量は約200万トンだったといいます。その不足分を確保するために、世界的なコメの生産地(ビルマ、タイ、インドネシア)を占領しようと思ったのでしょう。ビルマ、タイ、インドネシアの生産高は約548万トンと見積もりました。それらの国を占領すれば約360万トンの余剰米を確保できると見積もったのですね。そうなれば食糧難もなくなると当時の政府は思っていたのですね。

しかし、これが取らぬ狸の皮算用。日本は占領地で農業政策に失敗してしまいます。さらに連合国の潜水艦を中心とするシーレーンへの攻撃で、コメを乗せた輸送船団は壊滅。3大生産地からの1944年のコメの輸入量は7万3.900トン。開戦一年目の1941年に比べ、約5・1パーセントも減少します。日本列島は連合国の潜水艦による攻撃によって台湾や朝鮮からの輸送船も襲われたりして、日本は深刻なコメ不足になるのです。



ただ、赤紙がきて軍隊に入ると、白いおまんまが食べられたそうです。海軍なんて食事がよく、ステーキやカレーも出たそうです。だから、戦後になって軍隊生活を懐かしげに語る(割と嬉しそうに)おじいちゃんがでてくるのもその辺にも理由があるのかも。

軍隊ではいじめやシゴキが日常茶飯事で、そして真っ先に危険な戦地に行かされ、下手すりゃ死んでしまうのです。が、おいしいものが食べられるのなら、しごきくらいは耐えられるみたいな。現代でいえば労働条件の低いブラック企業で働いているのに、給料がいいからといって割と満足に働いている人みたいなものでしょうか。逆に言えば、それくらい戦時中の食生活が悪かったのかなって。


4 闇取引
 これだけ食べるものに困ってくると、都会の人たちは地方の農家に行き、お米をわけてもらったりしたようです。僕の母方の祖母も田舎に行っては着物とコメを交換してもらったとか。

また、闇取引も蔓延していました。闇市とか闇取引というと戦後の食糧難のイメージがありますが、すでに戦時中からありました。政府が定めた価格(配給価格)にくらべ、コメのヤミの値段は33倍にもなっていました。それでも、ご飯が食べたい人は、ヤミ値でお米を買ったのです。政府も闇取引の取り締まりをやったけれど、まるで焼け石に水だったそうです。お国のためとせっせと貯金をしたり食べ物を切り詰めている国民が多い中で、ブローカーみたいな悪い奴らが幅をきかせていたのですね・・・





1 いじめの温床
「隣組」とは、都市の町内会や農村の部落界の下の組織として、国の政策や方針を国民全員につたて、徹底して実行させるものでした。隣組では、様々な作業を共同で行われておりました。防空演習(※1)や、廃品回収、食糧の配給(※2)や買い出し、国債の購入など、みなで力を合わせて取り組んでおりました。またスポーツや文化活動のような娯楽もあったようです。


戦時中は配給制をとっておりましたから、いまの日本のように好きなものを好きに買うことができません。それで政府がお米やマッチといった生活必需品を各家庭にくばったのですが、それは隣組経由で行われました。しかし、配給で配られるお米なども量がすくないのですね。それで闇市で高い金を払って生活必需品を買った人も少なくなかったそうです。いまでいえばアゾンで1万円払ってマスクを買うようなものですよ。

それに加え、隣組の構成員の相互監視の役目も果たしておりました。そうやって戦争に反対するものをあぶりだしたのですね。

隣組では、国の方針に背いたり、戦争に反対するような行動をとる者がでると、組全体で連帯責任をとらされるため、そうした人を非国民として、警察に通報したりもされたり、あるいは組の人間からリンチを食らうことも。

連帯責任といえば僕も苦い経験があります。小学校のころ、ゆとりの時間をつかってバスケットボールやろうと担任の先生が言い出したのです。クラスの同級生はみんな喜びました。しかし、それには条件があって、もし誰か一人でもその日に体育着を忘れたものがいたら、そのバスケットボールは中止。悪いことに僕はその日体育着を忘れてしまったのですね。それで連帯責任ということで、バスケットボールは中止。僕はクラスのみんなから白い眼で見られましたね。忘れたことは反省してますし、バスケを楽しみにしていたみんなには申し訳ないとは思います。

でも、僕が先生だったら、体育着を忘れた子一人を正座させたり、次のテストの点を10点引くとか、あくまでも本人のみ責任を問います。その担任の先生はいい先生で、尊敬しておりますが、その点に関しては僕はいまだに疑問です。幸いいじめには発展しなかったけれど、連帯責任って集団の規律を守るためっだって聞こえはいいけれど、一歩間違えるといじめに発展しかねないなって。それに連帯責任って、責任の所在を曖昧にするという弊害もあるんです。先ほどの例ならば僕が体育着を忘れたことも悪いが、僕に体育着を持ってこいよと忠告をしなかったクラスメイトも悪いということになり、そもそも体育着を忘れたらバスケ中止というルールを作った先生にも責任があると言う話にもなりかねないのです。連帯責任をとことん追求するとそう言う話にもなる。




2 隣組組長の仕事
 隣組のいじめの話といえば、「はだしのゲン」にもでてきます。鮫島伝次郎っていう隣組の組長が意地が悪いのが。また、こんな話もあります。隣組の組長が、妊婦さんにむりやりバケツリレーをさせたそうです。それで、女性は体調を崩し、かわいそうにおなかの赤ちゃんも流産したのです。お国のためといわれ、仕方なくやった行為が、逆に一人の命を失う羽目になったのです。隣組の組長がいい人だったら良いのですが、悪い奴だと大変です。

さて、隣組の組長の役目というのは、単にえばっていれば務まるものではありません。結構いろいろやることがあるのですね。隣組の組長の仕事で一番大変だったのは、配給の割り当てです。隣組の人数を確信し、申告し、役所に配給されたものをとりに行き、間違いのないように分配し、代金をうけとって書類を書いて納めなくてはいけないのです。

また、隣組では月に一度、隣組の家族全員の参加を原則とした「常会」が開かれました。常会の運営は隣組長の大切な仕事で、国から出される様々な方針をつたえ、話し合いをしました。しかし、会に集まった人たちの多数決で決まったためしはなく、国の方針に沿った取り決めがされました。常会で決まったことは強制力をもっていました。



3 回覧板

 政府や役所からの連絡は隣組あのなかでまわす回覧板をつうじて各家庭に伝えられました。現在でも回覧板を使っている地域もありますが、それは戦時中の隣組の名残です。回覧板をまわす順番は決められており、確実にすべての家に回るようになっていました。逆に言えば、回覧板を回すことをうっかり忘れたら大変なことになるのですね。


ちなみに隣組は歌にもなってます。この歌にも「回覧板」ってでてきます。この歌は「ドリフ大爆笑」のテーマの元歌ですW



隣組は戦後GHQの指令によって廃止されましたが、隣組は形を変え町内会や団地の自治会という風に残りました。現在でも回覧板はかなりの地域で引き継がれております。もっとも、最近は町内会や団地の自治会に入る人は年々少なくなってきております。ただでさえ仕事とかで日常生活が忙しいのに、自治会の集まりだの、防災訓練だの、それに加え煩わしい人間関係もあるからでしょう。

また、現代の日本は助け合いの精神が無くなっているから隣組を復活させろみたいな意見もあるようですが、どうなんでしょうね。ちなみにある地域では、他の地域では町会ができたのに、そこはいつまでも町会ができなかったそうです。と言うか、作れなかったそうです。その理由は、戦時中、配給物資を町会のボス、隣組のボスたち、在郷軍人会のボスが横領、横流しを繰り返していたことを忘れてなかったからだとか。








※1 空襲時を想定した様々な訓練。消火、避難、救援などの訓練が地域や学校ごとに行われていた。悪名高い竹やり訓練やバケツリレーもその防空演習の一環。

※2 戦争が原因で農業や工業の生産量も落ち、輸入量も海外との関係も悪化し減少した。そのため国内の物資も不足した。これに対し政府がもうけたのは「配給制」。国民が自由に品物を購入することを禁止し、政府が決めた分量だけを購入することができる。

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