history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。

カテゴリ:日本の歴史 鎌倉〜安土桃山時代 > 戦国時代&安土桃山時代

 今日は7月7日。七夕の日です。たなぼたじゃないですよww彦星と織姫が年に一回会う日です。年に一回会えない分、彦星と織姫はLINEとかで連絡とりあっているのかなw?そんなことはさておき、宮城県の仙台でも七夕まつりが行われます。七夕祭りといいましても7月7日にやるのではなく、仙台の七夕祭りは毎年8月の上旬に三日にわたって行われます。その様子はこちらの動画を。



きれいですねえ。僕も東京杉並区にある阿佐ヶ谷で毎年8月上旬に行われる七夕まつりに何度も言ったことがあるのですが、ぜひ仙台の七夕祭りもいってみたいですね。

さて、七夕まつりというのは平安の昔、宮中の清涼殿で行われていた貴族の遊びの一つでした。それが江戸時代になって民衆にも普及し、女の子は技芸の上達を、男の子は字がうまくなることを願ったといいます。

仙台で七夕祭りが始まったのは伊達政宗の時代です。政宗が七夕について歌を詠んでいるのです。それがこちらの二首。


「まれにあふ こよひはいかに七夕の そらさへはるる あまの川かせ」

「七夕は としに一たひ あふときく さりてかへらぬ 人のゆくすえ」


政宗ってなんとなく合理主義的なイメージが僕にはあったのですが、結構ロマンティストだったのですね。

また、政宗が歌に詠むくらいですから、このころからすでに七夕祭りも盛大に行われていたのですね。

政宗亡き後も仙台では七夕まつりは続けられました。しかし、明治維新後、全国的に七夕行事が衰退していき、仙台も大正末期ごろには往時の華やかさはなくなったといいます。1927年(昭和二年)には、商家の有志たちが華やかな七夕祭りを復活させたものの、戦争がはじまり戦況が悪化すると、七夕飾りは町から消えていきました・・・・

そして終戦の翌年、1946年(昭和21年)。仙台空襲で焼けた一番町通りに、52本の七夕飾りが飾られました。仙台の人々は涙がでるほど喜んだといいます。まさに仙台の七夕まつりは終戦後の復興のシンボルだったのですね。そして2011年の震災で仙台七夕まつりは中止にしようかという意見もあったようですが、「震災の年に七夕まつりをやらなかったら、復興は今より遅れていたんじゃないかな」という声に仙台の人たちも同調し、この年も例年通りに七夕まつりが行われました。 

避難所暮らしを余儀なくされたある女性は「犠牲者の中には毎年楽しみにしていた人もいる。供養のためにも祭りができてよかった」と語られたそうです。




※ 参考文献および参考サイト




http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0601C_W1A800C1CR0000/

※ この記事はウィキペディアを参考にしました

1 佐久間盛政のプロフィール

 佐久間盛政は、父は佐久間 盛次(さくま もりつぐ)、母は柴田勝家(しばたかついえ)の姉だといわれております。したがいまして、盛政と勝家はおいと叔父おじの関係にあたります。

盛政は「身長六尺ろくしゃく」(約182センチメートル)とあり、数値が本当かどうかは別にして、体が大きい人であったようです。盛政は各地の戦に参加して功績こうせきげ、その勇猛ゆうもうさから鬼玄蕃おにげんばと呼ばれるようになりました。

叔父の柴田勝家が越前えちぜんの国主になると、盛政はおじの柴田勝家を支えました。その後は加賀一向一揆いっこういっきや上杉家との戦いで活躍かつやくし、織田信長から加賀の統治とうちまかされたほどですから、なかなか有能ゆうのうな武将であったようです。

こちらのサイトには、盛政の活躍ぶりがくわしく書かれているのですが、詳しく書かれすぎて、僕も途中とちゅうで見るのをやめてしまったほどwww

http://dic.nicovideo.jp/a/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E7%9B%9B%E6%94%BF

それはともかくw、盛政は賤ヶ岳の合戦において中入りをしてしまい、そのことで秀吉軍の反撃はんげき許Mゆるしてしまい、愚将ぐしょうのレッテルをられてしまった気の毒な人でありました。


2 秀吉につかまった
 賤ヶ岳しずかたけの合戦で敗れ、盛政はげようとしましたが、そこで落ちむしゃがりにあってしまいます。

そして盛政は秀吉のもとに連れて行かれてしまいます。秀吉は、盛政を殺そうとするどころか、家臣としてスカウトしようとしたのです。秀吉も盛政の武勇ぶゆう見込みこんでいたのでしょう。

しかし盛政は信長や勝家から受けた恩義おんぎわすれることはできず、秀吉の好意を感謝かんしゃしながらも、「このまま生きたとしても、秀吉殿を見れば、私はきっと貴方あなたちましょう。いっそ死罪しざいを申し付けて下さい」と願ったそうです。

秀吉は盛政をスカウトすることをあきらめて、武士の名誉めいよである切腹せっぷくを命じたのですが、盛政は敗軍はいぐんしょうとして処刑しょけいされる事を望んだのです。そのため、秀吉に「願わくば、車に乗せ、なわでしばられている様を人々に見物させ、一条いちじょうつじより下京へ引き回されればありがたい。そうなれば秀吉殿の威光いこうも天下にひびき渡りましょう」と盛政は言ったようです。

それを聞いた秀吉は「最後まで武辺の心を忘れぬ者よ。よしよし」と語ったそうです。

 
3 早すぎる死
 盛政は秀吉により京市中を車に乗せられて引き回され、その後、宇治うじ槙島まきしまに連れていかれて同地で斬首ざんしゅされたといいます。享年30、若すぎる死です。秀吉は盛政を最後までしみ、せめて武士らしく切腹させようと連行中にひそかに短刀たんとうをわたす手配てはいもしたが、盛政はそれをことわり死にのぞんだといいます。

辞世の句は「世の中をまわりもてぬ小車は火宅かたくの門を出づるなりけり」。

盛政には虎姫(とらひめ)というむすめがいたのですが、そのお話はのちほど。

※ おまけ

アンケート、もしよろしければお願いいたします。


※ この記事は以下の本を参考にしました。


歴史人 2012年 02月号 [雑誌]
ベストセラーズ
2012-01-12





賤ヶ岳しずがたけ七本槍ななほんやりといえば、加藤清正,福島正則,加藤嘉明,平野長泰,脇坂安治,糟屋武則,片桐且元の7人です。

しかし、実際には他に二人いたといいます。桜井佐吉・石河兵助です。

しかも、この賤ヶ岳の合戦では9人だけでなくたくさんの武将が戦ったのです。秀吉にとって、この合戦での功労者こうろうしゃはもっとほかにもいたと思います。

賤ヶ岳の合戦にて、9人が具体的にどのような手柄てがらを立てたのかは、実はあまりはっきりわかっていないようです。

けれど、秀吉にとってはそれはどうでもよいことだったのでしょう。秀吉は急激に勢力を拡大したため、子飼いの家臣に有名人がいません。これから天下をねらう秀吉にとっては、それは致命的ちめいてきでした。

そこで、秀吉は自分の政権を支えてくれる若者を育てる必要があったのです。そこで、秀吉は自分の子飼こがいの7人を賤ヶ岳の合戦にてメジャーデビューさせたのでしょう。秀吉と七本槍は、いまでいえば秋元康さんとAKB48みたいなものでしょうか?

しかし、清正自身は「七本槍」を話題にされるのをひどくきらったという話もあるようです。








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