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カテゴリ:日本の歴史 鎌倉〜安土桃山時代 > 戦国時代&安土桃山時代



※ この記事は「歴史秘話ヒストリア」を参考にして書きました。

戦国の世を大きく変えた鉄砲。なにしろ鉄の鎧さえも撃ち抜くのですから。この鉄砲が日本に初めて伝わったのが1543年(天文12)年のこと。この年、種子島に外国の船が漂流してきたのです。その船にポルトガル人が乗船していたのです。

ポルトガル人が持っていたのが鉄砲でした。当時の種子島を治めた領主が種子島時堯でした。時堯は試しに鉄砲を撃ってみると、その威力に驚いたといいます。時堯はポルトガルの証人から2丁の鉄砲を買いました。現在の価値で数千万円ものお金を支払ったともいわれております。時堯は鉄砲の国産化を考えました。島で一番の鍛冶屋に鉄砲を研究させ、作らせようとしましたが、鍛冶屋は制作に行き詰ってしまいます。銃身の後ろをふさぐネジです。当時の日本にはネジというものがありません。鍛冶屋は困り果てました。それが、翌年1544年(天文13年)、ポルトガル人が再びやってきたのです。運がよかったですね。そのポルトガル人にネジのことをきいたそうです。そして、鉄砲は完成。

鉄砲の国産化は種子島だからこそできたといいます。種子島は砂鉄がとれるところでした。だからこそ、中世にも鍛冶屋がいっぱいいて、そこに鉄砲が伝来したら、すぐにそのコピー品をつくることができたといいます。また、当時の領主の時堯が16〜17歳の若く、好奇心も盛んで、こんな便利なものを多くの人に使ってもらいたいという気持ちがあったのも大きい。もし、年取った領主だったら、高い金を払ったものを自分のものとして秘蔵したことでしょう。

また、のちに本能寺の変の舞台でもある本能寺の末寺が種子島にあり、また大坂の堺にも本能寺の末寺があり、堺に刀鍛冶屋がいたので、その刀鍛冶屋を種子島に勉強にいかせたという記録もあるそうです。そうした本能寺ネットワークは京にも鉄砲をもたらしました。細川勝元は本能寺から鉄砲をもらい受けたといいます。


そうして鉄砲の生産は増大。各地に鉄砲鍛冶屋ができました。各地に鉄砲生産の工場ができたといいます。そのひとつは国友村。国友村は滋賀県にあります。国友の鉄砲はひたすら性能を追求し、命中率を追求したといいます。銃身、筒の部分が質実剛健、堅ろうであって、鉄を鍛えぬいて固く強くしてきたといいます。それがほかの火縄銃の産地と違うところだといいます。国友村で鉄砲が造られるようになったのは、この地の大名、浅井氏が意図的に鍛冶集団を集めたのがきっかけではないかといわれております。

それから、浅井家は織田信長に滅ぼされてしまいます。代わりにこの近江の地(国友村も)は信長の支配地になりました。長篠の戦の際は、この国友村産の鉄砲が大いに役立ったそうです。



ポルトガル人の記録によると当時日本には30万丁もの鉄砲があったと書かれております。これはヨーロッパ諸国の鉄砲の数全部を上回るのです。まさに日本は世界一の鉄砲国家となったのです。

時は移って豊臣秀吉が死去し、徳川家康が大阪に攻め込みます。いわゆる大坂の陣です。その時、家康は国友村に大筒(大型の鉄砲)の大量生産を発注したといいます。ところが大誤算。当時の国友村は全国に職人が散らばっており、国友村には職人がほとんどおらず大鉄砲の大量生産ができません。それで家康は鉄砲職人が村を出て他国へ行くことを禁じました。他国に行っていた職人を連れ戻し、さらにその技術を他人にみだりに教えることまで禁じました。

そうして、大筒は完成。当時の鉄砲で敵にダメージを与えられる距離は100メートル。新しく作られた大筒は弾の重さが従来の20倍、最大射程距離が2キロ以上だといわれております。家康はなんと200丁も、大筒をつくらせたといいます。

完成した大筒は家康の陣地に届けられました。届けたのは国友村の職人たち。当時は宅配便もない時代でしたからね。郵送なんてできません。届けられた大量の大筒をみた家康は職人たちの労をねぎらったといいます。そして、家康は2〜3人職人を残したといいます。大筒や鉄砲のメンテナンス、それから外国から輸入した大砲の整備を職人たちはしたといいます。そして大阪城は落城、豊臣家は滅亡。こうした技術的な革新をおこなった家康の勝利でした。

江戸時代になると国友村は幕府の御用鉄砲鍛冶とされてきました。しかし太平の世になり鉄砲のニーズはなくなり、国友は衰退していきます。そんななか国友の技術が再び注目されます。国友一貫斎。彼はすぐれた発明家でした。一貫斎は鉄砲づくりのノウハウを生かして反射望遠鏡をつくったといいます。これで月や星を観測していたといいます。さらに一貫斎には飛行機の設計図も書いていたちいます。ライト兄弟よりも半世紀も前に飛行機が日本で考えられていたのです。

人を殺す武器が、人々を幸せにする技術に応用されたのですね。すごいことです。



(反射望遠鏡)

(本能寺と鉄砲の関係)

今日は織田信長、豊臣秀吉、それから徳川家康の経済政策を取り上げます。彼らの活躍の背景には豊かな経済力がありました。戦国時代を生き抜くためには、やはりお金が必要だったのです。

1 信長の経済政策
 織田信長は革新的な経済政策をとりました。たとえば、商売の独占を禁止する「楽市楽座」。あらゆる業者が自由に商売ができるようになり、商業の活性化がされました。そして、通行税を取り上げる関所の撤廃。これにより商品を自由に流通できるようになりました。そして国際貿易都市の堺を直轄地として支配。海外の珍しい商品が市場に出回るようになりました。こうして得た経済力を以って、強敵たちと立ち向かったのです。特に武田騎馬軍団との戦いは壮絶なものでした。相手は戦国最強といわれている騎馬軍団。まともに戦ったら勝ち目がありません。それで信長が用いたのが鉄砲。長篠の戦では斬新な戦い方で武田軍を打ち破ったのは有名な話です。その合戦で使われた鉄砲の弾丸。この弾丸には鉛が使われておりました。鉛は日本では珍しいもの。

信長軍の弾丸は海外、それも東南アジアのタイの鉱山でとれた鉛を使っていたといいます。

オランダやポルトガルなどのヨーロッパ諸国は当時大航海時代。こうしたヨーロッパ諸国がアジアにも進出してきたのです。

1572年、カブラルという宣教師が信長の館に訪れます。カブラルは信長にキリスト教の布教の許しをもらうと同時に、日本では取れない貴重な鉛の取引を進言しました。信長は布教を許す代わりに、宣教師たちのもつ交易ネットワークを信長が利用したのではないかと考えられております。戦乱が続き、国内で不足しがちだった軍事物資を信長は海外から調達をしたのです。

2 秀吉の経済政策
1582年の本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた後、信長の後を継いだのが豊臣秀吉。秀吉の経済センスはすごいものでした。有名なのは太閤検地。それまでばらばらだった測量方法を統一し、全国の領地を調べ上げました。コメの生産高を正確に把握し、効率よく年貢を集めることができたといいます。そうやって秀吉は財政基盤をつくりあげました。秀吉は日本を平定した後、さらなる経済発展のために途方もない計画を立てました。それが明国出兵。明は高価な陶磁器や絹織物があふれる巨大市場。しかし海禁政策のため、貿易は厳しく統制されておりました。秀吉は中国市場をこじあけようとしたのです。秀吉が明国出兵を思いついたのは、中国をわが領土にしたいという意思は初めはありませんでした。明と日本との貿易を再開し、アジア経済の活性化を目指したのです。しかし、明が日本の申し出を拒否。それで力づくで明をねじふせようとして、手始めに朝鮮半島に出兵したのです。

しかし、中国の地を狙っていたのは日本だけでなく、スペインも狙っておりました。スペインを束ねるのは征服王・フェリペ2世。フェリペ2世は世界征服をマジで狙っていて、世界で初めてアジアとヨーロッパを統一する壮大なビジョンを抱いておりました。世界の市場がひとつに統一されれば、より大きな利益を生むはずだと考えました。

フェリペ2世に先んじて、明を支配しておきたい。しかし、戦争をするにしても、ましてや海外進出となると、そのためにはお金がかかります。それで秀吉は日本中の銀山を開発していたのです。いわゆるシルバーラッシュ。日本の銀の産出量は世界の3分の1を占めており、世界でも「日本は銀山王国」だと広く知れ渡っていたほどです。

そして秀吉は明国出兵の足掛かりに朝鮮半島に出兵。さらに秀吉は明の遠征と同時にスペインのアジアにおける拠点、フィリピンへの侵攻も計画していたといいます。もし、秀吉がフィリピンにも進行していたらスペインと日本との激しい争いになり、それが世界を巻き込むような大戦争になる恐れがあったのです。アジアを発火点に「最初の世界大戦」が起きる可能性もあったのです。ところが、1598年にフェリペ2世と秀吉が死去したため、その危機は免れたのです。本当に危なかった。

3 家康の経済政策
 秀吉の死後から2年たって、関ケ原の合戦がおこりました。東軍率いるは徳川家康。西軍率いるは石田三成。総勢20万の人が入り乱れて戦う、すさまじい戦でした。この戦で勝利を収めた家康は、壮大な経済構想をたてました。家康は1603年に江戸に幕府を開きました。しかし、当時の江戸は湿地が広がる小さな田舎町。急ピッチで建物の建築を進めたものの、大都市とは程遠いものでした。当時、日本で最も栄えていたのが豊臣家の本拠地大坂でした。豊臣家は豊臣秀頼が後を継ぎ、秀吉が残した経済力と、秀吉に忠誠を誓った家臣団を抱えており、家康を脅かしておりました。

豊臣家に対抗するには経済力と軍事力が必要。それで家康が目を付けたのが貿易です。特に商人たちが興したオランダは家康に接近してきました。オランダは家康は武器を買うように提案してきました。これは家康にとっては渡りに船でした。オランダの後ろ盾を得た家康は、豊臣家に戦いを挑みます。大坂の陣です。徳川軍は大阪城に攻め込みますが、鉄壁の守りを持つ大坂城を落とせません。それで家康が頼みの綱としたのがオランダです。家康はオランダから最新式の大砲を買います。オランダの大砲を用いて、大坂城を攻撃。砲弾は天守の御殿を直撃。豊臣家をビビらせたといいます。そして、いったん休戦をして、大坂城の堀を埋めてしまいます。堀を埋められたら、さすがの難攻不落の大坂城もたまったものではありません。そして大坂城は落城。豊臣家はほろんだのです。

敵がいなくなった家康は貿易をすすめました。家康はキリスト教には厳しい態度でしたが、貿易には寛容な態度をとってきました。朱印船を送り東南アジアのほうにも貿易をしていたのです。その時の日本の輸出品が、火縄銃やヤリ、日本刀、それから日本人の傭兵など。

そして、家康は貿易を通して経済力を高め、300年近く続く幕府の基礎を築いたのです。

※この記事は

この記事は歴史秘話ヒストリアを参考にして書きました。

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(松永久秀の肖像画)

1 松永久秀とは
今日は戦国武将の松永秀久のお話を。大河ドラマ『麒麟が来る』では吉田鋼太郎さんが演じられております。その松永久秀はなにかと悪名が高い人物として言われ続けました。将軍を殺し、奈良の大仏を焼いた極悪人として。ゲームの『信長の野望』にも松永久秀が出てきますが、能力が非常に高いものの、忠誠心が低く、敵の引き抜きに合いやすい武将だというイメージが僕の中にあります。『三国志』に例えれば呂布に近いかも。

でも実際の松永久秀は裏切り者どころか三好長慶みよしながよしの忠臣で、ナンバー2として三好長慶を支えていたのです。三好長慶は、実はすごい武将です。彼は泡じゃなかったw阿波の国み(現在の徳島県)の出身で京の都を支配し、織田信長に先んじて当時の日本の中心だった機内きないを治めていたのです。三好長慶は地元徳島では英雄でした。

その三好長慶に仕えていたのが松永久秀でした。松永は大阪の怒号じゃなかったw土豪の出身。松永は物事を確実に伝える能力にたけ、低い身分でありながら長慶の側近に大抜擢だいばってきされたのです。コミュニケーション能力が高かったのですね。能力が高かっただけでなく、主君に対する忠誠心も高かったのです。

2 主君のために
 京には室町幕府13代将軍の足利義輝がいました。衰えたとはいえ、まだ幕府の力が強かった時代。足利義輝は京に影響力を及ぼす三好長慶がうとましい。それで、義輝は自分と親しい大名たちに呼びかけ、虎視眈々こしたんたんと三好を倒そうとしていたのです。

三好長慶は松永久秀に将軍家の力をそぐミッションを与えました。難しいミッションです。松永久秀はどのような策をもちいたのでしょう?久秀は裁判に目を付けました。どういう事でしょう。

実は、将軍家がおこなった判決が不公平なものがおおく、不満に思っていた者が多かったのです。将軍家に代わり京の街を支配する三好家に裁判のやり直しをしてほしいと思うものが増えたのです。その三好家による裁判を取り仕切ったのが松永久秀。松永の判決によって将軍の上意をくつがしてしまったのです。松永久秀は皆が納得するような裁きをしていたのです。公平な裁判を行うことで、将軍よりも三好長慶のほうが天下人にふさわしいと思わせることに成功したのです。

また、当時、大和の国(奈良県)は寺社が多く、東大寺や興福寺といった宗教勢力が強大な力を持っていて大和の国は難治の地といわれておりました。松永久秀はどうしたでしょう。久秀はこの地に城を建てました。そのお城の名前は多聞城たもんじょう

今は多聞城は姿かたちもありませんが、かつては荘厳豪華なお城だったといいます。ルイス・フロイスは「すべての城や塔の壁にはしっくいが塗ってあり、かつて見たことがないほど輝いていた。これだけの建造物は世界にもない」と。その多聞城は東大寺や興福寺のすぐ近くにあったといいます。

当時の人々は荘厳豪華な城に土肝どきもを抜いたといいます。大和の人たちは三好こそ支配者にふさわしいと思ったことでしょう。


3 大きな困難
 1564(永禄7)年、久秀のもとに訃報ふほうが届きます。主君の三好長慶が病に倒れ亡くなったのです。享年43歳。三好長慶は子供がいなかったので、三好義継みよしよしつぐが後を継ぎました。義継の母親は天皇家とゆかりの深い九条家の出身。足利将軍に匹敵する血筋をもっていました。

とはいえ三好義継はまだ17歳と若かったので、久秀と、三好三人衆(三好長逸・三好政康(宗渭)・岩成友通)が後見人となったのです。

三好長慶の死去により、足利義輝はこれを契機に三好家を倒そうと思いますが、反対に三好義継と三好三人衆らによって足利義輝は暗殺され、足利義栄あしかがよしひでを14代将軍とします。この当時はまだ足利家を慕う武将も多かったころ。諸大名は激怒し、三好義継討伐とうばつの動きさえ見られるようになったのです。このままでは諸大名たちが三好家を襲ってくる。

それで、久秀は足利義昭あしかがよしあきと手を組みます。将軍の弟を味方につけることで、足利将軍側の大名を怪獣じゃなかったw懐柔させようとしたのですね。それと久秀は朝廷が保管していた「御小袖」(※1)を主君の三好義継に引き渡すように工作をしました。久秀としては天皇や朝廷と交渉し、将軍家を象徴するものを三好方に引き渡させることで、天皇も三好家が将軍になることを望んでいるということをアピールさせようとしたのです。こうして、久秀は義継の危機を救ったのです。


しかし、久秀と三人衆は次第に反目をするようになります。三人衆と久秀は争いうようになったのです。主君である義継を守ろうとしたのに、彼のやったことが裏目にでたのです。それで久秀は最近勢いがある織田信長と組もうとしたのです。このころ織田信長は三好家に書状を送ったのです。「足利義昭を奉じて上洛するので懇意になることをお願いしたい」と。織田信長は次期将軍に足利義昭をたてようと上洛(※2)を目論見たのです。そのためには同名相手が必要だったのです。久秀は「信長の力が必要」と思うようになったのです。

1568(永禄11)年、信長は久秀と組んで上洛します。そして信長と久秀連合軍が三好三人衆を蹴散らします。しかし、それが後の火だねとなるのです。信長を利用して三好家を再興しようとしたことが裏目になるのです。

4 立ちはだかる信長

 1568(永禄11)年、織田信長は足利義昭を将軍に据えます。そして久秀は信長に茶器「つくも茄子」を献上します。もともと将軍家に伝わる茶器でしたが、久秀が大金をはたいて手に入れたのです。戦国一の茶器コレクターの信長も喜びます。これによって久秀は信長との同盟深化を計ろうとしたのです。

しかし、信長は久秀の思惑とまったく別の行動をとりました。1571(元亀2)年、信長は比叡山を焼き討ちしたのです。比叡山は三好家の重要な同盟相手でした。これには当然主君の三好義継も怒ってしまいます。そして三好家は信長と戦うことになります。もちろん、まともに信長と戦っては分が悪い。それで、戦国最強の騎馬軍団を率いる武田信玄と手を結ぶことを考えたのです。ちょうど武田信玄もこのころ上洛をしようとしていましたから。1573年、義継は河内の若江城に籠城、久秀も多聞城に籠城し、信長を迎えうとうとしました。しかし、上洛の途中で武田信玄が病で倒れてしまうのです。あてにしていた武田軍が引き返してしまい、三好はピンチ。そしてとうとう1573(天正1)年11月、三好義継は自害してしまいます・・

主君を失った久秀。信長から降伏せよといわれてしまいます。久秀は信長に従う道を選びました。なぜ、久秀は信長の軍門にくだったのでしょう。これは久秀がまだ三好家の再興をあきらめていなかったからだといわれております。四国には三好長慶のおいがいましたから。しばらく信長について、様子を見ようと思ったのです。

久秀の領地だった大和はほとんど没収され、かわりに筒井順慶つついじゅんけいが支配するようになりました。筒井は興福寺とも関係が深く、久秀とはライバル同士の関係でした。久秀は狭い領地に押し込められてしまったのです。

久秀は69歳の齢を重ねましたが、それでも信長にいけと言われたら、戦場にでたのです。

しかし、信長は久秀に受け入れがたい命令を下します。1577(天正5)年、多聞城の取り壊しを命じられてしまいます。多聞城は久秀が心血を注いで築いた城です。そして久秀は、信長を裏切るのです。久秀は信貴山城しきさんじょうに立てこもり、信長と戦おうとしたのです。もちろん、久秀だけでは勝ち目がないので、信長に敵対する毛利輝元や上杉謙信などの大名たちと手を結び、信長包囲網をつくろうとしたのです。信長が上杉謙信攻めのため越後へむかっているスキを狙って、久秀は挙兵しました。

そして信長と謙信は激しく戦い、上杉軍が勝利を治めます。しかし、謙信は敗走する信長にとどめをさすどころか、撤退をしてしまいます。そして、信長軍は引き返し、久秀が立てこもる信貴山城を攻撃します。そして城は炎上、久秀も「もはや、これまで」と自害をします。享年70歳。それは1577(天正5)年10月10日の出来事でした。戦乱の世に知略を尽くした生涯でした。

江戸時代に入り、太平の世になると久秀は極悪人として描かれます。冒頭の久秀の絵も江戸時代に描かれたものです。しかし、彼はお家のために必死に戦った名将だったのですね。

 




※1 足利尊氏が着ていた鎧。将軍の象徴ともいうべきもの。
※2 京の都をめざすこと





以前の『歴史秘話ヒストリア』で宇喜多秀家の事が取り上げられました。秀家の秘話といえば、「八丈島より泳いで参った!!!」。ウソウソ、冗談ですわw宇喜多秀家は、幼少ようしょうのころから豊臣秀吉(とよとみひでよし)にかわいがられました。

豪姫ごうひめ(※1)と秀家が結婚けっこんしたのは恋ではなく秀吉の命令、つまり政略結婚せいりゃくけっこんだったそうですが、二人はまわりの人間がうらやむほどの仲が良かったそうです。宇喜多秀家は秀吉の5大老に命じられるなど、まさに勝ち組でした。が、そんな秀家にも不幸が訪れます。

宇喜多秀家は罪人として八丈島はちじょうじまに流されてしまったのです。なぜ罪人になったかというとワケがあります。

それは秀家は関が原の合戦で西軍として、徳川家康(とくがわいえやす)率いる東軍と戦ったから。それで、西軍が負けてしまいました。家康に歯向はむかったばっかりに、宇喜多秀家は罪人にさせられてしまう・・・・

そんな宇喜多秀家といっしょにいたのは子供と10人くらいの家来だけ。おくさんである豪姫と別れてしまったのです。

ある日、八丈島の代官の家で宇喜多秀家は白いご飯をごちそうになり、何度もおかわりをしたそうです。無理もありません。しかも、宇喜多秀家はいただいた白いお米をフロシキに包んで家に持ち帰ったそうです。家に帰って自分が食べるためじゃありません。家で待っている子ども達にも白いお米を食わすために。

泣かせますねえ。

宇喜多秀家、その子供と家来たちは努力して、島の暮らしに溶け込んでいったのですね。その証は今日も残っております。たとえば、八丈島のあるい家は宇喜多家から紫と緑色の鉱物を譲り受けて、それを糸の染色に使ったという、言い伝えもあるようです。

秀家は島の暮らしに慣れると、島民の役に立ちたいと、新田開発をおこなったり、薬草の知識などを村人に伝えたり、いつの間にか秀家は島民から「殿様」と慕われるようになったといいます。その後、秀家の子供も成長し妻をもうけたといいます。その後も秀家の子孫は八丈島に生き残り、明治のころにも秀家の子孫が八丈島がいたといいます。

一方、実家の前田家に帰っていた豪姫は八丈島に流されていた夫や子ども達のために食糧を死ぬまで送り続けました。はじめは幕府に遠慮しながら細々とやっていたのですが、正式な許可をもらってからは、一年おきに前田家から食糧が送られるようになったのです。前田家から(八丈の)宇喜多への援助はなんと明治時代まで続いたといいます。豪姫が「島のもののこと、くれぐれもお頼み申します」という遺言さえ残したほど。

遠くはなれていても夫婦のキズナは切れなかったのでしょう。泣かせますねえ。僕の頭の脳内にスキマスイッチの『奏』が流れてくるようですw二人は死ぬまでおたがいに会うことは無かったというから切ない話です。この時代にインターネットや電話があればなあって自分は『ヒストリア』をみて思わず思われました。


そんな二人の事をかわいそうに思って、今から10数年前に八丈島の人たちは秀家と豪姫がツーショットで並んだ石像をつくったそうです。「今度生まれてくる時はいっしょになれるといいね」という願いをこめて。


※1 前田利家(まえだとしいえ)のむすめ



※ オマケ


最後に、八丈島の映像を。八丈島には高校生の時に行きました。海もきれいで、お魚もおいしい良いところですよ。一応、「八丈島」の観光協会の公式チャンネルの動画ですから、削除される可能性は低いとは思いますが、それでも、もし映らなかったらごめんなさい。(削除したら怒りますよw観光協会さん)



1 慶長遣欧使節団
今日も伊達政宗に関連するお話をしますwだって仙台を語るうえで伊達政宗は欠かせない人物ですから。さて、伊達政宗は1613年(慶長18年)に藩士・支倉常長はせくらつねながらをメキシコ、スペイン、ローマに派遣しております。一行は支倉たち仙台藩士だけでなく、江戸幕府関係者、各地の商人、フランシスコ会の宣教師など計180名で参加しました。その目的はスペインとの通商交渉(※1)でした。

支倉の使節団は1613年から、1620年(元和げんな6年)まで7年間続きました。これがいわゆる帝国華撃団じゃなかったw慶長遣欧使節団です。

一行は1613年10月月浦(現石巻市)を出帆しゅっぱんし、約90日後にメキシコに上陸。その後、陸路で大西洋側まで進み船を乗り換えスペインへ向かいました。1615年、スペインはマドリードの王宮で国王フェリペ3世に謁見えっけんを果たしました。しかし、通商に関してはフェリペ3世から「すぐには返事ができない」という感じでした。それから常長は翌年ローマに向かい、ローマ教皇パウロ5世に謁見します。ローマ法王にあった後常長はふたたびフェリペ3世に会いますが、交渉は進まず。

2 大変な思いをしたけれど・・・
 しかも悪いことに、この時すでに日本国内ではキリスト教の弾圧が始まっており、そのこともあって通商交渉は成功することはなかったのです。常長は数年間のヨーロッパ滞在の後、元和6年8月24日(1620年9月20日)に帰国しました。

こうしてはるばるローマまで往復した常長でしたが、その交渉は成功せず、そればかりか帰国時には日本ではすでに禁教令が出されていました。そして、1621年に失意のうちに死去したのです。

海外に行くというと今の感覚でも大変かもしれませんが、昔は交通手段も船くらいしかなかったので、今よりももっと大変だったと思います。そんな命がけの旅をしたのに関わらず、交渉も成功しなかったのですから、常長は気の毒だなと思います。しかし、彼が命がけではるばるヨーロッパまで行ったことは大変大きなことだと思います。

世の中は結果がすべてで、そこに至る努力だとか情熱といったプロセスは見てもらえないことが多々ありますが、少なくとも常長の行ったことは評価どころか日本人として誇りに思ってよいと思います。支倉はそれだけの偉業を成し遂げたのですから。

3 サン・ファン・バウティスタ号
 さて、支倉達一行が乗った船はサン・ファン・バウティスタ号。この船は日本初の西洋型木造帆船だそうです。この船をつくるのに仙台藩の人だけでなく、なんと幕府の人までかかわっておりました。造船にあたっての総監督は徳川幕府初代スペイン使節のセバスチャン・ビスカイノ。幕府からも船大工さんが派遣されました。ビスカイノの指導のもと、造船工約800人、鍛冶工約700人、大工役3000人という大がかりな造船作業でした。それに伴い女、子供たちも働いたので、経済効果もあったようです。

船をつくるのに用いられた木材は、気仙けせん磐井いわい江刺えさしなど各郡から調達されました。

当時のスペインでは同じような船をつくるのい二年ほどかかったようですが、サンファン号は、45日で作られました。大人数で作ったとはいえ、日本の技術に驚かされます。


※1  外国と商取引をすること。交易。貿易。「条約を結んで外国と―する

※ おまけ

サン・ファン・バウティスタ号の復元船は、震災による津波で被害を受けましたが、2013年にサン・ファン・バウティスタ号は復活しました。



※ 参考文献
宮城県の歴史散歩
山川出版社
2007-07-01




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