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カテゴリ:日本の歴史 鎌倉〜安土桃山時代 > 戦国時代&安土桃山時代

※ この記事はウィキペディアを参考にしました

1 佐久間盛政のプロフィール

 佐久間盛政は、父は佐久間 盛次(さくま もりつぐ)、母は柴田勝家(しばたかついえ)の姉だといわれております。したがいまして、盛政と勝家はおいと叔父おじの関係にあたります。

盛政は「身長六尺ろくしゃく」(約182センチメートル)とあり、数値が本当かどうかは別にして、体が大きい人であったようです。盛政は各地の戦に参加して功績こうせきげ、その勇猛ゆうもうさから鬼玄蕃おにげんばと呼ばれるようになりました。

叔父の柴田勝家が越前えちぜんの国主になると、盛政はおじの柴田勝家を支えました。その後は加賀一向一揆いっこういっきや上杉家との戦いで活躍かつやくし、織田信長から加賀の統治とうちまかされたほどですから、なかなか有能ゆうのうな武将であったようです。

こちらのサイトには、盛政の活躍ぶりがくわしく書かれているのですが、詳しく書かれすぎて、僕も途中とちゅうで見るのをやめてしまったほどwww

http://dic.nicovideo.jp/a/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E7%9B%9B%E6%94%BF

それはともかくw、盛政は賤ヶ岳の合戦において中入りをしてしまい、そのことで秀吉軍の反撃はんげき許Mゆるしてしまい、愚将ぐしょうのレッテルをられてしまった気の毒な人でありました。


2 秀吉につかまった
 賤ヶ岳しずかたけの合戦で敗れ、盛政はげようとしましたが、そこで落ちむしゃがりにあってしまいます。

そして盛政は秀吉のもとに連れて行かれてしまいます。秀吉は、盛政を殺そうとするどころか、家臣としてスカウトしようとしたのです。秀吉も盛政の武勇ぶゆう見込みこんでいたのでしょう。

しかし盛政は信長や勝家から受けた恩義おんぎわすれることはできず、秀吉の好意を感謝かんしゃしながらも、「このまま生きたとしても、秀吉殿を見れば、私はきっと貴方あなたちましょう。いっそ死罪しざいを申し付けて下さい」と願ったそうです。

秀吉は盛政をスカウトすることをあきらめて、武士の名誉めいよである切腹せっぷくを命じたのですが、盛政は敗軍はいぐんしょうとして処刑しょけいされる事を望んだのです。そのため、秀吉に「願わくば、車に乗せ、なわでしばられている様を人々に見物させ、一条いちじょうつじより下京へ引き回されればありがたい。そうなれば秀吉殿の威光いこうも天下にひびき渡りましょう」と盛政は言ったようです。

それを聞いた秀吉は「最後まで武辺の心を忘れぬ者よ。よしよし」と語ったそうです。

 
3 早すぎる死
 盛政は秀吉により京市中を車に乗せられて引き回され、その後、宇治うじ槙島まきしまに連れていかれて同地で斬首ざんしゅされたといいます。享年30、若すぎる死です。秀吉は盛政を最後までしみ、せめて武士らしく切腹させようと連行中にひそかに短刀たんとうをわたす手配てはいもしたが、盛政はそれをことわり死にのぞんだといいます。

辞世の句は「世の中をまわりもてぬ小車は火宅かたくの門を出づるなりけり」。

盛政には虎姫(とらひめ)というむすめがいたのですが、そのお話はのちほど。

※ おまけ

アンケート、もしよろしければお願いいたします。


※ この記事は以下の本を参考にしました。


歴史人 2012年 02月号 [雑誌]
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賤ヶ岳しずがたけ七本槍ななほんやりといえば、加藤清正,福島正則,加藤嘉明,平野長泰,脇坂安治,糟屋武則,片桐且元の7人です。

しかし、実際には他に二人いたといいます。桜井佐吉・石河兵助です。

しかも、この賤ヶ岳の合戦では9人だけでなくたくさんの武将が戦ったのです。秀吉にとって、この合戦での功労者こうろうしゃはもっとほかにもいたと思います。

賤ヶ岳の合戦にて、9人が具体的にどのような手柄てがらを立てたのかは、実はあまりはっきりわかっていないようです。

けれど、秀吉にとってはそれはどうでもよいことだったのでしょう。秀吉は急激に勢力を拡大したため、子飼いの家臣に有名人がいません。これから天下をねらう秀吉にとっては、それは致命的ちめいてきでした。

そこで、秀吉は自分の政権を支えてくれる若者を育てる必要があったのです。そこで、秀吉は自分の子飼こがいの7人を賤ヶ岳の合戦にてメジャーデビューさせたのでしょう。秀吉と七本槍は、いまでいえば秋元康さんとAKB48みたいなものでしょうか?

しかし、清正自身は「七本槍」を話題にされるのをひどくきらったという話もあるようです。








1 長浜駅のロータリーにある銅像

今日は石田三成いしだみつなり豊臣秀吉とよとみひでよしのエピソードをご紹介します。

まずはの写真をごらんください。

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この写真は羽柴はしば秀吉(のちの豊臣秀吉)と佐吉さきち(のちの石田三成)少年の出会いのぞうです。


羽柴秀吉は、琵琶湖びわこほとりの長浜城ながはまじょうをつくり、長浜城の城主となりました。鷹狩(たかがり)に行くとちゅう、観音寺かんのんじ米原市朝日町まいばらしあさひちょうにある)に立ちよったところ、そこの小僧こぞうあせをかいた秀吉のために、ぬるいお茶を持ってきたそうです。その小僧こそ佐吉さきち少年だったのです。

秀吉は佐吉少年に「うまい、もう一杯いっぱい」とたのんだところ、佐吉少年は先ほど持ってきたお茶よりも少し熱いお茶を持ってきたのです(茶わん半分ほどのお茶)。

さらに秀吉は、佐吉少年にお茶をたのんだところ、今度は小さな茶わんに熱い茶を差し出したのです。

佐吉少年が一杯目でぬるいお茶を出したのは、鷹狩で汗をかいている秀吉をみて、「あ、この人はのどがかわいているだろうな」と思ったからでしょう。

二杯目に少し熱いお茶を出して、さらに秀吉のどをうるおしてもらい、三杯目の熱いお茶をじっくりとお茶の味を楽しんでもらおうと佐吉は思ったのでしょう。

秀吉は茶の入れ方ひとつにも、ここまで気を配る佐吉少年のことを気に入り、自分の家臣にスカウトしたのです。

出会いというのはわからないものですね。そして、三成がおさないころから才気あふれる人物だったことがうかがえるエピソードです。



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(説明版)

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(長浜城)

※ おまけ
お茶ってだんだん熱くしたほうが、おいしく飲めるそうですね。



※ この記事はウィキペディアを参考にしました。

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戦国武将の石田三成がじんを構えた古墳こふんがあるのをご存知でしょうか?

それは、埼玉県さいたまけんのさきたま古墳群こふんぐんひとつ、丸墓山古墳(まるはかやまこふん)です。さきたま古墳群にはいくつもの古墳がありますが、この古墳は他の古墳よりも高さがあります。

この古墳は豊臣秀吉の軍勢が忍城(おしじょう)にめこむ際に、豊臣秀吉の家臣の石田三成がこの丸墓山古墳に陣を構えていたのです。石田三成がここに陣を構えたのは、この古墳の頂上から忍城を望むことができたからです。

ちなみに豊臣勢の忍城攻めは、小説になりました(「『のぼうの城』。映画にもなった)




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(忍城の写真。)


さらに、石田三成は難攻不落なんこうふらくの忍城を攻略するために、水攻め(※1)を行ったようです。忍城の周辺をつつみでぐるりと囲んだようです。その堤の長さは総延長28kmにもおよんだそうです。

堤が完成した後、利根川とねがわ荒川あらかわの水を堤に引き入れたのですが、城にはあまり水がたまらなかったようです。

その後、増水したため、堤がこわれてしまい石田の軍勢にもおぼれて亡くなった人も沢山でてきて、水攻めは失敗に終わったようです。



※1  川をせき止め、その水を敵の城の周囲に導入し て孤立こりつさせること。あるいは、敵の給水路をち、飲料水いんりょうすい欠乏けつぼうさせ苦しめること。.




(石田堤の動画)


昔、「歴史ミステリー」という番組があり、番組で戦国武将の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)と山内一豊(やまうちかずとよ)のどちらが日本を救うかという話がありました。

番組では、山内一豊のほうが日本を救えるという意見も多かったようです

長宗我部元親は人の言いなりにならない、自分の実力を信じるという良くも悪くも戦国時代の申し子みたいな人で、一方の山内一豊は忠義の人で、コツコツと実績を積み上げる努力家でした。

ですから、一豊の生き方のほうが日本人の感性にあっていると思うし、最終的に子孫を残すことができたことも大きい。だから、山内一豊のほうが日本を救えるという意見が多かったのだと考えられます。(長宗我部は息子の代でほろんだ)

私の意見としましては、長宗我部と山内のどちらかといわれたら、長宗我部を選びます。

山内一豊は、たしかにマジメで上司の言うこともすなおに聞き、また戦でも矢を顔に打たれても屈しない勇猛ゆうもうさを持っているのですが、日本を救うとなるとやや物足りない気もします。

平時のとき、たとえば元禄時代げんろくじだいだとか、昭和40年代〜50年代のような安定した時期ならば、山内のようなリーダーが良いと思うのですが、乱世の日本を救うにはある程度、にくまれ役を買って出るような人のほうがいいと思います。

もちろん、マジメでコツコツやる人は学校で先生にもほめられるし、会社でも必要なキャラだと思います。


だけど、山内一豊は、土佐とさの旧領主の長宗我部の残党をのけ者にしたのです。(山内家と長宗我部の残党がケンカしたから)

山内家家臣を上士じょうし、旧長宗我部氏の家臣を下士かしとした差別的構造も発生してしまいました。この構造は幕末になっても続いて、下士出身の坂本龍馬さかもとりょうまたちもずいぶん苦労するのです。

織田信長は元親をあまり高く評価していなかったようですが、元親が秀吉よりも早く生まれていたら、おもしろいことになっていたかもしれません。

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