history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

カテゴリ: 幕末

徳川家茂は14代将軍です。徳川将軍の中では知名度は高い方ではありません。和宮の夫といった方がわかりやすいくらい。和宮は有名ですからね。しかし、家茂はなかなかの名君で、かの徳川吉宗の再来だと言われたほどで、「天授の君」とも言われました。天授とは天がこの世に授けた人という意味。すごい絶賛ですよね。また、勝海舟は滅多に人を褒めない人ですが、家茂のことはベタ褒め。徳川家茂が将軍に就任したのは、わずか13歳。

家茂は子供の頃から、好人物だったと言います。家茂は弘化こうか三年(1846)
に紀州藩朱の嫡男として生まれます。幼名を菊千代と言いました。が、父の死去で、わずか菊千代は4歳で紀州藩主になります。菊千代には浪江という教育係の女がいました。浪江は厳しくも、優しく菊千代を育てたと言います。彼女の教育があって菊千代のリーダーとしての資質が磨かれたのですね。6歳になった菊千代は12代将軍徳川家慶へ謁見えっけんすることになったのです。江戸城登城の際、浪江は菊千代に「謁見の際、お泣きになられてはなりませぬ」と言ったのです。しかし、謁見の場の重々しい雰囲気に菊千代は号泣。無理もありません。菊千代は藩主とはいえ、まだ6歳ですから。見かねた家慶は「好きなものでなだめすかし、遊ばせよ」と言い、小鳥を菊千代のために将軍自らプレゼントしてくれたのです。菊千代は鳥や虫が大好きだったのです。そして、江戸の紀州藩の屋敷に戻った菊千代は浪江の顔を見るなり「浪江、泣いたよ」と正直に答えたと言います。誠実な人柄がうかがえます。

菊千代は将軍の家慶から「慶」の名をたまわり、徳川慶福トクガワヨシトミと改めました。そして藩主として恥じないよう、毎日手習のため筆をとり、論語などを素読、剣術の稽古も熱心にやったと言います。慶福は将軍になって名前を家茂と改めてからも、こうした真面目さは変わらなかったと言います。

将軍になった家茂は、学問を好み、養賢閣ヨウケンカクという学問所を作りました。これは小姓や役人たちが学問を学ぶための施設です。自ら学ぶだけでなく、周辺の人材のレベルアップも図ろうとしたのですね。

また、家茂の良い人のエピソードといえば、こんな話があります。家茂は戸川安清トガワヤスズミに書道を習っていたのですが、ある日、家茂がいきなり戸川の頭に水をかぶせ、手を打って笑い出すと、その場を去ってしまったのですね。いたずら好きな将軍様だと思うでしょ?違うんですね。その場にいた家臣が戸川を心配すると、戸川は「私のために」と泣き出してしまったのです。いぶかる家臣。実は戸川は高齢で、今風にいえばトイレが近くなっていたのですね。この日もがまん出来ず、その場で失禁をしてしまったのですね。失禁とはおもらしのこと。将軍の前で粗相をしたら大変です。それこそ流罪か切腹かというレベル。それを察した家茂は、機転をきかせ戸川の失禁を隠すために水をかけ、イタズラをするフリをしたのですね。将軍様が自ら戸川を庇えば、家臣だって処罰したくても手出しができませんね。いい人ですね。

そして、元服した家茂は和宮と結婚する運びになりました。これは政略結婚です。当時の幕府は、外は欧米の圧力、そして内は倒幕運動の盛り上がりと、内憂外患ナイユウガイカンでした。その状況を打破しようと、幕府は皇女との婚礼を画策。いわゆる公武合体です。家茂と年齢が近いということで孝明天皇の妹の和宮が選ばれました。和宮はすでに有栖川宮熾仁親王アリスガワノミヤタルヒトシンノウというフィアンセがいたのですね。さらに当時の江戸は、鬼のような外国人がウジャウジャいる怖いところと信じられていたのです。だから和宮はこの婚約話を当初は強く拒否。しかし、

「惜しまじな 君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」



という句を残しました。これは兄のため、民衆のため、この婚約を受け入れるという意味の句です。文久元年(1861)、和宮は京を発ちます。その輿入れ行列は総勢1万人以上だったというから、かなり大掛かりな行列だったことがうかがえます。翌年の文久2年に家茂と和宮の婚礼の儀がおこなわれます。この時二人の年齢は17歳。しかし和宮の苦難は始まったばかり。和宮は大奥に入ることになりました。大奥はよく言えば女の園。悪く言えば伏魔殿。しかも、武家のしきたりと皇族のしきたりは全然違います。和宮が大奥の人間から意地悪をされるのは火を見るより明らかでした。しかも和宮が京から連れてきた女官と、大奥の古株連中がバトルをする有様。和宮にとって辛い毎日です。そんな和宮に寄り添ったのが夫の家茂。家茂は、和宮に優しい声をかけたり、公務の合間に金魚バチなどさまざまな贈り物をあげたり、いろいろと配慮したのですね。優しいですね。これは家茂が和宮を大事にすることで幕府と朝廷の関係をよくしようという思いもあったかもしれませんが、家茂自身が和宮を愛していたからだと思います。そうした家茂の優しさに次第に和宮の心を開かせたのです。

しかし、世は幕末。動乱の時代。二人の平和な日々を脅かしていくのです。1863年、家茂は上洛をします。当時の京都は、現在みたいな観光地ではなく、尊王攘夷派が暴れ回る大変危険な場所でした。そんな危ないところをあえて出向いたのですね。将軍の上洛は三代将軍家光以来229年ぶり。それくらい幕府はあせっていたのでしょうね。そして家茂は義理の兄である孝明天皇にも謁見。孝明天皇は和宮の様子を訪ねたり、外国船を打ち払えと攘夷を命じたり。そんな最中、京にいる家茂のもとに和宮から手紙が来たと言います。

「寒さ厳しい中、無事着いたとのことを聞き、安堵しております。私は一時期、痘瘡トウソウができ困ってしまいました」と。

すると家茂は返礼を出しました。

「贈ってくれた見事な菓子を慰めとし、鬱情ウツジョウを晴らしております。痘瘡ができたのこと、難儀であったこととお察しします」

と和宮の病気を気遣う様子も伺えます。実は家茂は甘党でお菓子が大好き。和宮は家茂のために、そうした配慮もしたのですね。仲の良さが伺えます。家茂は21歳の若さで亡くなるのですが、その亡骸は和宮の元に届きます。一緒に届けられたのが、西陣織の反物。かつて和宮が家茂におねだりしたものです。家茂は買ってくれたのですね。悲しみに暮れる和宮が読んだ句がこちら。


「空蝉の 唐織衣 何かせむ 綾も錦も 君ありてこそ」



和宮は立派な着物も、君(家茂)がいてこそと読んだのですね。夫を失った悲しみが伝わります。夫を失った和宮は京に戻らず、そのまま江戸に止まり、徳川の女として幕府を守ったのです。幕府を滅ぼそうと、朝廷の総大将になんと元フィアンセの有栖川宮熾仁親王アリスガワノミヤタルヒトシンノウ。和宮は熾仁親王に手紙を何度も書き、幕府攻撃を思い止まらせたと言います。そして、明治10(1877)8月に和宮は亡くなります。和宮の亡骸は増上寺に葬られ、夫の家茂の隣に和宮の墓があります。和宮は亡くなる時写真を抱いておりまして、その写真がぼやけて誰だかわからないのですね。熾仁親王という説もありますが、家茂の可能性の方が遥かに高いと思われます。

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(いづれも関門海峡あたりにある大砲。奇しくも壇ノ浦の合戦のあった場所と同じ場所。関門海峡辺りは争いごとがおこる因縁なのかな?)

* この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました。

1 知っていた黒船の来航
 かつての歴史の教科書には、幕府がペリーに圧力にひれ伏して開国をしたみたいな感じで書かれていて、当時の幕府の役人たちは弱腰だったと。しかし、それはのちの明治政府が幕府を貶めるために広めた話。実際は幕府はしたたかな交渉をしたのです。

ペリーが4隻の艦隊をひきつれて(1853年)、国内は大パニックになりました。が、近年の研究では、黒船の来航を幕府は知っていたことがわかっております。1852年(嘉永5年)、幕府はオランダから「黒船がくる」という情報を得ていたのです。しかも来航する船の名前から、ペリー提督の名前まで知らされていたのです。しかし、当時の幕府はそのオランダからの情報を甘くみていたのです。「どうせデマだろ」って。だから、大した準備もしなかったのですね。それがアダとなったのです。

黒船の来航に慌てた、幕府はペリーとの交渉役に林復斎ハヤシフクサイを任命しました。林は多くの資料を読み過去の幕府の対外政策を調べ上げたのです。また、林は海外情勢に詳しい識者に相談もしたといいます。そして、林は「アメリカは補給が一切ないから戦う意図はないだろうと」と理解しました。ペリーの艦隊は大西洋を渡りアフリカ大陸の南を回って日本に来たのですが、長い航海で食料や(燃料の)石炭も不足して病人や死者まで出る始末でした。こうしたアメリカ側の弱みを林は見抜いたのです。

2 ペリーの要求
で、ペリーが要求したのは「漂流民の保護」「石炭や食糧の提供」「貿易」の三つでした。「漂流民の保護」」と「石炭と食糧の提供」については林はOKをあっさり出しました。問題は三つ目の「貿易」でした。いきなり開国をし、貿易を認めれば国内の混乱は避けられません。幕府は「貿易」に関してはNOという考え方でした。それでペリーは渋々帰国したのです。

そして翌年の1854年の正月、ふたたびペリーが来日しました。今度は9隻です。2月にペリー一行は横浜に上陸し、500人もの士官を並べ、交渉にあたったのです。おそらく、アメリカはこれだけの兵力があるぞ、いうことをきかないともっと大勢連れてくるぞと脅しをかけているのですね。それから幕府とペリーとの会談が再開しました。

ペリーは交渉の席で言いました。「我がアメリカは人命を重んじる。ところが貴国は人命を重んじるどころか、漂流民を大事にせず、海岸にくれば大砲を打ってくる。貴国がそのような態度をとるのなら戦争も辞さないと。

そして林はこう切り出します。「戦も致し方なし」。すごいでしょ。今までの歴史では幕府は弱腰なんて教えられたけれど、それはウソです。林がこう言ったのは、アメリカとマジで戦争をしたかったのではありません。むしろ、アメリカは戦争を仕掛けてこないことを見抜いていたから言えたのです。

さらに林はペリーの「人命を大事にする」という発言を逆手に取り、「さきほど人命がが第一と仰せられた。交易は利と関するもの。人命と交易は関係ない。遭難救助ソウナンキュウジョならすでに我が国はやっているし、(昔はともかく今は)大砲など打ってはいないから、それでよしとする。」

ペリーも自分の言葉を逆手に取られるとは思いませんでした。ペリーは痛いところを突かれてしまい、しばらく沈黙します。そしてペリーは、交易の話を撤回すると言い出したのです。これはペリーが交易をあきらめたというより、外交のカードを切り間違えたということでしょう。林から人命救助というのなら、交易は関係ないでしょと言われたら、ペリーもグウの声も出ません。

また、ペリーが軍人で、貿易が重要だとはあんまり思わなかったことも幸いでした。これが、ペリーではなく交易の重要性がよくわかっている優秀なネゴシエイターだったらこうはいかなかったかも。ペリーとしては港が開かれればOKと思ったのかもしれません。ともあれ、日本はピンチを免れたのです。


3 二回目の交渉でピンチに

ところが、一回目の交渉から9日目の第二回目の交渉。日本は一転してピンチになります。ペリーはこんどは「横浜のほかに5、6か所の港を定めていただきたい、さもなければ、こっちが勝手に上陸する」と切り出したのです。このペリーの発言に内心、林は驚きます。あちこち港を開いてしまえば意味がありません。これでは交易をしたのと同じこと。

しかし、林は動揺をかくし、「これまで通り長崎で行う」と主張。ペリーは「話にならない。もっと開いてほしい。」と。

しかし、林の記憶の中に、読み込んでいたアメリカの国書の一節が浮かんできました。その国書には「南に一港」とあるだけで、長崎とか横浜とか具体的な港の名前も書かれておりません。林はこの点をつきます。「長崎のほかに別の港といわれるならば、なにゆえ、貴国の国書の中に地名を一言も示さなかったのか、国書にあれば、我らもそれなりの返答もできた。さほど重大なることならば、まずは国書にて、どこそこの港、いくつ開いてほしいかを申し上げるべきかと存ずる」と。

ペリーは答えにつまります。ぺリーは「たしかに地名は書かなかった。できるだけ早く答えは欲しい。2、3日お待ちしよう。」と。

4 日米和親条約
その2回目の交渉が終わった後、林は幕府の考えをまとめ上げ、3回目の交渉の日にのぞみました。林はペリーに「伊豆の下田港、函館港の2港の欠乏の品を給与する」と伝えました。北海道の函館と伊豆の下田は幕府のある江戸から離れているため、国内の混乱を最小限に抑えることができます。そして、条約が調印されました。「日米和親条約」です。しかも「日米和親条約」が調印された日には懇親会のようなものが開かれるほど、日米両国の距離は縮まったのです。しかもペリーは「もしも日本が外国と戦争になれば、軍艦を差し向け加勢しよう」といったほど。ペリーのリップサービスかもしれないけれど、すごいことですよね。

ここまでペリーのゴリ押しに動ずることなく、冷静に対応した林の能力に驚かされます。


帰国後、ぺリーは日本人の印象をこう書き残しております。


「日本人は教育が普及しており、何にでも非常な好奇心を示す。また手先の技術について非常に器用で驚いた。日本人が西洋の技術を習得したら、機械技術の成功を目指すうえで強力なライバルになるであろう」。このペリーの予言は、明治以降現実のものとなります。

また、ペリーが見た林の印象は「立派な風采」「物腰は極めて丁重」と非常に好印象だったそうです。そして、「表情は重々しく、感情を表に出さない」と油断ができない切れ物だと評しておりました。

※ この記事は「歴史秘話ヒストリア」を参考にして書きました。

前回の記事で波風を立てないことも基本的に良いことなのですが、なんだろうねみたいな話をしました。今日は波風を立ててしまったけれど、それで突破口を開いた人物を取り上げます。幕末の英雄の1人、高杉晋作です。

幕末、長州藩チョウシュウハン内は、幕府に従うべきという保守派と、幕府と戦うべきという尊攘派ソンジョウハに別れていたのです。高杉は当然、尊攘派。
ちなみに尊攘派は自らを正論党セイロントウと名乗り、保守派を俗論党ゾクロントウと言ってけなしていたのですね。

そして、長州藩は保守派の方が権力を握ってしまいます。禁門の変(*1)に出兵した家老たちを切腹し、奇兵隊をはじめ、諸隊に解散を命じて、幕府との戦いをけけようとしたのですね。さらに保守派は、尊攘派の粛清シュクセイも始めたのです。高杉も投獄トウゴクされそうになったのですね。

怒ったのが高杉。1864年(元治元年ゲンジガンネン)高杉は下関にある功山寺コウザンジに兵を集めます。しかし、その数は百人に満たなかったそうです。そして、その年の12月16日に挙兵。保守派の方が圧倒的に兵力が多いのに、無謀な戦いです。

その時の高杉は「毛髪モウハツが逆立ち、目がけ、かべがビリビリれれ、人々は震え上がるほどだった」という凄まじい迫力だったそうです。

この挙兵に高杉は奇兵隊にも参加を呼びかけました。しかし奇兵隊ははじめは参加しなかったのですね。当時の奇兵隊は山縣有朋が中心人物で、高杉の呼びかけに山縣は拒否したのです。山縣は波風を立てたくなかったのですね。長州藩の保守派とことを争いたくなかったのです。それでも高杉は少数の味方ともに立ち上がったのですね。

まず高杉たちは物資調達のため下関新地開所を襲撃シュウゲキ、その後、即座に三田尻ミタジリに移動して藩の軍艦を奪取ダッシュ。その情報が伝わると井上馨イノウエカオル品川弥二郎シナガワヤジロウも呼応。

それから、はじめは参加を渋った奇兵隊も高杉に合流。その時高杉が山縣有朋に行った言葉。

「わしとおまえは焼山かづら うらは切れても. 根はきれぬ」


奇兵隊だけでなく諸隊も合流したのです。

あわてた保守派は、捕らえていた尊攘派の幹部を処刑したのです。それが火に油を注ぐ結果になり、これに反発を強めた書体のへいが次々と加わり、高杉の味方がどんどん増えたのです。高杉率いる尊攘派が長州藩の保守派に勝利し、ついに尊攘派が長州藩の実権を握ったのです。

山縣有朋は高杉晋作のことをこのように評しています。

「自分などは、いつ何時、彼のために腹を斬らされることがあるかも知れぬと思っていた。」

山縣は高杉が何かことを起こすと、いつも尻拭いをされていましたからね。高杉が亡くなってから、高杉のことを思い出すたび「しょうがないな」って言いながら笑っていたかもしれない。

伊藤博文は高杉にはじめから慕っていて、高杉のことをこのように評しております。

「動けば雷電の如く。発すれば風雨の如し」

高杉のやったことは非常に無謀ムボウなことですが、もし高杉の無謀とも言える挙兵がなかったら、明治維新は成功しなかったかもしれない。そんなことも伊藤は思ったのかもしれません。


* 参考文献
松下村塾と幕末動乱 (双葉社スーパームック)
オフィス五稜郭
双葉社
2014-09-17



また、この本は「歴史秘話ヒストリア」も参考にしました。

上野の彰義隊ショウギタイ。幕末に上野公園で新政府軍と戦って亡くなった人たちです。彰義隊の悲劇は有名な話です。

1968年(慶応4)2月23日、彰義隊の結成式が浅草の東本願寺で行われました。彰義隊の名前の由来は「大義を天下にあきらかにする」からきました。その目的は「主君・徳川慶喜の汚名を注ぎ、公の無実と勤王キンノウの御素志そしを天下に明らかにして名誉回復を図ること」としました。

選ばれた幹部は次の通りです。


頭取 渋沢喜作シブサワキサク

副頭取 天野八郎アマノハチロウ

幹事  本多敏三郎ホンダトシサブロウ伴門五郎バンモンゴロウ須永伝蔵スナガデンゾウ

渋沢喜作は渋沢栄一のいとこです。また、 尾高 惇忠オダカアツタダが彰義隊の参謀になり、渋沢シブサワヘイクロウも彰義隊に加わりました。尾高は渋沢栄一のやはり、いとこでもあり、尾高は渋沢栄一の学問の師でもあります。のちに富岡製糸場の建設に大きく関わり、渋沢平九郎は渋沢栄一のいとこに当たります。結成式で決議された「同盟哀訴申合書」は幕府に差し出されますが、これは尾高が起草したものです。尾高は幕臣ではないのですが、朝敵の汚名を着せられても、なんの言い訳もせずに謹慎キンシンする徳川慶喜の姿に心打たれて、なんとか彼の無念を晴らそうと考えたのですね。こうしてみると渋沢栄一の親族が結構彰義隊に加わっていたのですね。この時、渋沢栄一は、ヨーロッパに行っていたので、彰義隊には加わらなかったのです。もし、栄一がヨーロッパにいなかったら、彰義隊に加わっていた可能性があります。

彰義隊は、徳川慶喜の汚名を返上しようという目的では一致しておりましたが、頭取の渋沢喜作と副頭取の天野八郎は、その方向性が違っていました。目的は同じでも、プロセスが違ったのです。渋沢喜作は慶喜の身を第一に考える穏健派なのに対し、天野八郎は薩摩サツマと戦うべきだという考え方。

大政奉還した後だから、幕府としても新政府軍とももめ事を起こしたくなかったのですね。それで、幕府の重臣の勝海舟は、新政府への軍組織と取られないように彰義隊に江戸市中の警護を命じたのですね。火付けや略奪などが頻繁ひんぱん横行オウコウする江戸の町にあって、彰義隊の活躍は町民から認められるようになったのです。

彰義隊の隊員も増えて、三千人ほどになることもあったそうです。しかし、人数が増えたのはいいが、彰義隊の派閥争いが起こったのですね。穏健派の喜作派と、急進的な天野派が対立するのです。しかし喜作派が少数派で、天野の派閥が大多数を占めるようになったのです。元々、薩摩に対して恨みを持つ人間が多かった上に、天野自身も粗暴なところがあるが胆力もあり、隊員から慕われていたのですね。それで天野のグループが主流になり、彰義隊は江戸に近づきつつある新政府軍と戦おうと構えていたのです。

4月11日、江戸城が無血開城をして、徳川慶喜は水戸へ移りました。官軍との武力衝突を恐れた勝海舟は彰義隊の解散を命じました。だが、彰義隊の天野一派は徳川家の霊廟守護レイビョウシュゴを名目に上野の寛永寺を拠点に居座り続けたのです。

天野派は戦って朝廷に力を見せつければ、徳川家を再興できると考えていたのです。穏健派の喜作らとの溝は深まるばかりです。それどころか、彰義隊の内部でも争いが起こったのです。天野派の一派が喜作や尾高を襲撃したのですね。とうとう喜作は彰義隊を自ら辞めてしまったのです。


彰義隊は、寛永寺貫主カンシュである輪王寺公現入道親王リンノウジコウゲンニュウドウシンノウ擁立ヨウリツして官軍に抵抗しました。5月1日、新政府は彰義隊に江戸支柱の取り締まりを解き、武装解除を命じた。大た、従わなかったために14日、彰義隊への総攻撃が布告されるのです。次の日、長州藩の大村益次郎の指揮のもと、雨が降る中、上野の山への総攻撃が始まったのです。新政府側が、薩摩や長州、肥前、尾張、津などの十七藩、総勢二千人に対し、彰義隊は一千人ほどでした。しかも官軍の総攻撃が近づくにつれ脱走者が続出したのです。人数の差だけでなく、官軍は武器も最新式。これじゃあ勝てません。

特に本郷台から打ち込まれた肥前藩のアームストロング砲の威力はすごかったのです。寛永寺の主要な伽藍ガランは焼失し、勝敗は1日で決したのです。

この上野戦争で、彰義隊の戦死者は200人を超えました。天野は7月に市中に潜伏センプクしているところを捕まり、獄中で病死しました。逃れた兵士の中には、品川沖の幕府艦船に乗り込んで、東北戦争や箱館戦争に身を投じたものもいたと言います。


さて、今の上野公園は元々寛永寺の境内だったのです。お寺の境内だったから、上野公園はあんなに広かったんだなって。


* おまけ
深刻な話をしたので、息抜きに心温まる動画を。上野公園内にある上野動物園にいる、パンダの動画です。上野に行くとパンダの人形とかお土産とかイラストがいっぱいです。それだけパンダは愛されているのですね。






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(彰義隊の墓)

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(彰義隊の説明板)

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(上野公園にある清水観音堂。京都の清水寺を参考にして作った。舞台も再現されている)

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不忍池シノバズノイケ。中央に弁天堂がある。漫画の「キン肉マン」では、この不忍池にリングが置かれました、だなんて、そんなネタ知っているの、僕ぐらいの世代くらいですねw

シーボルト 川原慶賀筆
(シーボルトの絵。ウィキペディアより))



きょうはシーボルトの話をします。シーボルトはドイツ人でしたが、オランダ領東インド会社付の医師となり,それから日本に任官することになり,文政6(1823)年8月に長崎出島に入った人物です。そこで医師として活躍するかたわら、医師を養成するための塾、鳴滝塾なるたきじゅくをひらきました。その塾では高野長英たかのちょうえいも勉強しておりました。そのシーボルトが帰国した際に日本からオランダに持ち帰ったものがあります。それはいったい何でしょうか?二つ選んでください。

 

  1. ユリ


  2. 金魚


  3. 遊女



  4. ササニシキ






正解は1番と、2番。以後はありえませんねwササニシキは昭和以降につくられたものですから。3番の遊女を連れ帰るなんて、いろいろ問題ありですね。シーボルトもそこまで人でなしではないでしょう。では、本題に入りましょう。
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