history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 幕末

上野の彰義隊ショウギタイ。幕末に上野公園で新政府軍と戦って亡くなった人たちです。彰義隊の悲劇は有名な話です。

1968年(慶応4)2月23日、彰義隊の結成式が浅草の東本願寺で行われました。彰義隊の名前の由来は「大義を天下にあきらかにする」からきました。その目的は「主君・徳川慶喜の汚名を注ぎ、公の無実と勤王キンノウの御素志そしを天下に明らかにして名誉回復を図ること」としました。

選ばれた幹部は次の通りです。


頭取 渋沢喜作シブサワキサク

副頭取 天野八郎アマノハチロウ

幹事  本多敏三郎ホンダトシサブロウ伴門五郎バンモンゴロウ須永伝蔵スナガデンゾウ

渋沢喜作は渋沢栄一のいとこです。また、 尾高 惇忠オダカアツタダが彰義隊の参謀になり、渋沢シブサワヘイクロウも彰義隊に加わりました。尾高は渋沢栄一のやはり、いとこでもあり、尾高は渋沢栄一の学問の師でもあります。のちに富岡製糸場の建設に大きく関わり、渋沢平九郎は渋沢栄一のいとこに当たります。結成式で決議された「同盟哀訴申合書」は幕府に差し出されますが、これは尾高が起草したものです。尾高は幕臣ではないのですが、朝敵の汚名を着せられても、なんの言い訳もせずに謹慎キンシンする徳川慶喜の姿に心打たれて、なんとか彼の無念を晴らそうと考えたのですね。こうしてみると渋沢栄一の親族が結構彰義隊に加わっていたのですね。この時、渋沢栄一は、ヨーロッパに行っていたので、彰義隊には加わらなかったのです。もし、栄一がヨーロッパにいなかったら、彰義隊に加わっていた可能性があります。

彰義隊は、徳川慶喜の汚名を返上しようという目的では一致しておりましたが、頭取の渋沢喜作と副頭取の天野八郎は、その方向性が違っていました。目的は同じでも、プロセスが違ったのです。渋沢喜作は慶喜の身を第一に考える穏健派なのに対し、天野八郎は薩摩サツマと戦うべきだという考え方。

大政奉還した後だから、幕府としても新政府軍とももめ事を起こしたくなかったのですね。それで、幕府の重臣の勝海舟は、新政府への軍組織と取られないように彰義隊に江戸市中の警護を命じたのですね。火付けや略奪などが頻繁ひんぱん横行オウコウする江戸の町にあって、彰義隊の活躍は町民から認められるようになったのです。

彰義隊の隊員も増えて、三千人ほどになることもあったそうです。しかし、人数が増えたのはいいが、彰義隊の派閥争いが起こったのですね。穏健派の喜作派と、急進的な天野派が対立するのです。しかし喜作派が少数派で、天野の派閥が大多数を占めるようになったのです。元々、薩摩に対して恨みを持つ人間が多かった上に、天野自身も粗暴なところがあるが胆力もあり、隊員から慕われていたのですね。それで天野のグループが主流になり、彰義隊は江戸に近づきつつある新政府軍と戦おうと構えていたのです。

4月11日、江戸城が無血開城をして、徳川慶喜は水戸へ移りました。官軍との武力衝突を恐れた勝海舟は彰義隊の解散を命じました。だが、彰義隊の天野一派は徳川家の霊廟守護レイビョウシュゴを名目に上野の寛永寺を拠点に居座り続けたのです。

天野派は戦って朝廷に力を見せつければ、徳川家を再興できると考えていたのです。穏健派の喜作らとの溝は深まるばかりです。それどころか、彰義隊の内部でも争いが起こったのです。天野派の一派が喜作や尾高を襲撃したのですね。とうとう喜作は彰義隊を自ら辞めてしまったのです。


彰義隊は、寛永寺貫主カンシュである輪王寺公現入道親王リンノウジコウゲンニュウドウシンノウ擁立ヨウリツして官軍に抵抗しました。5月1日、新政府は彰義隊に江戸支柱の取り締まりを解き、武装解除を命じた。大た、従わなかったために14日、彰義隊への総攻撃が布告されるのです。次の日、長州藩の大村益次郎の指揮のもと、雨が降る中、上野の山への総攻撃が始まったのです。新政府側が、薩摩や長州、肥前、尾張、津などの十七藩、総勢二千人に対し、彰義隊は一千人ほどでした。しかも官軍の総攻撃が近づくにつれ脱走者が続出したのです。人数の差だけでなく、官軍は武器も最新式。これじゃあ勝てません。

特に本郷台から打ち込まれた肥前藩のアームストロング砲の威力はすごかったのです。寛永寺の主要な伽藍ガランは焼失し、勝敗は1日で決したのです。

この上野戦争で、彰義隊の戦死者は200人を超えました。天野は7月に市中に潜伏センプクしているところを捕まり、獄中で病死しました。逃れた兵士の中には、品川沖の幕府艦船に乗り込んで、東北戦争や箱館戦争に身を投じたものもいたと言います。


さて、今の上野公園は元々寛永寺の境内だったのです。お寺の境内だったから、上野公園はあんなに広かったんだなって。


* おまけ
深刻な話をしたので、息抜きに心温まる動画を。上野公園内にある上野動物園にいる、パンダの動画です。上野に行くとパンダの人形とかお土産とかイラストがいっぱいです。それだけパンダは愛されているのですね。






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(彰義隊の墓)

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(彰義隊の説明板)

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(上野公園にある清水観音堂。京都の清水寺を参考にして作った。舞台も再現されている)

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不忍池シノバズノイケ。中央に弁天堂がある。漫画の「キン肉マン」では、この不忍池にリングが置かれました、だなんて、そんなネタ知っているの、僕ぐらいの世代くらいですねw

シーボルト 川原慶賀筆
(シーボルトの絵。ウィキペディアより))



きょうはシーボルトの話をします。シーボルトはドイツ人でしたが、オランダ領東インド会社付の医師となり,それから日本に任官することになり,文政6(1823)年8月に長崎出島に入った人物です。そこで医師として活躍するかたわら、医師を養成するための塾、鳴滝塾なるたきじゅくをひらきました。その塾では高野長英たかのちょうえいも勉強しておりました。そのシーボルトが帰国した際に日本からオランダに持ち帰ったものがあります。それはいったい何でしょうか?二つ選んでください。

 

  1. ユリ


  2. 金魚


  3. 遊女



  4. ササニシキ






正解は1番と、2番。以後はありえませんねwササニシキは昭和以降につくられたものですから。3番の遊女を連れ帰るなんて、いろいろ問題ありですね。シーボルトもそこまで人でなしではないでしょう。では、本題に入りましょう。
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1 緒方洪庵と適塾

 江戸時代後期から幕末にかけて活躍した医師の緒方洪庵おがたこうあんは、疫病から人々を救いたいと立ち上がりました。緒方洪庵は幼少のころは体が弱く、武芸の稽古けいこもままならず。若き日の緒方洪庵は悩みました。

自分に何ができるだろう。考え抜いた末、緒方洪庵は医師になろうとしたのです。1836年(天保7)、洪庵が27歳の時長崎に向かいました。長崎で海外の医療を学ぼうとしたのです。西洋医学は当時日本の医師が避けていた人体解剖じんたいかいぼうを積極的に行い、病の原因を探っていました。迷信や俗説ではなく科学に基づいた医学を洪庵はまなびました。そして2年後の1838年(天保9)年、洪庵29歳の時に大阪にうつり、ここで開業医として働き始めました。



この時同時に開いたのが西洋医学を勉強する場所、適塾てきじゅくです。そこに集まった若者たちは、今の医学生とは違います。今でこそ医学生になるにはお金がかかり、金持ちじゃないと厳しいですが、適塾に集まったのは、貧乏な者が多く、汚いということを気に留めず、真っ裸だったそうです。当時の医者は今と違って誰でもなれる職業でした。そのため志のある若者が多く集まりました。決して品行方正とはいいがたいのですが、西洋医学を学ぼうという意欲は相当なものでした。

適塾で学んだものは1000人以上だといわれております。その適塾で学んだ卒業生がなんと、福沢諭吉や日本赤十字社創設者の佐野常民さのつねたみ、さらに橋本佐内や大村益次郎も適塾出身です。


2 天然痘に取り組んだ緒方洪庵
 天然痘てんねんとうがはやっていました。天然痘は子供がかかりやすく発症したら4割が死亡するという恐ろしい病気でした。しかし、ヨーロッパではすでに予防法が見つかっており、種痘しゅとう、つまりワクチンをつかって天然痘を予防するのです。そのワクチンは牛から取れるのですが、当時の人たちは強い抵抗感を持っていました。当時の日本は牛を食べる習慣がなく、なかには種痘をしたら牛になるとまで言われたほどでした。しかし、種痘をみんながためらう一方で、子供の命がどんどん失われていきます。今でいえばアビガンが使われず、コロナの感染者、重傷者が増えるような感覚ですね。



洪庵は悩みましたが、ある日妙案が浮かびました。洪庵は錦絵にしきえに目を付けました。白い牛に乗った子供が悪いオニを退治している錦絵です。その悪いオニが天然痘。天然痘には牛の種痘が効くんだよとわかりやすくビジュアル化しているのですね。さらに実際に種痘を受けた子供にはお菓子を配ったり、貧しい人には無料で接種したそうです。種痘への恐怖を少しでも減らそうとしました。



そうして、少しづつ種痘しゅとうが受け入れられ、幕府も公認したのです。種痘は全国に広まり、天然痘が収まったのです。これで、めでたしめでたりと思っていた矢先に未知の病が日本にやってくるのです。


3 コレラに立ち向かった緒方洪庵

 洪庵は大阪で悲惨な状況を目にします。なんと人々がコレラにかかって倒れていたのです。治療法もなく、洪庵は焦るばかりでした。そんな中、長崎にいたオランダ人医師、ポンぺがコレラの特効薬があると言い出します。それはキニーネという植物で、マラリアの治療などに使われておりました。洪庵はキニーネを患者に煎じて飲ませました。ところが目立った効果はありません。洪庵はキニーネの効果に疑いを持ちます。しかし、他にめぼしい治療薬がありません。それで人々はこぞってキニーネを買い求め、在庫が尽きたといいます。



しかも悪いことに多くの医師たちがコレラの治療をあきらめてしまったといいます。



しかし、洪庵はあきらめませんでした。西洋の本を読んではコレラの研究を続け、その一方で患者たちに解熱剤などを投与し、コメや麦の煮汁を飲ませたといいます。やがて洪庵は一冊の本を書きあげます。「虎狼痢治準ころりちじゅん」。その本の中で、キニーネだけに頼るだけではダメと書きました。今でいえばアビガンやレムデシビルだけに頼るなというようなものです。他にも洪庵が行った対処法や、臨床経験りんじゅうけいけんも書き残したといいます。



そして洪庵は全国の医師に「虎狼痢治準ころりちじゅん」を配ったといいます。ところが、思いがけないことが起こります。ある医者から反論の手紙が来たのです。曰く「キニーネの効果は西洋では支持されている」と。



洪庵はすぐに動きます。なんとその反論に対する答えを「虎狼痢治準ころりちじゅん」に追記したのです。自分の意見を否定されて悔しい気持ちを抑え、必要な情報は届けようとしたのでしょう。洪庵は自らの恥よりも人々を救うための情報を多くの人たちに伝えようとしたのでしょう。病気の治し方がわからない以上は少しでも多くの情報を集めようとしたのでしょう。



やがて、コレラは終息するのです。天然痘もコレラも未知の病気でしたが、それでもあきらめずに治療に取り組んだ洪庵の功績は今も光りを放っております。最後に洪庵の言葉をご紹介します。





「医の道は己のためにあらず。人のためのみ。たとえ救うことができない病であっても患者の心をいやすのが仁術というものです」



※ この記事は「歴史秘話ヒストリア」と「ダークサイドミステリー」を参考にして書きました。

1 虎狼狸(ころり)がやってきた!

 幕末に虎狼狸ころりという妖怪ようかいが日本に出没しました。この妖怪はタヌキとオオカミとトラを混ぜたような奇怪な妖怪ようかいで、疫病えきびょうをはやらせ人々を苦しめたという妖怪です。この妖怪の絵が当時はやったのです。もちろん、妖怪などいるはずがなく、当時の流行り病を妖怪化したものです。



あと管狐くだぎつねというめっちゃ小さなきつね。このキツネは人間の体に入り命を奪ってしまうという恐ろしい狐がいたと当時の人は信じておりました。



昔は医学がそれほど発達してなくて、病気は妖怪か化け物の仕業だと思われていたのですね。また、人間が不安を感じた時に不安の原因や対処法がわからないときには目に見えやすいようなわりのいい原因を求めることによって我々は自分の不安を落ち着かせようという心理があるのですね。そうした心理が虎狼狐のような妖怪を産んだのですね。



2 コレラとは
その流行り病はコレラ。この病にかかるところりと倒れてしまうからコロリとも呼ばれました。特に安政5年(1858年)はコレラが大流行し江戸を地獄におとしいれたのです。これにかかると激しいゲリとき気、それから脱水症状だっすいしょうじょうになって下手すりゃ死んでしまうのです。当然人々はパニックになります。桑の葉がきく、せんじた黒豆がきく、みょうがの根がきくと色々ウワサされました。人々はそれらのものをこぞって求めたといいます。本当にコレラにきくかわからないのに。また、ニホンオオカミの骨がコレラにきくとも信じられました。そのためニホンオオカミが乱獲され、ニホンオオカミが絶滅した原因のひとつだったのですね。・・・・何ともおろかな話です。

でも、これは令和を生きる現代人が笑える話ではありません。イソジンがコロナに効くというウワサがたつなり、イソジンが品切れになったっていいますし。

それから、お祭りをしたり、神社にお参りをしたり疫病の退散を人々は願ったといいます。特に秩父の三峯神社みつみねじんじゃには神に仕えるオオカミがまつられ、人々はこぞって三峯神社にお参りに行ったといいます。その神に仕えるオオカミが疫病をはやらせる化け物を退治してくれると信じられていたのですね。まさに苦しい時の神頼み。有効な治療法がないものだから神にお願いするしかないですよね。




3 コレラの感染経緯

 コレラ菌は水に潜んで、人体に入り込みちょうの中で増殖ぞうしょく。そうして、その人は感染し苦しむわけです。さらに悪いことに、その人の排泄物はいせつぶつにもコレラ菌が潜み、かわや(今のトイレ)から水に流れ、さらにまたコレラ菌が広がったのです。江戸の昔は下水道がなかったし、衛生状況も今ほどよくなかったので。



日本にコレラが広まったのは安政5年(1858)に長崎に入港したアメリカ船の船員にコレラ患者が発生したといいます。それから長崎から東日本へとどんどんコレラが流行っていったのです。江戸では約20万人がコレラで亡くなったといいます。それまで日本にも天然痘てんねんとうとか疫病はありましたが、これまで経験したことのないような疫病が流行ったと。だから、当時の日本人は外国人が病をもたらす妖怪を持ち込んだのではないかと信じられていたのです。



当時の人々は、コレラの原因が海外からやってきた妖怪の仕業で、それは人から人へ移ると思っていたのですね。それは当たらずも遠からず。しかし、その対処法はいづれも的外まとはずれなんです。人間は不安を解消する納得感なっとくかんを重視すると、その不安の根本的な解決法からなぜか遠ざかり、おかしな方向へ進みやすいのです。





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(虎狼狸の絵。ウィキペディアより)








※ この記事は「歴史秘話ヒストリア」と「ダークサイドミステリー」を参考にして書きました。

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