history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。ブログ削除しようとしましたが、やめましたwそのかわりブログをリニューアルしました。コメント欄も久々に開放しましたが、コミ障で、なにぶん心が折れやすい性格なので、コメントの方は何卒お手柔らかにお願いします。

室町時代

護良親王モリヨシシンノウ。は幼い頃から比叡山ヒエイザンに入れられております。護良は勉強そっちのけで武芸の景子じゃなかったw稽古ケイコばかりしていたと言いますが、20代で天台座主テンダイザスになれたくらいです。仏教のことをまるで知らないで天台座主になれるわけないので、護良にも素養はあったはず。また、比叡山は数多くあるお経の中で大切にしているのが「妙法蓮華経ミョウホウレンゲキョウ」、つまり「法華経」です。

また護良と法華経といえば、このようなエピソードがあります。後醍醐天皇が幕府に歯向かい隠岐島オキノシマに流されました。元弘3(1333)年供養を護良は日蓮宗の日像上人に命じて父の帰還供養をするように令旨リョウジ(※1)を出しました。日蓮宗といえば法華経。

日像上人とは、日蓮宗の開祖・日蓮上人のお弟子さんです。日像上人は、法華経以外の教えを邪道と考えていた節があったようで、京都での布教活動をしていましたが、比叡山や他宗教の圧力もあって迫害を受けていたのですね。それにもめげずに日像上人は妙顕寺ミョウケンジというお寺を開創したのですね。

翌年の建武元年(1334)後醍醐天皇が京都に戻ってくると妙顕寺を勅願寺チョクガンジ(※2)とするという後醍醐天皇の綸旨リンジ(※3)を得ました。つまり、日像上人の活動も天皇のお墨付きをもらったということです。これには日像上人の歓びもひとしおでしょう。

話を護良に戻して、護良は土牢の中に入れられてしまいますが、そこで読んでいたのが法華経だそうです。今まで戦、戦で護良は心が休まる日がなかったと思われます。牢に入れらてたのはかわいそうな気もしますが、一方で時間ができたともいえます。もしかしたら、護良は法華経を読みながら、戦争で亡くなった人たちのことを思っていたのかもしれないと僕は思います。

不幸にも護良は殺されてしまいますが、護良には子供が何人かいましたが、そのうちの二人が仏門に入られたのです。すごいですね。護良も本来は仏教に縁がある方なんですね。平和な時代に生まれていたら、坊さんになって人々を救っていたかもしれませんね。

一人が日叡ニチエイ上人。鎌倉にある妙法寺というお寺を建てた人です。元々妙法寺があった場所に日蓮上人が草庵ソウアンを結んでおりました。日叡上人は日蓮上人をしのび、かつ父・護良親王の菩提ボダイトムラうためにこの地に堂等伽藍を建て、自身の幼名である楞厳丸(りょうごんまる)にちなみ楞厳山妙法寺リョウゴンザンミョウホウジと名付けたのです。妙法寺は苔寺コケデラとしても有名で、護良のお墓もあります。

もう一人が、華蔵姫ケゾウヒメ。護良の娘です。護良が鎌倉に幽閉されていることを知り、京にいることを不安に思った姫は、父親に会いたい一心で鎌倉に下りました。護良の捕まっている牢の中には護良はおらず、しかも、父が殺害されたことを知ったのです。護良の娘が鎌倉に来たというので、鎌倉にいては足利の人間に捕まってしまうというので姫はさらにに東に逃れ、今の千葉県東金市トウガネシ)に身を隠したといます。姫が来てからは、ここを姫島と呼ぶようになりました。

華蔵姫は、さらに安全な地を選んで、姫島の近くの要害の地に館を築き、従者の武士が周辺を警護したました。その地を家の子といい、その館は家の子御所とか呼ばれましたが、姫が出家してからは尼御所と通称したそうです。姫は出家して父の菩提を弔ったそうです。姫が法華経に帰依してたかどうかはわかりません。ただ、その地に妙宣寺という華蔵姫にゆかりのあるお寺があります。元々は曹洞宗だったそうですが、今は日蓮宗のお寺だそうです。

法華経といえば神奈川県の津久井というところに護良をまつった塚があります。千部塚といい、応安4年(1371)に親王の33回忌に法華経千部を納めて建てられたと言います。護良は法華経に縁のある方なんだなと思いました。





※1 皇后や皇太后、皇太子などが命令、意思を伝えるために発した文書
※2 天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のこと
※3 蔵人所クロウドドコロが天皇の意を受けて発給する命令分。ちなみに蔵人所とは天皇の秘書的な役割をする機関
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護良親王はかわいそうに首を切られてしまい、しかもその首は野に捨てられてしまいました。そのことを不憫フビンに思ったのが、護良親王の側室の雛鶴姫ヒナヅルヒメです。雛鶴姫といえば、小説「キミノ名ヲ」(漫画化もされた)で知ったという方もいらっしゃるのではないかと。雛鶴姫は、護良の首を拾い、従者とともに、今の神奈川県の戸塚にある王子神社に足を運び、そこの井戸で護良の首を洗い清めたと言います。その井戸は首洗い井戸と言われております。鶴姫一行は京へ向かおうとしたのですが、足利の追手から逃れるために山道を通ったのです。

雛鶴一行は険しい道を歩き続け甲斐カイ (今の山梨県)の国の秋山というところまで辿タドり着きました。しかし、雛鶴姫のお腹の中には赤ちゃんがいたのですね。しかも時期も悪く、12月の終わり。年の暮れ。とっても寒い時期です。こんな時期に妊娠中の女の人が寒いところを歩き回るのは危険極まりない。

雛鶴姫の従者は村の人たちに「一晩泊めてくれ。女が一人お産なのだ」と頼み込みますが、村の人たちは皆断るのです。なぜかって?村人たちは一行が身なりとか、立ち振る舞いからして、護良親王の関係者だってことがわかったし、もし自分たちがカクマえば、足利のものからとんでもないおトガめがあると思ったから。ひどい話だと思いますが、悲しい話、人間いざとなったら自分が可愛いもの。僕だって村人と同じ立場だったら、同じように断っていたかもしれない。

そうこうしているうちに雛鶴姫は産気付いてしまうのです。従者たちは木の枝や木の葉を集めて、そこに雛鶴姫を寝かせたのです。そして雛鶴姫は子供を産みました。しかし雛鶴姫はその子供を産んで息を引きとったのです。冬の寒さと飢えが原因です。かわいそうに・・・

従者たちは深く悲しみました。村人たちが親切に泊めてあげれば、雛鶴姫は死なずに済んだかもしれない。また姫が亡くなる時に「無情だ」と言ったとか。そんなことから、この村は無情(情がない)だから、無生野ムショウノと呼ばれるようになったとか。

雛鶴の亡骸ナキガラは従者たちによって、亡くなった場所で手厚く葬られたと言います。

また、せっかく雛鶴姫が命をかけて産んだ子も幼くして亡くなってしまおうのです。

そうして護良の首は、富士吉田の富士山下宮小室浅間神社フジサンシモミヤオムロセンゲンジンジャに塚がつくられ、その塚に護良の首がめられているとか。

一方で、山梨県都留市ツルシ石船神社イシフネジンジャにも護良の首がマツられていると言います。この首は頭蓋骨ズガイコツには金箔キンパクられ、目には水晶スイショウがはめこめられていると言います。ちなみにこの首は普段はお目にかかることができず、年に一回しか公開されないそうです。

さらに、護良の首は、この記事の初めの方でも触れた神奈川県戸塚にある王子神社にもあると言います。

どれが本当なのでしょうね。まさか護良は首が三つあったw?だとしたら化け物ですよね。そんなことありませんからwこの3つの神社のうち、一つは本物の首が祀られ、後は護良の霊を慰めるために祀られているのでしょう。あくまで僕が感じたことなのですが、富士吉田の小室浅間神社の塚から何か神々しいものを感じたのですね。ここに護良の首があるかどうかはわかりませんが、護良の思いみたいなものはすごく感じられました。


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(富士吉田の小室浅間神社)


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(説明板 写真をクリックすると拡大します)

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(護良の首があるという桂の木)

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(同じく桂の木)

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(石神神社)
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石神神社の説明板


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(雛鶴神社。雛鶴神社と呼ばれる神社はどうも二社あるみたいで、ここはその一社)

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(雛鶴神社の説明板 写真をクリックすると拡大します)




キミノ名ヲ。(魔法のiらんど文庫版)1-4巻セット
梅谷百
アスキー・メディアワークス
2013T




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1 武家よりも君の恨めしくわたらせ給ふ
護良親王モリヨシシンノウは鎌倉に送られた際、「武家よりも君のうらめしくわたらせ給ふ」と、ひとり言を言ったそうです。意味は足利尊氏アシカガタカウジより天皇のほうがうらめしいという意味です。護良は父親のためだと思って、一生懸命頑張ってきたつもりだったのです。後醍醐天皇ゴダイゴテンノウに帝位を狙っていると誤解されましたが、護良自身は自分が天皇になれないことをよくわかっていたのです。護良からしたら、父親である後醍醐に裏切られた気分で、さぞ悲しい思いをしたと思います。護良が鎌倉に送られ土牢の中に入れられてしまいました。

護良は「Zガンダム」に出てくるカミーユ(ただし序盤)やカツのようなスタンドプレーをしたけれど、それも自分の名声ではなく、親である後醍醐のためにやってきたこと。本当は護良も父に愛されたかった、それなのに、誤解されてしまったら護良もやるせ無いと思います。

ちなみに、護良は土牢ツチロウに入れられたと言いますが、土牢というより土蔵のような建物の中で軟禁されていたのではないかという説もあるようです。

2 護良死去
護良が鎌倉に送られてから8ヶ月、護美にとって危機が訪れます。建武ケンム2年7月、北条高時ホウジョウタカトキの子、北条時行ホウジョウトキユキが信濃国で反乱を起こしたのです。鎌倉幕府の再興、おやじのカタキを取ろうと立ち上がったのでしょう。いわゆる中世代チュウセダイの乱です。時行軍は関東地方に侵入し、足利直義が派遣した軍勢を次々と撃破。直義はこいつは敵わんと鎌倉を放棄ホウキ、逃げたのです。すると、鎌倉にいる護良はどうなるのか


足利直義は家来の淵辺義博フチノベヨシヒロに命じて護良の暗殺を命じたのです。護良は雛鶴姫ヒナヅルヒメのお世話になりながら、法華経の経典を読んでいました。そんな二人に忍び寄る淵辺。そして淵辺は刀でりかかろうとします。護良も抵抗しますが、護良は武術の達人とはいえ、何ヶ月も監禁されていましたから、体が思うように動きません。それでも護良は抵抗し、なんとで淵辺の刀をくわえ、しかも刀を折ったと言います。これが本当に真剣白歯取りw冗談はこれくらいにしておきましょう。

そして、護良は必死に抵抗したものの、結局淵辺に殺され、首もちょん切られてしまいます。淵辺は護良を撃った証拠に首を拾ったら、その護良の首をみて、淵辺はびっくりしたのです。なんとその首ははっきり目を見開いていて、世にも恐ろしい形相をしていたのです。さすがの淵辺も驚いて、その首を捨ててしまったのです。なお、淵辺義博は実はいい人で、護良を逃し、護良は東北へ落ち延びたという伝説もあります。

3 護良がそんなに悪いのか?
護良の死を報を受けて、後醍醐は大変ショックを受けました。そりゃいくら護良と後醍醐が対立してたとはいえ、実の息子が殺されて平気な親なんていませんからね。護良暗殺が、のちに後醍醐が足利と対立する遠因となります。

後醍醐は生前は護良を親のいうことを聞かぬ困ったやつと思っていたが、亡くなってから、実は護良が親のために一生懸命やっていたこと、護良が父の愛を求めていたことにやっと気づいたのでは。

また、親に反抗という面では、後醍醐もあんまり護良のことを非難できないのですね。実は後醍醐も父親に反発していたのです。後醍醐天皇の父親は後宇多天皇ゴウダテンノウと言いますが、後醍醐天皇は本来天皇になれる人ではなかったのです。

後醍醐の話をするにあたって、この時代の複雑な事情をお話しします。持明院統ジミョウイントウ(※1)と大覚寺統ダイカクジトウ(※2)と皇室が二つに割れていて、皇位を巡って両者が対立していたのです。持明院統も大覚寺統も元々は兄弟だったのですが、兄弟で天皇の座を争っていたのです。それで両統迭立リョウトウテツリツ(※3)といい、持明院統と大覚寺統の両統が変わりばんこで即位していたのです。大覚寺統の天皇が即位したら、次は持明院統の天皇。その天皇が退位したら今度は大覚寺統という具合に。

後醍醐には後二条天皇(大覚寺統)という兄がいました。後二条天皇の後任が、持明院統の花園天皇が即位し、その花園天皇(持)の後任に後宇多天皇(大)は自分の孫の邦良親王クニヨシシンノウ(後二条天皇の子で大覚寺統)に帝位を継がせたかったのです。しかし、邦良親王(大)が8歳と幼かったので、中継ぎとして後醍醐天皇(大)が即位し、邦良親王(大)が成長したら、邦良親王(大)に天皇の座を譲らなければならないのです。

野球に例えれば後醍醐は監督代行みたいなもの。監督が成績不振でシーズン途中で休養し、それでヘッドコーチ等がシーズン終了まで監督の代わりを務め、次の監督にバトンタッチするのが監督代行。オリックスの中嶋聡監督みたいに監督代行からそのまま正規の監督になるケースもありますが、基本的に監督代行はシーズンが終わったら退団します。

中継ぎも大事な役割だと思うのですが、後醍醐はそれに納得できませんでした。後醍醐天皇は父である後宇多上皇の「皇位は後二条天皇の子孫に継承させて、後醍醐天皇の子孫には相続させない」との考えに反発したのです。つまり、父の言うことを聞いていたら、自分の子供を天皇にすることもできないし、せっかく自分が手に入れた天皇の地位もやがてはオイの邦良親王に譲らなくてはならないのですから。だからこそ後醍醐は父の後宇多天皇の言いつけに背いたのです。

また、「あれ、こんなに天皇がすぐにコロコロ変わるものなの?天皇は生きていいるうちはずっと天皇の位にあるんじゃないの」と思うのは現代人の感覚。即位から亡くなるまで天皇の位につくというのは明治以降。今の上皇様のように生前退位したのは明治以降では実は初めて。しかし、この時代は10年で天皇の位を降りる、つまり生前退位したのですね。


さて、護良親王の首はどうなったか?それはまた次回に。

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(クリックすると拡大します)


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※1 後深草天皇から発した皇統。大覚寺統と皇位を争うが、建武の新政により一時衰退。のちの北朝
※2 亀山天皇から発した皇統。鎌倉末期、持明院統と皇位を争って両統迭立となる。のちの南朝。
※3 持明院統と大覚寺統の両統が交代で皇位につくこと。後嵯峨天皇の譲位後、皇室が分立したため、幕府が解決策として提示した原則。天皇の在位期間は10年。



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(Wikipediaより)


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1 征夷大将軍をやめさせられる
護良は征夷大将軍の他に兵部卿ヒョウブキョウもかねました。また和泉国(大阪の和泉市あたり)や紀伊国(和歌山県あたり)の知行国主チギョウコクシュ(※1)となりました。いづれにしても京の都から近い国です。そこまではよかったのですが、だんだん護良は尊氏だけでなく、父の後醍醐とも確執が生じるのです。

護良は鎌倉幕府滅亡後も令旨レイシを出しました。令旨の内容は所領の充行アテオコナイ(※2)や安堵アンド (※3)、寄進(※4)がメインでした。護良も征夷大将軍になれたので張り切っていたのでしょう。しかし、護良のとは別に後醍醐天皇も土地関係のことで宣旨センジ(※4)を出していたのです。

護良が出した綸旨と後醍醐天皇が出した宣旨の競合が問題になったのです。護良と後醍醐の内容の食い違っていたのです。例えば、護良の令旨に名無しの権兵衛さんという武将に大阪のAという土地をあげるよと書いてあったとします。で、後醍醐が出した宣旨の内容だと、名無しの権兵衛さんが与えられた土地は大阪のAではなく兵庫のBという土地をあげるなんてこともあったのです。名無しの権兵衛さんからすればどっちが本当なのかわかりませんね

だから、後醍醐は護良の出した令旨は無効だと言い出したのですね。そして、護良はたった3ヶ月で征夷大将軍を辞めさせられてしまうのですね。後醍醐からしたら、護良のやったことは、混乱を招くだけでありがた迷惑な話だと思っていたのですね。もちろん征夷大将軍を辞めさせられても兵部卿の地位は残っていたし、知行国主も続けたのですが、それでも護良の勢いは急速に衰えたのです。

2 尊氏暗殺計画
一方で護良のライバルの尊氏は武蔵国や伊豆、駿河、常陸ヒタチ下総シモウサを、弟の直義も遠江の国を知行国として与えられたのです。さらに尊氏は雑訴決断所(※5)に尊氏の重臣を送り込んだり、鎌倉将軍府(※6)の執権として弟の足利直義を任命しました。鎌倉将軍府は後醍醐天皇の皇子成良親王ナリヨシシンノウがリーダーでしたが、まだ幼かったので直義が補佐、というか直義が実権を握ったのですね。これほど足利兄弟が優遇されていたのですね。後醍醐が尊氏をここまで優遇するのは、尊氏を気に入っていたからか、それとも後醍醐は尊氏を警戒してなんとかご機嫌をとるために優遇したのか、理由はわかりません。ただ、尊氏のこうした優遇ぶりに護良は不満をいだきます。護良の嫉妬もあるけれど、護良から見て尊氏は危険な存在に映ったのです。尊氏は世の平和を乱す悪い奴だと。そんな危険な奴をなぜ父は優遇するのだというアセりがあったのかもしれない。


護良はついに実力行使に出たのです。なんと、護良は尊氏暗殺計画をクワダてたのです。護良の軍勢が尊氏の館を秋雨撃するウワサまで立ったのです。そこで尊氏は外出の時は、大勢の軍勢をお供にしていたし、館にも兵をおいて防御を固めていたのです。

また「太平記」には密かに諸国へ尊氏討伐タカウジトウバツを呼びかける令旨を発給していたとも。こうした尊氏暗殺計画は護良の単独行為とも、黒幕は後醍醐とも言われております。僕はおそらく単独行動だと思います。後醍醐としては尊氏は脅威だから、本当は死んでくれた方がありがたいかもしれないが、かといって足利を倒す力もまだないのに、尊氏をいま殺したら大変です。それに尊氏は、地位などのエサを与えれば勝手なことはしないというのが後醍醐の頭にありました。

3 護良逮捕
さらに、そんな護良に大ピンチがおきます。護良がやとっていた私兵がチンピラみたいな連中で、夜な夜な京の街を徘徊ハイカイしては、少年と少女たちを何人も殺害したのです。れはひどいですね。直接手を下していない、部下がやったとはいえ監督責任は護良にあります。少年と少女の親御さんたちの悲しみは深いものでしょう。

度重なる護良のスタンドプレーに後醍醐も流石の我慢の限界。後醍醐も今まで我が子だと思って大目に見てきたが、後醍醐は護良を護良を捕らえようとします。

後醍醐は天皇新政を施行し、摂関政治、院政、幕府政治を否定し、天皇が自ら政治に関わる、天皇独裁、悪くいえば、北朝鮮のような天皇中心の国家体制を作りたかったのです。その構想に、スタンドプレーが目立つ護良の存在は尊氏より厄介だったのです。尊氏は地位さえ与えれば変なことをしないというのが後醍醐の頭にあったのでしょう。

ちなみに『太平記』では後醍醐天皇の愛人の阿野廉子アノレンシ
が自分の子供を天皇にしたくてジャマ者の護良をなき者にすべく阿野廉子は後醍醐に護良の悪いウワサを吹き込んだという話が出て来ます。護良は味方も多かったようですが、敵も少なくなかった。しかもその敵というのが最大権力者である後醍醐のお気に入り。

いくら護良が優秀でも、後ろ盾を失えばただの人。実力者に可愛がられるか、逆らって敵に回るか。

護良を見ていると一昔前の長嶋茂雄監督を僕は思い出します。長嶋監督は巨人の監督を二期監督(一期目は1975から1980年まで。二期目は1993年から2001年まで)を務めましたが、一期目は不本意な形で退団したのですね。これは成績が悪かったというより、当時の巨人のお偉いさん、大物OBに疎まれたことが大きかったとか。


建武元年10月22日、清涼殿セイリョウデンで行われた詩会に護良は参加しました。その護良は後醍醐近臣の結城親光ユウキチカミツ名和長年ナワナガトシに逮捕され、武者所に拘禁されたのです。そして、最終的に護良は鎌倉の直義の所へ護送されたのです。護良はスタンドプレーばかりする上に、家来の仕業とはいえ子供まで殺しました。


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※1 古代、中世の日本において特定の国の知行権を得た皇族、有力貴族、寺社など。
※2 平安時代以後,不動産や動産の給与,譲与,処分,委託行為を指して使用された語。
※3 社寺等に物品や金銭を寄付すること。
※4 昔、天皇のお言葉を下に伝えること。それを書いた文書。それを伝える役目の人。
※5 建武の新政の主要政務機関。もっぱら所領問題などの提訴を採決した。
※6 建武政府が関東10カ国を統治するために鎌倉に作った機関。後醍醐の子、成良親王を将軍とし、足利直義に補佐をさせた。



※ 参考文献



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この頃、護良は幕府が滅亡したにも関わらず、大和国信貴山シギサンに籠城し、戦いの準備をしておりました。そのことに驚いたのが後醍醐天皇。後醍醐は護良のところへ死者じゃなかったw使者を送りました。「護良よ、幕府は滅んだし、戦も終わった。そのようなことはやめて、昔のように比叡山に戻り、み仏に使える坊さんらしい生活をしなさい」と。

それに対して護良はこう返したといいます。

「今、世の中に平和が訪れたのは、天皇の御威光のおかげですが、私の長年の苦労によるものもあるでしょう。しかるに、尊氏は少しばかりの合戦に勝ち、京都を攻め落としたに過ぎません。それなのに、誰よりも恩賞をいただきました。まして尊氏は源氏の嫡流チャクリュウ。このままでは尊氏は幕府を起こし、朝廷に刃向かうことでしょう。今のうちに尊氏を叩いた方が良いと思いまして、私は兵の訓練をしているのです」と後醍醐に言い返したのです。まさに、親への反抗。聞かん坊の護良の返事に後醍醐は困ってしまいます。実はこれが護良の悲劇の始まり。素直に坊さんになればよかったものの。もし、タイムマシーンがあったら、僕は護良に「お父さんの言うことを聞かないと後でとんでもないことになるよ、後悔しても知らないよ」ってアドバイスしたいところ

一方で、尊氏が後醍醐天皇と対立し、南北朝の戦いが始まるのは歴史が証明する通り。そういう意味では護良は先見の目があったともいえます。

そして、護良は自分を征夷大将軍セイイダイショウグン にしろと後醍醐に要求。後醍醐は、なんと、これに応じました。征夷大将軍というのは武官の最高位で、全国の武士を動かしうるほどの権威がある役職です。しかも、護良は、後醍醐から正式に征夷大将軍に任命される前から、無断で将軍を自称していたのです。後醍醐は護良の要求を飲んだというより、護良の言い分を追認したと言った方が近いのです。なんというスタンドプレー。これが「ガンダム」だったら、ブライトさんやウォンさんに修正されても文句が言えません。

機動戦士Zガンダム SPECIAL
鮎川麻弥
キングレコード
1999-03-05



本来は武士の出身じゃないと征夷大将軍になれないのはずなのですが、実は鎌倉幕府では皇室の出身者が4代にわたって征夷大将軍になっているのです。宗尊親王ムネタカシンノウ惟康親王 コレヤスシンノウ久明親王ヒサアキラシンノウ守邦親王モリクニシンノウと。「鎌倉幕府だって皇室出身者が征夷大将軍になれたのだから、私だってなれるはずだ」というのが護良の言い分。しかし、護良が征夷大将軍になったことに反感を持つ人も少なくなかったのです。尊氏も本来は自分がなれると思っていただけにショックも大きかったでしょう。

後醍醐が尊氏に護良に征夷大将軍にしたのはなぜでしょうそうでもしないと、護良がおさまらないというのもありますが、尊氏に征夷大将軍まで任命してしまうと幕府を開いてしまうことを後醍醐が警戒したのも理由の一つなのではないかって僕は考えております。後醍醐が尊氏を優遇したというけれど、全面的に尊氏を信頼したわけじゃないのですね。尊氏は強力な軍事基盤を持っている上に征夷大将軍なんて任命すれば、尊氏が幕府を開く危険性も高い。もちろん、後醍醐が尊氏を信頼していた可能性もありますが、いづれにせよ後醍醐新政にとって尊氏を敵に回しちゃいけない存在であるのは確かです。その護良は尊氏と戦おうとしているのです。「困ったやつだ」と後醍醐は思ったのかしれません。

一方、護良が征夷大将軍を望んだのはなぜでしょう?それは分かりません。ただ、これは僕の憶測でしかないのですが、護良は自分は天皇の息子でありながら、皇太子になれず、父のために必死に戦ったのに、父は足利尊氏ばかり重んじる。自分は血みどろの戦闘に身を投じ、本来なら自分が最大の殊勲者シュクンシャであったはず。それなのに自分は何一つ役職についていない。焦りみたいなものもあったのでしょうし、尊氏に負けたくないという感情もあったのかも。また護良というか、朝廷は、独自の軍事力を持っておらず、いたとしても僧兵か、野武士、ごろつきみたいな人間ばかり。これではいざというときに守れません。だからこそ、護良は自分が征夷大将軍になって、全国の武士を自分の管轄下に置きたかったのでしょう。

護良は元弘3年6月、征夷大将軍に任命され意気揚々。護良は軍を引き連れ我が物顔で京の街を歩いたと言います。その護良一行の有様に人々は驚いたと言います。まずか家臣たちが三千人あまりが行進し、その中をさっそうと護良が美しい見事なヨロイを身にまとい立派な馬に乗って歩いているのです。 華やかな行列だったそうですが、一方で物々しく物騒な気配も満ちていました。人々は護美の行進に驚くと同時に「また、戦争になるんじゃないか?」って不安になってきたのです。

存在感をかき消された護良が、ここぞとばかりに力を盛り返し、武威を誇示して足利へ威圧を加えていたのですねこの時護良は「見たか、尊氏、私はお前がなりたかった征夷大将軍になれたぞ」って思っていたのかも。護良にとっては幸せの絶頂。




しかし、護良は幸せの絶頂の後に恐るべき転落人生が待っていました。それは次回にまた。




* 参考文献






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