history日誌

カテゴリ:日本の歴史 鎌倉〜安土桃山時代 > 鎌倉・室町時代


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(前回の記事)

前回の記事で、福島県奥会津にある沼沢湖にすむ大蛇が現れ村の人を困らせたという話をしました。が、本当にそんなバケモノみたいな蛇がいたとは考えにくいです。沼沢湖の大蛇が恐竜の生き残りの可能性もゼロではありませんが、なんか違うような気がする。

沼沢湖にすむ大蛇のモデルは、川の氾濫はんらんだと思います。かのヤマタノオロチのモデルは川の氾濫じゃないかといわれているほどですから。え?ヤマタノオロチをしらない?蛇の首が8つもあるでっかいバケモノです。首が8つなら又が7つじゃなきゃおかしいじゃないか、ヤマタではなくナナマタノオロチの間違いじゃないかって僕は思うのですがw山田のおろちじゃなかったwヤマタノオロチの話はこの辺にしておきましょうw




奥会津には只見川ただみがわという川が流れており、たびたび氾濫があったので、村人たちはこまったことでしょう。それを佐原義連(さわら よしつら)が中心になって灌漑かんがい工事でもやったのかもしれない。

地元の人たちは沼沢湖に住む大蛇が川のちかくまで下りてきて(沼沢湖は山の上にあるカルデラ湖です)、その大蛇が暴れると川が氾濫すると考えたのかもしれません。沼沢湖は本当に静かで神秘的な湖で、いかにも何かが住んでいるような感じがします。現に沼沢湖畔のキャンプ場には妖精美術館といって妖精の絵や人形を展示している美術館があるくらいですから。

閑話休題、下の写真をご覧ください

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ちょっと見づらいのですが写真の右はじに鉄橋が壊れている様子がわかります。これは震災によるものではありません。川の氾濫により鉄橋が流されてしまったのです。いくら只見川が氾濫したとはいえ、こんな高いところまで水がくるはずはありません。

平成23年(2011年)7月におきた新潟・福島豪雨による洪水による被害で、一説にはダムの放水によって水かさがまして、鉄橋まで押し流すほどの洪水になってしまったとか。そうだとしたら人災でもありますね。

調べによりますと、この只見川流域は日本でも指折りの豪雪地帯であるため水量が豊かであり、このため只見川は非常なエネルギーを隠し持っているいわれております。

只見川はたびたび氾濫を起こしましたが、太平洋戦争後1951年(昭和26年)に国土総合開発法に基づく只見特定地域総合開発計画の対象地域に指定された後は電源開発がすすみ、水力発電によりこのエネルギーを有効に活用できるようになりました。

それから只見ダム、田子倉ダムや奥只見ダム、大鳥ダムなどたくさんダムが作られていたのですね。だから地元の人たちの中には「ダムができる前は(あれほど大きな)洪水はなかった」という人もいるのです。

新潟・福島豪雨は奇しくも東日本大震災の年に起きたために、大きな被害が出たにもかかわらず、あまり注目されなかったのですね。心の中ではダムさえなければと思っていても、困ったことに、これらのダム(を運営している電力会社)が税金を払うなど地元にお金を落としているのです。電力会社に出てけといいたくても追い出せないのが現状なのですね・・・

その点は福島の原発とも通じるものがあります。


※ おまけ
只見川の横を走る只見線の動画をどうぞ。只見線の車窓は美しいと評判で人気があります。僕が訪れた時も鉄オタ?らしき若い人たち数人がカメラをぶらさげ、パチパチと車窓や只見線の車両をカメラで映しておりました。しかし、この只見線も新潟・福島豪雨の被害にあい、一部区間がいまも復旧がされていないそうです。







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(只見線の車両)

福島県に「伊達市」という地名があるのをご存知でしょうか。実はこの地こそ仙台の伊達氏の発祥の地なのです。僕は伊達氏には訪れたことがありませんが、福島の観光案内で伊達市に伊達家ゆかりのお寺があり、伊達政宗のコスプレをした人やゆるキャラのまめっち(後で動画でご紹介します)もおもてなしをしてくれるそうです。

伊達家というと仙台のイメージがあったのですが、もともとは福島出身なのですね。ちなみにサンドイッチマンの伊達みきおさんは宮城県ご出身で、伊達家の末裔だそうです。

さて、伊達家といえば独眼竜政宗こと伊達政宗が有名ですが、実は歴史上もうひとりの「伊達政宗」がいることをご存知な方はいらっしゃるでしょうか?というか、僕も本を読むまで知りませんでしたwwww


もう一人の伊達政宗が生きていたのは室町時代前期(1353年〜1405年)です。実は戦国時代の伊達政宗の名前も、この室町時代の伊達政宗にあやかってつけられた名前なのです。それくらい室町の伊達政宗も大人物だったということでしょう。何をしたかというと、室町の伊達政宗も東国を管轄した鎌倉府に反旗を翻したといいます。

きっかけは1391年のことでした。当時の東北は室町幕府の奥州管領が統治していました。しかし、室町時代の初期の内乱の影響が東北にも及び、奥州管領の統治機構は機能不全におちいりました。困った室町幕府は、関東をおさめる鎌倉府に東北の管理をさせようとしました。しかし、その鎌倉府は東北に代官を派遣しては、強引に土地調査を行ったり、徴税も行ったりしたため、地元住民の強い反発を招いてしまったのです。

当時の鎌倉公方(鎌倉府のトップ)だった足利満兼(あしかがみつかね)は1399年、反乱に対処するため弟の満直(みつなお)、満貞(みつさだ)を奥羽に派遣。だが、これが新たな火種になりました。満直と満貞のふたりは南東北の実力者伊達政宗に領土の献上を強要しました。それに政宗は反発。翌年の1340年3月、地元の豪族たちと手を結んで鎌倉府に反逆。500騎あまりの軍勢を率いて福島の白河まで攻め上ったといいます。

しかし、鎌倉方の結城満朝(ゆうきみつとも)の奮戦もあり、伊達家の反乱も鎮圧されてしまいます。が、鎌倉府と伊達家の緊張はさらに続きました。

1402年、ふたたび反乱を起こした政宗に対し、足利満兼は上杉氏率いる7000騎の討伐軍を奥羽に派遣しました。政宗本拠地である赤館を包囲しました。赤館は圧倒的な兵力をほこる上杉軍に負けてしまいます。が、政宗はそれでも見事な奮戦をし、敵である上杉軍に多大な損害を与えたといいます。

鎌倉府は伊達家には勝ちましたが、幕府とつながりの深い伊達氏を討伐することはできませんでした。実は政宗の妻と時の将軍足利義満の母親は姉妹で、政宗は乱が始まる前に、京都におとずれ義満と交流をしていたといいます。義満と政宗は親密な関係だったのです。むしろ義満は同じ足利氏がおさめる鎌倉府と仲が悪かったのです。だから、義満は政宗に反乱をしむけ、鎌倉府と戦わせたという説もうまれるほど。

それはともかく、この戦いで政宗は男をあげ、伊達家中興の祖とまでいわれるようになりました。なお、政宗は武勇だけでなく文化人としてもすぐれておりました。このような和歌も残しております。

山間の霧はさながら海に似て波かと聞けば松風の音」

※ おまけ



(伊達市の観光動画です。ゆるキャラのまめっちも登場します)



※ 参考文献


1 源三窟
那須の塩原なすのしおばらに「源三窟げんさんくつ」というのがあるのをご存知でしょうか?

以前に、塩原におとずれた時、「なんだろうな?」って思って立ち寄ったのです。なんでも源氏の落人おちうどが、源頼朝(みなもとのよりとも)の追っ手からのがれて、この洞窟どうくつに立てこもったというのです。

「へえ、平家だけでなく源氏にも落人おちうどがいたのか」って変なところで感心してしまいました。

洞窟の入り口には、係りのおじさんがいて、大きな相関図(源氏の相関関係が書かれている)の前で、「源三窟」のゆかりを説明をしていました。

2 源三窟の由来
 なんでも、源義経(みなもとのよしつね)の身内であり側近でもある源有綱(みなもとのありつな)という人物がいて、壇ノ浦だんのうらの戦い以降、やはり頼朝から命をねらわれいたそうです。それで、この洞窟どうくつににげ込み、義経と合流するチャンスをうかがっていたようです。

しかし、有綱の家臣の一人が洞窟の中にあるたきの水でお米をといでいたところ、とぎ汁じるが滝から川へ流れてしまったようです。

悪い事に、川に流れたとぎ汁が頼朝の家臣に見つかってしまったのです。「この川の川上に義経の残党がいるぞ!」といって、頼朝の家臣はとぎ汁が流れたところをたどっていたところ、有綱の立てこもるこの洞窟にたどり着いたのです。

頼朝の家臣に見つかった有綱は「もはやこれまで」と、あわれな最期をつげたそうです。

そんな話をわかりやすく係りのおじさんはしていました。

他にも「源三窟」の説明のみならず、源義経はプレイボーイだとかw、この洞窟の資料館にあるヨロイをカメラでると心霊写真しんれいしゃしんが映る事もあるとか、おもしろくもためになる話をおじさんはしていました。


3 源三窟に入ってみる

 入場料をはらって洞窟どうくつの中に入ったのですが、の天井も低いです。僕も頭をぶつけました。なにせ僕は身長180センチの高身長ですからwウソ、ジョークw私は170センチあるかないかの身長でつ。

それはともかくこんなところに長くいたら息がつまります。

この洞窟のあちこちに人形があって、この洞窟のなかで源氏の一味が洞窟の中で立てこもっている様子が再現されています。わずかな食料だけで、暗い洞窟の中を何日も過ごすのですから大変だなあって、思いました。

この洞窟の中で、源有綱は自分たちのことよりも義経のことを考えていたとうのだから、泣けてきます。

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(源三窟の入り口)


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(滝でお米を研いでいる様子)

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(洞窟の中の暮らし)


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(源有綱の人形。二体ありますが、どっちが源有綱の人形だか忘れましたwごめんちゃいw

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(源有綱の墓)

※ 参考資料


係りのおじさんの話と源三窟の駐車場のところにあった説明板を参考にしました。


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(この記事はウィキペディアを参考にして書きました)

富士山が世界遺産に登録されましたね。

今日は、富士山に、ほんのちょっとだけ関係のあるお話です。

日本三代あだちの一つ、曽我兄弟そがきょうだいのあだ討ちについて。

曽我兄弟のあだ討ちは、鎌倉時代の始まりころに起こりました。曽我祐成(そが すけなり)曽我時致(そが ときむね)の兄弟が父親のカタキである工藤祐経(くどうすけつね)を討った事件です。


曽我兄弟の父親の名前は、河津祐泰(かわづのすけやす)。彼は領地をめぐる争いで、工藤祐経に暗殺されてしまいます。

領地をめぐる争いとは、一言で言えば身内同士の土地をめぐるです。今の時代でも、身内同士の財産争いってありますね。

それで父のカタキと立ち上がったのが、曽我兄弟なのです。

曽我兄弟が工藤祐経を暗殺したのは、源頼朝(みなもとのよりとも)が行った富士の巻狩り(ふじのまきがり)のときです。

ちなみに富士の巻狩りとは、建久4年(1193年)5月に源頼朝が多くの御家人ごけにんを集め、富士山の裾野すそのあたりを中心として行った壮大そうだい巻狩まきがりのことです。

工藤祐経を暗殺する際、兄弟が密談をした場所が、こちらのかくれ岩

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(隠れ岩)

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(隠れ岩の説明板)

さらに、この隠れ岩のすぐ近くに音止の滝おとどめのたきというたきがあります。この滝の音がうるさくて話ができなかったそうです。そこで、二人が神にいのったところ、なんと、滝の音が止んだのです。それ以降、こちらの滝は音止の滝とよばれるようになりました。

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(音止の滝 その1)

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(音止の滝 その2)

そして、工藤祐経のお墓も、隠れ岩のすぐ近くにあります。

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(工藤祐経の墓)

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(説明文)


※ オマケ
今日は、音止の滝の動画をご紹介します。ゴーゴーと音を立てています。音止の滝は、有名な白糸の滝しらいとのたきのすぐ近くにあります。


(音止の滝)


白糸の滝の話が出てきたので、ついでに白糸の滝の動画をご紹介します。白糸の滝といっても、水の代わりに白糸がおちてくるわけではありませんw白糸の滝は、音止の滝と比べると穏やかに水が落ちてきます。


(白糸の滝)


ブログネタ
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1 湯西川の伝説





栃木県とちぎけん湯西川温泉ゆにしがわおんせんは、平家の落人伝説おちうどでんせつが伝わっています。平家の落人おちうど達は、ここで源氏のの手におびえながら、ひっそりと暮らしていたそうです。僕もこの間、湯西川温泉に日帰りでおとずれたのですが、高速から降りて、湯西川に向かうとちゅう、山道を何分も車で走りました。「こんな深い山里に平家はげてきたんだなって思いました。


2 こいのぼりはダメよ???

 源氏に見つからないように、平家の落人達はいくつかのルールを定めました。

1 ニワトリは飼わない(コケコッコーとうるさいから)
2 端午の節句たんごのせっくこいのぼりをあげない(目立つから)
3 たき火もしない (けむりがでるから)


など

コイノボリをあげないのは理由があります。

なんでも、平清盛(たいらのきよもり)の孫、平忠実((たいらのただざね)は家臣と共に、遠い親せきをたより、関東へ下りました。その後に栃木県の川治かわじ(温泉で有名)の鶏頂山(けいちょうざん)にかくれしのんで生活しておりました。しかし、侍女じじょが「大変な時にうれしいことだ」とよろこび、布でこいのぼりを5月の空に上げたところ、源氏の眼にふれ、一族はひどい目にあったそうです。

それで、さらに山奥へ逃げび、行き着いた所が湯西川なのです。それから湯西川の人たちは、端午の節句でもこいのぼりをあげなくなったそうです。

3 源氏と平家の和睦(わぼく)
 しかし、平家と源氏がいつまでもケンカしていたワケじゃありません。平成になって湯西川にて源氏の子孫と、平家の子孫達が和睦わぼくを果たしました。

まずは源平の和睦(わぼく)の象徴しょうちょうである源平和睦鍋げんぺいわぼくなべいうものがあるそうです。これは平成7年につくられたものだそうで、平家と源氏の子孫たちがなべをかこみながら、「過去のことは水に流しましょう」と笑いあったのかもしれません。





(和睦鍋)



かつてはいがみ合ってきた源平が手を取り合うことができてよかったですね。

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