history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

カテゴリ: 旧石器〜古墳

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 (仁徳天皇陵もしくは大山古墳の写真。Wikipediaより)

まず、写真をご覧ください。大阪府南部の堺市、羽曳野市ハビキノシ、藤井寺市にまたがる地域に古墳コフンがいっぱいあります。「百舌鳥・古市古墳群モズ・フルイチコフングンと呼ばれた古墳群です。その中で最も大きな古墳がこの写真です。この古墳の大きさは長さが525メートル、前方部分の幅が347メートルもあり、周囲には二重の堀がめぐらされており、周囲にはいくつもの小さな古墳がたくさんあるのですね。そのスケールの大きさから、この古墳は、エジプトのクフ王のピラミッド、秦の始皇帝の陵墓リョウボと並ぶ、世界三大陵墓ともいわれております。

ところが、そんなに世界的に有名な古墳でありながら、その名称が何度も変わっているのです。1970年代から80年代は、この古墳を仁徳天皇陵ニントクテンノウリョウと言いましたし、僕もそのように教わりました。それが1990年ごろから、「仁徳陵古墳」となり、それが現在では「大仙陵古墳ダイセンリョウコフンないし「大山古墳」というそうです。従いまして現代の教科書でも「大仙陵古墳」ないし「大山古墳」と書かれております。


なぜこのように何度も名前が変わったからというと、埋葬者マイソウシャ仁徳天皇ニントクテンノウかどうかはっきりしないからです。仁徳天皇は4世紀ないし5世紀に即位した第16代天皇で、奈良時代に編纂ヘンサンされた『日本書紀』にも、『古事記』にも、さらには平安時代の様々な制度について記した『延喜式』にも、どこに仁徳天皇が埋葬されたかはっきり書かれていないのです。どの史料にも現代の大阪の百舌鳥もずのどこかに埋葬されたとあるだけです。百舌鳥・古市古墳群のうち、どれかが仁徳天皇の墓であることは間違いないのですが、それがどれかはわからないのです。それで古墳群の中で一番大きな古墳が、仁徳天皇の墓だろうということになっているのですが、もしかしたら、仁徳天皇は意外に小さい古墳に埋葬されているかもしれないのです。

それでこの大きな古墳が仁徳天皇のものかどうかを調査をしたいところですが、大山古墳も宮内庁が管理していて研究者といえども立ち入り禁止。だから、調査もまともにできないのです。調査できるのは宮内庁の関係者だけ。それが2018年、宮内庁が堺市と共同で発掘調査を行ったのです。調査は1ヶ月程度で終了し、調査されたのも堀を囲む堤と言われる部分だけで、誰が埋葬されたのか依然として謎のままです。

しかし、その堤から興味深い発見があったそうです。まず堤の平らな部分に石が敷き詰められておりましたこのような作りの古墳は他にはみられないのです。さらに、その石が敷き詰められた平らな部分に直径35メートルほどの約3万本もの埴輪ハニワが列になっているのも見つかったと言います。このような造りは珍しく、おそらく、この大山古墳はかなりの権力者が眠っていることは間違いないということがわかったのです。また今後、大山古墳の調査も再開し、新たなことも判明するかもしれませんね。

* 参考文献

歴史の教科書で「大和時代」なんて言葉を覚えた方も多いかと思います。僕もそうでした。しかし、現代は「古墳時代」と言います。この時代の大和政権が国家と呼べるほどの勢力を持っていなかったからです

それで、最近の歴史教科書では「大和朝廷」という言葉が出てこないそうです。代わりに「大和政権」ないし「ヤマト政権」という言葉が出てくるのです。「大和政権」はともかく「ヤマト政権」と書くと宅急便が自民党に代わって政権を握ったのかなんて思わず思ってしまいますがwかくいう僕も昔、ヤマトでバイトしたことがありますw



そもそも「朝廷」という言葉は天皇を中心に政治を行う場所という意味があるのです。しかし、古代の日本は小さな国が乱立していて大和王朝も、その中の一つでしかなかったのです。もちろん、当時から非常に大きな勢力ではあったのですが、まだ日本を統一したわけじゃないので、朝廷というのもちょっと違うだろうということで「大和政権」となったのです。


また、天皇という言葉自体もこの時代は使われておらず、大王と呼ばれていました。日本で最初に天皇と名乗ったのは飛鳥時代の推古天皇からだと言われております。

今日から数回にわたって歴史の教科書のお話をします。僕が学生だった頃の◯年前wと今の歴史教科書とでは教えている内容が異なるそうです。

まずは縄文時代と弥生時代のことを。僕が学生の頃は縄文時代の始まりは1万年前だと教わりました。というか、覚えてねえw

ところが、今の教科書では1万2000年前ないし1万3000年前と書かれております。その後の調査で変わったのでしょう。ところが、最近の研究で、縄文時代が1万6500年前に始まった可能性があり、教科書の記述もさらに1万6500年前と変わる可能性もあるというのです。

1998年に出土した縄文式土器を放射炭素年代測定にかけてみたところ、その土器が1万65字00年前のものだという数値が出たのです。

それと、縄文時代は狩猟の時代で、稲作は弥生時代から始まったというのが定説でした。ところが、農耕はすでに縄文時代から始まって、ごまやアワ、イモなどはすでに栽培をされていたのです。藤子・F・不二雄先生の「エスパー魔美」に、縄文農耕説の話が出てきます。「エスパー魔美」が連載されたときは、まだ縄文農耕説はトンデモ説だったのですが、今では通説になっているのですね。

さらに稲作もごく一部の地域ではありますが、縄文時代からすでに始まっていたと言います。2005年に岡山県の彦崎貝塚ヒコサキカイヅカの6000万年前の地層から大量のプラントオパールがみつかったのです。その量が土壌1g中に2000、3000というまとまったものだから驚きです。プラントオパールとはイネ科植物の葉の細胞成分のことです。また熊本県の大矢遺跡からは稲もみの圧痕アッコンがついた縄文土器が出土しているのです。この土器は約5000〜4500年前の縄文時代中期のもので、稲もみのあとがついたものとしては今のところ、この大矢遺跡から出土された土器が最古だそうです。さらに九州の北・中部地方で出土した縄文時代後期の土器の中には玄米などにわく害虫であるコクゾウムシの痕がついたものも見つかっております。すでに縄文時代に稲作が行われたことの証明になります。これらの発見から、稲は弥生時代に大陸から伝わったという通説が覆るかもしれないのです。

とはいえ、縄文時代に稲作は全体的に行われていたわけではないのですね。だから、縄文時代に稲作が行われていたのは、一部の地域のみというのが精一杯ですね、今のところ。ただ、今後の発見でまた変わるかもしれないのですね。ドキドキしますねw

稲作が全国的に行われるようになったのは弥生時代と僕らは学校の授業で教わりましたが、実は弥生時代になっても稲作が行われなかった地域もありました。たとえば北海道や沖縄。北海道や沖縄はケモノや魚を追い回していたのですね。だから、本州及び四国、九州では弥生時代に稲作が行われていたのですが、北海道と沖縄ではまだだったと。だから、全国的というのは正しくなく、弥生時代には稲作が、北海道と沖縄を除くほぼ全国で行われていたというのが正しいようです。


以上のことから、「縄文時代=狩猟採集」「弥生時代=稲作時代」と定義づけるのは正しくないのですね。

* 参考文献

エスパー魔美(8) (てんとう虫コミックス)
藤子・F・不二雄
小学館
2017-02-28














今日は青森県にある三内丸山遺跡さんないまるやまいせきについて。この遺跡が本格的に発掘されたのが1992年(平成4)以降ですが、発掘の結果わかったのは、この遺跡が今から約5500年ごろないし約4000年以前のものだと分かったのです。時代は縄文時代の前期から中期の間。竪穴住居や祭祀に使われた土偶どぐうや土器などが発見されました。ドキドキしますねw


さらに同遺跡から多数のクリ、クルミ、トチなどの殻やエゴマやひょうたん、ゴボウなども出土されたほか、ヒエも多量に検出されました。そのため、この遺跡に住んでいた人たちはヒエをたべていたのです。ヒエーですねwあんまり受けなかったみたいですねw

従来、縄文時代の人々は狩りをしたり、魚や貝をとったり、木の実をとったりしながら生活をしていたと思われがちですが、三内丸山遺跡の状況をみるにつけ、三内丸山の人たちは、自然の恵みの採取活動のみに依存せず、集落の周辺にくるみなどの堅果類けんかるいの樹木を多数植栽しょくさいしており、一年草を栽培さいばいしていた可能性も考えられるのです。しかも指導者がいて、その指導者のもとで計画的な集落経営をやっていたことがわかったのです。

それまで、縄文時時代は家族程度のごく小さな単位で、移動しながら暮らしたとか、狩猟sしゅりょうと木の実の採集さいしゅうに頼っていたと思われていたのです。それが、この遺跡の調査により、縄文時代の文化は従来考えられていたものよいりも進んでいたのですね。


ただ、縄文時代に稲作まで行われていたかはまだ疑問です。

僕は藤子・F・不二雄先生の「エスパー魔美」という漫画で「縄文農耕説」というのを知りました。縄文時代にすでに農耕が行われ、稲作もすでに行われていたという説。あいにく、三内丸山遺跡からは稲作が行われていた証拠はありません。藤子先生の漫画は歴史の勉強にもなるんですよ。

稲作が行われるようになったのは今のところ弥生時代からと考えてよさそうです。東北では青森県田舎館いなかだて村の垂柳遺跡たれやなぎいせきの水田跡、それから青森県の岩木山の北東部の山麓さんろくにある砂沢遺跡すなさわいせきに水田跡が有名どころでしょうか。しかし、それまでの気候がかわり、温暖期から寒冷期に入ったために、紀元前3世紀ごろから四世紀ごろに東北地方における稲作が衰退してしまいます。


※ 参考文献

エスパー魔美(8) (てんとう虫コミックス)
藤子・F・不二雄
小学館
2017-02-28



これならわかる東北の歴史Q&A
進, 榎森
大月書店
2008-06-01



※ この記事は埼玉県さいたまけん立さきたま史跡しせき< /ruby>の博物館にて発行している「ヲワケ君の古墳こふん探検供廚箸いΕ僖鵐佞鮖温佑砲靴峠颪ました。


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今日は、埼玉県行田市ぎょうだしにある、さきたま古墳群のひとつ稲荷山(いなりやま)古墳から出土した文字の書かれた、鉄剣てっけんについて。

埼玉県行田市にさきたま古墳群こふんぐんというところがあります。行田市といえば、ちょっと前のドラマ「陸王」の足袋工場の舞台にもなった場所です。「陸王」でマラソンの選手役を演じた竹内涼真くんがかっこよかったなあ。また、あのドラマに出てくるシューズも実在します。僕もドラマを見て欲しくなりましたもん。それはともかく今日は古墳の話ですネ。余談をしてすみません。

ここには古墳がたくさんありますが、その中で稲荷山古墳はもっとも古い古墳だと言われています。なんでも5世紀ごろにつくられたとか。

その古墳の発掘調査はっくつちょうさが昭和43年(1968年)に行われましたが、その際、たくさんの副葬品(「ふくそうひん」。死者といっしょに埋めた品物)が見つかり、鉄剣もその副葬品ふくそうひんの一つでした。しかし、鉄剣てっけんはさびていて、鉄剣に文字が書かれていると思う人はほとんどいなかったようです。


それが昭和53年(1978)に、奈良県ならけんの元興寺(がんこうじ)文化財研究所で、サビの進行を防ぐための保存処理をしているときに、キラリと光るものがみつかり、レントゲン写真で鉄剣をったところ、なんと115文字がうかびあがったのです。

その剣には、このようなことが書かれていました。(ただし現代語訳。実際は「辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比・・・」という具合に漢文で書かれているのですが)



辛亥(しんがい)の年(471年)、7月に記す。私はヲワケの臣です。(中略)先祖代々杖刀人首(「じょうとうじんのおびと」大王の親衛隊長)として大王につかえ、今に至っている。ワカタケル大王(雄略天皇ゆうりゃくてんのう?)がシキの宮にあるとき、私は大王が天下を治めるのを助けてきた。そこで、このよくきたえあげた刀を作らせ、私が大王につかえてきた由来を記しておく。



ワカタケル大王は大和王朝の王で、関西のあたりを治めていたのですが、そのワカタケルの勢力が埼玉県の方面にもおよんでいたことが、この剣の文字からうかがえます。そのワカタケルを補佐ほさしたのがヲワケという人物だという事もうかがえます。

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(稲荷山古墳)

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(同じく稲荷山古墳)

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埋葬施設まいそうしせつを復元したもの)

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(こんな感じで埋葬まいそうされていたようです)



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