history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。

カテゴリ:その他諸国の歴史・伝説 > 中東の歴史

1 大統領選をひかえ
 前回まで15回にわたってイスラエルとパレスチナの歴史を振り返ってみましたが、今日はアメリカとイスラエルの関係にふれます。今年はアメリカの大統領選がひかえているので、わりとタイムリーな話題かと思います。

ちなみに、今回の大統領選挙の共和党候補こうほ者のハナフダ氏じゃなかったwトランプ氏はイスラエルを「アメリカの最も信頼できる友」としており、「我々は100%、イスラエルのために戦う。1000%戦う。」と大変おそろしいことをいっております。こんな人が大統領になったら中東はますますゴタゴタしますわ。

じゃあ民主党候補こうほのクリントン氏(ヒラリー)なら安心かと思うとそうとは言えません。クリントン氏は「私が政権を得てまず最初にすることは、イスラエルの首相をホワイトハウスに招くことです。」と言っていることからイスラエルに肩を持っているのです。結局どっちが勝っても中東に住むアラブ人にとってはありがたくないことなのですね・・・

それにしても両大統領候補がなぜここまでイスラエルに対して肩入れするのでしょう?それはアメリカに住んでいるユダヤ人たちの圧力団体が、イスラエルに不利なことに対しては公共・民間をとわず猛烈もうれつなロビー活動や糾弾きゅうだん運動を展開するからです。実際イスラエルを批判して政治生命を絶たれた政治家もいたといいます。また、大統領選挙においてユダヤ系団体のまとめる組織票も無視できないのですよね。

2 アメリカにわたったユダヤ人
 ユダヤ人がアメリカに初めて渡ったのは16世紀後半だといわれております。そのアメリカに初めてわたったユダヤ人はオランダからきたといいます。オランダからユダヤ人がはじめて渡ったところがニューアムステルダム、いまの入浴じゃなかったwニューヨークです。

その後、東ヨーロッパやドイツ出身のユダヤ人の大陸移住がすすみ、1880年以降はロシアなどからユダヤ人がアメリカにやってきます。ロシアでポグラムというユダヤ人弾圧がひどくなって、それを逃れてアメリカにやってきたのでしょう。

そうして現在アメリカに住むユダヤ人は500万人とも600万人ともいわれておりますが、アメリカの人口3億1905万人ということを考えると、そんなに多いわけじゃないのですね。けれど、アメリカに住んでいるユダヤ人の3分の1がニューヨーク州に住み、さらにニューヨーク市民の4人に一人がユダヤ人だといわれております。ニューヨーク市といえば、アメリカいや世界の経済の中心です。ユダヤ人は金融きんゆうに強い人が多いですから、当然ニューヨーク(特にウォール街)でも大きな力を持てるのでしょう。

3 ネオコンについて
 ここでネオコンの話に切り替えます。ネオコンとイスラエルは大きな関係があるのです。ネオコンとは寝言・オナニー・コンプレックスの略ネオ・コンサーバティブ(新保守主義)の略です。彼らの多くはユダヤ系アメリカ人で、第二次世界大戦から戦後にかけては過激左派だったのですが、1967年、第三次中東戦争でイスラエルが全パレスチナを占領していたのを、国連安保理こくれんあんぽりが「占領地からでていきなさい」と勧告かんこくしてからネオコンは変わったのです。

そのことにブチ切れたネオコンたちは反国連主義になり、イスラエルが全パレスチナを支配するためなら、戦争をおそれず、全世界を「アメリカ型民主主義」に変えなければいけないと主張しはじめたのです。イスラエルの近隣諸国きんりんしょこくに、「少しでもイスラエルとアメリカにさからう国家を許しては世界の平和はない」というのです。

ネオコンとイスラエルの関係をもっともはっきり表している文書が『完全な断絶・イスラエルの領土保全のための新戦略』(1996年に発表)というレポートです。その内容は、オスロ合意を完全に破棄はきし、パレスチナ人を徹底的に屈服させる「力による平和」以外にイスラエル国家の選ぶ道はないとうものです。このレポートは在米シオニストのリチャード・パールなどのネオコンが起草し、イスラエルの首相だったシャロンもパールの方針に従って、ネオコン路線をつきすすんだのです。

4 利権
 『完全な断絶』が発表された翌年の1997年、このレポートの起草者であるリチャード・パールなどのネオコンが中心になって共和党保守派とともに「アメリカ新世紀プロジェクト(PNAC)」というシンクタンクを結成し、「軍事力を増強し、先制攻撃をさずにアメリカの国益と価値観を世界に広げるべし」と主張しております。

PNACのメンバーにはチェイニー元副大統領やラムズフェルド元国防長官、ジェブ・ブッシュ(ブッシュ元大統領の弟で今回の大統領選挙の候補に名乗りを上げたが撤退)やアフガニスタン戦争で石油利権をめぐって暗躍あんやくした人物などが名を連ねています。

アメリカがイラクに攻め込んだのも、フセインを倒し、アメリカに忠実な傀儡政府かいらいせいふ(※1)をつくれば、石油資源支配のためにも、中東の中心部に米軍基地がおいてアメリカ・イスラエルに批判的ひはんてきな国や勢力ににらみを利かせることもできるという点でも、イスラエルとアメリカにとってこれほどうまい話はありません。もっともその思惑おもわくは今日の中東のゴタゴタを見ている限り裏目うらめに出ているとしか思えません。

※1 表面上は独立した政権であるが、影で他国など他の勢力に操られ、それらの強い支配や統制に置かれている政権のこと。


※参考文献





1 「友達になれたら、きっと。」
 今日は一冊の本をご紹介します。パレスチナ人の少女とユダヤ人の少女が文通をしたというお話です。この本の内容は作り話ではありません。本当にあったお話です。文通といいましても、パレスチナ人の少女の住む家と、ユダヤ人の少女の住む家の距離は15キロほどです。しかし、紛争やら外出禁止令やらで、会うこともままならないのです。平和な日本では考えられないことです。

二人の文通がはじまったのは1988年です。当時の二人の年齢が12さいですから、いま二人は40歳前後かな。

この本には二人の少女が実際に書いた手紙の内容がつづられております。僕がびっくりしたのは、二人がお互いに本音をぶつけあい、時には相手の心象しんしょうを悪くするようなこともはっきりと手紙につづっているのです。

たとえば、パレスチナ人の少女は「ユダヤ人はきらいです。だってわたしたちがずっと住んでいた土地をとりあげて、アラブ人にひどいことばかりするんだもの。」とか「いまのパレスチナ人にあるのは、ただひとつ、わたしたちの土地からイスラエルをおいだすことなんです」とか「あなたのことばに、きずつきました」という具合に。

一方でユダヤ人の少女は「どうしてイスラエル人がきらい、なんていうの?」とか「ほんとうのことを言うね。怒ってたの。アラブ人全員のことを。だからあなたのことも。」とか「あなたはやさしい人だと思う。でも、やっぱりアラブなの。だから、もうこの先も友達になれないと思う」という具合に。

2 子どもの心までゆがめるにくしみの連鎖れんさ

もちろん、両者がお互いにこんなことを言うのは伏線ふくせんがあるのですね。イスラエルではユダヤ人とパレスチナ人がいがみ合っているのですが、ヒサンな事件が何度も起こっているのですね。たとえば1989年7月7日に10歳のパレスチナ人の子どもがイスラエルの兵士に殺されたという事件が起こり、やはり同じ日の1989年7月7日に25歳のパレスチナ人青年がバスをジャックして、バスを故意こい峡谷きょうこくき落としイスラエル人乗客16人を死亡させた事件が起こりました。お互いににくしみ合い、殺しあうような出来事が何度も起こっているのです。

そうした事件が起こるたびに二人はお互いに「嫌い」だとか時にきびしい言葉を相手にぶつけるのですね。

みんながみんなそうじゃないけれど日本人は、あまりはっきり物事を言わない人が多いだけに、びっくりしてしまいます。けれどお互いに本音を語れるから、相手の心のなかがわかるのだと思うし、なんだかんだで二人の距離が縮まっているのだと思いました。

実際に二人は、1991年の4月に一度会っているのですね。会うなり二人はにっこり笑って、あいさつをしながら握手あくしゅをしたといいます。そしてお互いにプレゼントを交換したといいます。

あいにく二人が会ったのはその一回きりで、それから二人は結婚けっこんして家庭を持ち、それぞれが生活に追われたり、テロや紛争におびえる日々で二人は疎遠そえんになってしまうのですが。

争いがいかに子どもの心までゆがめてしまうかを、この本を読んで感じられました。そして、民間レベルでもパレスチナとユダヤ人が仲良くなり、平和がくることを強く望んでいる人も決して少なくないということも感じられました。


3 平和を望む人々

 実際、イスラエルの人々のなかには争いをやめようという人たちもいるのです。たとえば、イスラエルにピース・ナウという民間団体があるのですが、この団体はイスラエルの武力政策に反対しております。たとえば、

入植地で作られたブドウで製造されたワインなどの不買運動、入植地で活動する企業への不投資の呼びかけなどを行い、イスラエル政府がし進める入植政策に抗議こうぎしたりしています。

ただ、この団体は経済問題を扱わないため、最近は活動も停滞しているといいます。イスラエルも物価の高騰もしているし、格差も激しいとききますからね。それでも、右派がピース・ナウなどのユダヤ人左派に対して「国家への反逆者」「反ユダヤ主義者」などと非難しているくらいですから、右派にとってはこの団体の存在を無視できないのだと思われます。

ほかにもパレスチナ人との交流を深めることによって偏見をなくし、平和を実現しようとするグッシュ・シャーロムなどの団体もありますし、武術をとおしてパレスチナ人とユダヤ人との交流を深めようとする動きもあるようです。

1 ネタニヤフ〜バラク
 ラビンが1995年11月に暗殺されてると、外相のぺレスが首相となりました。ペレスは和平路線を継承けいしょうしようとしましたが、右派(たとえば野党のリクードとか)から批判をされてしまいます。1996年5月の選挙では、和平推進派である労働党(つまり故ラビンやペレスの政党)の議席のほうが、強硬派のリクードをわずかながら上回ったのに、イスラエルで初の首相公選制の結果、リクードのネタニヤフが首相になり、最右派のシャロンが閣僚かくりょうに加わります。

日本では首相を国民が直接選挙で選ぶことができないのですが、イスラエルではできないのですね。日本の選挙で選べるのは議員さんとAKB48などでしょうかw?

和平反対派のリクードが政権を握ったことで中東和平は停滞ていたいしてしまいます。ネタニヤフ政権はユダヤ人の入植地を広げてしまいました。しかし、ネタニヤフのワンマンぶりに国民の支持を失い、1999年の繰り上げ首相公選でバラク率いる労働党に敗北してしまいます。

新しく首相になったバラクですが、和平を推進するといいながら、ユダヤ人の入植地を前ネタニヤフ時代よりも広げてしまいます。

そして、イスラエルとPLOの間で和平交渉が行われました。それは2000年の出来事で、キャンプデービットで行われたのですが、PLOの理解も得られず、難民問題の解決の糸口も見いだせずに終わってしまったといいます。


2 シャロンの台頭

 和平交渉挫折のわずか2か月後、シャロンがエルサレムの神殿しんでんの丘にあるイスラム教の聖地アル・アクサモスクに立ち入ったため、パレスチナ人たちは激オコしてしまいます。

それが第二次インティファーダへと発展してしまいます。これはパレスチナ人たちの民衆蜂起みんしゅうほうきです。(※1)

そして2001年3月、この第二次インティファーダの原因をつくったシャロンが首相になってしまいました。パレスチナ人にとってこれは最悪なことだと思います。

シャロンはオスロ合意破壊に乗り出し、パレスチナ自治区の再占領に動き出します。当然、イスラムの過激派はいっそう自爆攻撃を激化させます。当然イスラエルは報復を行います。それからが血みどろの戦いが続きました。こうして2000年以来、2004年半ばまでパレスチナ人3500人あまり、イスラエル人は1000人近くが犠牲になっております。報復ほうふく連鎖れんさはとどまることを知りません。

それからシャロン政権は2002年からパレスチナ自治区ヨルダン川西岸の占領地(ユダヤ・サマリア地区)との間に、長大な分離壁ぶんりかべの建設を開始しました。これはテロリストの侵入を防ぐためにつくられたものです。が、パレスチナ人とユダヤ人の分断をしているようで、かつてのベルリンの壁を思い出させます。

この壁には電流が走り、人間感知センサーのついた監視塔かんしとうが付いております。また、侵入者をふせぐみぞなどがあります。

2003年に国連総会で「壁の建設を中止しなさい」といわれてしまうのですが、シャロンは聞く耳を持たなかったといいます。

BarrierMay2005

(2005年5月現在の分離壁のルート)

800px-Israeli_West_Bank_Barrier

(分離壁の写真。ウィキペディアより)




3 ロードマップ
 イスラエルではゴタゴタが続いておりましたが、それをアメリカが指をくわえて見守っていたわけではありませんでした。ブッシュ大統領(息子のほう)は、はじめは中東和平に冷ややかな態度でしたが、9・11事件がおこり、テロ問題がパレスチナ紛争とイラク問題にリンクしているとみるようになったのです。

そして2003年イラク戦争が一段落したところで、ブッシュ大統領は、ロシアやEU、国連の合意を得て「中東和平計画工程表」いわゆる「ロードマップ」をアラファト議長とシャロン首相に示し、ヨルダンのアカバで二人を握手あくしゅさせました。

内容は2005年までに占領地からイスラエル軍を撤退てったいさせ、パレスチナ国家を建設するというものです。しかし、難民問題も棚上げするなど、課題も多いものでした。

そしてシャロン首相の指揮で全ユダヤ人入植地の撤去てっきょとイスラエル軍の撤退が行われました。 ガザからの撤退という決断は、イスラエルの世論を2つに分けてしまいました。 撤退に賛成する側と、撤退に反対する側のふたつに。それから2006年にはレバノン戦争、2008年ころにはガザ戦争が起こるなど、イスラエルおよびパレスチナの平和は今日においても訪れそうにもありません。

日本にいると戦争なんて昔話のように思えますが、パレスチナ・イスラエルではそれが今現在においても現実にあるのだなとエントリーを書いてみて改めて感じました。そして何気ない平和な日常が本当にありがたいことなんだなということも改めて思いました。


※1 ちなみに第一次インティファーダは1987年ごろから1993年ごろまで続き、パレスチナ人たちが石を投げたりしました。その辺のお話は僕のブログの「オスロ合意」のお話のときにふれました。

*参考文献




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