history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 中東の歴史

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             (アラファト議長)




1 アラファト議長の登場

 エジプトのナセル大統領に期待していたパレスチナ人にとって、1967年の第三次中東戦争はショックでした。そんな時にパレスチナ人は、自ら戦うしかないと決意を固めました。そうした動きに先頭に立っていたのがヤセル・アラファトです。PLOいわゆるパレスチナ解放機構(※1)のアラファト議長です。

アラファトはファタハというゲリラ組織の創設もかかわっていました。、ヨルダンを拠点きょてんに反イスラエル闘争とうそうを行って成果をあげていたのです。アラファトはエルサレムで生まれガザで育ったのですが、パレスチナ戦争でガザ地区が占領せんりょうされたためエジプトにのがれカイロ大学工学部に入学。そこでパレスチナ解放の政治活動にかかわるようになったのです。

1968年、イスラエル軍は、アラファトのゲリラを追って、ヨルダンのカラメという村に侵攻しんこうしました。ここでアラファトたちはイスラエル軍を退却たいきゃくさせました。このことにアラブの人たちはよろこびました。

2  PLOとは
 ところで、PLOとは聞きますが、どういう組織なのでしょう?僕も名前はよく聞くのですが、どういう組織なのかと聞かれると答える自信がありません。それで資料で調べてみました。資料によると、もともとPLOは1964年、イスラエルを追放する武装グループとしてアラブ連盟諸国が組織されたもので、初代議長はシュケイリという人物です。そして、PLOの主な目的というのが、


  1. パレスチナ人の民族自決

  2. 離散りさんさせられたパレスチナ人のパレスチナへの帰還きかん

  3. イスラエルが占有せんゆうする地域をふくめた全パレスチナにイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒が共存する民主的、非宗教的独立国家を建設する。


だそうです。

特に僕が興味深いと思ったのが、PLOがイスラエルをやっつけるという過激な団体ではなく、三つの宗教が共存できるような国を作りましょうという理念がPLOにあるということです。

3 PLOが引き起こしたヨルダン内戦
 それからアラファトは英雄えいゆうとなり、1969年にはPLOいわゆるパレスチナ解放機構の二代目議長となりました。しかし、こうしたゲリラの活動は、ヨルダンの王政にとっても面白いものではありませんでした。というのも、ヨルダンは、第一次世界大戦後にオスマン帝国ていこくからうばった土地に、イギリスが人工的に作り上げた国で、その王の名をアブダラです。彼の父の名をフセインといいます。フセインといいましても、イラクの元大統領のことではありません。かつてイギリスが、アラブ人に独立国をつくってやると約束をした「フセイン・マクマホン書簡」にかかわったフセインです。

このヨルダンに、多くのパレスチナ難民が流入しました。現在のヨルダンの人口の半分以上は、難民と子孫のパレスチナ人です。

ヨルダンのアブダラ国王は、公然とイスラエルと交渉こうしょうしたために、パレスチナ人のいかりを買い暗殺されてしまいます。1970年、フセインのヨルダン軍とパレスチナ人のゲリラが衝突しょうとつしました。ヨルダン内戦という事件です。この事件でヨルダン軍が勝利をおさめ、多くのパレスチナ人たちが殺されたといいます。

敗れたアラファトは、残ったゲリラ軍とともにレバノンへと移動します。パレスチナ・ゲリラがレバノンに逃げこんだのは、レバノン政府の力が弱く、それを阻止そしできなかったからです。ちなみに、1948年にイスラエルが成立したときに、多くのパレスチナ人が難民としてレバノンへ流出していました。アラファトはシリアからレバノンへと拠点を移したのです。


僕はアラファト議長というとイスラエル首相のラビン首相と握手あくしゅしたイメージと「電波少年」で松本明子さんと対面したイメージがつよいのですがw、ここまでイスラエルと戦った人なのだと本を読むまで知りませんでした。

※おまけ

熊本で震災しんさいがありました。震災で亡くなった人たちへのレクイエムとともに復興へのいのりをこめて今日は坂本九さんの「上を向いて歩こう」を。この歌はナオト・インティライミさんがアラファト議長の前で歌った歌でもあります。ナオトさんのこの歌をアラファト議長がニコニコしながらいている動画をみて、僕も思わずうれしくなりました。





※ 参考文献



今日はイスラエルと戦ったエジプトのナセル大統領のお話をします。かれは1956年の第二次中東戦争と1967年の第三次中東戦争にかかわり、イスラエルと戦いました。戦争の結果を先に申し上げますと、第二次中東戦争はイスラエルに勝利したものの、第三次中東戦争はまけてしまいます。 


1 ナセルの登場

 エジプトは、戦前からイギリスの意向を受けた立憲君主制のエジプト王国に支配されていましたが、1952年、ナセル達自由将校団による革命が成功し、国王を追い出し、共和制を宣言せんげんします。54年、ナセルは首相(のちに大統領)になり、はんアラブ主義(※1)をかかげました。ナセルは他のアラブ諸国と手を組み、イスラエル包囲網ほういもうをつくろうとしました。

1955年になるとナセルはソ連から武器を購入こうにゅうし、中華人民共和国とも国交を樹立じゅりつします。こうした社会主義陣営に近づくことで、アメリカなどと対抗たいこうしようとナセルは考えたのでしょう。

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               (ナセル大統領)

さらにナセルはスエズ運河の国有化を宣言しました。それは1956年のできごとです。スエズ運河の株主の大多数はイギリス人、フランス人でした。まさに欧米諸国による植民地政策への挑戦ちょうせんともいえましょう。

当然、イギリスとフランスはこれを認めず、イスラエルもこれに同調しました。

2 第二次中東戦争と、うまくいかない汎アラブ主義

 1956年10月末、イスラエル軍のシナイ半島侵攻をきっかけに、イギリスとフランスもエジプト攻撃をはじめました。いわゆる第二次中東戦争です。アメリカ大統領アイゼンハワーは、アメリカとの打ち合わせもないまま戦争に持ちこんだ英仏に露骨ろこつな不信感をしましました。なにしろアイゼンハワーは大統領選挙を目前にひかえておりまして、そんな時にソ連がしゃしゃり出てきてソ連が参戦なんてことになっては困ると思っていたのです。そして国連総会でイギリス・フランス・イスラエル軍がエジプトから撤退てったいすることを決められてしまいます。

アメリカが助けてくれるだろうと思っていたイギリス・フランス・イスラエルにとってアメリカが協力しないことは誤算ごさんだったのです。三国は開戦してまもなくエジプトから撤回てっかいしてしまいます。このことにナセル大統領は得意満面でした。

この第二次中東戦争で勝利し、ナセルの汎アラブ主義は広まるかと思われました。ところが、国家同士の利害が対立してなかなかことはうまくいきません。たとえば、1963年にイラクとシリアで革命がおこって、両国でバース党という政党が権力を握りました。ちなみに、バースといっても阪神にいたバースと今の日ハムにいるバース投手とは関係ありませんw

両国のバース党は名前だけでなく、アラブ統一という同じ理念をもった政党なのですが、石油資源をもつイラクと持たないシリアの間で対立が起こってしまったのです。そしてお互いに暗殺を繰り返すようになったのです。


3 第三次中東戦争とイスラエルの非道

 それでもエジプトはシリアと軍事同盟を結び、イスラエルをけん制しました。シナイ半島には国連緊急軍が配備されていたのですが、それを1967年に国連緊急軍を撤退させ、イスラエルの戦艦を締め出すためにアカバ湾に通ずるチラン海峡を封鎖しました。シリア・ヨルダンもイスラエルの国境に迫り、さらにソ連も無言の圧力をイスラエルに加えております。これだけの軍備力があればイスラエルをねじふせることができるとナセルは思ったのでしょう。

ところが、イスラエルがエジプトおよび、エジプトと組んでいたシリア、ヨルダンを打ち破ってしまいます。この戦争はたったの6日で終わってしまい、イスラエルは、ヨルダン川西側地区、ガザ地区、ゴラン高原、シナイ半島を占領せんりょうしてしまいます。いわゆる第三次中東戦争です。この敗戦はナセルにとってもショックでしたが、パレスチナ人にとってもはてしなくつらく、苦しい歴史に再出発となった戦争でもありました。

こんなことをしたイスラエルに国際的非難はなかったのでしょうか?確かに国連は戦争の解決のために会議を重ねますが、ユダヤ・ロビーをかかえるアメリカのイスラエル寄りの態度のためになかなか結論がでません。戦争終結から半年ちかくかかって、ようやく国連の決議で「イスラエルは占領した領土から軍隊をひきあげなさい」と決められます。ところが、イスラエルはシナイ半島以外の土地をいまだに占領し続けております。


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(第三次中東戦争でイスラエルが占領した地域。地図でいえばHELD BYなんちゃらかんちゃらでられている部分が第三次中東戦争で占領した地域。いかに広大な地域を占領したかがうかがえます。)


※ おまけ
第三次中東戦争の動画がみつかりました。ナセル大統領の姿もみえます。





※1 中東における国家を超えたアラブ民族の連帯をめざす思想運動。

※ 参考資料

前回の記事で、イギリスがマクドナルド白書を宣言し、事実上パレスチナをイギリスが委任統治という名のもとに支配すると宣言したのです。それにシオニストたちが「話がちがうじゃないか」と反発して、「イルグン・ツバイ・レウミ」というテロ組織まで生まれたことを書きました。今日は、戦後になりイスラエルが誕生し、そして第一次中東戦争が起こるまでを描きます。


1 ユダヤ人たちの反発

 イスラエルが誕生したのは戦後です。イギリスが委任統治していたのになぜパレスチナにユダヤ人の国家ができたのでしょう。いろいろ理由はあるとは思いますが、僕はその理由をふたつあげます。

  1. ユダヤ人たちのテロ活動やロビー活動。


  2. ナチス大虐殺に対するユダヤ人への同情。

 
ユダヤ人たちのテロ組織「イルグン・ツバイ・レウミ」は戦前から活動をはじめ、第二次世界大戦後もテロ活動をやめませんでした。ちなみに、イスラエルののちの首相であるペギンはこの組織の出身です。さらに、この組織から分かれたテロ組織にシュテルン(イスラエル自由戦士団)というのがあるのですが、のちの首相となるイツハク・シャミルもこのテロ組織の出身です。また、シャロン首相もこのテロ組織の一派のメンバーだったそうです。

イルグンは、戦後たびたびテロ活動を起こしました。たとえば1946年7月に起こったキング・デイビット・ホテル爆発事件なんて典型です。どういう事件かというと、1946年3月、イギリスの官憲かんけんたちは2500人ものテロリストを逮捕し、7人を処刑しました。そして7月に事件が起きたのです。キング・デイヴィッド・ホテルというのがあったのですが、このホテルの地下で大爆発がおこり、建物は五階までふっとび、この事件により91名が死亡し46名が負傷したといいます。
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(キング・デイヴィッド・ホテル事件の写真。ウィキペディアより)

もちろんユダヤ人たちはテロばかりやったわけではありません。とくに在米ユダヤ人たちは1942年以降、パレスチナにユダヤ人国家を建設するために、募金ぼきん活動をしたり、アメリカ政府へも働きかけをしました。特に当時のアメリカ大統領トルーマンには猛烈なロビー活動をシオニスト組織がおこなったとか。

また、戦後間もなくしてナチスによるユダヤ人虐殺ぎゃくさつが明るみに出て、国際世論はユダヤ人に対して同情するようになり、逆にパレスチナをいつまでも支配しようとするイギリスに非難の声があがります。そういったこともユダヤ人たちにとって有利に働いたのです。

2 国連によりパレスチナが分割される
 これらのこともあってイギリスはパレスチナの放棄を考えるようになります。第二次世界大戦後に発足した国際連合に、イギリスはパレスチナ問題を丸投げします。無責任な話だと思いますが、これは事実です。

国連は1947年にパレスチナ分割を提案しましたが、しかし、この案はユダヤ人たちにはとても有利で、パレスチナ人にとってはとても不利でした。なぜならもともとパレスチナ人の土地だったパレスチナの半分以上をユダヤ人たちがもらえたのですから。人口をみても、当時のパレスチナに住むユダヤ人の人口が65万にたいし、パレスチナ人は100万人を超えています。人口の比率からするとパレスチナ人に多くの土地を与えるべきだと僕は思うのですが、実際はそうでもないのです。

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(ブルーのところがユダヤ人が支配する地域。それ以外がパレスチナ人の地域)


3 反発したアラブとイスラエル建国

 この不当な国連の決議にアラブ諸国は反発をしました。1948年3月、まずシリアがシオニスト排除はいじょのため軍隊を派遣はけんしました。これ以後の衝突でアラブ、イギリス、ユダヤを合わせて5000人もの人たちが命をおとしました。

テロ組織のイルグンは、パレスチナ人に対する嫌がらせとして、エルサレム郊外にあるディル・ヤシン村を襲撃しゅうげき、村人250人ちかくを虐殺ぎゃくさつしました。パレスチナ人たちに対して「おまえたち、ユダヤ人地区にいると同じような目に合わせるぞ!」とおどしをかけるのです。パレスチナ人たちはこわがって家のカギだけもって逃げ散ったといいます。


4 第一次中東戦争

 そして1948年5月14日、イギリスがパレスチナの統治権を放棄ほうきし、イスラエルが建国を宣言するのです。このイスラエル建国に面白くないのがアラブ諸国。それで第一次中東戦争がはじまります。

アラブ連盟諸国のシリア・レバノン・ヨルダン・イラク・エジプトがいっせいにイスラエルにおそいかかりますが、アメリカなどに支えられたイスラエル軍は強く、結局アラブ諸国は負けてしまいます。

戦争が終わったときには、イスラエルは、国連決議が割り当てた以上の土地を支配しました。実にパレスチナ全土の77パーセントがイスラエルのものなり、しかも残った土地もパレスチナ国家として独立したわけじゃなく、ヨルダン川西岸はヨルダン王国に、ガザ地区はエジプト王国に併合されただけに終わりました。

※ おまけ
今日は「マイムマイムの正しいおどりかた」という動画をご紹介します。マイムマイムはイスラエルの楽曲で、開拓地で水を掘り当てて人々が喜ぶさまを歌った歌です。ぼくも学校やキャンプで何度かマイムマイムを踊ったことがあります。





※参考文献








1 イギリスの委任統治領となったパレスチナ

 第一次世界大戦後、パレスチナはイギリスの支配する地域となりました。具体的にはイギリスの委任統治領いにんとうちりょうです。だれの委任を受けているといえば、それは国際連盟でした。連盟の委任を受けてのイギリスは、パレスチナの人々が独り立ちできるようになるまでの間、この土地を統治する形になりました。あからさまな植民地支配をするわけにはいかないので、委任統治という名目でイギリスはパレスチナを支配したのです。つまり、アラブ人とシオニストとの約束を守らずに、イギリスはパレスチナの地を自分のものにしてしまいました。

しかし、それでだまっていないのはシオニストたち。シオニストたちはバルフォア宣言を根拠に、ユダヤ人のパレスチナの移民を許可するようにイギリスに働きかけました。イギリスもしぶしぶそれにOKしました。またヨーロッパ諸国も自国のユダヤ人たちを追い出す良いチャンスだと思ったに違いありません。

そうやってユダヤ人たちが少しづつパレスチナにやってくるようになったのです。とはいってもヨーロッパに住むユダヤ人たちがみなパレスチナに行ったわけではないのです。多くのユダヤ人たちはヨーロッパでの生活を捨ててまでパレスチナに行きたいとは思いませんでした。

そりゃそうです。たとえば、僕は生まれも育ちも東京ですが、ひいおじいちゃんは北陸の出身です。で、いきなり役所から今の生活を捨てご先祖様のいる北陸に帰りなさいなんて言われたら困りますもの。



2 なげきのかべ事件とアラブの大蜂起だいほうき
 パレスチナにはすでにアラブ人たちがおりましたが、そこへユダヤ人たちが押し寄せるようになり、パレスチナ人とヨーロッパから移り住んできたユダヤ人との間で次第にもめごとが起こるようになります。1920年、パレスチナ人はエルサレムでユダヤ人に暴行を加え、これに対してユダヤ人が自警団じけいだんをつくって反撃し、双方で10人近い死者を含む数百人の負傷者を出す事件が起こりました。

これをきっかけにパレスチナ人とユダヤ人の争いが全土に広がり、ユダヤ人もパレスチナ人それぞれ100人くらいが死亡し、双方で数百人の重軽傷を負ったのです。

嘆きの壁事件から数年後の1936年に、「アラブの大蜂起」とよばれる激しい闘争とうそうが起こりました。パレスチナ人3000人、ユダヤ人100人あまり、取り押さえようとしたイギリス人の警官けいかんたち150人ちかくが犠牲ぎせいとなったのです。

こうもユダヤ人とパレスチナ人同士がもめごとを起こすので、イギリスは共存政策をあきらめ、パレスチナの土地を分割し、パレスチナ全土の20パーセントをユダヤの植民地区として分与する案をだします。

これにパレスチナ人たちは大反対です。さらに、1933年に政権をとったヒトラーによるユダヤ人迫害によってたくさんのユダヤ人たちがパレスチナに押し寄せます。1933年から1939年にパレスチナに移住したユダヤ人は44万に達したといいます。

3 マクドナルド白書
 ユダヤ人たちが次々とパレスチナに入植していくことにイギリス政府もさすがに困りました。ユダヤ人の入植制限にゅうしょくせいげんをもっと厳しくしなければダメだと思うようになりました。

1939年、イギリス政府は「マクドナルド白書」を発表しました。この白書はパレスチナ人の総人口の3分の1を上限としてユダヤ人のパレスチナ移住を制限するということが書かれたものです。

これにユダヤ人たちはイギリスのバルフォア宣言を無にするものだと激しく反発しました。とくにシオニストの活動家の強硬派きょうこうはたちは、暴力に訴えてでもパレスチナの土地をわがものにしようと、各地からユダヤ人をよびよせテロ組織を作ります。その辺のお話はまた次回に。



※ 参考文献




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前回の記事で、シオニスト運動が起こったと書きましたが、同時期にアラブ民族の間でもアラブ民族主義が生まれました。後の歴史を考えると、これは不幸なことだと思います。シオニストの運動家とアラブ民族主義者の運動家はそれぞれがイギリスに「自分たちの国をつくってほしい」とイギリスに働きかけるようになります。それから、イギリスはシオニスト側にもアラブ側にも良い顔をするような外交をします。それが今回のお話です。



1 フセイン・マクマホン協定
 かつて中東にはオスマン帝国ていこくという大きな帝国がありました。いまのパレスチナもオスマン帝国の中にありました。しかも、パレスチナ地域に住むアラブ人とユダヤ人たちは仲良く共存していたといいます。が、20世紀初頭には国家がおとろえていくのです。それを欧米諸国おうべいしょこく見逃みのがすはずがありません。

そしてオスマン帝国にとって第一次世界大戦は最悪なものでした。この戦争でオスマン帝国はドイツやオーストリアに味方し、イギリスやフランスなどと戦ったのです。

イギリスはオスマン帝国を混乱させるためにオスマン帝国支配下のアラブ人に反乱を呼びかけました。戦争に勝利をしたあかつきには、アラブ人の独立国家を約束したというものでした。それがイギリスの指導者のマクマホンとアラブ人の指導者フセインの間で取り決められたのが「フセイン・マクマホン協定」です。


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          (ヘンリー・マクマホンの肖像画 ウィキペディアより)

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          (フセイン・イブン・アリーの肖像画 ウィキペディアより)



2 アラビアのロレンス


 「アラビアのロレンス」という映画があります。主役のロレンスを演じたのが名優ピーター・オトゥール。この映画は結構けっこう長いですが、見ごたえのある映画です。1962年度アカデミー賞を総なめにしたほどの大作です。僕もこの映画を見てロレンスはかっこいい人だなと思いました。この映画ではロレンスはアラブ人に味方した正義の味方のようにえがかれております。でも、実際のロレンスはどんな人物だったのでしょう?

ロレンスはオクスフォード大学で考古学を学び、陸軍情報将校としてカイロに派遣され、オスマン帝国の中で反乱を起こして、対イギリス戦争に集中できないように仕向けたのです。アラブに派遣されたころのロレンスは祖国イギリスのためだったらアラブ人を利用することも辞さないという人物だったといいます。

アラビア語がペラペラだったロレンスは、アラブ人に溶け込み、彼らともにオスマン帝国とたたかいました。アラブ人と寝食を共にするうちにロレンスもアラブ人たちに心を寄せるようになり、アラブ人のために独立を考えるようになったのです。けれど、結果的にパレスチナ地方はイギリスのものになってしまったのです。

ちなみに、



アラビアのロレンス (1枚組) [DVD]
ピーター・オトゥール
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
2011-01-26





3 必ずしもマクマホン協定と矛盾しているわけじゃないバルフォア宣言

 一方、イギリスはシオニストたちの戦争協力も求めていました。また戦争には金がかかるので、ユダヤ系の財閥ざいばつなどからお金を借りました。もちろん戦争に協力してもらったり、多額のお金をだしてもらうわけですから、見返りが「ただ」というわけにはいきません。

そしてイギリスの外相バルフォアがシオニスト連盟会長のライオネル・ロスチャイルドにあてて、パレスチナにユダヤ人のための民族郷土(ナショナルホーム)を建設することをみとめた手紙を送りました。これが「バルフォア宣言」です。

このバルフォア宣言というものは意外にも、イギリスの議会で審議しんぎされたわけでもなく、国際的な条約でもないのです。あくまでもユダヤ人たちの豊かなサイフをあてにして戦争協力を期待した秘密のかけひきでした。


よくバルフォア宣言と先に取り上げたマクマホン協定が矛盾するといいますが、必ずしもそうとは言い切れません。フサイン・マクマホン協定に規定されたアラブ人のための国家の範囲にパレスチナは含まれていないからです。またバルフォア宣言をよく読んでみますと、意外にも非ユダヤ人つまりパレスチナ人の人権や権利を侵害しんがいしてはだめだよと書かれているのです。事実バルフォア宣言はこのように書かれております。


「英国政府は、ユダヤ人がパレスチナの地に国民的郷土を樹立することにつき好意をもって見ることとし、その目的の達成のために最大限の努力をはらうものとする。ただし、これは、パレスチナに在住する非ユダヤ人の市民権、宗教的権利、および他の諸国に住むユダヤ人が享受きょうじゅしている諸権利と政治的地位を、害するものではないことが明白に了解りょうかいされるものとする。」
(ウィキペディアより引用)



事実、シオニストたちの間でもアラブ人をパレスチナから追い出そうと本気で思う人はいなかった(いたとしても少数派)だったようです。それが時代が変わりユダヤ人がたくさんパレスチナに移り住むようになってから、おかしくなったものと考えられます。


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            (アーサー・バルフォアの肖像 ウィキペディアより)

 
4 サイコス・ピコ協定
 さらにイギリスは1916年にフランスともオスマン帝国のアラブ人地域を分割する約束までしていたのです。パレスチナの地域をイギリスとフランスとで分けましょうという約束です。これを「サイクス・ピコ協定」といいます。これによりシリアはフランスがとることになりました。

ちなみにサイクスとはイギリスの人で、ピコとはフランスの外交官です。このサイクス・ピコ協定で、現在のシリアとレバノンをフランスの勢力範囲はんいに、イラク、ヨルダン、パレスチナをイギリスの勢力範囲に定めたのです。具体的な内容は以下の通り。



  • シリア、アナトリア南部、イラクのモスル地区をフランスの勢力範囲とする。

  • シリア南部と南メソポタミア(現在のイラクの大半)をイギリスの勢力範囲とする。

  • 黒海東南沿岸、ボスポラス海峡かいきょう、ダーダネルス海峡両岸地域をロシア帝国の勢力範囲とする。





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(サイクス・ピコ協定の地図。い赤はイギリス直接統治、濃い青はフランス直接統治、薄い赤はイギリスの、薄い青はフランスの勢力圏せいりょくけんむらさき(パレスチナ)は共同統治領

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      (フランソワ・ジョルジュ=ピコの肖像 ウィキペディアより なおサイクスの肖像は見つからず)

※ 参考文献

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