history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。

カテゴリ:欧米の歴史 > ヨーロッパの歴史

今日から数回にわたってヒトラーが権力を握った過程を語ります。ヒトラーは、決して暴力だけで権力を握ったわけじゃなく、意外にも合法的なやりかたで、しかも国民の支持を得て権力を握ったのです。そのヒトラーが力を得るようになった遠因は第一世界大戦後のドイツの混乱にありました。

第一世界大戦でドイツは負けてしまいました。第一次世界大戦後に、パリ講和会議が開かれました。講和会議というものは、戦勝国と敗戦国が話し合いをして、お互いにWIN-WINの関係でまとまるのが望ましいです。けれど、実際のパリ講和会議はひどいものでした。

なんと、この講和会議にはドイツやオーストリアなど第一次世界大戦で負けた国は一国も呼ばれませんでした。イギリスやフランス、アメリカの3国が中心になって、一方的かつ独善的にものごとを決めていきました。会議はさながら「死肉にむらがるハイエナ」のごとく、イギリスやフランスが負けたドイツからむしり取ろうとしたのです。まさに列強のエゴむき出しだったのです。


この講和会議で決められた条約がベルサイユ条約です。この条約は1919年6月28日、ベルサイユ宮殿の鏡の間で連合国とドイツの間で調印されました。それはドイツにとって大変厳しいものでした。

とくにフランスはこれまでドイツにさんざんやられたので、ここぞとばかり報復をしました。ドイツが二度と復興できないくらいな賠償金を要求したのです。これにはさすがのアメリカも呆れたほど。アメリカはドイツに民族自決を適用したり、領土の割譲もやめましょう、賠償金もとるのをやめましょうといったようです。これは、アメリカがドイツに同情したというよりも、破たん状態のドイツをこれ以上苦しめたら、ドイツに共産革命がおこってしまう。それをアメリカが恐れたというのです。そうして紆余曲折を経て、ドイツと連合国の間で取り決められたのが以下の通り。



  • ドイツが持っている全植民地と海外の一切の権利を放棄し、領土を割譲する。たとえば、アルザス・ロレーヌをフランスに明け渡すなど。

  • 軍備制限 徴兵制も禁止


  • ラインラントの非武装化


  • 賠償金の支払い


このような屈辱的な内容に当然ドイツの人たちは反発します。ドイツの人たちは、政治家が弱腰だから列強になめられると考える人たちが増えて、次第に国家主義的な人物に魅了されるようになるのです。


この会議のありさまを、フランス陸軍元帥のF・フォッシュは「これは講和などど呼べる代物ではない。ただの20年間の休戦にすぎぬ」と言ったようです。そのフォッシュの予言は現実のものとなります・・・


※ 参考文献



前回の記事で、イギリスがマクドナルド白書を宣言し、事実上パレスチナをイギリスが委任統治という名のもとに支配すると宣言したのです。それにシオニストたちが「話がちがうじゃないか」と反発して、「イルグン・ツバイ・レウミ」というテロ組織まで生まれたことを書きました。今日は、戦後になりイスラエルが誕生し、そして第一次中東戦争が起こるまでを描きます。


1 ユダヤ人たちの反発

 イスラエルが誕生したのは戦後です。イギリスが委任統治していたのになぜパレスチナにユダヤ人の国家ができたのでしょう。いろいろ理由はあるとは思いますが、僕はその理由をふたつあげます。

  1. ユダヤ人たちのテロ活動やロビー活動。


  2. ナチス大虐殺に対するユダヤ人への同情。

 
ユダヤ人たちのテロ組織「イルグン・ツバイ・レウミ」は戦前から活動をはじめ、第二次世界大戦後もテロ活動をやめませんでした。ちなみに、イスラエルののちの首相であるペギンはこの組織の出身です。さらに、この組織から分かれたテロ組織にシュテルン(イスラエル自由戦士団)というのがあるのですが、のちの首相となるイツハク・シャミルもこのテロ組織の出身です。また、シャロン首相もこのテロ組織の一派のメンバーだったそうです。

イルグンは、戦後たびたびテロ活動を起こしました。たとえば1946年7月に起こったキング・デイビット・ホテル爆発事件なんて典型です。どういう事件かというと、1946年3月、イギリスの官憲かんけんたちは2500人ものテロリストを逮捕し、7人を処刑しました。そして7月に事件が起きたのです。キング・デイヴィッド・ホテルというのがあったのですが、このホテルの地下で大爆発がおこり、建物は五階までふっとび、この事件により91名が死亡し46名が負傷したといいます。
KD_1946

(キング・デイヴィッド・ホテル事件の写真。ウィキペディアより)

もちろんユダヤ人たちはテロばかりやったわけではありません。とくに在米ユダヤ人たちは1942年以降、パレスチナにユダヤ人国家を建設するために、募金ぼきん活動をしたり、アメリカ政府へも働きかけをしました。特に当時のアメリカ大統領トルーマンには猛烈なロビー活動をシオニスト組織がおこなったとか。

また、戦後間もなくしてナチスによるユダヤ人虐殺ぎゃくさつが明るみに出て、国際世論はユダヤ人に対して同情するようになり、逆にパレスチナをいつまでも支配しようとするイギリスに非難の声があがります。そういったこともユダヤ人たちにとって有利に働いたのです。

2 国連によりパレスチナが分割される
 これらのこともあってイギリスはパレスチナの放棄を考えるようになります。第二次世界大戦後に発足した国際連合に、イギリスはパレスチナ問題を丸投げします。無責任な話だと思いますが、これは事実です。

国連は1947年にパレスチナ分割を提案しましたが、しかし、この案はユダヤ人たちにはとても有利で、パレスチナ人にとってはとても不利でした。なぜならもともとパレスチナ人の土地だったパレスチナの半分以上をユダヤ人たちがもらえたのですから。人口をみても、当時のパレスチナに住むユダヤ人の人口が65万にたいし、パレスチナ人は100万人を超えています。人口の比率からするとパレスチナ人に多くの土地を与えるべきだと僕は思うのですが、実際はそうでもないのです。

UN_Palestine_Partition_Versions_1947

(ブルーのところがユダヤ人が支配する地域。それ以外がパレスチナ人の地域)


3 反発したアラブとイスラエル建国

 この不当な国連の決議にアラブ諸国は反発をしました。1948年3月、まずシリアがシオニスト排除はいじょのため軍隊を派遣はけんしました。これ以後の衝突でアラブ、イギリス、ユダヤを合わせて5000人もの人たちが命をおとしました。

テロ組織のイルグンは、パレスチナ人に対する嫌がらせとして、エルサレム郊外にあるディル・ヤシン村を襲撃しゅうげき、村人250人ちかくを虐殺ぎゃくさつしました。パレスチナ人たちに対して「おまえたち、ユダヤ人地区にいると同じような目に合わせるぞ!」とおどしをかけるのです。パレスチナ人たちはこわがって家のカギだけもって逃げ散ったといいます。


4 第一次中東戦争

 そして1948年5月14日、イギリスがパレスチナの統治権を放棄ほうきし、イスラエルが建国を宣言するのです。このイスラエル建国に面白くないのがアラブ諸国。それで第一次中東戦争がはじまります。

アラブ連盟諸国のシリア・レバノン・ヨルダン・イラク・エジプトがいっせいにイスラエルにおそいかかりますが、アメリカなどに支えられたイスラエル軍は強く、結局アラブ諸国は負けてしまいます。

戦争が終わったときには、イスラエルは、国連決議が割り当てた以上の土地を支配しました。実にパレスチナ全土の77パーセントがイスラエルのものなり、しかも残った土地もパレスチナ国家として独立したわけじゃなく、ヨルダン川西岸はヨルダン王国に、ガザ地区はエジプト王国に併合されただけに終わりました。

※ おまけ
今日は「マイムマイムの正しいおどりかた」という動画をご紹介します。マイムマイムはイスラエルの楽曲で、開拓地で水を掘り当てて人々が喜ぶさまを歌った歌です。ぼくも学校やキャンプで何度かマイムマイムを踊ったことがあります。





※参考文献








1 イギリスの委任統治領となったパレスチナ

 第一次世界大戦後、パレスチナはイギリスの支配する地域となりました。具体的にはイギリスの委任統治領いにんとうちりょうです。だれの委任を受けているといえば、それは国際連盟でした。連盟の委任を受けてのイギリスは、パレスチナの人々が独り立ちできるようになるまでの間、この土地を統治する形になりました。あからさまな植民地支配をするわけにはいかないので、委任統治という名目でイギリスはパレスチナを支配したのです。つまり、アラブ人とシオニストとの約束を守らずに、イギリスはパレスチナの地を自分のものにしてしまいました。

しかし、それでだまっていないのはシオニストたち。シオニストたちはバルフォア宣言を根拠に、ユダヤ人のパレスチナの移民を許可するようにイギリスに働きかけました。イギリスもしぶしぶそれにOKしました。またヨーロッパ諸国も自国のユダヤ人たちを追い出す良いチャンスだと思ったに違いありません。

そうやってユダヤ人たちが少しづつパレスチナにやってくるようになったのです。とはいってもヨーロッパに住むユダヤ人たちがみなパレスチナに行ったわけではないのです。多くのユダヤ人たちはヨーロッパでの生活を捨ててまでパレスチナに行きたいとは思いませんでした。

そりゃそうです。たとえば、僕は生まれも育ちも東京ですが、ひいおじいちゃんは北陸の出身です。で、いきなり役所から今の生活を捨てご先祖様のいる北陸に帰りなさいなんて言われたら困りますもの。



2 なげきのかべ事件とアラブの大蜂起だいほうき
 パレスチナにはすでにアラブ人たちがおりましたが、そこへユダヤ人たちが押し寄せるようになり、パレスチナ人とヨーロッパから移り住んできたユダヤ人との間で次第にもめごとが起こるようになります。1920年、パレスチナ人はエルサレムでユダヤ人に暴行を加え、これに対してユダヤ人が自警団じけいだんをつくって反撃し、双方で10人近い死者を含む数百人の負傷者を出す事件が起こりました。

これをきっかけにパレスチナ人とユダヤ人の争いが全土に広がり、ユダヤ人もパレスチナ人それぞれ100人くらいが死亡し、双方で数百人の重軽傷を負ったのです。

嘆きの壁事件から数年後の1936年に、「アラブの大蜂起」とよばれる激しい闘争とうそうが起こりました。パレスチナ人3000人、ユダヤ人100人あまり、取り押さえようとしたイギリス人の警官けいかんたち150人ちかくが犠牲ぎせいとなったのです。

こうもユダヤ人とパレスチナ人同士がもめごとを起こすので、イギリスは共存政策をあきらめ、パレスチナの土地を分割し、パレスチナ全土の20パーセントをユダヤの植民地区として分与する案をだします。

これにパレスチナ人たちは大反対です。さらに、1933年に政権をとったヒトラーによるユダヤ人迫害によってたくさんのユダヤ人たちがパレスチナに押し寄せます。1933年から1939年にパレスチナに移住したユダヤ人は44万に達したといいます。

3 マクドナルド白書
 ユダヤ人たちが次々とパレスチナに入植していくことにイギリス政府もさすがに困りました。ユダヤ人の入植制限にゅうしょくせいげんをもっと厳しくしなければダメだと思うようになりました。

1939年、イギリス政府は「マクドナルド白書」を発表しました。これは大手ファーストフードのマクドナルドの白書ではありませんよw、この白書はパレスチナ人の総人口の3分の1を上限としてユダヤ人のパレスチナ移住を制限するということが書かれたものです。

これにユダヤ人たちはイギリスのバルフォア宣言を無にするものだと激しく反発しました。とくにシオニストの活動家の強硬派きょうこうはたちは、暴力に訴えてでもパレスチナの土地をわがものにしようと、各地からユダヤ人をよびよせテロ組織を作ります。その辺のお話はまた次回に。


※ おまけ

今日は中東のゴタゴタの原点のような話をしました。人間生きていくうえである程度の欲望は必要かもしれないけれど、度をこした欲望は結局わが身をほろぼしてしまう、そんなことをパレスチナの歴史を調べているうちに改めて考えさせられました。今日は中村天風先生の言葉がつまった動画を。当時のパレスチナやイギリス政府に天風先生みたいな人がいたらなあって考えさせれれます。



※ 参考文献




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