history日誌

歴史と歌が大好きな私が日本史から世界史まで広く浅く書きます。 歴史の知識は素人レベルで、私が語る歴史の内容が真実かどうかは自信はありませんがw、楽しんでブログを書いていきます。教科書に載ってないようなマイナーな歴史の話もします。

カテゴリ:欧米の歴史 > ヨーロッパの歴史

前回の記事で、イギリスがマクドナルド白書を宣言し、事実上パレスチナをイギリスが委任統治という名のもとに支配すると宣言したのです。それにシオニストたちが「話がちがうじゃないか」と反発して、「イルグン・ツバイ・レウミ」というテロ組織まで生まれたことを書きました。今日は、戦後になりイスラエルが誕生し、そして第一次中東戦争が起こるまでを描きます。


1 ユダヤ人たちの反発

 イスラエルが誕生したのは戦後です。イギリスが委任統治していたのになぜパレスチナにユダヤ人の国家ができたのでしょう。いろいろ理由はあるとは思いますが、僕はその理由をふたつあげます。

  1. ユダヤ人たちのテロ活動やロビー活動。


  2. ナチス大虐殺に対するユダヤ人への同情。

 
ユダヤ人たちのテロ組織「イルグン・ツバイ・レウミ」は戦前から活動をはじめ、第二次世界大戦後もテロ活動をやめませんでした。ちなみに、イスラエルののちの首相であるペギンはこの組織の出身です。さらに、この組織から分かれたテロ組織にシュテルン(イスラエル自由戦士団)というのがあるのですが、のちの首相となるイツハク・シャミルもこのテロ組織の出身です。また、シャロン首相もこのテロ組織の一派のメンバーだったそうです。

イルグンは、戦後たびたびテロ活動を起こしました。たとえば1946年7月に起こったキング・デイビット・ホテル爆発事件なんて典型です。どういう事件かというと、1946年3月、イギリスの官憲かんけんたちは2500人ものテロリストを逮捕し、7人を処刑しました。そして7月に事件が起きたのです。キング・デイヴィッド・ホテルというのがあったのですが、このホテルの地下で大爆発がおこり、建物は五階までふっとび、この事件により91名が死亡し46名が負傷したといいます。
KD_1946

(キング・デイヴィッド・ホテル事件の写真。ウィキペディアより)

もちろんユダヤ人たちはテロばかりやったわけではありません。とくに在米ユダヤ人たちは1942年以降、パレスチナにユダヤ人国家を建設するために、募金ぼきん活動をしたり、アメリカ政府へも働きかけをしました。特に当時のアメリカ大統領トルーマンには猛烈なロビー活動をシオニスト組織がおこなったとか。

また、戦後間もなくしてナチスによるユダヤ人虐殺ぎゃくさつが明るみに出て、国際世論はユダヤ人に対して同情するようになり、逆にパレスチナをいつまでも支配しようとするイギリスに非難の声があがります。そういったこともユダヤ人たちにとって有利に働いたのです。

2 国連によりパレスチナが分割される
 これらのこともあってイギリスはパレスチナの放棄を考えるようになります。第二次世界大戦後に発足した国際連合に、イギリスはパレスチナ問題を丸投げします。無責任な話だと思いますが、これは事実です。

国連は1947年にパレスチナ分割を提案しましたが、しかし、この案はユダヤ人たちにはとても有利で、パレスチナ人にとってはとても不利でした。なぜならもともとパレスチナ人の土地だったパレスチナの半分以上をユダヤ人たちがもらえたのですから。人口をみても、当時のパレスチナに住むユダヤ人の人口が65万にたいし、パレスチナ人は100万人を超えています。人口の比率からするとパレスチナ人に多くの土地を与えるべきだと僕は思うのですが、実際はそうでもないのです。

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(ブルーのところがユダヤ人が支配する地域。それ以外がパレスチナ人の地域)


3 反発したアラブとイスラエル建国

 この不当な国連の決議にアラブ諸国は反発をしました。1948年3月、まずシリアがシオニスト排除はいじょのため軍隊を派遣はけんしました。これ以後の衝突でアラブ、イギリス、ユダヤを合わせて5000人もの人たちが命をおとしました。

テロ組織のイルグンは、パレスチナ人に対する嫌がらせとして、エルサレム郊外にあるディル・ヤシン村を襲撃しゅうげき、村人250人ちかくを虐殺ぎゃくさつしました。パレスチナ人たちに対して「おまえたち、ユダヤ人地区にいると同じような目に合わせるぞ!」とおどしをかけるのです。パレスチナ人たちはこわがって家のカギだけもって逃げ散ったといいます。


4 第一次中東戦争

 そして1948年5月14日、イギリスがパレスチナの統治権を放棄ほうきし、イスラエルが建国を宣言するのです。このイスラエル建国に面白くないのがアラブ諸国。それで第一次中東戦争がはじまります。

アラブ連盟諸国のシリア・レバノン・ヨルダン・イラク・エジプトがいっせいにイスラエルにおそいかかりますが、アメリカなどに支えられたイスラエル軍は強く、結局アラブ諸国は負けてしまいます。

戦争が終わったときには、イスラエルは、国連決議が割り当てた以上の土地を支配しました。実にパレスチナ全土の77パーセントがイスラエルのものなり、しかも残った土地もパレスチナ国家として独立したわけじゃなく、ヨルダン川西岸はヨルダン王国に、ガザ地区はエジプト王国に併合されただけに終わりました。

※ おまけ
今日は「マイムマイムの正しいおどりかた」という動画をご紹介します。マイムマイムはイスラエルの楽曲で、開拓地で水を掘り当てて人々が喜ぶさまを歌った歌です。ぼくも学校やキャンプで何度かマイムマイムを踊ったことがあります。





※参考文献








1 イギリスの委任統治領となったパレスチナ

 第一次世界大戦後、パレスチナはイギリスの支配する地域となりました。具体的にはイギリスの委任統治領いにんとうちりょうです。だれの委任を受けているといえば、それは国際連盟でした。連盟の委任を受けてのイギリスは、パレスチナの人々が独り立ちできるようになるまでの間、この土地を統治する形になりました。あからさまな植民地支配をするわけにはいかないので、委任統治という名目でイギリスはパレスチナを支配したのです。つまり、アラブ人とシオニストとの約束を守らずに、イギリスはパレスチナの地を自分のものにしてしまいました。

しかし、それでだまっていないのはシオニストたち。シオニストたちはバルフォア宣言を根拠に、ユダヤ人のパレスチナの移民を許可するようにイギリスに働きかけました。イギリスもしぶしぶそれにOKしました。またヨーロッパ諸国も自国のユダヤ人たちを追い出す良いチャンスだと思ったに違いありません。

そうやってユダヤ人たちが少しづつパレスチナにやってくるようになったのです。とはいってもヨーロッパに住むユダヤ人たちがみなパレスチナに行ったわけではないのです。多くのユダヤ人たちはヨーロッパでの生活を捨ててまでパレスチナに行きたいとは思いませんでした。

そりゃそうです。たとえば、僕は生まれも育ちも東京ですが、ひいおじいちゃんは北陸の出身です。で、いきなり役所から今の生活を捨てご先祖様のいる北陸に帰りなさいなんて言われたら困りますもの。



2 なげきのかべ事件とアラブの大蜂起だいほうき
 パレスチナにはすでにアラブ人たちがおりましたが、そこへユダヤ人たちが押し寄せるようになり、パレスチナ人とヨーロッパから移り住んできたユダヤ人との間で次第にもめごとが起こるようになります。1920年、パレスチナ人はエルサレムでユダヤ人に暴行を加え、これに対してユダヤ人が自警団じけいだんをつくって反撃し、双方で10人近い死者を含む数百人の負傷者を出す事件が起こりました。

これをきっかけにパレスチナ人とユダヤ人の争いが全土に広がり、ユダヤ人もパレスチナ人それぞれ100人くらいが死亡し、双方で数百人の重軽傷を負ったのです。

嘆きの壁事件から数年後の1936年に、「アラブの大蜂起」とよばれる激しい闘争とうそうが起こりました。パレスチナ人3000人、ユダヤ人100人あまり、取り押さえようとしたイギリス人の警官けいかんたち150人ちかくが犠牲ぎせいとなったのです。

こうもユダヤ人とパレスチナ人同士がもめごとを起こすので、イギリスは共存政策をあきらめ、パレスチナの土地を分割し、パレスチナ全土の20パーセントをユダヤの植民地区として分与する案をだします。

これにパレスチナ人たちは大反対です。さらに、1933年に政権をとったヒトラーによるユダヤ人迫害によってたくさんのユダヤ人たちがパレスチナに押し寄せます。1933年から1939年にパレスチナに移住したユダヤ人は44万に達したといいます。

3 マクドナルド白書
 ユダヤ人たちが次々とパレスチナに入植していくことにイギリス政府もさすがに困りました。ユダヤ人の入植制限にゅうしょくせいげんをもっと厳しくしなければダメだと思うようになりました。

1939年、イギリス政府は「マクドナルド白書」を発表しました。これは大手ファーストフードのマクドナルドの白書ではありませんよw、この白書はパレスチナ人の総人口の3分の1を上限としてユダヤ人のパレスチナ移住を制限するということが書かれたものです。

これにユダヤ人たちはイギリスのバルフォア宣言を無にするものだと激しく反発しました。とくにシオニストの活動家の強硬派きょうこうはたちは、暴力に訴えてでもパレスチナの土地をわがものにしようと、各地からユダヤ人をよびよせテロ組織を作ります。その辺のお話はまた次回に。


※ おまけ

今日は中東のゴタゴタの原点のような話をしました。人間生きていくうえである程度の欲望は必要かもしれないけれど、度をこした欲望は結局わが身をほろぼしてしまう、そんなことをパレスチナの歴史を調べているうちに改めて考えさせられました。今日は中村天風先生の言葉がつまった動画を。当時のパレスチナやイギリス政府に天風先生みたいな人がいたらなあって考えさせれれます。



※ 参考文献




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今日は19世紀に起こったユダヤ人迫害の話と、シオニズム運動の盛り上がりについて語ります。


1 屋根の上のバイオリン弾き
 『屋根の上のバイオリン弾き』というミュージカルがあります。たしか森繁久彌もりしげひさやさんが出演されていて、いま主演されているのは西田敏行さんだったか市村正親さんだったかわすれちゃったw。僕も名前だけは知っておりますが、どういう作品かは「これならわかるパレスチナとイスラエル」という本を読むまでは知りませんでした。これはユダヤ人作家ショーレム・アレイヘムが作者で、ロシアでおこったポグロムというユダヤ人迫害がテーマになっております。


敬虔けいけんなユダヤ教徒の牛乳屋ぎゅうにゅやテビエは、ユダヤ教の教えを守ってつつましく生活していたが、新しい時代に生きる娘たちに次々と去られ、さらにポグロムがテビエの住む村にもせまってきたため、一切をすてて旅に出るというあらすじだそうです。





さて、ポログラムとはロシアでおこったユダヤ人迫害事件です。ことの発端は、1881年、ロシア皇帝アレクサンドル2世が反体制組織によって暗殺されてしまいます。あとを継いだアレクサンドル3世はこの暗殺をユダヤ人のせいにして民衆をそそのかし、それに怒った民衆たちは1万5000人のユダヤ人を殺しました。ポログラムとは本来ロシア語で「暴動」のことですが、ユダヤ人を襲撃・迫害をすることを意味しているのです。

2 ドレフュス事件

 フランスではドレフュス事件という冤罪えんざい(※1)事件がありました。これはユダヤ人が犯人だといわれてしまった事件です。事件のあらましは以下の通りです。



ドレフュス事件とは、1894年にフランス軍のドレフュス大尉がドイツへの機密漏洩きみつろうえい容疑で逮捕され軍事裁判で終身流刑しゅうしんるけいとして悪魔島に流された冤罪事件。フランスの世論を二分する大事件となった。

ドイツ大使館のゴミ箱から機密メモが回収されたことが発端ほったんとなり、ユダヤ人将校として初めてフランス軍参謀ぐんさんぼう本部入りしたドレフュス大尉たいいが不十分な捜査そうさのまま犯人とされたが、後にドレフュスの無罪を証明する新証拠が次々と提出され、また真犯人として名指しされた同僚どうりょうのエストラジー少佐は自身の有罪を認める。しかし軍上層部は有罪判決に固執こしつ、彼がユダヤ人であったことにより反ユダヤ主義、人種主義をき込んで国中の大騒動だいそうどうとなった。

結局、ドレフュスの冤罪が公式に認められ、名誉めいよが回復されるまでには10年以上の月日がかかった
 参考サイト http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C9%A5%EC%A5%D5%A5%E5%A5%B9%BB%F6%B7%EF

ユダヤ人という理由でドレフュスは有罪となり、逆に真犯人のエステラジーは無罪となりました。文豪のエミール・ゾラは「私は告発する」という文章を公表して、ドレフュスの無罪とユダヤ人擁護ようごに立ち上がったそうです。このようにヨーロッパ各地でユダヤ人に対する迫害や偏見がひどくなります。そうしたことがシオニズム運動へとつながっていくのです。

3  シオニズム運動
 そうしたさなかユダヤ人たちの間で「自分たちの国をつくろう」、そして「ユダヤ人の祖国であるイスラエルに帰ろう」という動きが出始めました。これを「シオニズム運動」といいます。言っておきますが塩ずむ運動じゃないですよw塩を煮ている場合じゃありませんw これはシオンの山(※2)の「シオン」と「イズム」を合わせた言葉だそうです。

1897年、スイスのバーゼルで第一回シオニスト会議を開催かいさいし、「世界シオニスト機構」を設立しました。ちなみにシオニストとは、イスラエル(シオン)の土地をユダヤ人のものにしようと考えている人たちのことです。この会議以降、約一万人ものユダヤ人がパレスチナに移住したのです。

けれど、当時パレスチナには60万人のパレスチナ人が住んでいました。それでもシオニストたちは、「この地は人の住まない荒廃した土地だ」と主張し、「土地なき民に民なき土地を」という合言葉で移住計画を進めていきました。はじめのころはパレスチナ人とユダヤ人たちは仲がよく、共存していたのですが、パレスチナの地に移住するユダヤ人が増えるにしたがって、だんだん仲がわるくなっていったのです。

※1 無実であるのに犯罪者として扱われてしまうこと

※2 シオンの山はイスラエル・エルサレム旧市街の南西隅にある丘。より広義として「イスラエルの地」の意で使われる事もある



※ 参考文献






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