history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、歴史を中心にいろいろ語ります。2020年3月より、過去記事の加筆修正も含め、リニューアルしました。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。

カテゴリ: ヨーロッパの歴史

かつてチェコスロバキアは、ソ連の衛星国でした。共産党が支配し、市民は自由を奪われていたのです。チェコスロバキアは1989年に民主化をしましたが、その民主化運動に関わったのは一人の劇作家でした。チェコの劇作家だったヴァーツラフ・ハヴェル。のちに大統領になる人物です。政治とは無関係な世界から大統領になるなんてすごいですね。でも、ウクライナ大統領のゼレンスキーも元はコメディアンですし、アメリカのレーガン元大統領だって俳優でしたから。

またハヴェルは、1960年代にアメリカに渡り、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドというバンドのとりこになり、そのレコードを祖国に持ち帰ったのです。このレコードも民主化に一役を買うのです。


お話は1968年にさかのぼります。アレクサンデル・ドゥプチェクが共産党の第一書記に就任。彼は改革派で、プラハの春と呼ばれる民主化運動を目指しました。彼は「人間の顔をした社会主義」を目指しました。社会主義国家でありながら、言論弾圧のない自由な国を目指そうとしたのです。実はドゥプチェクは自由化を進めることで共産主義体制に対する民衆の支持を集めようとしようとしたのであって共産党をぶっこわすことまでは考えていなかったのです。彼が自由化をすすめるほど、民衆はさらなる自由化と民主化を求めるようになりました。それはドゥプチェクの意図を超えており、共産党を守るどころか逆の結果になっていきます。しかし、それを面白く思わないのが、共産党の旧守派とソ連。やがて、ソ連は行動に移すのですが、それは後程。


文化の面では検閲が緩和されたことで、西側の文化や音楽も入っていきました。ハヴェルが持ち帰ったヴェルヴェット・アンダーグラウンドのレコードも大量にコピーされ若者の間でも流行しました。そのヴェルヴェット・アンダーグランドに即発され、プラスティック・ピープル・オブ・ザ・ユニバースというバンドがチェコで生まれました。通称PPU。

そんなプラハの春も長くは続かなかったのです。この年の8月、突然ソ連が軍事介入したのです。チェコの急激な民主化を警戒して軍事行動をしたのです。抵抗したものは容赦なく撃たれ、何人も犠牲になったのです。そんな状況の中、ニューヨークから帰ったばかりのハヴェルも立ち上がり、ラジオでソ連への抗議と民衆への団結を呼びかけたのですが、議会でもソ連の圧力に屈してしまい、軍隊のチェコ駐留も認められ翌年にはソ連の忠実なグスターフ・フサークが第一書記になり、ドゥプチェクが失脚。結局、プラハの春は短い春で、再び言論弾圧がまかり通るような重苦しい社会になったのです。正常化と呼ばれる長く暗い時代の始まりです。ソ連の侵略に反抗したハヴェルも当然、目をつけられてしまいます。ハヴェルは犬と散歩をしている時でさえ、警察に付きまとわれたと言います。さらにPPUのメンバーまで国の秩序を乱したという理由で捕まってしまいます。ハヴェルはそのことを大変憂いました。「PPUは政治的な見解を持ったことがないのに、ただ好きな音楽を歌っただけなのに・・・」と思ったそうです。ハヴェルはPPUの逮捕に抗議したと言います。そしてハヴェルは知識人たちと手を結び、憲章77と呼ばれる政府への抗議文を発表。表現の自由や人権の尊重を求めたと言います。またハヴェルは世界中のジャーナリストたちにも自国の悲惨な状況を訴えたと言います。そんなハヴェルも1979年に逮捕され4年もの実刑判決を受けてしまいます。ハヴェルは1983年に出所。さっそく民主化運動を再開したのです。

そして1989年、隣国のドイツでベルリンの壁が崩壊したことを受け、若者たちもデモを起こしたのです。そんなデモ隊に警察が動いたのです。丸腰の若者に暴力を振るったのです。そんな状況下、ハヴェルは市民に団結を呼びかけたのです。ハヴェルの呼びかけに若者だけでなく、多くの市民たちもデモに参加。しかし、共産党幹部はなおも事態の収集を図ろうとします。当時の共産党の書記長が市民の前で演説をしても、市民は「かえれコール」。そして1989年11月24日、ついに共産党の書記長が失脚。ソビエトの侵攻から20年、市民は諦めなかった。市民がリーダーに選んだのがハヴェルでした。まさに血を流さずに革命が成功したのです。この革命をビロード革命ともヴェルヴェット・レボリューションとも呼ばれました。

のちにハヴェルはこのように語っています。

「1968年、私はニューヨークからヴェルヴェット・アンダーグラウンドのレコードを持ち帰りました。そのレコードはPPUという自由に満ちた若者たちを生み、彼らの逮捕から「憲章77」の人権運動が始まりました。音楽だけでは世界は変わりません。しかし人々の魂を呼び覚ます者として音楽は世界を変えることに大きく貢献できるのです」


大統領になったハヴェルはヴェルヴェット・アンダーグラウンドのルー・リードと交流があったと言います。そしてハヴェルは2011年に亡くなりました。ハヴェルのことをPPUのメンバーが「ハヴェルには人々を団結させる力がありました。それは非暴力的で、友好的で、ささやかなものでした。しかし、その力は時に大きな力よりも強いものになり得るのです。そして、そんな彼を大統領にしたのは、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドでした」と。

*この記事は「映像の世紀」を参考にして書きました。

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今、ゴールデンウィーク。どこを行っても、人、人、人。ここ2年はコロナで自粛ムードだったから、静かだったけれど、今年は少しはコロナがおさまったせいか、今までの自粛のうっぷんを晴らすかのような人だかり。かくいう僕も、浅草に行ったのですが、驚きましたよ。島倉千代子さんのうたじゃないですが、お祭りみたいににぎやかでした。観音様にお参りに行くことは良いことですが、去年のGWに行った時は比較的少なかっただけに驚いています。100年前のスペイン風邪が収束するのに3年かかったと言いますが、コロナも3年目、そろそろマジで収束してほしいなって。

さて、そのスペイン風邪とはインフルエンザのことです、スペイン風邪は世界で5億人が感染、4000万人も死亡したと言われ、亡くなった人もたくさんいました。電子顕微鏡が発明されるまで、ウィルスの存在が知られておらず、スペイン風邪の原因は菌の仕業だと思われていたのですね。スペイン風邪はウィルスの仕業なのに、菌を殺したところで、ウィルスを殺すことができません。そんなんじゃスペイン風邪はいつまで経っても治りっこないのですね。電子顕微鏡が発明されてから、ウィルスが発見。それをもとにワクチンも発明されたのですね。

さて、このスペイン風邪が第一世界大戦を終わらせたと言われております。第一次世界大戦は、泥沼化したのですが、スペイン風邪が兵士たちの間で大流行して、戦争どころじゃなくなったのです。一方でスペイン風邪が第二次世界大戦の引き金でもあったと聞いて驚かれる方もいらっしゃるんじゃないでしょうか。

1919年1月、フランスのパリ、ベルサイユ宮殿で、ベルサイユ講和会議が開かれました。この会議は戦争の後始末について話し合われました。焦点は敗戦国ドイツについて。イギリスとフランスは多額の賠償金を課そうとしました。それに対しアメリカの大統領ウィルソンは大反対。過酷な要求は恨みを残し、次の戦争の火種になると考えたから。会議は長引き3月になっても続きました。この頃、フランスのパリでもスペイン風邪が流行り、イギリスのロイド・ジョージ首相、フランスのクレマンソー首相、そしてウィルソン大統領も感染してしまったのです。特にウィルソン大統領は症状はひどかったと言います。

僕も昔インフルエンザにかかったことが何度かありますが、あれは苦しいですよ。熱は出るし、頭もガンガン痛いし、体がすごくだるくなるの。僕はゲームが好きなのですが、インフルの時は好きなゲームどころか、何もしたくない状況でしたもの。おそらくウィルソンも同じ状況で、立っているだけでもつらかったと思いますよ。


本来のウィルソンはいつも俊敏で、すぐに結論を出す人物だったのですが、この時のウィルソンは、覇気がなく、決断を迫られても、のらりくらりとはっきりしない感じだったのです。そりゃインフルにかかれば、そうなりますよね。そして1919年6月、パリ講和条約の調印式が行われました。結局、イギリスとフランスの言い分が通り、ドイツに巨額の賠償金が課されるようになったのです。その金額はドイツの国家予算の20年分に相当すると言うから驚きです。ウィルソンが元気だったら、断固として反対していただろうけれど、スペイン風邪にスタミナと判断力を奪われたウィルソンに、自らの信念を語る力もありませんでした。講和会議でそんなムチャが通ったことで、ウィルソンは「私がドイツ人なら、何があっても署名しないだろう」と吐き捨てました。


むちゃくちゃな賠償金はドイツ経済を圧迫、人々は苦しみ、フランスやイギリスといった連合国への恨みはどんどん強くなったのです。そんな中で、登場したのが、あのアドルフ・ヒトラーです。ある意味、スペイン風邪がヒトラーを生み出したようなものです。もし、ウィルソン大統領がスペイン風邪に感染していなかったら歴史は変わっていたかもしれない。

今年、コロナ禍のなか、ロシアがウクライナに侵攻しました。コロナ禍でヨーロッパ各国が苦しんでいる、そのスキをぬうかのように侵攻しました。プーチンの暴走を見るたびに、ヒトラーとダブってしまい、恐ろしいなって思いました。

※この記事は「映像の世紀」を参考にして書きました。

ウクライナ情勢はいまだに解決する見込みがありません(2022年5月3日現在)。一日も早い平和的解決をお祈りします。本当にプーチンの恐ろしいなって。ウクライナ侵攻とこれだけ悪いことをしているのだから、さぞ支持率も下がっているかと思いきや、なんとプーチンの支持率は上昇してて支持率82%。さらにウクライナ侵攻を支持する意見も70%を超えると言います。僕も非常に驚きましたね。

プーチンに反対したりデモを起こす人もいることはいるのですが、まだ少数派のようです。実はロシアではプーチンの人気は高いのですね。経済を立て直した実績もあるし、意外と国民の意見を割と聞いてくれるところがあるので。僕はてっきりドラえもんの「のび太の宇宙小戦争」に出てくる独裁者のように国民から恐れられ、嫌われ、革命を起こそうにも秘密警察に弾圧されているのかとばかり思っていたのです。


プーチンのことを知れば知るほど、ヒトラーに似ているなって。ヒトラーは、国民から嫌われるどころか、ナチスドイツ時代大変な支持を受けておりました。実際、ナチスドイツ時代を回想し、あの時代はよかったっていう高齢者も少なくないのですね・・・

しかし、そんな中でもヒトラーを恐れ、ヒトラーを暗殺しようと考えた人も少なくなかったのです。ヒトラーの暗殺計画は実行されなかったものも含め40以上。このようにヒトラーの独裁体制に不満を持つ人も結構いたのです。しかし「何かを思案ければならない」と頭でわかっていても、怖くてそれを行動に移せず、計画だけで終わってしまう人たちの方が多かったのです。

例えばモーリス・バヴァーという25歳の青年は、1938年11月にパレードの群衆に紛れて、ピストルでヒトラーを暗殺しようと企てたものの失敗。彼はナチスは許せないという感情から動いたのですね。

それで実際に行動に移したのがゲオルク・エルザー。彼は一介の労働者で、ドイツ共産党を支持していたのです。とは言いましてもゲオルクは共産主義者ではなく、労働者の見方を指定くれるだろうと思ってドイツ共産党に投票していたのです。そのため当初からナチスには批判的だったのですね。周りの人がナチス式の敬礼をしても、エルザーはそれを無視。ゲオルクは時限爆弾を作り、ヒトラーを暗殺しようと考えたのです。それもたった一人で。

ヒトラーがミュンヘン一揆の舞台となったビアホールで、ミュンヘン一揆の起きた11月8日の夜に毎年必ず記念演説を行なっていました。それを知ったゲオルクは、この日に行動しようと決めました。ゲオルクは、その日の一ヶ月前くらいから準備し、前日の深夜にビアホールに忍び込み、時限爆弾を仕掛けました。そして1938年11月8日。爆発。死者8人、負傷者63人も出す、惨事でした。犠牲者の多くはナチ党員でした。しかし、ヒトラーは死ななかったのです。それどころか、この事件をナチスは、ナチス党員に犠牲者が出たと宣伝し、世間の同情さえ買ったのです。なぜヒトラーが無事だったかというと予定よりも30分早く講演を終わらせたからです。ヒトラーは悪運が強いですね。

そしてゲオルク・エルザーは逮捕。新聞は「悪質で残虐な人殺し」と非難。確かにゲオルクのやったことは残忍で良くないが、のちのヒトラーたちがやることを考えたら、人のこと言えないじゃんって思うのですが。一方でヒトラーのことは「総統の奇跡的脱出」と賛美。そしてゲオルクは1945年4月9日に銃殺されてしまいます。そしてゲオロクの事件以降、ヒトラーの警備は厳しくなり、一般人がヒトラーを暗殺するのは不可能に近くなったのです。

しかし、絶望的な戦争を続けるヒトラーへの不満が国防軍内部にも広がったのです。特にロシア派兵は無謀そのもの。ソビエト軍の反撃にあっても、ドイツ軍の撤退を認めず。寒さとソビエト軍の猛攻で、たくさんの兵士が犠牲になりました。無謀な作戦ばかりのヒトラーに対して現場の将校たちは不信感を抱いたのです。さらに捕虜や民間人の虐殺。そんな残虐行為に加担するのは、もう嫌だという声も上がってきたのです。

その中心人物がヘニング・フォン・トレスコウ。彼の言葉を引用します。

この残虐行為は100年経っても悪影響を残すだろう。責めを負うべきはヒトラーだけでなく、むしろ君や私であり、君の子供や私の子供でもあり、通りを横切っているあの女性でもあり、あそこでボールを蹴っている若者でもある。


ヒトラーの残虐行為に加担したら、それこそ後の世でドイツの恥であると。例え、小さな力でも、ヒトラーの暴挙に反対する人間がいたことを後の世に示したいと思ったのでしょう。

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(ヘニング・フォン・トレスコウ)

しかし、ヒトラーは用心深く、自分の周りには信頼できる側近しか置かず、



毒見役を12人も並べるほど。移動の際は、同じ型の飛行機を2機飛ばし、どちらにヒトラーが乗っているかわかりにく。

それでもトレスコウは諦めません。1943年3月13日、ヒトラーが東部戦線視察を行った際に爆殺を企て、ヒトラーの側近にお酒の瓶が入った荷物を渡しました。その荷物は爆弾も入っていたのです。その酒の入った荷物をヒトラーの乗っている飛行機に持ち込ませました。しかし、爆弾は不発。失敗、数日後にはルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルスドルフという人物を説得してヒトラーに対する自爆攻撃を企図しましたが、直前になって中止になりました。

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(ルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルスドルフ)


このように暗殺未遂事件が起きましたが、巻き添いを食って犠牲になる人も少なくありません。もっと穏健なやり方がなかったのかって思うのですが、ナチスは独裁的な政治を行い、民主的な手法での政権交代は不可能な状況でした。暴力がまかり通り、暴力に対抗するには暴力で行くしかないという空気が合ったのですね。

今年は北京オリンピックの年ですが、次回の2026年のオリンピックはイタリアのミラノとコルティナダンペッツォと決まっております。イタリアには名所がいくつもあります。ピサの斜塔に、コロッセオにポンペイ。古代ローマの遺跡もたくさんあります。僕も機会があればぜひ訪れたいです。ポンペイといえば古代ローマの地方都市で火山噴火で滅んだ街だと言われ、映画にもなりました。ポンペイの遺跡から水道水やお風呂も発見されました。ポンペイが栄えていたのは、まだ日本は弥生時代。そのころか水道があったとは驚きですね。


さて、古代ローマで食べられていた動物がいます。その動物はポンペイの遺跡にある住宅の排水溝から骨が発掘されたと言います。その動物の性格を確かめるためにコロッセオで戦わせたところ、とてもおとなしくて戦いに向かないと思われたそうです。さて、その動物はなんだと思いますか?ヒントは割合に大きくて、動物園にもいます。


正解はキリンです。

闘技場ではカエサルが催したイベントで、キリンが登場したと言います。それにしてもキリンを古代ローマの人が食べていたというのは驚きです。キリンだけでなく、フラミンゴも食べていたというから驚きです。

*この記事は『世界ふしぎ発見』を参考にして書きました。



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1 魔術師クロウリーとは

 今日は20世紀最大の魔術師と言われるアレイスター・クロウリーのお話を。クロウリーは魔術で悪魔を呼び出そうとしたのです。とはいえ、クロウリーは魔術を悪用したわけじゃありません。街でクロウリーは、通行人と歩調を合わせ、手のふりかたもそっくりにまねをはじめたのです。そこでクロウリーが膝をつくと、それと同時に通行人もばったり。こんなふうにクロウリーは魔術をいたずらのために使っていたいたそうです。

で、普段のクロウリーは明るく社交的でアウトドア派だったそうです。登山も好きでマッターホルンのアルプスの名峰や世界で二番目に高いK 2(※1)をなんと無酸素で登ったと言います。また、日本にも訪れたことがあり、鎌倉の大仏に大変感動し出家まで考えたほど。

クロウリーは1875年にイギリスで生まれました。クロウリー家はビール工場の経営をしていて、お金持ちだったのです。その資産は日本の価値で数十億円だとか。一生遊んで暮らせる環境だったのです。クロウリーは子供ながらエリート意識が強く、人を見下すところがあったのです。実際、クロウリーは「すべてが備わっている私にとって満足できるのは世界のトップの座で活躍することだけだ」とうそぶいたほど。しかし、他人を見下す上に、協調性もなかったので、学校でいじめられ、鼻つまみにされ、退学をするハメになったのです。また、クロウリーが尊敬していた父親を早く亡くしそれで、性格もひねくれてしまったのですね。


2 クロウリーが魔術にハマるまで
 1895年、クロウリーが20歳の時にケンブリッジ大学に入学します。大学に入ったクロウリーは勉強もロクにせず、酒、女、ドラッグ、あと男にまでおぼれたそうです。それからクロウリーは魔術にはまります。

魔術は、人間が自然界に働きかけ、風を起こしたり、雨を降らしたり、あるいは人間の心を自分の意のままに操ることもできると。魔術をマスターすれば、おもいのままに社会を動かすことができると。そんな神秘的な力にクロウリーはひかれたのです。若い頃ってそういう未知の世界にひかれるものなんですよね。クロウリーは黄金の夜明け団(※2)という魔術結社の存在を知ります。魔術を学び実践をする結社です。1898年、クロウリーが23歳の時、ケンブリッジ大学を中退し、黄金の夜明け団に入団します。しかし、ここで教えていることは、すでにクロウリーが独学ですでに学んだことばかり。クロウリーにとっては釈迦に説法だったのです。クロウリーは次第に物足りなさを感じます。

そしてとうとう1899年にネス湖の湖畔に屋敷を購入し、そこで15世紀以来、ほとんど行われていなかった魔術の実験を行なっていたそうそうです。それで実験をしていたら、使用人が突然自殺をしたり、酒を飲まないはずの御者(※3)が急に酒をあおりアル中になったりと色々不思議な現象も起こったのです。そんな危険な魔術をクロウリーはやっていたのです。そんなことをやったり、団員を見下す態度をとっていたので、とうとうクロウリーは黄金の夜明け団を追放されます。

ある日、クロウリーは天使エイワスの声をきいたと言います。「汝の意志するところを行え。これこそ法の全てとならん」と。運命を神に委ねるのではなく、人自らが神となる、つまり、あなたが思うように生きなさいということでしょう。とはいえ、自分勝手に他人の迷惑をかけてまで生きるのはダメだと。そのためには魔術の修行が必要だとクロウリーは思ったのでしょう。

3 クロウリーの挫折
しかし、そんなクロウリーに次々と不幸が訪れます。娘を腸チフスで幼亡くしております。妻との関係も悪化。クロウリーは魔術に没頭していましたが、妻は全く興味がなかったのです。魔術ばかりハマってロクに働かない夫に嫌気がさしたのでしょう。妻はアル中になってしまい、とうとう離婚してしまいます。莫大な親の遺産も徐々に底をついてしまいます。

1907年、クロウリーが32歳の時に魔術教団「銀の星」を結成します。この魔術団は、儀式魔術を劇場で入場料をとって公開をしていたのです。本当のところ、儀式魔術は秘密にしなくてはいけないのに。それでバチが当たったのか、新聞でクロウリーの教団は叩かれるのですね。そして追われるように、イタリアのシチリア島にクロウリーは移住します。そこで活動をしたのですが、そこで若い信者が食中毒になってしまい、再び新聞がバッシングをするのです。新聞はクロウリーは「邪悪な魔術師」とレッテルを貼られ、イタリアから出ていったのです。その後、クロウリーはお金に困り、各地を放浪したのですが、めげずに「私はいつでも復活できる」と言い聞かせていたそうです。

そして1925年、50歳の時に魔術集団東方聖堂騎士団の総帥に就任します。転んでもただでは起きない人ですね。それからクロウリーは執筆活動を熱心にします。その数、100冊以上を超えるそうです。その中でも一番有名なのは『魔術 理論と実戦』という本で、その本には魔術の儀式やその手順などが書かれているそうです。本来、魔術は秘密にすべきなのですが、クロウリーは老若男女、全ての人に魔術を知ってもらいたいと思い、この本を書いたそうです。そして1947年12月、クロウリーは亡くなります。享年72歳。

※1 パキスタンと中国の境目のカラコルム山脈にある山。世界で二番目に高い。標高は8,611m

※2占星術だとか古今東西の魔術を一つの体系として総合的に研究する団体。詩人のウィリアム・イエイツや舞台女優のフローレンス・ファーなどの著名人も在籍していた。

※3馬を扱うもの。馬車に乗って馬をあやつる者

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